終末中に恋したあの子がとんでもなくて大変です

桧秋

第1話(完結済み)

※注。この物語に登場する離人症は実在する離人症とは全く無関係であり、架空の症状として取り扱っています。また、この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。



「仕事は慣れたか?」

「あ。お疲れ様です、局長」

 メルは設置された望遠鏡から顔を離すと、姿勢を正し、上司に頭を下げた。

メルは若くさっぱりした雰囲気の女性だった。彼女は仕事の休憩と気分転換を兼ね外の空気を吸っていた。

「おかげさまで慣れてきました」

「そうか」

 アトラトは初老の穏やかな気風の上司だ。メルはこの男が怒鳴っている姿を着任以来まだ見ていない。

「ただ、仕事といっても、楽な方だよ。私達は」アトラトは言う。

「地上勤務はせいぜい、ガッタリコとの小競り合いで傷んだ船を修理し送り返すぐらいで、『グレース』がある限りは死ぬ心配もない。」

「私てっきり――」

 メルが言う。

「ここってガッタリコ人とドーピシア人と人類との、領宙の境にあるじゃないですか。もっと激戦区なのかと思ってました。こんなにのんびりした感じと思わなくて」

「ふむ」

「……あの、局長は、ガッタリコやドーピシアの姿を生で見た事はありますか?」

「あるとも」

 メルの瞳の奥が好奇心で輝いた。

「図鑑では、ガッタリコ人は液体生命体で、ヤドカリのようにビーカーとかワインのような形状の透明な鉱物に入って移動するんですよね。ドーピシア人は根っからの戦闘民族で、身体改造に抵抗がなく、個体毎に全く違う姿をしているとか」

「すまん。私が見たのは死体だけなんだ。戦闘後で、全部ぐちゃぐちゃだった。人間もそうだ」

「あー……」

 アトラトの返答に、メルは元気を失くした。

 アトラトは穏やかな声で言う。

「怖がらせたか? なに、そんな激しい戦いは滅多に起こらない。三種族が隣接しているとお互いが牽制し合うから、却って攻められ辛いもんだ。本格的な戦闘すら、四年も前のこと。若いのはすっかり戦を忘れている。ほら、あのように」

 アトラトが言い終わるより早く、領宙監視隊のパイロットが数人、ゲラゲラ笑いながら監視塔から出てくる。その内の一人、若いハンサムなパイロットがメルの姿を見つけ、金髪を軽く揺らすと、ポケットに手を入れ近づいてきた。

「やあ、メルさん。元気でした? 僕は、さっきまでガッタリコの偵察機とやり合って、グレースまで誘き寄せハチの巣にしてやろうと思ったんですが、あいつらチキンだからグレースに近づいた途端に踵を返して逃げていきまして……」

 金髪のパイロットは途中からメルの傍で微笑むアトラト局長の気づき、段々と声が尻すぼみになった。アトラトは灰色の無精ひげを擦った。

「そうだったか。それはご苦労。ハイン隊員」

「い、いえ。すみません、局長の服が闇夜に溶け込んでて、見えなかったもんで」

 気まずそうにするハインに、アトラトはやれやれと首を振ると、喫煙所へ向かった。ハインは「ほー」と息をつくと、望遠鏡を指差した。

「メルさんは、何を見てたんですか?」

メルは「地球」と答えた。

「地球? いや、アハハ。ここから云百万光年と離れてんのに。そのサイズの望遠鏡じゃさすがに厳しいんじゃ」

 メルは気分を害すと、再び望遠鏡を覗いた。ハインは望遠鏡の鏡筒にある『ISHIGUCHI』の文字を指でなどりながら優しく話しかける。

「見える訳ないですって。太陽系のデータベースで地球の動画を漁るか、あるいは……そうだ。俺の仲間に地球出身のパイロットがいるんです」

「えっ、地球出身者が? 誰っ」

メルがレンズから顔を離し、ハインを見上げる。その眼が輝いているのを見て、ハインは慌ててニュアンスを変えた。

「ああ、いたんですが、ついこないだ、マゼラン方面に転属になっちまって」

「なーんだ」

 メルは肩を落とすと、肉眼で星空を眺めた。

「行ってみたいなぁ、地球」

「僕だって」

 ハインはメルの横に立つと、すぐ傍のオリーブの木の葉をつまんで揺すった。

「こんなもの植えたって結局は真似っこ。パチモン感があります。地球は太陽系外出身者なら憧れる。あんなに青い綺麗な水の星! 写真を見るだけで地球出身者が羨ましくなる」

「でも、実際は汚れてる」

「数年前から、汚染された海はプラスチックやビニールを食べる人工生物のおかげで、大昔の姿に戻ったそうですよ」

 メルの反応が薄いと感じたハインは、身振り手振りを交えて言った。

「分かります、海? 塩水が、水平線の彼方までずーっと続く様子を指して……」

「それくらい知ってます」

「おーい。ハイン、いい加減、告白したかー?」

 それまで少し離れたところからニヤニヤ二人を眺めていたハインの同僚ら三人は、ととうとう我慢しきれず、悪戯っ子の顔で冷やかしにきた。

「なあメルさん、ハインには気をつけろよ。振った数も、振られた数もうちのエースだ」

「よっ、撃墜王!」

 同僚のからかいに、ハインはまんざらでもない様子で鼻を鳴らす。

「へえ、凄いんですね」メルは苦笑いを浮かべながら、そろそろ屋内に引っ込もうと思い始めた。

「おや、何か見えるぞ。なんだろう、こりゃ」

 ハインの同僚が間の抜けた声をあげ、さっきまでメルが使っていた望遠鏡を覗き込んでいる。ハインは白い歯を輝かせ、同僚に近づくと頭を押した。レンズの縁に眼窩をぶつけ、同僚が悲鳴をあげる。

「いってぇな馬鹿やろ! 何すんだハイン!」

「隙だらけなのが悪いんだよ、トロマ。そんなんじゃすぐに墜とされちまうぜ」

「この野郎、やるかァ?」

「いいともさぁ」

 二人が組み合うが、お互いに本気ではなく、体力を持て余した若者の余興だった。やっちまえ、と野次が飛ぶ。メルは妙な胸騒ぎがして、望遠鏡を覗いた。

 マゼンタ色の光が幾つも、星の煌めきに混じっていた。その内の一つが、あっという間に大きくなる。

ぎょっとしたメルが望遠鏡から顔を離したのと、爆発があったのはほぼ同時だった。

鼓膜が裂け、メルの身体は軽々と宙を舞う。

「うっ」

 地面へ仰向けにメルは倒れた。叩きつけられた衝撃で背中が硬直し、呼吸が止まる。細かな土が舞う中、メルは必死に目をこじ開け、辺りの様子を確認した。

さっきまで自分らのいた辺りはぽっかりと抉れ、望遠鏡は半焼けになっていた。周囲には土とタンパク質の焼けた匂いが立ち込めている。すぐ傍には誰かの親指が転がり、そして人の形をした物が何体も、黒焦げになって呻いていた。

「畜生、畜生ッ」

ハインらしき、顔の焼け爛れた男が口から血を吐きながら立ち上がろうとしているが、彼には立ち上がる為の脚が無くなっていた。

「おい! 救護班!」

アトラトの怒鳴り声が遠くで聞こえる。メルのこめかみ辺りを流れる血管は、ドクドクと危険な脈を打っている。メルは自分の身体がどうなっているのか怖くなった。知りたくないので、夜空を仰いだ。煌びやかな星々に混じって、マゼンタ色の無数の光がぽーっと浮かんでいる。見る見る内に、点だった光は大きく、強くなった。それらが何れも、容赦なく放たれ続ける敵艦隊からの一斉射撃と気づいたメルは、自分たちに生存の余地が無いことを悟った。


地球――。

開放的な天井から垂れ下がる凝った水晶のシャンデリアは、暖かな橙色の光をホール全体に降り注いでいる。カチャカチャと銀食器の擦れ合う音と、和気藹々と語り合う人々の声が混ざり合い、その耳障りは心地よく、場の雰囲気も柔らかかった。

ディナーを嗜むのは幅広い年齢の男女が十数人。皆、皺一つ無い清潔な出で立ち、一々が上品な振る舞いをし、一目見ただけでも彼らの育ち良さが分かる。白壁にはルネサンス風の西洋絵画。床には金の刺繍が施された絨毯が敷かれる。金色のライトに照らされて輝くビュッフェ形式に並んだ料理は、一品でも目にしただけで口の中に涎が湧いた。そういった柔らかな空間の中において、容姿端麗の少女が一人、席に着く。ビュッフェから取り運んだ、白磁の皿にちょこんと載る香り立つハーブ鶏を切り分け、一口。サラダにはたっぷりゴマだれをかけ、また一口。ヒーターで暖められたきめ細やかなライ麦パンを千切っては、新鮮なレバーペーストをペタリと付し、口に入れる。

「頬が落ちそうだ……」

 独り言を呟くその少女は齢十六。威子口家令嬢、威子(いし)口(ぐち)空(そら)は一族の会食を表向き優雅に、しかし内心ニコニコしながら心の羽を伸ばし楽しんでいた。

宇宙のあちこちに散らばる威子口の親族らは四カ月に一度、一堂に会す夜があった。文字通り宇宙一のシェフ達がこさえた輝かしい料理群に舌鼓を打ちつつ、互いの近況を報告し合う。進歩した科学技術によって空間軸を重ね合わせることで、何万光年と離れた星にいても、人と人が物理的にハグすることはおろか、遠くの星の食事を実際に胃袋へ入れることさえ可能だった。

威子(いし)口(ぐち)空は、噴水のように際限なく溢れるチョコレートの滝の傍らに積まれた綺麗な色の苺の山を流し見た。前回の会食ではあまり食べれなかったが、あれが採れ立てで、超のつく程に最高級な苺だとソラは既に知っていた。はっきりいって、チョコレートなど蛇足だ。今日の食後はあれを存分に楽しもうと思っていると、

「お待たせいたしました、ソラ様。ご注文のシーフードスパゲティーニでございます」

 若く容貌の優れた男がトッと、ソラの前に料理を置いた。

「ありがとう。ふっ」

 給仕係の若く容姿の良い男に、ソラはにこりと微笑んだ。ルックスの良い給仕係の顔が微かに惚気るが、己が職務中であることを思い出し真面目な顔で一礼をする。一方、ソラの意識には既に給仕係の姿など失われ、その視線は目の前に置かれた湯気立つパスタに注がれていた。ぱっくり開いたムール貝に海老、イカ、タコ、そして宇宙タラバの身まで入った贅沢なトマトソースは黄金色の麺とよく絡み、見ただけでソラは幸せだった。

