三
そんな糸川が、浮かれし時の遡ること午前十時頃。
横浜日々病院の総合受付に、一本の不慣れな電話が入った。総合病院ともなると、何時も混んでいる。受付カウンターでは、来院客や問合せ電話の応対に忙しく追われていた。
ぎこちなく問う。
「あの…、そぢらば横浜の日々病院様でやんすか?」
「は、はい。横浜日々病院でございますが…」
電話の主に、戸惑いつつも応対する。それは、受けた方とててきぱきと業務をこなすには、余りにも異質であった。これがまた、東北訛りの年寄りからである。それでも親切に応対した。
「あの…、おらほのわらすがそぢらに入院しておるんじゃが、おんですかいの」
「は、はい?失礼ですが、どちらさまでしょうか?」
「はあ、植草どへいうだが」
しわがれ声で応えた。
「植草?植草と申しますと。どちらの植草様でございますか?」
「うんにゃ、雫石の植草ども…」
「あの…、雫石というと…、岩手県の雫石町のことでございますか?」
「ああ、そうでなっす」
「そうですか。それでは、ご住所の方をお教え願いますか?」
「住所なんぞ、どうでもええじゃねえが。隆二をば出してくりゃんせ」
訛りが強く要領得ない問答に閉口する。
「は、はい。あの…、それでは、少々お待ち下さい」
不可解な電話に、何か調べようと保留にしたが、直ぐに待たせる相手に受付嬢の声が戻ってくる。
「お待たせ致しました。あの、植草隆二さんの身内の方でございますか?」
「はあ、おらさ隆二の親でやんす…」
「そうでしたか、それは失礼致しました。隆二さんは確かに当院に入院しておりますが」
「そうですがい。さげば電話口に呼ばれるっかいな…」
「はあっ、どのようなことですか?」
「あいや、隆二さと喋りたがごしゃぐよ」
「あの、喋りたかと申しますと。お話がしたいのですか?」
「うんにゃ、喋りたか」
「あいにくそれは出来ませんが。それで、今日お電話頂きましたのは、どのようなご要件でございますか?」
戸惑いつつ尋ねた。不慣れなのか要領が得ない。
「はあ、隆二さが大変迷惑ばかけちょり、すまんこったでごぜえます」
「いいえ、そのようなことはございませんが…」
「それで隆二さ、どないなもんですかいな?」
「は、はい。ここは総合受付でございますので、患者さんの病状についてはお答えできません。担当の先生がおりますので、そちらの看護士の方へお繋ぎ致しますから、そちらで詳しくお聞き頂けますでしょうか?」
「はあ、あの、それじゃ。ちょいとお伺いやんすごとがあるんじゃがの」
父親の質問らしきことに、尚も戸惑い応じる。
「は、はい。何でございましょうか?」
「隆二の手術代や治療費の件で窺がいたいやんすが。あっ、それど隆二さ、元気なんでしょうがい?」
「ですから、病状については分かりかねます。それでは総務部へお繋ぎ致しますので、用件についてはそちらでお尋ね頂けますでしょうか?」
「うんにゃ」
早々と受付嬢は電話を廻した。
「はい、総務部でございますが」
そこで、要件を話し出す。
「あの…、隆二さの治療費の件で尋ねたいんじゃがの」
「はあ?…と、申されますと?」
急に治療費との問に、誰だか分からず面食らう。
「あの、どちら様ですか?」
「ああ、植草隆二の親でやんすけんど…」
「あ、お父様ですか?」
「うんにゃ」
「それで治療費の件とおっしゃいますと、どのようなことでございますか?」
「この前、請求書がおらのほさ来たで、雫石郵便局からあんたの指定銀行に振り込んだんじゃがの…」
「はあ?はい、お振り込み頂いたのですか?」
「うんだ、でども領収書がこねな」
「領収書がこない?」
「ああ、何時まで経っても、おらほえこねゃがったな」
「はあ?振り込みしたけど領収書が届かないのですか?」
「ううんだ。どうなんだかの…」
「そうしますと、何時頃お振込み頂いたのですか?」
「ええど、何時だったげな。確が三ヶ月ぐらい前になるがの」
「三ヶ月前の何月何日で、どちらの銀行口座へ、おいくらほどお振込みなさったでしょうか?」
「あいや、こいず持ってけねすか」
