狡い奴

高山長治

第1章発端一

電線に数珠玉のように止まる雀の一羽が、「ちゅん!」と囀った。蒸した夜が明ける、朝日の昇る前のことである。

救急車がサイレンを響かせ、まだ覚めやらぬ生温い靄を揺るがし、横浜日々病院の裏手にある救急患者搬用口の前で止った。そのけたたましさに、雀たちは弾け四方へと飛び去った。忙しく救急車から、怪我人を載せたタンカーが運び出され、病院内に搬送された。用済みのサイレン音が止み、再び早朝の静寂に戻るが、その余韻が暫らく蒸す朝靄の中で澱んでいた。

何処からか野良犬が搬用口近くまで来て、何かを嗅ぐようにクンと鼻を上げ、入口の縁石に小便をかけ立ち去った。そんな様子を無表情で見る守衛らも、むしろ運び込まれるタンカーに注視していたせいか、犬の仕業など気にもせず見過ごした。

暫くして、飛散した雀らが何処からか集まり、また電線に止まりだす。横浜日々病院での、日常茶飯の夜明け前の出来事である。そして、ことの発端は、日々見られるこんな情景から始まった。


隆二は偏頭痛のする頭を軽く叩き、万年床からのっそりと起きた。今朝も空ろげに目覚め、顔も洗わず部屋を出てバイクに跨るのが常である。

帰宅したのは昨夜といっても、深夜二時頃だ。それでも朝五時には起きていた。クーラーのない蒸し暑く気だるい朝である。

ほとんど寝ていない。それでもいい。だからといって、何処行く当てがあるわけではない。

築年数が幾年だか分からぬ貧租なアパートの一室が、彼の住まいだ。それもほんのひと時立ち寄るに過ぎない、寝るだけに帰る以外は、寄りつかぬ辛気臭い干からびた部屋だ。そんな彼の根無し草の生活は、今に始まったことではない。

何年もであり、何時もである。

起きすがらぼっとする眼を擦り、カップラーメンの残骸や脱ぎ散らかす衣類、バイク雑誌が散らかる部屋で、寝起きの一服と煙草を探すが見つからず、仕方なく吸殻の積った灰皿から、吸えそうなしけもくを取り、口に銜え火を点けた。酸いた苦い煙が肺に広がり、気持ち悪くなるが、それでも構わず深く吸い込んだ。

「おえっ!」

胃を突き上げる吐き気を催し、ヤニ臭い胃液が込み上げてきた。思わず胃の辺りを押さえる。それでも構わず銜えたまま、苦りきる顔でヘルメットを持ち部屋を出た。何処へ行く目的などなく、ただ気の向くままバイクをぶっ飛ばせばそれでいい。

アパートの横手に置いてあるバイクに跨りエンジンをかける。直ぐにはかからない。キーを差し廻すがセルが鳴るだけで、一度でかかった試しがない。幾度かキーを廻しつつ、アクセルを廻すが、一向にかかる気配がない。

「ちえっ!」と、癇に障ったのか隆二が、苦い唾と共に火の点いたしけもくを口から飛ばした。踏み潰す右足踵で、さらにエンジン辺りを二、三度蹴り再びキーをオンにし、右手でアクセルを廻した。すると、ようやくエンジンがかかった。二度、三度噴かすと、勢いよく唸りを上げる。バックミラーを確認し、クラッチをローに入れると、エンジンの振動が全身に伝わってきた。

ゆるりとホンダCB四〇〇SFが動き出す。アパート横の道路へと出てアクセルを廻すと加速がつき、スピードが上がるのと同時に、バイクと隆二が一体になっていた。走る振動に目が覚めると、偏頭痛が消えていた。