 タバスコをかけていると、「よう」と傍から声をかけられる。

「ヤイト叔父様」

ソラも長身だが、威子(いし)口(ぐち)灸(やいと)の上背は百九十センチを優に超える。灸の左手には宇宙タラバのボイル焼き、右手には骨付き肉の皿が載せられている。灸は空の横の椅子に腰かけるなり、Tボーンステーキに齧りついた。

「……どうだい、高校生活。いじめられたり、してないだろうな」

「いいえ、まさか。良い友達に恵まれて毎日楽しく過ごしています」

 灸は普段の自信に溢れた表情を少し引っ込め、真面目なトーンで訊いた。

「なあソラちゃん。わざわざ偏差値が普通の高校に入ったって聞いた。どうした? 高校どころか、どんな大学だって歓迎するだろうに。言っちゃ悪いが、周りが馬鹿に見えんじゃないか」

ソラは小さく肩を竦めた。

「ええ、少し」

「だろう」

「ですが、『威子(いし)口(ぐち)たる者、平の暮らしを知らずして上に立つべからず』でしょう? 子供の時分は一般階級の子と混じり、苦楽を共にするのが威子口での決まり。叔父様も、そうだったのでしょう?」

「そういや、そうだった。でもさ、高校なんかすっ飛ばしてハーバードへ行ったところで、誰も咎めやしないさ。ソラちゃんの優秀さは親父も認めてる」

「……灸叔父様も確か、高校までは普通の学校に通っていたと聞きしました」

「いいや。それは違うな。俺は、威子口の中でも異端の阿呆だったせいだ」

「……阿呆?」ソラが聞き返す。

「一般家庭の奴らの方が馬が合うんだよなぁ。正直」

灸はワハハハと愉快に笑うと、骨付き肉をガリガリ噛んだ。

灸は威子口らしからぬ男で、何の前触れもなく極寒の開拓星に赴き、開拓者らに交じって肉体労働に一年を費したこともあった。敵対星ドーピシアとの攻防戦に自前の艦で飛び込み、敵の旗艦を撃墜して人類を勝利に導いたこともあった。灸の後先考えない言動、熱い性格と二枚目の容姿は華があり、国民からは何だかんだ慕われていた。

灸はふと、ソラのスパゲッティに目をやると、突如、傍にあった宇宙タラバの脚の殻をバリバリと剥いで、その太い脚肉をソラのスパゲッティの上にばら撒いた。

「や、灸叔父様」

「ソラちゃん好きだったろ、宇宙タラバ。育ち盛りなんだから、今日くらいは掻っ食らえ」

 にっと白い歯を見せる灸にソラは内心苛ついたが、表では笑顔で返事をする。灸は満足して二度三度と頷いていたが、慌てた様子の黒服の付き人に何やら耳打ちされると、

「悪いな。ちょっと失敬」と、席を立った。

残されたのは、テーブルに散らかった宇宙タラバの殻と汁。そして、宇宙タラバ肉が惜しげもなく盛られたスパゲティーニ。

仕方なくソラはそれを口に入れた。口内に広がるタラバ、タラバ、タラバ。

分かってない。ソラは思った。タラバはパスタにちょっぴり居るから、美味しいのに。

 次期当主に威子口灸を推す声も多いが、ソラは快く思っていなかった。形の良いソラの右眉がぴくりと不満げに動くが、それに気づいた者は誰もいない。

 威子口家の会食は終始穏やかなムードで進み、このままお開きになるかと思われた。しかし、卓の中央に座る老人の、怒気を孕んだ厳声が轟くと、場の空気に一瞬で緊張が張り詰める。

現威子口当主、威子口八雲。齢は八十近いというのに、未だ耄碌の対極にあった。頭の回転は若い頃から衰え知らず。背筋は誰よりも真っすぐで、休日になると行きつけの西洋レストランで分厚いフィレ肉のステーキをぺろりと平らげてしまう。そして一切の情を排した合理的且つ貪欲で豪快な政治手腕によって、宇宙上における人類の活動圏並びに既得権益を大きく押し拡げられたのは、八雲が当主になって半世紀間の功績としてはあまりにも充分過ぎるものだった。

「海人。灸。何故、儂に言わなかった」

 八雲の眉間に刻まれた皺が一層深くなる。灸は作り笑いを浮かべ、両手を広げた。

「オヤジ。会食が済んでからでもいいじゃないですか。せっかく威子口家の者で集まったんだから、お堅い政治の話はさ―」

「会食は止めとする」

 八雲は表情一つ変えずに言う。その一言はどんな岩盤よりも厚く揺るぎいないものだった。灸の兄である海人がパンと手を叩いた。

「すまない。今日はこれで解散としよう」と皆に伝える。誰一人逆らおうとする者はいなかった。五歳にも満たない子供ですら、母親に手を引かれ大人しく退席していく。

「お嬢様。私達も」

「ええ。そうね」

  従者の北形に促され、ソラはヘタの取ってある鮮やかなイチゴを一粒口に放るとおもむろに立ち上がった。その時だった。

「ソラちゃんはここに残りなさい」

 祖父の言葉にソラは身動きを止める。口調こそ穏やかだが、ソラに注がれた八雲の眼差しは孫娘に対するものではない。

仕事の眼だ。ソラは察した。周りの親戚はちらりとソラの方を見るが、何も言わず退出していく。ソラは口の中のイチゴをゆっくり咀嚼し嚥下した。

「北形。貴方は外で待っていて」

 北形は結った黒髪を垂らし一礼をすると、少々の心残りを覚えながらもソラの元を離れた。

「オヤジ、まだソラは十六だぜ。政治の話は、早いんじゃないか」

腕を組んだ灸が非難するように言う。八雲は不機嫌そうに鼻を鳴らした。海人は若い頃から広い額の、眉間の皺を解しながら、気の毒そうにソラを見つめている。

 北形は最後に退出する者として両扉の真鍮の取っ手を掴み、中央に引き寄せた。僅かに、会食の場がまるで要塞のような八雲の書斎に切り替わるのを目にしたが構わず扉を閉めた。

本来、扉に耳を近づけても何も聞こえない筈だった。何故なら空間は別だからだ。実際、北形が部屋から外へ出ても、あれだけ大勢いた威子口家の者の姿は一つも無い。部屋を出た所で会食の空間は途切れ、その者が本来いた星、本来いた空間へと戻される為だ。

ところが、北形の足元には光が伸びていた。空間軸を重ねる装置の誤作動なのか、空間が扉の外にまで漏れている。決して会話を盗み聞きしたい訳ではなかったが、もしソラに何かあった時に気づけないとなると、護衛役の名が廃る。という大義名分が頭に過った。

北形は迷った末、右足革靴の爪先で漏れ出た光を踏み、重心を前に傾け耳をすませた。


「俄かには、信じ難い話だが」

 海人は暗い顔で息を吐いた。

「はあ、簡単だろ兄貴。グレースが攻略されたんだよ」

 灸がうんざりしたように言うと、打って変わって激しい口調で怒鳴った。

「これから、訳の分からない『旧遺物』に依存してきたツケを払わされるぜ、俺達人類は」

「利用しない手はなかった」

 海人が淡々と言葉を紡ぐ。

「人類が他の知的生命体と互角に渡り合い、勢力を伸ばせたのはグレースを筆頭とした『旧遺物』の技術を流用したおかげだ」

「ああ、そうとも。旧遺物に頼り切ってちょっと油断したな。自前の技術の発展の妨げになっちまったのが悪いだけだ」

「ソラ。この件についてどう思う」

 八雲がデスクに両膝をつきながら尋ねる。少し間があってからソラは時事知識を脳裏に展開しつつ考えを披露した。

「H-665星は三種族の境界域に位置し、パワーバランスが保たれている所。新手の兵器を用いるにせよ、星一つを墜とすにはそれ相応の戦力が必要になる。それだけのソースを割けば当然、ガッタリコの星の守りは手薄になるから。しかし、ドーピシアの動きは無かったんでしょう?」

「つまり二種族が手を組んだって言いたいのか」

 海人がソラに確認する。ソラは軽く頷いたが、灸は腕を組んで壁にもたれると不満そうに言う。

「ガッタリコとドーピシアは宇宙一犬猿の仲で有名な連中だぜ。それこそ千年近く争ってる。思想から何から正反対の連中同士が、協力出来るとは思えねえな」

「ヴシャペトレが仲を取り持ったのだ」

 八雲が唸るように呟いた。海人が広い額をハンカチで拭った。

「何か情報が有ったんですか? 彼らが介入してると」

「いいや。しかし、グレースを破れる技術を知っているのは、宇宙広しといえど彼奴等だけだ。ヴシャペトレが入れ知恵をし、ドーピシアとガッタリコで徒党を組まれたとすれば、これ以上の人類の脅威はあるまい」

 灸が口をすぼめた。

「今回の情報をラプラスに教えたら、きっとショートするぜ」

「もうラプラスは故障したんだ、灸。そんなものに頼らずとも、威子口はやっていける。話題にするんじゃない」

 海人が恐い顔をする。灸はスポーツ選手のような広い肩を軽く竦めてみせた。

「宇宙中に散らばる人類同士、協力し合えば負けないんだがな」

 灸はパシンと拳を手の平で包んだ。

「思想も利害関係も一致しねえ。精神的共通項は精々、母なる星への憧憬だけ」

「そのせいか、なかなか地球離れが進まない」

 海斗もつい愚痴を漏らす。人類が地球に対し特別な感情を持たなくなれば、宇宙進出は相対的に加速すると威子口の者は考えていた。反対に、いつまでも地球に拘っていれば人類が幾ら繁栄しようと所詮は地球を中心とした局所的なものでしかない。地球は地位的重要性もなく、特産技術も他所で再現可能なものばかり。とうの昔に落ち目の星になっていた。人類の精神的な地球離れこそ、威子口家に代々受け継がれる悲願だった。

 少しの沈黙があった後、八雲の重苦しい声が響く。

「残念だが、第一段階はとうに過ぎた。離人症は相変わらず、増加傾向にある。数を減らさなければ。我々は猶予がない、早める必要がある。リアース計画の―」

北形は咄嗟に右足を退いた。ぱたりと音が消え、しんとしたソラの邸宅の廊下に引き戻される。『リアース計画』という聴き慣れない単語に北形は何か危うさのようなものを感じ、それ以上の空間共有がそら恐ろしく感じた。