電話口でごそごそ何かを探すがみつからないのか、「ううんにゃ、今さ手元にねな。うじさ置いてきたみてだが」
「あの、ご自宅からお架け頂いているのではないのですか?」
「あんにゃ、おらんちには電話なんかねえ。村の公衆電話からじゃが」
「そうですか。あいにくそれが分からないと、お調べいたしかねるのですが?」
「そりゃ、困っだな。おらも年寄りだで、そうしょっちゅう架けられねえだ。確が合計で三百六十万の金を振り込んだんだがの…」
金額を聞き驚く。
「ええっ、そ、そんな大金ですか!」
「ううんだ。おらも本当は見舞いに行がねばねおんや。けんど身体が悪くで、よう東京まで行きやせんでな。おもさげねえごとですまんです」
「いいえ。それで、どちらの銀行にお振り込みなられたのでしょうか。振り込んだ郵便局の控えを見れば分かると思いますが?」
「そげなこと、ろぐにおべぁでねあ。確が、四菱なんとがちゅうふうだったな。それぐれえしかおべぁてねあ」
不慣れな父親の訴えに、郵便局の振込み控えを見るよう案内する。
「三百六十万円もお振り込み頂いたんですか。それならば、その振り込みした郵便局で、振込控を発行しているはずです。それを見て頂ければ分かりますよ」
「うんだ、そんだな。それじゃ、もう一度うじさ帰って調べていががいやんすか。あんだ、名前なんじょだべ」
「はあ、私ですか。総務部の西山と申しますが」
「ああ、そんだなっす。忙しいどこ手間さがけですまんこったです」
「いいえ、どう致しまして。それでは、また私宛お電話下さいますか」
「んだば、まず」
植草五郎は電話を切った。
「はい、それから一時間後ぐらいに、植草さんのお父様から連絡がありました。電話口で申すには、雫石郵便局から九月二十日に二百万円と十月十六日に百六十万円を四菱東京BBC銀行の川崎支店に振り込んだと申されました。『間違いありませんか?』と、確認したところ『うんだ、間違いねや』と、振込みの控えを見ながら言っておられました」
西山がやりとりの経緯を、上司である村川に報告した。
「おい、西山君。それは間違いないかね。しかし当院の取引銀行で、四菱東京BBC銀行はないはずだが」
「はい、私もそのように思いまして。植草さんからお聞きした振り込みの控えの内容を詳しくお聞きしたんです。念のため振込先口座名義人を尋ねました。そうしましたら、病院名を言わず名義人記入欄にある個人名を告げたんです。
請求代金を個人名義の口座に振り込ませることなどないと思いましたので、念には念を入れて尋ねましたが、間違いありませんでした。これは一大事と直感しまして。それで部長に報告させて頂いたのです」
「うむ…、何たることだ。個人名義の口座に振り込ませるとは。我が病院でこんなことがあっていいものか…」
西山の説明に絶句した。何と云っても大金である。
村川は報告を受けて、直ぐさま動き出した。勿論、ことがことだけに西山には他言無用と口止めし、部下の取手課長と極秘裏に調べ出す。裏付けを取るため、取引銀行を通じて植草五郎が振り込みに使ったとされる雫石郵便局へ、横浜大央郵便局経由で振り込みの事実確認を行った。多少時間を要したが、植草五郎の言っていることに間違いなかった。それに、やはり取引銀行を通じて四菱東京BBC銀行本店経由で川崎支店に、その振り込まれた個人口座があるか確認したところ。事実口座があって振り込まれており、大半が引き出されていた。
「うむ、こんなことが起きているとは。まったく持って信じられんことだ…」
あまりの重大さに、言葉が続かなかった。唖然とする村川が直ぐに我に返る。
そして一大事と、青ざめた顔で書類を持ち院長室に飛んでいった。
「院長、大変なことが起きております!」
「何だね、村川君。藪から棒に、何ごとかね」
事前連絡のないまま入ってきた彼に、少々不機嫌な顔で応じるが、その血相欠く顔を見るなり、一抹の不安がよぎる。そんな医院長の顔色など構わず村川が説明し出す。
「じつは…、精算業務課長のことですが。彼がどうも病院へ入金すべき治療費を、自分の口座に振り込ませているみたいなんです」
「ううん?」
「えっ、な、なんだと。どういうことだ!」