何故、頭痛が治るのか分からない。何時の頃からか、偏頭痛は朝起きる度に生じるようになった。それも放っておいた。最近は嘔吐も伴うが、病院に行く気はない。

隆二にとって、そんなことはどうでもよい。考えても詮無いと思っているから、バイクと一体になればそれでいいのだ。走行中は無心になり、先に伸びる道をひた走る。

CB四〇〇SFに跨り、全身に風を受け突っ走る。それで吐き気も偏頭痛も治るならそれでいい。それ以上のことは望まない。現に一体化し、嘔吐も偏頭痛も、そして気だるささえ消えた。無の境地とまではいかないが、この時ばかりは一種の快感すら覚えるのだ。CB四〇〇の唸りが、その証となっている。

風を切り、保土ヶ谷バイパスから新保土ヶ谷を経由し、横浜横須賀道路へと入り、横須賀方面へ向っていた。

勿論、今日も一人である。葉月の朝は早い。隆二の乗るバイクが走り出した頃には、すでに朝が始まっていた。とはいえ、早朝に走る車の数は少ないし、どの車もスピードを上げている。

大型トラック、ダンプカーそして改造車ありと、みな猛スピードで突っ走る。早朝のドライバーにとっては巡航速度だ。隆二と共に唸りを上げるCB四〇〇は、その巡航速度に入るべく走りを急速に上げてゆく。直ぐにスピードメーターが百五十キロ近くを指していた。

昼間にないスピードである。しかし、彼の乗るバイクはそれに飽き足らず、前を走るどんな車も追い越す。それがホンダCB四〇〇SFの流儀であり、彼の曲げられぬ信念でもあった。それ故隆二にとり獲物(ターゲット)を捕らえ追いつき追い越す。至極当然のことである。

エンジンが甲高く唸り、その振動が全身を凌駕する。足の先から躍動し、心臓が高鳴り掌に力が入る。指腹に電気が走るのと同時にハンドルへ伝わり、さらにスピードを上げるべくアクセルを廻すと、CB四〇〇がぐうーんと走力を増す。何時もそうだった。隆二はその瞬間に、生きていることを実感した。

前方三百メートルほど先の大型トラックが、標的として射程内に入ってきた。スピードを上げ、トラックに近づく。追い越そうと体重をやや右に傾け、センターラインよりにCB四〇〇を寄せて行った。そして、さらに加速させ、右のウインカーを点滅し追い抜きにかかった。

その時だった。

目の前の大型トラックが前触れもなく、右ウインカーを急に点滅させ、追い越し車線へと侵入してきたのだ。加速したCB四〇〇は避ける間がなかった。というより、反射的に左手で急ブレーキをかけ、ハンドルを左に返した。後輪がキィーっと悲鳴を上げる。

追突は免れたが、その煽りで横転し、滑るように隆二を乗せたまま、道路左側壁面に激突していた。その衝撃で隆二は、外壁にダイブするように激突し、右前方に跳ね飛ばされ、五メートルほど先の路面に叩きつけられていた。その瞬間、倒れたバイクのオイルタンクからガソリンが漏れ摩擦で引火し、CB四〇〇は燃え上がる炎に包まれていた。

一瞬の出来事である。

つんざく衝撃音と急ブレーキの悲鳴に前方を走っていた大型トラックが、バックミラーでCB四〇〇の燃える様を見て、急ブレーキをかけ百メートル先で停止した。が、運転席のドアは開かなかった。 目撃する追い越し車も対向車もいない。倒れたままの隆二を助けるべく、事故発生の当事者であるトラックの運転手さえ、伺い見に来ることがなかった。その間、エンジン音を響かせ続けるトラックは、ほんの少し躊躇うように停車していたが、無責任にも怪我人を放置して走り去ったのだ。

早朝の極端に交通量が少ない時間帯である。ホンダCB四〇〇SFは勢いよく燃え続けていた。

仰向けに倒れた隆二は、起き上がることも動くこともなかった。

彼の着用するヘルメットが激突の衝撃で割れ、側面が大きく欠損していた。その露出した部分から、大量の血が流れ出て路面を赤く染める。隆二の目は半開きとなり、瞳孔は彼方の方を窺い、息をしているのかも定かではないが、燃え盛るオートバイから離れていたため、火の手に巻き込まれることはなかった。