北形は盗み聞く機会を永遠に失った。曲がり角から洗濯物を抱えるメイドらに遭遇し、世間話に巻き込まれたからだ。

 メイドの群れが去ってすぐ、真鍮の取っ手が回り、アンティークな木の両扉がギィと開いた。

「お嬢様。お疲れ様でした」

 北形の口からは咄嗟に労いの言葉が漏れた。威子口の当主らの会合は、人類の行方を左右するものだ。そこへ若干十六歳にして初めて招かれたソラに祝いの言葉をかけるつもりだった。しかし北形は、ソラの暗く淀んだ表情を見た瞬間、用意していた祝い台詞を脳裏から紛失していた。

「……お嬢様? ご気分が、優れないようですが」

ソラはすっと、北形に詰め寄る。

「北形。ラプラスの合い鍵を」

「現在ラプラスは故障中ですので、使用厳禁と八雲様からお達しが」

「二度、言わせる気か?」

 苛々を隠さずに右手で催促するソラからは、支配者たる威子口のオーラが漏れ出していた。北形は気後れしながらも、やや小振りというくらいで何ら特徴の無い鉄の鍵を思わず手渡した。

「ありがとう」

ソラは威圧的なオーラをすっと消す。

「お嬢様。そういったやり口は、あまり宜しくありません。そういう、威子口の悪用というんでしょうか」

 普段感情を表に出さない北形にしては珍しく声に熱が籠もっていたが、ソラは「貴方の言う通りだわ」と呟きながら扉を開けた。

さっきまで八雲の書斎、更にその前は威子口一族のディナー会場だった広間は、現在はがらんとして殺風景である。唯一、部屋の中央には鈍く光る銀色の機械があった。プラネタリウムの映写機と形状が酷似したそれは、空間共有装置であり、技術には旧遺物を用いたものだった。

旧遺物。つまりは宇宙に遺棄された何者かの船舶や居住跡地に残されていた機械の残骸を技術流用したものである。科学的な仕組みの解明、理解には未だ及んでいないが、旧遺物の幾つかは人々の生活に馴染んでいた。 

ソラは装置の台座部分から半透明のカードを抜き、再び挿入した。次に操作パネルへ左手を置き、瑞々しい液晶部位に指の先端を押し付けた。空気がビッと震え、投影機が部屋に白い光を放つ。数秒間のホワイトアウトが終わると、ソラと北形は威子口ビル本社の地下最奥部、スーパーコンピュータ『ラプラス』の前に存在していた。

 ひんやりとした空気。固い無地のグレーの床。薄暗く、天井が高い巨大倉庫のような地下世界が目の前に広がっている。大きく歪な形をした鉄の匣が、部屋の主のように二人の前で聳えていた。ソラはカツカツと靴音を立てながらラプラスへ近づくと、鉄の鍵をその巨大な機械の匣体へ挿し、押し込むようにクイッと回す。

プツ――。巨大なモニターに光の線が走り、それは目覚めた。

ラプラスは今の時代、どこにもないであろうレトロなコンピュータの見た目をしていた。インターフェースもキーボードとマウスでしか操作の出来ない、非直感的な代物のまま。しかし、威子口家の礎を築いただけあって、この箱型の機械と対面する度、神社の御神木に似た気配をソラは感じていた。

「未来予測システム『ラプラス』。威子口を威子口たらしめた立役者」

 ソラは自慢げに北形へ語りかけた。

「超多目的演算シミュレーションによって一分一秒先の世界経済から数日以内に起こる災まで予測を可能とする。そこらの未来予知能力者では太刀打ちできないだろう」

「こんな大きなものを、威子口家は長い間秘匿にしていたのですか」

 北形がラプラスを見上げ呟いた。ソラは二歩ほど歩幅を広げる。

「実は、威子口家のアルバムで見た初代のラプラスはもっと小型だった」

 ソラは軽く腕を組むと、ラプラスを見つめながら言った。

「当主が代替わりする度、ラプラスは巨大化していったんだ。補修を名目にしてね。初代の頃からラプラスの演算能力は未来予知と呼べる水準を満たしていたし、手を加える必要なんてないのに。実際、根幹部のブレインには誰も手を付けてない」

「元々は、株や外貨投資、競馬などのシミュレーションマシンだったと聞きましたが」

「それは後世の者の僻みだから。初代当主の遺したラプラスのマニュアルを読めば、最初から未来予知装置として完成していたのが分かるわ」

「では、何故このように巨大化を?」

「功績が欲しいんだ。みんな」

 ソラは冷めた顔で返事をした。

「偉大なるラプラスをレベルアップさせたという名誉。ラプラスの製作者に自分も名を連ねたいという浅ましい欲求。そのくせ、インターフェイスは昔のままだ」

 ラプラスの起動は一分で完了し、モニターには畳の敷かれた和風の、狭い部屋の画像がデスクトップ画面として大きく表示される。威子口初代当主、威子口天氣が資産家になる前の自分を忘れないよう設定したものが何百年経った今も変更されず残されていた。

ソラは大股でラプラスの前を横切り、空間共有装置からカードを引き抜くと、それをラプラスの挿入口に食べさせた。ラプラスのモニターが一瞬待機画面になった後、更新完了の報せるサウンドが鳴った。ソラがキーボードをカタと叩くと、モニターには見たことのない文字と細かいグラフが刻々と変動し続け、更に次から次へと表示されていった。一切動じずにモニターを眺めるソラ。その後ろで、北形はラプラスの勢いに圧倒されていた。

ようやく数値の変動が収まり、画面が大人しくなる。

「ふうん」

 ソラは溜息とも納得とも取れる声をあげ、小さく笑っている。北形が恐る恐る口を開く。

「あの、お嬢様。ラプラスのデータは信用してはならないと八雲様が……」

「おじい様が? まあ、そうか。こんな未来予測では」

 ソラは結った黒髪を揺らして北形の方を振り向いた。モニターの光を背にしているのでソラの表情は影になっていたが、ソラの両眼は抜き身の日本刀のようにぎらついているのが北形には分かった。

「ラプラスは近年、人類滅亡の警告をひっきりなしに画面上へ表示し続けてきた。それこそ、ポップアップ広告のように鬱陶しく。それについておじい様はこう結論付けた。人類が活動圏を宇宙に広げ過ぎた為に、ラプラスでは情報処理が追い付かなくなり故障した」

「はい、ですがその話はご内密にするようにと。世間に知れると面倒ですので」

「私は、壊れたとは思ってない。抽象的にはなったけどさ」

 ソラは食い気味に言葉を吐いた。

「祖父はラプラスを毛嫌いしてるんだ」

 ソラは肩にかかった細い三つ編みを指で払い、声を上ずらせて言った。

「北形。情報を更新した今、ラプラスはなんて言っていると思う?」

 北形は押し黙っている。ソラは一言一句噛み締めるように言った。

「『人類という種は、収束を始めました。絶滅の速度を多少遅らせる方法を幾つか示せますが、どれも期待薄です』」

 ソラは腰に両手をやると、投げやりな口調になった。

「人類はもう救いようがないとラプラスは匙を投げた。端的にいえば、人類はもう終わりだ」

 北形は淡々と、空間共有装置を操作した。時折ソラの様子を窺うが、威子口空は口も心もシャットアウトし、何やら物思いに耽っている。北形は知っていた。このモードに入った威子口空は、長い。二日や三日、下手をすると一か月はこのようなモードへ事ある毎に突入する。そしてこの黙考モードが去るのはソラが吹っ切れた時で、北形や周囲の人間は必ず、面倒事に巻き込まれることも幼少時の経験上北形には判っていた。

「お嬢様。ご自宅へ戻る準備が整いました」

 北形が静かに告げると、ソラはすっと顔を上げた。

「北形(きたかた)雅(みやび)」

「はいお嬢様」

「これからも、私を守ってくれるか?」

 ソラから不意に真剣な瞳で見つめられ、北形の心がキュッと引き締まる。

「たとえ何があろうとも。この命に代えて、お嬢様をお守りします」

「私が、この地球を消し去ったとしても?」

「関係ありません。私はお嬢様の味方です」

北形は幼い頃から色褪せない己の心をソラに伝えた。ソラは、ふっと愛嬌のある笑顔を浮かべて小さく頷く。それが打算的な微笑みなどではないと、北形は強く信じていた。

 

「金枝って、威子口と普通に話せるじゃんか?」

 水泳部員の川(かわ)保(やす)は少し恨めしげに言う。金枝は、「うーん」と曖昧に頷いた。川保はかなり体を鍛えていたが、帰宅部ながら生まれつき体格の良い金枝には少し見劣りする。

中間考査も一段落がつき、それまで学生で溢れていた放課後の図書室は、いつもの閑散とした空間へ逆戻りしていた。少し開いた隅っこの窓からは、初夏の若葉の匂いのする涼やかな風が、カーテンを時々小さく揺らしながら室内に吹いている。

川保と金枝は二人で、六人座れる長テーブルを占領していた。利用者もおらず空いているので小うるさい図書室秘書も咎めることはない。川保は少し周りを気にする素振りをし、「相談したいことが」と話を始めた。

「威子口って、彼氏とかいないよな?」

「……いないんじゃないか? 恐れ多くて」金枝が言った。

「だよな。あんなに美人でもか」

 川保は大真面目な顔をすると言った。

「俺、威子口のこと好きだ」

「へえー……」

「なんだよ」

「じゃあ告白しろよ」

「バーカ」

 川保はかすれ声を出して金枝のでかい図体を引っ叩くと、猫背になって声を顰めた。

「簡単に言うな。恐れ多いじゃないか」

 川保は続ける。

「だって、あの『イシグチ』だぜ。世界を裏で牛耳る、イシグチグループのご令嬢」

イシグチグループが二十一世紀初頭から今日まで宇宙開拓の陣頭指揮を執り続けた大企業であることは、小学校の歴史の教科書の終盤辺りで必ず習う。この世界では常識だった。

「聞いてくれよ、金枝。俺がどうして彼女に惚れたのか」

川保は黒縁の眼鏡の位置を直すと、小さく溜息をついた。

「最初はさ、俺だって『どうせ世間知らずの、クソ生意気なお嬢様なんだろうな』って思ってたよ」

「おーっほっほ、とか言うタイプだと?」

「それはねーよ」

 川保にさらりと否定され、金枝のお世辞にもハンサムとはいえない顔がしょぼんとする。川保は構わず続けた。

「入学前から、噂にはなってたよなー、威子口家の人間が入学するって。でもまさか、平汎高校なんかに来るか普通? 千葉の、偏差値は全国平均ぴったりの、ただのマンモス市立校じゃん、ウチの高校」