吉沢は仰天した。俄かに信じ難い言葉を、村川から聞いたのだ。青天の霹靂である。己の耳を疑った。直ぐに理解でず、しどろみどろに問う。
「そ、それは。ど、どういうことだ…」
「はい、ですから。糸川が病院の金を横領したんです…」
それを聞いた途端遮り、絶叫する。
「何っ、横、横領だと!」
「ええ、私も驚いているところでして、ほぼ間違いないと確証を得ましたので、こうして報告に伺った次第でして…」
「そ、それで、どうなんだ!」
吉沢は慌て、擦れた怒鳴り声になった。
受ける村川もたじろぐ。
「それで、どうと申しますと…?」
聞き直した。
「だから、どうしたと言っているじゃないか!」
更に怒鳴った。
「はあ、どうしたと言われますと、くすねているとしか…」
戸惑い応えると、また烈火の如く叫ぶ。
「だから糸川は、いくら横領したと聞いているんだ!」
「は、はい。今、分かっているだけで、植草隆二分の三百六十万円ほどでございます」
「ひえっ、な、なんだと。三、三百六十万円!」
目ん玉がひっくり返っていた。組んでいた足が外れ、がたがたと震え出す。貧乏ゆすりではない。その金額の大きさと、ことの重大さに衝撃を受けたのだ。
「院、院長。ど、どう致しましょう…」
村川も唇を振るわせ尋ねた。
「…」
返事がない。するとそこで、村川が震えつつも経緯を説明しだす。
「こ、ことの発端は。植草隆二の父親と名乗る者から、総合受付に電話がありまして、当初は要領得なかったのですが、電話を回され、うちの西山君が最終的に対応し、聞いて行くうちにこのことが分かった次第でありまして…」
「父親の五郎氏によれば、当、当初息子が事故に遭って当院に入院したことは、テレビもなく新聞も取っていないため分からず、暫らく経ってから村の者より聞いたとのことでして…。見舞いに来たかったが、あいにく身体の具合が悪く来られなかった。身内に頼もうにも誰もいず、ましてや勘当している息子だが、見捨てるわけにもいかず不憫で悩んでいたところ」
「う、うちの糸川から請求書が送られてきた。慌てて巨額の金額だったが、なけなしの貯金を解約して指定銀行口座に振り込んだ。が、何時まで経っても領収書が来ない。不思議に思っていたが時間が経つに連れ不安になってきた」
「そうこうするうち、また請求書が来たので、同様に雫石郵便局から振り込んだ。この分についても領収書が来ず。いよいよ不安になり郵便局に尋ねに行った」
説明しているうち、村川もやや落ち着きを取り戻し、少々能弁になり続ける。その間吉沢は、焦点が定まらず虚ろに聞いていた。
「それで局員に聞いところ、振り込みの控えが領収書だといわれた。だからそれ以外に何も来ないと説明され、昔気質の父親は納得せず、どうしても領収書が欲しいとごねたらしいんです。それで郵便局側も困ってしまい、父親に息子の入院している病院はどこかと問い、横浜日々病院と答えたらしいんです」
「それなら、そこへ直接電話して聞いたらどうだと促され、止む無く公衆電話から五郎氏自身が、電話を架けてきたことにより発覚したわけでありまして。そんな経緯から糸川の着服が分かった次第でございます。今のところは、この件だけですが、後は本人から吐かせませんと、いくらになるか分かりません…」
吉沢は夢現の如くなっていたが、村川から最後にそう言われ、はっと我に返り叫ぶ。
「何っ、まだ他にあるのか!」
「はあ、今のところこれしか判明しておりませんので。余罪は本人を吐かせませんと、一体幾らになるか見当もつかず、それで院長に報告と馳せ参じたわけでありまして…」
「うむ、一体どれだけの金額になるんだ…」
想像もつかず、吉沢の顔に焦りが漂う。
まさか、こんなことになるとは…。置かれている立場上ただではすまない。こんな事態が起きているとは露知らず、ついこの前能天気にも、糸川の交際費不正使用を許してしまった。
こんな大事件がすでに起きていたなんて。それも知らずに…。
溜息とともに、大いなる後悔の念が湧き上がる。
それにしても、この件だけでも大金だ。まだ他に着服があるとなれば、一体幾らになるのか。