後続の車が通りかかったのは、それから間もなくだった。直ぐにパトカーと消防車、それに救急車が事故現場に到着した。隆二は近くの救急病院へと搬送されて行った。警察は現場検証で大破し炎上したバイクと、無呼吸で頭部からの大量出血状態からみて、ほぼ絶望と調書に記録していた。所謂、即死と記している。それほど凄まじい事故だった。

搬送中の救急車内で、救急隊員は事務的に応急処置を行った。そして、彼が搬送された病院は、高度先進医療設備を備えた救急医療指定の横浜日々病院である。運び込まれた時刻は、午前六時二十八分。まだ病院が開院していない時刻だ。何時ものように当直医しかおらず、急ぎ怪我の状況から応急処置を施したあと、一応の蘇生装置を取り付け、心肺動向を確認し停止状態であればそのまま死亡診断書を作成し、それで安置室へ移して処置が終わる予定でいた。救急隊員の報告や怪我の状況から蘇生するとは診えず、その当直医は手馴れた手つきで淡々と職務をこなした。

当直医は明け番近くで、間もなく勤務を終える予定でいた。その当直医の名前は佐久間敬三。脳外科の専門医である。月に数度ある宿直を、彼が昨夜から従事していた。午後六時の閉院から、本日の開院までの勤務である。明け方近くまで仮眠が取れるほど、これといった搬入患者はいなかった。そんな折、植草隆二が運び込まれてきたのだ。救急隊員からの報告と、担ぎ込まれた時の状態から簡易診察を施し、直感的に当直の仕事から解放されるとみていた。

ところがである。

当直医が死亡診断書に記入すべく、取り付けた蘇生装置を確認すると、心肺停止にはなっていず、スコープに映し出される映像は、刻々とパルス線が刻まれていたのだ。

外見上では瞳孔が開き、佐久間の目にも死に体に映っていた。が、隆二の心臓から発せられる信号が、生きている証を伝えていたのである。

このスコープの状況を、改め診て慌てた。

停止しているものとばかり思っていたのが、そうではなかった。驚きという、高ぶりを静めるべく大きく息を吸った。そしてそれなれば、早急に本格的な手術へと進めなくてはならない。

怪我の状態から一刻の猶予もないのは明白である。とにかく、致命傷となっている頭部の欠損手術、及び蘇生手術を急ぎ取り掛かるべく準備を整えた。生命の鼓動が脈打つ限り、どんな状態であろうと、患者の命を救わなければならない。

医師としての使命である。

佐久間は突き動かされるように、素早く行動を起こした。やはり当直勤務の限られた看護士と共に、隆二を手術室へと運びオペの準備に取り掛かった。その間に、他の医師や院長への連絡と、オペの許可を取り付けた。

偶然とはいえ、運良く当直医の佐久間が脳外科専門医であったことだ。駆けつけた他の医師の協力もあり、隆二の頭部欠損の修復と蘇生手術は八時間にも及んだが、スコープに映るパルスは停止することがなかった。

何とか命だけは取り止めたのである。その大手術の難しさは、術後執刀医師が漏らした一言に尽きる。

「しかし、この患者。九分九厘駄目かと思ったが、生命力の強い奴さんだ。普通ならこれだけ脳に損傷があれば、とっくにお陀仏だったのによ…」

ともかく、この世に留まったのである。

当の隆二がそれを望んだかは定かでないが、運命を司る神様がそうさせたのだ。将来展望のない彼にしてみれば、相棒のホンダCB四〇〇SFと伴に廃車になるのも、ひとつの選択技だったかもしれない。がいずれにしても、懸命なる佐久間の執刀と、神様の悪戯で生きることを強要されたのだ。


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