「威子口家の人は一般階級の人たちの暮らしを知るため、高校生までは普通の学校に通うらしい」

 浅い知識を披露する金枝に、川保はピンと人差し指を突き立てた。

「まずさぁ。その考えが生意気じゃねーかよ。どう聞いても上から目線じゃねえか、それ。だから俺は威子口と会うまで、勝手に、冷酷非道で、下の者を虫けらみたいに見ているような人だと、悪いイメージを抱いてた。でも、それは大きな間違いだったなァ」

 そこから結構な時間を割いて、どれだけ威子口空が素晴らしい女性であるかを川保は説いた。誰よりもしっかり者で、率先してクラスの雑用をこなし、いつも明るく、爽やかに振舞う。高貴な者であることを鼻にかけたりはせず、誰とでも仲良くする。そんな彼女だから、入学式から半月も経たない内に、クラスの中心のポジションに座ることが出来た。

「人気者なのに、お前みたいな、カースト的に学校で下位の男子にも優しいんだもんな」

 金枝は苛ついたが、表向きはそうなので何も言わなかった。

「……でも、さすがに誰にだって欠点はあるはずだろ。だから俺はこの一か月、欠点を探したんだ」

「で?」

「無かった」

 川保はゆっくりと、噛み締めるように呟いた。

「無いんだ。ヤバいんだ、マジで。試験は常に学年トップで、俺じゃ歯が立たない。運動神経も凄い良い。しかも秀才タイプなのに、普通にマックやコンビニへ寄り道し、友人と食べ歩きをする不真面目さもある。そして、何より綺麗だ。スタイルもモデル級。教養も家柄も神。両目の目元のホクロもセクシー。なあ、金枝。これで恋をしない男はいるか?」

 金枝は鬱陶しそうに頭を掻いた。川保は脳裏に威子口を描き、うっとりした顔で頬杖をついている。痘痕面の金枝と違い、川保の肌は艶があった。

「しかもさぁ。最近の威子口はどこか物憂げな表情もするんだ。何ていうのかなぁ。きっと、プライベートで悩んでるに違いない。隙があるんだ、前と違って」

「隙?」

「完全無欠の女の子に、付け入る隙が出来てんだよ。なあ金枝」

「は?」

「どんな山でも蟻の一穴から崩れていくんだぜ」

 少しの間があって、川保は拳をぽんと叩いた。

「よし決めた。明日、告るわ」

 川保は腕まくりをすると、

「何かアドバイスあるか?」と金枝に訊いた。

「いや何で。俺に、そんなこと……」

 金枝がうんざりした顔で言うと、川保はポンポン金枝の肩を叩いた。

「中学三年間、そして高校も威子口さんと同じクラス。一番詳しいのお前じゃん」

「北形さんがいる。澳津(おうつ)だって、中二の時は――」

「澳津は参考にならないだろ? 北形は執事兼護衛役。まあ、確かに北形も良いよな。でも見るからに性格がきつそうで。ワンチャン、殺されかねない」

「ワンチャン……?」

「ワンチャンス。いいんだよそんなことは」

 吹っ切れた川保と一緒に金枝は図書室を出た。

「俺の予想では……お前は、玉砕する」

 図書室用のスリッパから革靴に履き替えながら、金枝は言った。川保はヘラヘラと笑い、黒眼鏡を押し上げた。

「何だァ、金枝。ははあ、さてはお前も威子口に惚れてたか? 焦ってんな?」

「そんなことはないよ」

「まあ、お前と威子口じゃ月とすっぽんだもんな。クラスの落ち零れだもの」

「は? 相談に乗ってやったのに。恩知らずだ」

「なあ、金枝」

 川保はナルシスト臭を漂わせつつ言う。

「女はな、早いもん勝ちだ。つうか俺がお前だったら、中学の内に告ってるね」

 キラリと白い歯を見せる川保。川保は水泳部のインターハイに出るような運動系で、言動はお調子者だが、勉強の成績もクラスで五本の指には入る。顔もイケメン寄りのマシな顔で、性格はアレでも女子からの人気が高いのは、金枝も薄々気づいていた。

「まあ、好きにしろよ。でも俺は、やめといた方がいいと思うけどな」

「はいはい。臆病者がなんか言ってら。見てろよ、明日には威子口空、俺の女だから」

 金枝は口を噤んだ。威子口空とは結構長い付き合いだ。その間、男の影はなかったと思う。しかし近頃、川保と威子口が一緒にいる、仲良くしているのは何度か見かけていた。

 もしかしたら、こいつは本当に威子口空と付き合うかもしれない。そう思うと、金枝の心にグツグツと、僻みに似た感情が湧いた。自分でも最低な気分だった。

川保と別れた金枝は念の為、帰りの電車内で独り自問自答をした。もう何度目か分からない確認をした。

やはり、答えは変わらない。

金枝は、威子口空という人間が、嫌いで嫌いで仕方がない。


結局、川保はフラれたらしい。本人が教室の隅っこで、威子口にフラれた話を笑い話のネタにしていたのを金枝は聞いた。しかし、川保はそれ以降、授業を休むようになった。そしてある日を境に、ぱったり、姿を見せなくなった。あいつのことだから、このまま退学にはならないだろうと、金枝は思っていたのだが、いつの間にやら川保の机は撤去されてしまい、あっけなく、いなくなってしまった。

初めは教室内でも川保を心配する声があったが、『意外と繊細な奴だったんだ』という風潮になり始め、今ではいないのが当たり前になっている。マンモス校だろうが何だろうが、生徒の一人や二人が辞めたところで大して話題にもならない。そういうものとばかりに、学校生活は続いていく。

 何かあったに違いない。でも、何があったのかは分からない。威子口空に尋ねる度胸は金枝にはない。

 思いつきだった。家に帰ってから、金枝は電話をした。川保に電話をしたのはこれが初めてだった。

少しのコール音の後、繋がった。

「もしもし。金枝だけど」

「……おお、金枝っ!? どうしたんだ一体」

 スピーカーから発せられる川保の声は元気そうだった。二人は軽く他愛もない話をして、それから金枝は訊いた。

「何があったんだ?」

「何って……?」

「学校辞めたの。威子口さんと、関係あるんだろ」

「別に。ない。ないて」

 川保は話題に乗り気でないことは電話越しでも伝わった。はぐらかそうとする川保。それでも金枝はしつこく問い詰めた。するとようやく、ぽつりぽつりと川保の重い口が開き始めた。

「いいか。俺の勘違いかもしれないし、この話は広めるなよ。絶対に」

 それは金枝に相談をした翌日の放課後のことだった。上手いこと二人きりになったタイミングで、川保は威子口空に告白をした。その最中、川保は威子口空の顔が微かに曇っているのに気づいていた。

「だからさ。フラれるのは何となく予想してたんだ。でも、男だろ? 最後まで告白を続けようとした。そしたら……」


「川保君、ごめんなさい。気持ちは嬉しいんだけど……」

 気づくと川保は、威子口空にフラれていた。

 電話越しに沈黙が流れる。金枝も分かっていた。これで話が終わりな訳がない。

「こうやって言葉にするとさ、別になんでもない、平凡な青春の一ページに聞こえるんだろ?」

 川保は声を上ずらせた。

「だけどさ、実際は違うんだ。違うって。もっと絶望的で。あの時の威子口さんの眼を、瞳を。俺は一生、忘れないと思う」

「そ、そんなに? どんな目だ。見下してたのか?」

「そんなんじゃない。そんなんじゃなく……」

 川保は言葉を詰まらせた。

「分からねえ。伝えられねえ。ただ、その時思ったのは、『ああ、この人はこのまま東大の、大学院だのハーバード大だのへ行って、めちゃ凄い論文とかを発表して、それからイシグチグループのCEOに就任して、子供とかも作って。人類は今以上に繁栄していくんだろうな』って。なんかもう、その瞬間、全部分かっちった……」

「……はあ? 何だそれ」金枝は携帯のスピーカー口を思わず覗き込んだ。

 川保は声を絞り出す。

「分かったんだって。そしたらもう、自分がちっぽけなものに思えた」

「どういう事なのか、分からねえよ川保」

「俺だってよく分かんねえんだって!」

 川保の憔悴した声が携帯端末を通して空気を震わせた。

「自分でも、何でこんなショックを受けてんのか不思議だよ全く。とにかくもう威子口さんとは顔を合わせられなくなった。無理なんだ。見たくないし、見られたくない。だから別の高校へ転入した。以上終わり」

 金枝が返事に困っていると、川保が問いかける。

「なあ。お前は、そういう気持ちにならなかったか? 威子口さんと一緒にいる時。虚しさみたいなものに襲われなかったか?」

「俺は、なったことないよ」

「……だよな。そうだよな。ごめんな、変なこと言ったわ」

「いいよ、俺の方こそ」

暗い空気のまま二人は通話を終えた。

金枝は、嘘をついていた。おそらく川保は、威子口空の本性に気づいたに違いない。だが川保はそのことまで踏み出さなかった。なので金枝も、自身の威子口空に対する本心を口にすることはしなかった。


金枝が初めて威子口空と出会ったのは、中学一年の時だった。

金枝は元々イジメられやすい体質だった。体は大きいが気弱な性格で、不愛想な顔をしていて、感じが悪い。そして、ヘマをよくやらかす。本人に悪気はなくても、周りの人間に嫌がられることをよくやった。例えば、転べば丁度あった花壇の、手入れされた花々を踏み潰した。間違えて、女子の体操着を着て体育館に行き、後で女子に大泣きされた。珍しく自分に優しくしてきた女子の名前を間違えて覚えていたせいで、相手を傷つけたこともあった。自転車を漕いでいたら、散歩中のポメラニアンの足を轢いてしまい、二十万円の治療代を親が支払ったこともあった。そんなことは日常茶飯事だから、学校ではそれをイジメの取っ掛かりにされていた。

学年が変わり、クラスの顔ぶれが変わって、関係性が真っ新な状態になる新学期の四月。いつ、クラスのうるさい連中に目をつけられるか。今日か、明日か。ある種、諦めの気持ちで金枝は過ごしていた。