「院長としての責任」が、瞬時に頭をよぎる。あまりのことに、絶望感すら湧き始めていた。
…何と言うことだ。そんな銀行の支店など、うちに取引がないじゃないか。それに立場を悪用し、入院患者の請求代金を個人口座に振り込ませるとは何たることだ。それも、年寄り相手に騙すとはとんでもない…。
急に、怒りが込み上げてきた。
「それでどうなんだ。糸川に確かめたのか!」
「あいや、まだでございます。ただ、この話も百%信用出来るかは、一応取引銀行を通じて、とりあえず電話にて調べただけで、書面による正式依頼ではなく確証がございません。それに、振って沸いたような話でありますから」
「ただ、西山君曰く。電話口で聞く限り、植草隆二の父親であることは間違いないようです。第三者が企みごとを持って、架けて来たと言うことではないように思われます」
「勿論、振り込んだ郵便局につきましても、父親の言う郵便局が実在するか調べましたが、間違いありませんでした。念のため本当に振り込んだか、また振込み控えが正しいのか、横浜中央郵便局を通じ、書面を持って調査依頼しておきました」
「それは、…間違いないな」
村川の確たる説明に、吉沢は真にことの重大さを認識した。すると、蒼白した顔から呻きと共に発せられる。
「うむむ…。これはえらいことになった。もし、このことが事実なら、一大事件になる。いや、もうすでに起きている。植草の父親が申すことが事実かどうか書面で調べようと、電話で確認していれば真実だろう。しかし、こんなことが新聞や週刊誌にリークされたらどうなる…」
「は、はい…。それは大変まずいことになります。そうなると、当院だけの不始末と片づけられなくなります。医療機関全体の信頼を損なうことにもなりかねません」
「それに報道機関がスクープすれば、話が大きくなり社会が騒ぎ出すでしょう。ややもすれば政治問題へと発展しかねません」
村川の負の詮索で、吉沢はことの重大性に愕然とする。
「そんなことになったら、何とする。わしは勿論、理事長まで責任を取らされるではないか…。こんなことしてはおられんぞ。至急、糸川を呼べ!」
一気に頭に血が上っていた。目の前がぐらぐらと揺れ出す。
「は、はい。かしこまりました!」
それで村川は、慌てて糸川に連絡を取ったのだ。
そんな危機迫るとも知らず、糸川が院長室へと来てソファーに通された。そこで初めて、異様な空気に包まれていることに気づく。
ううん、何だこれは…。
そう思った瞬間、院長がぎょろりと睨み、重々しく口を開く。
「糸川君、植草隆二の件で詳しく説明して貰おうか…」
咄嗟に、何のことか迷った。素早く頭を回転させる。
ううん、空出張の件にしては、場の空気が違う。それ以外の植草の件で説明しろとは。やはり、偽オペ同意書のことだな。そうか、思った通りだ。先日脅迫電話の件を入れ知恵したんで、非常事態と捉えているんだろう。それで、こんなに重たい空気なのか。
そこで、ここぞと告げる。
「植草のオペ同意書の件でございますね?」
「…」
無言で睨む吉沢に構わず告げる。
「院長、佐久間先生から聞いております。私に頂けるわけでございますよね。そうでないと決算書類が整いませんので」
そう応えるが、どうも的外れのような気がした。案の定、院長が目をかっと開き咬みつく。
「そんなことは聞いておらん。君は、わしに隠していることがあるんじゃないのか!」
尋ねるという感触ではない。威圧的詰問であった。
「はあ、他に何かありますでしょうか?」曖昧に尋ねる。
「何を言うか!」
とてつもない雷が落ちた。それは尋常ではない。
「君は植草の件を隠しているな!」
「はあ。あの、オペ同意書の件では…?」
「そんなことは聞いておらん。植草五郎のことを聞いているんだぞ!」
大声で一喝した。
糸川は声を出せなかった。植草五郎と聞き、顔から血の気が引いていた。まったく予期せぬことである。
まさか、隠し事が白日に曝されたのか…!。
心内で叫び、院長の目を視ると鋭く尖っていた。
観念したのか真っ青になり、歯がカチカチと音を立て始める。
「うあああ…」