威子口空は今でこそハッとするような美貌を備えているが、中学一年の時分はそこまでだった。しかし、他人とは違う異様な気配があった。それは、威子口の者だけが纏う、支配階級のオーラのようなものという外(ほか)なかった。大人になるにつれ本人が気にすれば、ある程度の矯正も可能だが、威子口空にはまだそれが出来ていなかった。

青灰色のセーラー服に、濃紺のスカートを履いた、周りより少し背の高い女子校生。カメラのレンズを介せば、他の生徒と何ら変わりがないように見える。しかし、生身で相対すれば会話はおろか、近づくことすら気が引けた。クラスの誰一人として威子口空と交わろうとはしなかった。

一方、金枝は金枝で同級生より大きな図体にドングリ眼、分厚い唇、ニキビの痕、おどおどした雰囲気を漂わせ、誰にも声をかけられることなく、教室の隅っこで細々と新生活を消化している。小学校から中学校に上がっても、そんな四月のサイクルは変わらなかった。

五月になり、クラス内のグループも固まってきた頃、金枝は案の定からかいの対象になっていた。ちょっかいを出してもいい奴。そういう認定をされた。その日、金枝が授業で使うタブレット端末はフリスビー代わりにされ、教室を飛び交っていた。

「返せよ!」

 金枝の声が空しく響く。意地悪な目をした男子生徒の一人がケラケラ笑いながら、スナップをかけて端末を放る。タブレット端末は金枝の頭を掠め、他の生徒の元へ渡った。いじめとは無関係の生徒だったが、「パス、パス!」と金枝をいじめている男子に強く言われると、其方に投げ返した。金枝に取られたら負けという暗黙の了解がクラスにあるので、クラスの誰が端末を手にしても、安易に金枝へ返されることはなかった。

 金枝は教室をうろうろしている内に、悔しさで視界が滲み始めた。

そんな時だった。

「やめなよ。そういう遊びは」

 威子口空の声だった。すくと立ち上がり、主犯格の男子をぴしりと睨みつけた。

「見ているだけで不快になる」

金枝をからかって遊んでいた男子生徒たちの笑顔が固まり、探るようにゲーム参加者同士、顔を見合わせた。威子口空はすたすたと机の間を縫い歩くと、教室の入り口の傍で端末を持ったままフリーズする篠田という男子に近づいていく。

威子口の者が歩いてくる。それも、怒りの対象は自分に向いている。慌てふためいた篠田は、タブレット端末を無心で放ったが、それを取る者は誰もいなかった。あろうことか端末は開いた窓の間をすり抜け、ベランダを飛び越え、手すりの向こうへと落ちていく。

 金枝は無心でベランダに飛び出し、手すりから下を覗く。自身のタブレット端末は不幸にも、隣接する閉鎖中の屋外プールの緑色の水面にプカプカと浮かんでいた。

「うわあ! プールに落ちた!」

「知ーらね」

 それまで金枝をからかっていた男子たちは知らんぷりをした。他の野次馬に混じり、威子口空はひょいと窓の縁を飛び越えてベランダにやってくると、金枝に訊いた。

「落ちちゃったの?」

「うん」

「ああ、あれか。取ってくる」

「……えっ」

言うが早いか、威子口空は機敏な足取りで教室を出ていった。

クラスは少しざわついた。威子口のご令嬢が、わざわざそんなことをするのか。目付け役として威子口空と常に行動を共にしている北形雅すら、少しの間呆気に取られた顔でぽつねんと座っていた。クラスの大半の生徒がベランダに出て、威子口家の令嬢の動向を窺う。

はたして、威子口空は姿を見せた。彼女は躊躇することなく立ち入り禁止のプールの鉄柵をよじ登り、青色のプールサイドにひらりとスカートの濃紺を靡かせながら着地する。彼女がプールサイドの端に転がっていた枯れ葉や虫を掬う用の網を拾いあげたところで、けたたましいチャイムが鳴った。

「やべっ。次、数学だぞ」

 金枝含め、教室の生徒全員が素早く席に着いた。というのも、一限目の授業を受け持つ数学教師の斎藤は、とにかく怖い女性だった。ドスの利いた声を出すのが上手い痩身の先生で、怒鳴れば廊下まで声が響き渡る。もしも朝、顔面蒼白の生徒を見かければそれは高確率で数学の宿題を忘れた、哀れな生徒だ。授業中は目に見えない鋭利な糸がピーンと教室に張り詰めているようで、始まりから終わりまで生徒は生きた心地がしなかった。冷戦時代の米露はこれくらいの緊張なのかなと、金枝はよく妄想をした。あまりにも恐ろしいので、生徒の間で斎藤先生の話題に出す際は『S先生』とイニシャルで呼び、万が一悪口を聞かれてもいいよう、本名を絶対に出さないようにしていた。

斎藤がガラリと教室に入ってくる。未だ、威子口の席が空席のままであることに金枝は申し訳なさと悔しさで一杯になった。

沈黙の教室の中へ、少し息を乱した威子口空と、北形が入ってくる。

「遅れてすみません」

威子口空は簡潔に頭を下げ、着席する。クラスは静まり返っていた。斎藤先生が咎めない筈がないからだ。

斎藤は腕を組み、遅れてきた威子口達を睨んだ。恐ろしい間があって、斎藤の説教が始まった。女子だからとか、そんな理由で容赦する斎藤ではない。きつい言葉を浴びせた。威子口空は俯き、じっと耐え忍んでいるように見えた。金枝は、自分のせいですと声をあげるべきか迷った。が、結局何も言えないまま、その見るに堪えない説教は終わった。

斎藤は言いたいことを言い終えて満足すると、ぱっと生徒に背を向け、デジタルボードに数式を書き始めた。

その時だった。威子口空がふっと振り向く。金枝と目が合った。彼女はウィンクをした。そして懐からタブレット端末を取り出し、手首を揺らしてフリスビーのように投げた。それは教室の虚空を綺麗な軌道を描いて回り、金枝の胸元に飛び込んだ。水に濡れた様子はなく、プールに浮かんだそれを回収した威子口空が、ハンカチか何かで水気を拭き取ってくれたであろうことはすぐに判った。

ぽかんとしている金枝に、威子口空は悪戯に白い歯を見せて笑うと、何事もなかったように前を向いた。

誰一人として喋らなかった。下手に騒いで斎藤に怒られるのも嫌だった。そしてなにより、威子口空に度肝を抜かれていた。今しがた斎藤にコテンパンにされ意気消沈した筈の女子生徒が。怒られるのに慣れていないだろう威子口家の令嬢が。授業中に屈託ない笑顔でタブレット端末を放り投げる。クラスの威子口空に対する印象はがらりと変わった。勿論金枝も、彼女に好意を抱かない訳がなかった。

打ち解けるのはあっという間で、それから半月もしない内に威子口空は人気者になっていた。金枝は相変わらずクラスの爪弾きだったが、威子口空は事ある毎に話しかけてくれる。なんて良い子なんだろうと思った。そして、来年も同じクラスなら良いのに。そう思っていた。

翌年。桜舞う春。金枝の願いは叶った。一学年五百人弱もいるのだから、なんてラッキーだろうと金枝は喜んだ。

そして、また金枝は新しいクラスでもからかわれ、また威子口がそれを止めた。威子口空に悪い印象を抱いていた生徒は考えを改め、威子口空はまたクラスで人気者になった。金枝は、『やはり人柄なんだろうな』と、思った。金枝は威子口空に片想いした。

中学三年生。再度金枝は威子口空と同じクラスになった。金枝はいじめられ、そして威子口空がそれを救う。威子口の好感度だけ上がって、彼女の周りには人だかり。

あれ、何か変だな。そう思った。毎年毎年、何故か威子口空と同じクラスになり、自分がいじめられ、それを助けて好感度アップの構図。いや、まさか。その時点では、まだ半信半疑だった。 

高三の冬。金枝は地元から少し離れた高校を受験し、無事に受かった。平凡な高校だった。その高校を受けることは、クラスの誰にも金枝は言わなかった。

春。桜の花びらが散る花粉のきつい日の朝。体育館の入学式、真新しい制服を着込む初心な高校生の群れの中に、ひと際目立つ女子がいた。濡烏色の髪、長髪長身、糊の利いた白のワイシャツに濃藍色のネクタイ、灰色のタイトスカートを卒なく着こなす、はっとするような美貌の女生徒。

教室に入った金枝は、凛とした佇まいの威子口空と目が合った。威子口空はにこりと笑うと、読んでいた本に視線を落とした。


威子口空は自分に気があるのだろうか。

いや違う。金枝はそのラブコメディ的な思考をすぐに打ち消した。客観的に見て、自分みたいな男に惚れるはずがない。残念ながら。

じゃあ、一体何故だろう。学校はおろか、クラスまで同じだ。一学年のクラスが一つ二つならともかく、市立平汎高校は人口過密の現代日本ではもう珍しくない大マンモス高校で一学年十二クラス。学校自体、偏差値も学内設備も平凡で、彼女がこの高校を特別選択する理由なんかなかった。

金枝は頭を抱えた。悩みに悩んだ末、とてもネガティブな一つの仮説に金枝は辿り着いた。

つまりは、威子口空にとって金枝は『都合がいい』存在なのだ。金枝はどこへいってもからかわれたり、いじめられたりする体質だった。そんな男子に威子口の者が手を差し伸べれば、周りの威子口への評価は上がる。威子口の者がクラスに溶け込むのに、最も単純な方法。威子口空は味をしめた。同じクラスになれるのも、学校側に適当な理由を言えば、いくらでも可能な筈だ。威子口の権力を使えば、尚更。

案の定、高校一年もまた同じ流れになっていた。

こいつは、確信犯だ。涼しげに小難しいSF小説を読む威子口空を見て、金枝はそう思った。

高校一年でのいじめを止めてもらったその日以降、金枝は威子口空が嫌いになった。怖くなった。しかし、その感情は決して表に出してはならない。誰にも理解は得られないと分かっていた。ただ、時間が経つにつれ、心の中ではしんしんと北国に降る雪のように威子口空への不信は募っていった。


「なんか最近、学校休む奴多くね?」

 風邪明けで二日ぶりに登校した金枝は、そんな声を教室で聞いた。見れば女子が数人、集ってぺちゃくちゃ話している。言われてみれば確かに、妙に空席が目立っていた。威子口空の姿は、あった。