糸川の口から出たのは、それだけだった。
吉沢の一喝で、偽善の言い訳など通用しないことを悟った。がっくりと肩を落とす。うな垂れた身体が震え出す。そして力なくかしこまり、蚊の鳴くような声で詫びる。
「申、申し訳ございません…」
デーブルに両手を置き、額を擦り付けた。
頭上で院長が冷酷に告げる。
「糸川、お前は植草五郎から己の口座に三百六十万円振り込ませたんだな。他にまだあるのか?。一体植草五郎からいくら騙し取ったのか言ってみろ!」
「…」
言葉が出なかった。
「黙っていては分からん。白状しろ!」
命令口調に変った。
「は、はい。申、申し訳ございません…」
「お前の侘びなど聞いておらん。何だ、糸川。言えんのか!」
雷声が、がんと脳天に落ちた。
「あの…、他に三百万円ほど…」
「ひえっ、な、なんだと。そ、そんなに横領しておったのか!」
「うぬ、ううう…」
糸川の申し開きに、今度が吉沢の天誅に落雷が落ちたように身体が痺れていた。唸るだけで次の言葉が出ない。すると、横にいる村川が強い口調で問い質す。
「糸川、すると全部で、六百六十万円を植草の父親から騙し取ったというのか!」
額をテーブルに擦り付け答える。
「はい。その内の三百万円は、別の患者でして。これで全部でございます…」
弱々しい声だった。
糸川に弁明の余地はない。ただ額をテーブルに擦りつける以外ないのである。丸くなり這い蹲る背中に、容赦ない怒りの視線が注ぎ込まれていた。鋭い視線が矢じりの如く射られ、心臓へと突き刺さる。
糸川は、絶望という奈落の底に落ち行くのを感じていた。
そこへ血相を欠いた業務部長の安田が、院長室に入って来るなり深々と頭を下げる。蒼白になった顔面が苦渋に満ちがくがくと震え、院長を見るなり土下座して謝る。
「この度は誠に申し訳ございません。すべて私の監督不行き届きでございます。心よりお詫び致します」
額を擦りつけ平身低頭するが、決して糸川を見ようとしなかった。
「ところで、安田君。調べてきたかね」
吉沢が冷淡に告げる。
「は、はい。この者の使用した交際費等につきまして、ここ三年ほど遡り、綿密に調べて参りました」
「それでどうだ。説明したまえ」
「はい、こちらの用紙に纏めておりますので、ご覧下さいませ」
震える手で、二枚のペーパーが吉沢に渡された。そこには空出張や不正交際費使用、さらに納入業者へのたかり。そして着服金の使い道である女性関係などが記されていた。その仔細をじっと見る。眉間の皺が、更に厳しくなった。
「うむ、何と言うことだ…」
絶句した。すると、突然虚ろな視線が空を舞うが如くさ迷い始める。そして、その怒りをぶつけるように、ぎょろっと糸川を睨んだ。その射る眼光は尋常でなかった。
「空出張を企て、捻出しては不正に使用し。元担当していた納入業者には、小遣いをせびり飲み代に当てる。それでも飽き足らず、今度は患者の医療費を自分の口座に振り込ませ、着服しては女との遊行費に使う。己の地位を悪用して、何たることか。それも、部下の女に手をつけるとは、言語道断!」
頭をデーブルに擦り付ける糸川に、容赦なく吐き捨てられる。
「すべての調べはすんでおる。まあ、わしも貴様の罠に嵌められ、空出張については厳重注意で不問に付したが、騙されていたとは。それだけではない。こんな多くの不祥事を以前からやっておったとは、許し難きことだ」
「たまたま植草隆二の父親から連絡があり露見したが、それがなければ、不正の発覚が遅れていたかも知れん。それをオペ同意書の件に絡ませ、悪巧みを図っていたとは許されまじき所業ぞ。糸川、お前という奴は、何と卑劣な男だ!」
「は、はっ。申し訳ございません…」
暴露され、射られる言葉に顔を上げられなかった。再び、総務部長が問い質す。
「ところで六百六十万円横領の他に。糸川、まだ悪行三昧があるのではないのか?」
「いいえ、他にはございません…」
蚊の鳴く声で応えた。すると、院長が怒鳴った。
「貴様、この期に及んで、まだ隠す気か!」
発すると同時に、院長の握り拳が額を擦り付けるテーブルを勢いよく叩いた。