「あれじゃね。会社員共が会社休む現象。えーと、なんだっけ」

「終末疲れ」

「それそれ。それの学生版じゃね」

「ま? やべー。誰も気づいてない心理に辿り着いちゃったよウチら」

 頭の悪い会話だな。と、金枝は思った。と、金枝に見られているのに気づいた女子達が、げっという顔をする。

「うわ金枝だ。何見てんだよ。あ?」

金枝はおろおろと視線を窓の外に移した。濃い水色の秋空には、気球型のドローンがぽつんと浮かび、風に流され緩やかに泳いでいる。

「あんなのと、よく話せるよね。威子口さん」

「優しいよねマジ」

「でもさ、変な奴に優しくしたら勘違いされるよ。万が一があったら事だよ? 大人になったら、人類の未来を背負ってく大事な御方なんだからさ」

「やめてよ。そういうの」

 威子口空の声がした。どんな顔で言っているか気になったが、金枝は授業が始まるまでは青空を見ていた。


その日、金枝は調子が良かった。良すぎたのかもしれなかった。

サッカーの授業はあと五分で終わりだった。他のやる気のない連中と違い、金枝は真面目に授業を取り組んでいた。それ故、熱中し過ぎた。

「おりゃっ」

 金枝が力一杯蹴ったボールはあらぬ方へ飛んでいった。

「あっ」

 金枝はぎょっとした。ボールは勢いそのままに、移動教室へ向かおうと屋外通路を歩いていた女子生徒の一人の横顔にぶち当たって、大きく跳ねた。女子生徒は蹲り、立ち上がれずにいる。その女子生徒は太ましく、丸くなった背中は岩のようだった。傍にいた友達らが駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけている。

「金枝。謝りに行けよ。薄情だな」

 クラスの男子に背中を押され、おずおずと近寄るが、傍にいた女子たちは「来るな来るな」と金枝を寄せ付けない。

「授業は終わりだ。帰っていいぞ」

体育教師は凄い形相で金枝を睨んだ後、女子生徒を保健室へ運んでいった。

 ああ、やっちまった。いや、大丈夫だ。

金枝は自分に言い聞かせた。ボールは女子の顔に当たって跳ね返っていた。衝撃を人体が吸収していたら、その場でボールが勢いを失くして転がった筈だ。金枝は普段からヘマをするので、自分のヘマがどれくらいの被害なのか予想をするのが得意になっていた。

しかし、それは間違いだった。確かに女子生徒は顔が少し赤くなった程度で大した怪我ではなかった。が、彼女は同学年のいわゆるヤンキーと付き合っていた。

「君、金村?」

「か、金枝ですけど」

「金枝ね。いいから。ちょっと来てよ、な?」

 放課後、いつものように帰ろうとした金枝の前を、カラフルな髪色の不良が塞ぐ。トラブルの気配を察知し、周りの生徒らは彼らを避けて歩いた。

「え、何ですか」

「いいからいいから」

 不穏な笑みを浮かべた彼らに半ば強引、引っ張られていく。下校の喧騒が遠くなる。自分が部室棟の裏の人気のないところへ連れて行かれていると金枝は気づいた。

「よう」

校舎裏には、青筋を浮かべた男子生徒がいた。刈り上げられた茶髪に学ランの着こなしからやばい奴だとすぐ分かる。金枝よりは背が低い。だが、間髪入れずに金枝は殴られた。取り巻きに羽交い絞めにされ、それからはもう酷かった。主に蹴りが多く、金枝の白い制服は靴跡ですっかり汚れてしまった。

「おい、ゴミカス」

 地面に倒れた金枝に、茶髪の不良がぶっきらぼうに言った。

「きちんと慰謝料持ってこいよな。十万。明日持ってこなかったらナイフで腹をグッサグサだ。分かったな!」

 ガンガンする頭の中に、不良の言葉が入ってくる。

 金枝が起き上がると、既に誰もいなかった。金枝は泥と血で汚れた制服を手で払ったが、汚れは綺麗にならない。ふらつきながら夕暮れの学校を後にしたが、歩いている途中でまた頭痛に襲われた。視界の端に、急こう配の坂と、公園の入り口が見える。

公園ならベンチがある。そこで休もうと金枝は思った。


 乾いたベンチに腰を下ろし、溜息をついた。水筒の水で泥についた手と顔を洗い流す。心と体が落ち着いてくると、金枝は段々と怒りが湧いてきた。その怒りは、自分を殴った数人に留まらず、今までの自分の人生全てに向いていた。

「何でこうなんだよ、チクショウ」

 水筒の水を顔に被った。大半の水が地面に落ちて、金枝の足元の土は黒っぽく色を変えている。ふと、顔をあげた金枝の視線の先。木々草花の狭間にこじんまりとした石の階段が見え、それが上へ続いている。地味な赤い色の鳥居。

「神社なんか、あったっけ」

 といっても規模は小さなもので、お参りする人間がいるかも怪しかった。

金枝は何かに取り憑かれたように、その石段を上り始めた。西日で周囲の色は茜色に染まっている。何かが起こりそうな気配がした。

「漫画だったら……」

 階段を上りきった金枝は、ぼそっと独り言を漏らす。漫画だったら、謎の祟り神のようなものと契約し、凄い力が得られるような展開が待っているだろうに。

 鳥居をくぐると、待っていたのは古い木で出来た祠だった。それでも一丁前に賽銭箱は置かれている。金枝は財布を取り出した。少し躊躇したが、えいとばかりに五円玉を放る。五円が惜しかったのではなく、神様に因縁を付けられそうな気がした。

賽銭箱の乾いた木の音が聴こえた。

 ついでに紅白の鈴紐に触れ、揺らす。

ガラガラガラ。見た目は錆びているのに、想像より良い鈴の音がした。金枝は二礼二拍手一礼を思い出した。さらに、本来なら鈴を鳴らした後にお金を入れなくてはいけないことまで思い出す。金枝は頭を掻き毟ると、えいと財布の口を下にした。ジャラジャラと主に二百円玉が主体の持ち金が消える。金枝は大きな体を二度折り曲げ、ぎこちなく二礼すると、分厚い手の平をパンパンと鳴らした。

願い事を心に唱える。

―神さま、俺をもっと強い人間にして下さい。馬鹿にされるのはイヤなんです。

 少し空白があって、金枝は目を開けた。

別に何もなかった。

そりゃそうだ、特効薬じゃないんだから。金枝は自分の単純さにニヤつきながら、一礼するのも忘れて帰りかけた。

「ん」

 何かを感じて振り返る。

「あっ」

目の前に光球が浮かんでいた。縁が虹色に光るそれは、ひゅっと金枝の眼に飛び込んできた。


「俺は一体――」

記憶喪失の人間が言いそうな陳腐な言葉が、金枝の口から衝いて出る。金枝が目を覚ますと、そこは公園のベンチだった。辺りはすっかり夜になっている。

何があったのか思い出すのに金枝は手間取った。

金枝は急に恐ろしくなり、学生鞄を掴んで走り出した。公園の中は真っ暗だったが、金枝には何故か周りがよく見えた。

 さすがに、服装や顔の打撲を親に心配されたが、金枝自身は別のことが心配だった。

自宅の洗面所で自分の左目を観察する。神社で光体が自分の左目に飛び込んだのを薄らと覚えていた。金枝はゆっくりと、左目をぐるぐる回した。

白目の縁で、何かがさっと動いた。ぎょっとして、慌てて目を見開く。

何もない。気のせいだったのだろうか。金枝は一抹の不安を覚えながら、鏡から離れた。

その日は疲れていたのですんなり寝てしまった。


 翌朝。何か、奇妙な夢を見ていた気がするが、金枝は忘れてしまった。

そんなことより、何年振りだろう。目覚めが良かった。近頃は耳にしただけで吐き気がする、機械仕掛けのオレンジ状態の目覚まし時計のアラームも、今日は何故だか嫌悪しない。

 金枝の調子の良さは途切れることがなかった。学校もまるで修学旅行のような特別なイベント当日のように元気よく登校し、新鮮な気分で授業を受けた。頭はすっきりと冴え渡り、今ならどんな難問も答えられる気がした。嫌な奴に足を引っかけられても、金枝は「おっとっと」と弥次郎兵衛並みのバランス感覚で踏み止まり、逆に足をかけた奴の上履きを踏んづけた。「いてー!」と後ろで声があがる。

「ごめんよ」金枝は謝ったが、内心は何の感情もなかった。

そんな調子だから、昨日あれだけ殴られた不良にまた放課後詰め寄られても、金枝はヘラヘラしていた。

「おい。金は持ってきたよな?」

「ああ。持ってきたよ」

 金枝は鞄を漁ると、朝にコンビニで買ったせんべえの袋を出した。ぽかんとしている不良の手に、せんべえを一枚ずつ載せる。

「これで許してくれよ」

「……は?」

「じゃあな」

 茶髪の不良が顔を真っ赤にし、思考がフリーズしている間に金枝はさっさと帰ってしまった。

 それ以来、学校で何度も不良らに付き纏われたが、金枝は上手いことそれを躱し続けた。勿論、そんなのは長くは続かなかった。

スポーツの秋。学年全体の球技大会があった。クラス毎にチームを作り、トーナメント戦で勝ち上がる。今年の球技はサッカーだ。男女は別で分けられ、男子がやっている間は女子が応援をしていた。

「金枝、頼むぞ」

 後半になり、金枝はゼッケンを頭から被った。コートに出ていくと女子から「金枝かよ、勝つ気あんのか!」とブーイングが起こる。

「はっ。見てろ」

 金枝は自信に満ち溢れていたし、周りの男子は金枝が以前と違うことは知っていた。

「調子乗んなよ金枝」エースストライカーの清水に釘をさされたが、金枝は軽く流した。相手チームを見ると、殺気立っている男子と目があった。例の茶髪の不良だ。金枝は気づいていないふりをした。

ホイッスルが鳴ると同時に金枝は相手をごぼう抜きした。というより、体格の良さで突き飛ばした。相手チームが気圧される間に、ボールを叩き込む。

「はい、同点」

 金枝が陣地に戻ると、仲間から手荒い祝福を受けた。

「よっ、確変中!」

「金枝のクセに調子乗ってらあ」

いつの間にかチーム方針は『金枝にボールを回せ』になっていた。作戦もあったものではなく、とにかく金枝にボールをパスし、金枝がファウル覚悟でゴールめがけて突っ込んでいく。相手がびびればそれで良かった。

「おりゃあ!」

 金枝がまた敵陣を駆け抜ける。一人、二人と相手を躱す。三人目は、あの不良だった。 

 がつん。二人は頭から衝突し、倒れた拍子に砂塵が舞った。

「こんのヤロウ!」

 起き上がった不良が、金枝にのしかかってくる。金枝も負けじと不良を蹴った。場が騒然とする。

「何やってんだ」

 周りが慌てて止めに入る。不良は二人がかりで、金枝は三人がかりで羽交い絞めにされた。

「落ち着けお前ら。今、サッカー中だぞ」

「一発殴らせろ! 一発殴らせろ!」

不良が茶髪を揺らし叫ぶ。金枝はうんざりしながら、不良をじっと睨んだ。不良が、不意に大人しくなる。それに安心したのか、喧嘩を止めに入った生徒の手が緩んだ。

それを不良は待っていた。するりと拘束から逃れると、右手をジャージのポケットに入れる。取り出したものがパチンと音を立てた。折り畳み式ナイフだった。刃は金枝に向いている。逃げようにも、三人の生徒に身動きを封じられ金枝は身動きが取れなかった。

不良は勢いそのままに、金枝の腹めがけてナイフを突き刺した。

筈だった。

 ナイフを持つ手が逸れた。刃は、金枝の左半身を押さえ付けていた生徒の腹に刺さっていた。

血がぱっと飛び散る。悲鳴。不良は血走った眼で、今度はナイフを自分の腹に突き刺した。

「えっ?」

不良は目を白黒させて、その場に蹲る。金枝は茫然としながら、返り血を浴びた。

悲鳴がまた大きくなる。あちこちで、火の手があがっていた。何もない宙から火炎が弾け、火の玉になってグラウンドに落ちる。火の粉を浴びた観戦中の女子生徒が、わーわー言いながら逃げ惑う。炎が空気を焼き、酷く熱い。どこからか「離人症だ」という声が聞こえた。火の玉の一つが球技大会運営の仮設テントの上に落ち、騒ぎが更に大きくなる。金枝は辺りを見回した。一人、ひと際大きな声で泣いている生徒がいた。金枝がこないだ、サッカーボールをぶち当てたあの女子だ。彼女は顔を赤く腫らしながら泣き叫んでいたが、ひっくと嗚咽を漏らす度、グラウンドの何処かで火球が発生している。

「あいつだ」

 直感を信じることにした。金枝は傍に転がっていたボールを掴むと、思いきり蹴り上げた。サッカーボールは綺麗な軌道を描き、女子の顔面を殴打した。ボスッ、と鈍い音。ボールはころころと転がった。それからはもう、グラウンドに新しい火球が湧くことはなかった。

 薄気味悪いサイレンの音が四方八方から聞こえ始めた。離人症対策庁の護送車特有の不気味なサイレンが近づき、やがて、グラウンドに流線形の蒼いボックスカーが滑り込んできた。中から全身パワードスーツで覆われた機動部隊の隊員が機敏に降り立つ。片手には電気拳銃が握られていた。

―遅いじゃないですか。離人症持ち? ああ、それなら俺が鎮圧しておきましたよ。

そんなやり取りをする妄想が金枝の脳裏で再生される。しかし、金枝に近づいた隊員は躊躇なく拳銃を構えた。

「地面に伏せなさい! 早くしろ!」

 フルフェイスヘルメットから発せられる、スピーカーを通した男の声色は優しさの欠片もなかった。金枝は乾いた唇を小さく舐めると、ゆっくりと、隊員の言う通り体を地面に傾けた。


「だから、俺は知らないんですって」

 金枝は苛々しながら言った。もう何度目だろう。

金枝は身柄を拘束されていた。

「犯人は、あの女子生徒なんですよ。あいつが火の玉を撒き散らしていた張本人なんです。離人症持ちはアイツです。それ以外は何も知りません」

「確かに君の言う通り、山原千賀子という女子生徒が火球を発生させた。彼女で間違いない。今日中に施設へ送られるだろう」

 サッカーボールを当てた女子生徒の名が山原だったことを金枝は今さっき佐藤の口から知った。

離人症対策庁離人取締課配属の佐藤卓輔。顎のがっちりとした骨太の男。ラグビーでもやっていそうな、小さな山のような体格で、頬はぷにっと張りがあるが、眉間や口元には深い皺が刻まれ、年齢が分かり辛い。顔は横に広く、金枝は内心、将棋盤そっくりだと思っていた。

佐藤は咳払いすると、落ち着いた声で言う。

「それはそれとして、だ。君について証言をした生徒が大勢いる。金枝君。君は喧嘩中の相手にナイフで刺されそうになった。が、刺されたのは喧嘩を止めてくれていた無関係の生徒一人で、何故か今度は不良が自らの腹を刺した。そうだな?」

「……はい。何故か」

「まるで誰かに操られているようじゃないか。ええ?」

「俺は知らないです。というか、検査したんでしょ。ナイフと豆腐が何たらの検査が、なんたらで」

「ナイフト=トーフフ検査」

 佐藤がゆっくりと正しい名称に言い直す。離人症かどうか判別する方法として国が認可している唯一の検査法であり、容疑者の血液を特殊な機械にかければ血液の持ち主がシロかクロか判別するまで二時間とかからない。

「それの結果が出てるんでしょ。俺が離人症だって出たんですか?」

 もう一人の、佐藤の部下の若い刑事を金枝は見やったが、其方はひたすら仏頂面で突っ立っているのみだった。

 佐藤が四角い顎を太い指でなぞりながら、じろりと金枝を睨む。

「君。何か、隠してるだろ。ん? 金枝……えーと。美(み)糸(いと)、というのか」

「何が、ですか」

「下の名前さ。変わってるねえ。その容姿で美糸か……」

 佐藤は含み笑いを浮かべている。

「それ、今関係ありますか」

 金枝は静かに訊いた。「いいや」と佐藤は肩を竦める。

「息抜きだよ、息抜き」

「佐藤さん。俺は襲われた側です。被害者なんですよ。何で俺が犯人扱いされなくちゃ―」

「じゃあ何で刺されてないんだ?」

 静かに佐藤が尋ねた。金枝は思わず苦い顔をした。

(この佐藤という男は、俺を離人症と決めつけている。いくら説明しても堂々巡りじゃねえか)

 金枝はうんざりした。

一方、佐藤。警視省の優秀な刑事だった佐藤が離人対策庁取締課に配属されて早十年。元刑事の勘は、目の前にいるデカブツを『クロ』と告げていた。が、金枝は完全にナイフト=トーフフ検査をクリアしており、全く以て『シロ』だった。離人症の『り』の字もない。だが佐藤は、今時珍しいオールドな人間で、直感を大事にするといえば聞こえはいいが、所詮データはデータと軽視するきらいがあった。疑わしければ徹底的に疑う。そして、吐かせるならとにかく決めつけてかかる必要があると考えていた。疑う側が半信半疑では、真犯人を楽にさせてしまうからだ。

「離人症候群は、自覚がないケースも多いんだ」

 佐藤が金枝の目を見て言う。

「なにしろ、能力が目覚めていない離人症予備軍は、今の人口の二十パーセントを超えるそうだ」

「そうですか。みんな発症したら、大変ですね」

「いいや、そうはならない。ならなかった」

 金枝の感想を佐藤が遮り、言う。

「例えば、だ。身体に触れているだけで携帯端末のバッテリーを多く消費したり、喋るだけで他人を眠りに誘う等の些細な能力も、一種の離人症だ。それらはね、離人症でもⅠ類やⅡ類に分類される。大半の離人症持ちは、これに当たるな。場合によっては保護観察処分を受けるケースもあるが、これまでは見逃されていた」

佐藤の声が低くなる。

「しかし、だ。万が一、『他者の思考や動作を強制的に操る能力を持つ』と判明した場合は問答無用でⅢ類に分類されるぞ」

 佐藤はぐっと身を乗り出し、金枝を睨んだ。

「来月一日から法改正の影響で、離人症の取り締まりがうんときつくなるのは知ってるな。CMで散々やってるからなァ。各都道府県に建てたでっかい離人症施設、千葉だと谷津干潟の方だったか。そこへ見境なくぶち込まれるって話だ。Ⅱ類ですら、人としての尊厳が無くなる。離人症のⅢ類ともなれば、分かるな? 離人症の隔離施設は治療なんて表向きで、監獄と変わらん。大罪人よりも厳重な警備が敷かれる」

 佐藤は言葉を切ると、唇を鳴らしてから言った。

「Ⅲ類以上の患者で、社会復帰した奴の話を俺は聞いたことがない」

「……どうしてですか」金枝が訊いた。

「知りたいのか?」

 佐藤に訊き返され、金枝は口を噤んだ。佐藤は含み笑いを浮かべた。

「もし白状するなら今の内だぞ。今ならまだ、軽い拘束で済むかもしれない」

「やってないんで」

「そうかな」

 佐藤は金枝の反応をしっかり見てから、トンと机を指で叩いた。

「話題を変えよう。金枝。最近、何か変わったことはなかったか。例えば、命じてないのに他人が自分の欲しいものを取ってくれた、だとか。なんでもいい。変わったことだよ」

 ありません。そう言おうとした金枝の脳裏に、奇妙な光景がフラッシュバックした。

無名の神社で、眼前に現れる謎の虹色の光球。それが左目に飛び込んだこと。意識を失い、気づけば夜になっていたこと。その日を境に調子が良くて、何でもこなしてしまうこと。

「ない……と思います」

 金枝の目が僅かに泳いだのを佐藤は見逃さなかった。佐藤が追及しようとしたその時、天井に張り付いた穴だらけの、平べったい、飲み物を置くコースターに似た機械が光り、警告音を発した。佐藤は構わず話を続けようとしたが、警告音はもう一回り大きくなった。

「あの。なんか鳴ってますよ」金枝が天井を指差した。

「んなのわぁってる」

 佐藤が再び話し始めようとすると、机が女性の声で告げた。

「制限時間となりました。直ちに容疑者への取り調べを終了して下さい。指示に従わない場合、容疑者への過度な拘束と見做され、警視省に通報されます。現在録画中の映像音声は警視省のデータベースにアップロードされ、その処理を取り消すことは出来ません」