「ひいっ!申し訳けございません。すべてをお話し致します。ご勘弁下さい、お許し下さい!」
糸川の絶叫が部屋中に響いた。安田は植草分の治療費を糸川が横領していることなど知らなかった。むしろ慌てふためいて来たのは、己が調べた彼の不正使用の実態である。かしこまり聞くうち全容が解ったのだ。平伏す心の内で呻いていた。
そこで院長の眼光が、業務部長へと向う。
「安田部長、君も同罪だ!」
「は、はっ。誠に申し訳ございません。私目の監督不行き届きにより、院長始め皆様方に甚大なる損害を発生さしめ、不徳の致すところでございます」
正座し再び深く頭を下げ詫びた。勿論、己の部下が犯した不祥事は上司の責任である。床に擦り付けながら、空出張や交際費の不正使用。それが寄りにもよって、部下の女性職員と情事の交遊に使っていたとは。更に治療費の着服が追い打ちをかけた。それも大金である。悔やんだところで、どうにもならない。
「ううう…」
呻き、血の気が引くのと同時に、営々と築いてきた地位が一瞬にして崩れ去るのを感じていた。
更に、吉沢が告げる。
「佐久間君を呼んでくれ。オペ中であればよいが、そうでなければ、直ぐ来るように伝えてくれ。それに、探偵社を使って調べた資料があるはずだ。それを持ってくるように伝えろ。分かったな!」
「は、はい。承知致しました」
直ぐさま村川が受話器を取り、佐久間の執務室に電話を架けると本人が出た。手短に要件を伝える。
「佐久間君か。村川だが、院長がお呼びだ。例の調査報告書を持って、直ぐに院長室へ来てくれ。ああ、今直ぐだ!」
受話器を置き伝える。
「院長、直ちに来るそうです」
「ああ…」
頷く顔が歪んでいた。眉間が寄り、顔面が鬼のように引き攣る。吉沢とて安田と同じ気持ちである。まさか、こんな不祥事が己の支配下で起きていることなど、夢にも思わなかった。一番恐れることが、現実に起きたのだ。取り返しのつかぬ事態であり、医院全体を統率する立場から、逃れることは出来ない。
「うむむむ…」
それを考えると、呻くだけで言葉が詰まった。叱責している相手が糸川であり安田なのだが、何故か己が責任追及されているような錯覚さえしていた。
吉沢にとって、安田の蒼白顔から滲み出る苦汁の汗。それを見るとやり切れなかった。テーブルに平伏す糸川が憎らしかった。自らの手で、彼の顔面が崩れるほど打ちのめしたかった。
「何故なんだ。どうして、こんなことになってしまったのか。わしが何をしたと言うんだ。うううう…」
突然、院長の後悔の言葉が漏れ、更に呻きに変わった。
その呻きに、糸川は背中に悪寒がる。耐え切れず、吉沢の様相をそっと窺うと、この世のものとは思えぬ奇相に萎縮した。
糸川は、そこで改めて謀略が失敗したことを思い知る。と同時に、心の内で未練たらしく嘯く。
どうしてだ…。何故、バレてしまったんだ。こんなはずじゃなかったのに…。
奈落の底に堕ち行くのは糸川だけではない。日々病院の責任者である院長とて同様である。
事件の重大さに己の未来が崩れ落ちたことで、瞬く間に吉沢の視線が空ろになっていた。すると、急に意外なことを吐き捨てる。
「どうせ、わしも奈落の底に落ちるんだ。お前らも道連れにしてやる。首を洗って待っていろ。この糞野郎どもが!」
糸川とて、一縷の望みなどないことに変りはない。吉沢の発する言葉が、山彦の如く聞こえてきた。
「ううう…」糸川が断末魔の如く唸る。
さらに吉沢の告げる言葉が、平伏す糸川には最も堪える衝撃的なものとなる。
「馬鹿な奴らよのう。安田も糸川もな。特に、糸川の馬鹿さ加減には、ほとほと呆れるわい。糸川よ、地獄に落ちる前に土産をくれてやる。いいか、耳の穴をかっぽじいて聞け。佐久間がくる前に話してやるわい。うふふふ…」
萎縮する糸川には、院長の発することが咄嗟に理解できなかった。
この期に及んで、まだこの俺を甚振るつもりか…。
胸内で漏らしつつ、ぬうっと院長を垣間見た。すると奇相顔が消え、腑抜けの面が笑っていた。
何だ、これは。どうなっている…。
頭が混乱した。訳が分からなくなり、また平伏した。それを見透かすように吉沢が喋り出す。
「糸川、知っておろう。お前を強請ってきたという輩をな。探偵社の調査によれば、あの男はお前が不正の餌にしていた植草隆二の妹の許婚だ!」
「ええっ、な、なんと…」
まったくの予想外に、思わず漏らした。構わず吉沢が続ける。
「そんなことも知らず、ぬけぬけとわしを騙そうとした挙句、似非総会屋だのと罠に嵌め利用しようなんぞ。けしからん奴だ!」
飛び散る唾と共に発した。
「うへっ、申、申し訳ございません!」
あまりの驚きに、座るソファーから床へ飛び移り、額を床に擦り付けた。
知らなかった。まさか国分が植草の妹の男だったとは。それを院長に向けさせようと焚きつけていたなんて…。
糸川は落ちるところまで落ちた気がした。しかし、吉沢の話はそれで終わらなかった。
空ろな目で、平伏す糸川を眺めるその様は、まるで気の触れた患者の体である。半開きの口元から涎が糸を引く。すると、それを見た村川が驚き思わず声を上げた。
「医、院長。どうなされましたか!」
問われても耳に入らぬのか、吉沢が村川を睨みつけ怒鳴る。
「ええい、うるさい。黙っていろ。今、わしは演説中だ。九分九厘助からぬ怪我人を救った当院の院長として崇め奉られ、大勢の聴衆者が聞いておるのだぞ。静かにせんか!」
村川には返す言葉がない。それどころか、あまりの異常さに唖然として凝視するだけだった。平伏す糸川も混乱し、額を床に擦り付けたままになる。すると吉沢が正気に返ったのか、急に目が光り続けて喋り出す。糸川に二発目の銃弾が発射された。
「このうすのろ野郎、まだ気づかんのか!」
「…」
何のことやら糸川には見当がつかず、無言で額を擦りつけたままでいた。すると、追い討ちをかける。
「…それなら聞かせてやる。寝返ったぞ。お前の間抜けさ加減が嫌になってな。課長風情で欲をだし、背伸びする愚か者に望みがなくなったとよ。それに、何時までもお前にくっ付いていては共犯者にされると恐れてな。己の悪欲に自惚れおって、梯子を外されたのも気づかんのか!」
響く雷鳴が、糸川には理解できなかった。
ううん、院長は何を言っているのか。背伸びする愚か者とか、共犯者とか、梯子を外すとか、一体何なんだ…。
見当がつかず、告げる院長を窺いたかったがならず、平伏し懸命に憶測する。
うむ、どういうことだ。…ううん、共犯者?。待てよ、もしかして恵理子が寝返ったのか。この前疑ったが、強欲でねじ伏せたと高をくくったのが間違いか…。そうだったのか。くそっ、甘かった。
結末がどうして訪れたのか、これで分かったぞ。
そう糸川は思った。
だか院長の話が、意外な方向へと進んでゆく。
「糸川、何時までそうやってへばりついている。ほれ、顔を上げてわしを見よ」
だみ声が飛んできた。
「は、はいっ。申し訳ありません…」
平伏す顔を、恐る恐る上げる。すると、吉沢の顔が柔和に見えた。その時僅かながら、光明が射したように思えた。が、意に反した。
「この阿呆面。よくもしゃあしゃあと、わしを見られるもんだ。この馬鹿者が!」
雷が落ちた。柔和と思った顔が鬼面に変っていた。
「うへっ、ご勘弁を。お、お許し下さい!」
再び床に額を擦りつけた。
「この間抜けめ。お前に引導を渡してやる!」
烈火の如く怒鳴り散らすと、周りの者らも委縮する。すると、吉沢の目が光りゆっくりと告げる。
「それじゃ、教えてやる。糸川よ、お前も馬鹿な男よの。わしがこれだけ話しても、まだ分からんのか?」
「…」
憶測する状態にはない。ただ、平伏すのみである。すると、おもむろに解き明かす。
「いいか、よく聞け。お前の情事相手は誰だ。おお、そうか。大勢いるな。よく考えてみろ。その中に、お前を裏切った女がいるのだ。分からんのか?」
慇懃と耳に響いた。糸川が憶測する。
そうか、やはり恵理子で間違いない。そうだったのか…。これではっきりしたぞ。
確証し、その名が告げられるのを待った。
ゆっくりと吉沢の口が開く。
「糸川、お前のお気に入りだ」
やはり、俺を裏切ったのは、彼女か…。
すると予想だにしない名前が、耳に飛び込んでくる。
「お前の部下の牛島だ!」
ううん…?
ええっ!、う・し・じ・ま…?
考えても見なかった。まったく頭に浮かばなかった。恵理子だとばかり思っていた。それが、まったく違った。
「ひぇっ!、佳、佳織が…」
「うっ、ぐぐぐ…」
疑うこともせず、すべてを話していた相手。最も現を抜かしていた女である。
まさか…。どうして…。そ、そんなことは…。
告げられた瞬間、天地が逆さまになった。直ぐに受け入れられず、否定することで精一杯となる。平伏したまま身体が固まっていた。
佳、佳織が…。何てこった。こんなことがあっていいのか…。まさか、院長と通じていたなんて夢にも思わなかった。
「何でだ、うううう…」
がたがたと震え、顔面蒼白になった糸川の口から、断末魔の呻きが洩れていた。
すると勝ち誇ったように、仁王立ちの吉沢が吠える。
「佳織も賢い女よの。お前が有頂天になっている頃、わしに泣きついてきおった。それも身体を担保にな」
「お前なんぞ、落胆し足掻きながら地獄へ落ちればいい。この間抜け目が!」
容赦ない罵声が響いた。その矢じりが、平伏す糸川の背中に射られると、心臓に刺さりぎゅうっと収縮する。呼吸が出来なくなった。苦し紛れに漏らす。
「ああ、これで終わりだ…」
遅まきながら、己が地獄に落ちゆく様を見ていた。きつく閉ざした目を容易に開けられず、口中で砂を噛む。
「うむ、うぐうぐ、ううう…」
つい先ほどまで、そう、この医院長室に来るまでは、画策が完成間近まで来ていると思い込んでいた。その謀略が、小波に攫われる砂城の如く脆くも崩れ去るのを実感する。そして瞼の裏で、骨格だけのメリーゴーランドが曲もなく廻るのを見た。
すると、耳に残る佐久間医師を呼ぶ吉沢の怒鳴り声が甦る。直ぐに佐久間がきて、亀の子のようにへばりつくみすぼらしい負け犬の俺見て、蔑むその姿が映る。見下し、俺の失態を嘲り笑う白衣姿が浮かんでいた。と同時に、醒めた眼差しで窺う佳織の残影が、彼方に消えて行く様を呆然と見送った。
そこへ、佐久間が部屋に入ってくる。
「遅くなりま…」挨拶が止まる。腑抜け顔の吉沢が、天井を見つつうわ言を発する様を見た。
「ざまあみろ、この間抜け野郎。わしの勝ちだ。糸川、貴様を蹴飛ばしてやるから、とっとと谷底へ落ちろってんだ!」と言い放ち、空ろな目が皆に向く。
「ううん、静かにしろ。わしは今、九分九厘助からぬ患者を救った名誉ある院長として演説中だぞ。貴様ら、黙って静かに聞いておらんか!」
仁王立ちとなり、つんと顔を上げ定まらぬ視線を這わせる吉沢の姿がそこにあった。
「がっはははは!」
高笑いと共に緩んだ口元から、一筋の涎が糸を引く。
完
狡い奴 高山長治 @masa5555
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