「黙れ黙れ。俺はその警視省から引き抜かれてきたんだ」

 しっとりとした机のアナウンスを、佐藤は自分の声で追い払おうとする。

「繰り返します。離人症取締課は容疑者の取り調べを直ちに終了して下さい」

「ったく。机が喋りやがって」

 佐藤は興醒めとばかりに怖い顔を崩すと、不機嫌な態度を体中から漏らしながら取調室を出ていった。金枝は少し待ってから、「もう帰っても?」と親指でドアを指した。残っていた若い刑事が軽く頷いた。

 金枝が取調室を出ると、佐藤が待ち構えていた。

「さあ。長く拘束して悪かったな。お詫びに外まで送ろう」

 佐藤は笑顔を作って、金枝の横に張り付いた。金枝は圧を感じながらも、かといって走って逃げる訳にもいかず、離人対策庁舎の無機質なグレーの連絡通路を二人は歩いた。

 離人症の疑いがある者を連行する通路なだけあって、左右の壁は分厚い鋼鉄製。天井からは死角の生まれない球状の監視カメラが目玉のようにぶら下がり、動くものを録画している。また、防火戸や冷却装置が少し歩く毎に設置されている。金枝は落ち着かなかった。実験室のモルモットはこんな気持ちなのだろうか。離人症持ちが病状を隠すのも無理はないと金枝は思った。

そんな場所ではリラックスできる訳もなく、警戒しつつ歩いていたところ、佐藤は小さく息を吐いた。

「おい、取り調べはもう終わってるんだ。そんな固くならんでも」

「別に、そういう訳じゃ」

 そこから少しの間、二人は喋らなかったが、佐藤が再び口を開けた。

「状況的にはお前が一番怪しかった。だが、別に決めつけてた訳じゃない」

「はあ」

「俺が一番引っ掛かったのは―」

 また、いちゃもんをつけてくるのだ。そう思い、金枝は内心うんざりした。

 佐藤は言う。

「自分の前で腹を刺された生徒の容態も、刺した生徒の容態も、一度も尋ねてこなかったな。気にする素振りもなかった」

佐藤が放った言葉に金枝は意表を突かれた。

「それは、自分の事で一杯で」

しどろもどろになる金枝。佐藤は「そうか?」と含みのある返事をした。

「普通、自分のすぐ傍で人が二人も刺されたら、その後どうなったかぐらい気にするもんだけどな」

 佐藤の言葉は金枝を少なからず揺さぶった。確かに、どうして自分は今まで何の興味も湧かなかったのだろう。クエッションマークが金枝の頭の中をクルクルと回り始めた。先ほどとは別の意味で黙りこくる金枝の反応を、佐藤は横目で窺い、更に続ける。

「今のところ、二人とも意識不明だ。しかし、自分に危害を加えようとした不良はともかく、ただ喧嘩を止めに入った生徒が刺されれば、多少不憫には思わないか? 思わないとしたら、相当のクズだ。お前は」

離人対策庁の裏側から二人は外に出る。

目の前は港で、少し先には船首のがっちりとした、黒と赤の大きな貨物船が錨を降ろし、不動の体で停泊している。辺りに人の姿はない。若干、陽が傾き始めていたが夕方というにはまだ明るかった。汚くも綺麗でもない暗色の大海原は穏やかで、波の音はなく、キラキラと夕日を反射しながら、水平線の遥か彼方まで広がっている。潮の匂いは、然程しなかった。

 佐藤は太い指先で駅の方角を伝えた。

「もし何か思い出したことがあれば、連絡を入れるように」

 金枝は念のためにタブレット端末を開いた。自動で離人対策庁の連絡先が取り込まれていた。建物内に足を踏み入れただけでダウンロードされたようだ。

 金枝はさっさと帰ろうとした。だから、何故そんな事になったか自分でも分からなかった。佐藤の、自分を疑う目つきが癪に障ったのかもしれない。

「あ、佐藤さん。一つ思い出しました」

「ん、なんだ?」

「アホの佐藤は刑事時代も、アホだったのか?」

 金枝の頭の中が、ひゅっと白んでいった。

今、自分は何を言ったんだろう。

 全身から血の気が引いた。自分の口が、勝手に喋った。金枝は言葉を失い、その場で凍り付いてしまった。

「ん、ああ。そうだな。他には。何か思い出したか?」

「……え?」

「……だから、他に思い出したことは?」

「い、いえ。何も」

「じゃあ、俺はもう行く。じゃあな」

 佐藤は何もなかったかのように、大股で階段を上がると離人対策庁の中へ入っていく。一度、金枝の方をちらりと、不思議そうに振り返ったが、首を傾げながら姿を消した。

 金枝はしばらく、港を背にして動けずにいた。


 金枝が目を覚ます。奇妙なことに、金枝はひんやりした床の上でうつ伏せで倒れていた。

「ここは、一体。俺は今まで何を」

 自分の口から飛び出した言葉に金枝は苦い顔をした。三流ドラマのような台詞を口走ってしまったことへのバツの悪さがあった。既視感もあった。こないだ、神社で意識を失った時と被る。しかし、自分は確かに自宅のベッドで寝た筈だ。今、金枝は真っ暗で広い謎の空間にいた。

 では、これは夢だろうか。夢にしてはあまりにも、頭がはっきりしている。

金枝が振り返ると、暗闇の中に明かりを見つけた。黄金色の明かりだった。目を凝らすと、そこにどうやら扉があって、光が漏れている。金枝はイヤな予感を覚えながら、そちらに向かって暗闇を歩いた。

扉に近づくにつれ、ふんわり柔らかなジャズ音楽が聴こえてくる。金枝は大きな図体に見合わない動きで、恐る恐る、扉の取っ手を回し、開けた。

暖かな金色の明かりで満ちた世界が目の前に広がった。西洋の抽象的な油絵が四方に飾られ、奥に張られた大きな幕には白黒の名作ロマンス映画が映写されている。部屋の雰囲気を形作る豊かなジャズ音楽は、ラフレシアのような形状の蓄音機から発せられていた。

「他人様の部屋に入る時はまずノック。宇宙共通の礼儀だろう」

 見知らぬ声に金枝はびくりとした。何者かがソファにもたれて映画を見ていた。シルクハットを被った大柄な人物が、ゆっくりと立ち上がる。振り返った人物と目があった。いや、顔には目しか無かった。それも違った。頭が目玉そのものだった。

「ひっ」

 金枝が愕然とする中、頭が目玉の男はシルクハットを脱いで優雅に会釈をした。

「やあ、こんばんは。私のことはホルスと呼んでくれたまえ。君はおそらく『初めまして』と思っているだろう。だが実際は二度、いや三度会っている」

「これは、夢だろ」金枝が顔を引き攣らせた。ホルスと名乗った男は「ああ、そうとも」と頷き、深みのある声で言った。

「私達は夢の中でしか、相対し得ない。覚醒状態では面と向かって会えないのだ」

「こんな悪夢を見るのは、やっぱり現実であんなことがあったからか」

 狼狽しながら金枝が呟くと、目玉男が反応する。

「『あんなこと』とは、不良にナイフで襲われ、離人症の女子生徒がグラウンドを燃やしたアレかね。アレは私が、君の命を救ってやった結果だ」

「はあ……?」

 金枝はホルスを見つめ直した。利口そうな灰色の巨大な瞳。背は高く、タキシード服で、高そうなステッキの柄を握る手は白い手袋を嵌めていた。

「恩を着せるつもりはない。宿主を守るのは、寄生者として当然のことだ」

 ホルスはステッキを軽く揺すりながら、部屋の中を歩き出した。

「これからする説明は二度目だ。もしかしたら、既視感を覚えるかもしれない。前回は私が君に寄生した当日にやった。私としたことが、夢の中での記憶がここまで消えやすいとは知らず、起床した君は綺麗さっぱり忘れてしまった。それから少し調整をした。今回は夢の中でも忘れないよ」

「何の話」

「君は自分が神社で意識を失ったのを覚えているかね。あの時に見た虹色の縁をした光が、私の体だ」

 ホルスは金枝の前まで来ると、ステッキの柄を金枝の左目に突きつけた。

「うわっ」

 後ずさる金枝。ホルスは本来口のある辺りではなく全身から声を発した。

「私が憑いたのは、君の左目だ。だから、君は左目を大事にするように。決して、汚い手で目を擦ったりするんじゃない。分かったね」

 金枝はごくりと唾を飲み込むと、ホルスを睨んだ。

「つまり、俺に寄生してるってことか。お前は、神社の祟り神か何かで――」

「少し違う。私は生物に寄生する宇宙生命体だ。体は光に近い性質で質量は無い。神社を寄生場所に選んだ理由だが、あわよくば君に敬ってもらえるのではないか、という淡くも打算的なものだ。残念なことに、君にはまるで信仰心といったものがなく、意味がなかったようだがね」

 金枝は頭がパンク寸前だった。やけにはっきりとした夢の中で、自分に寄生したという目玉の宇宙人が現れ、訳の分からないことを説明しだすのだから。

「これは、やっぱり夢なんだよ」

 自答する金枝。「そうだ」とホルスが同調する。

「そして、今回は忘れないよう設定済みだ」

「じゃあ、夢じゃない!」

 金枝が泣きそうな声で叫んだ。

「お前が、俺の夢を弄って、こんなものを見せてるってことだろ! ふざけんな、早く俺の体から出て行けって!」

「嫌だ」

「嫌だ!?」

 金枝の悲痛なオウム返しをホルスは歯牙にもかけず、饒舌に話を続けた。

「私は君の体をとても気に入っている。思った通り、いやそれ以上に、すこぶる相性が好い。普通はこうはいかんのだよ。外れを引くと身体機能が制限され、感情が働かなくなったり動作がぎこちなくなったり、お互いに困ったことになる。しかし君は、どうやら大当たりだったようだ。いや、私も宿主候補の選器眼には自信があるが、ここまでの相性の良さは初めてだ」

 うきうきと話すホルスに、金枝は頭を抱えたくなった。

「あの、アンタが俺に寄生したのは、あの神社で? あの日以降、やけに体調が良いんですけど」

「そうだろう。そうだろうとも。寄生された、というと聞こえが悪いが君にも大きなメリットがあるのだ」

 ホルスは上機嫌にステッキ遊びをしながら説明をした。

「例えば、私の知識は君に無料で貸し与えるし、体調だって私が管理する。だから君は近頃調子が良いし、体もキレているだろう。簡単なイーエスピー、君らのいう『離人症』の能力も、私のおかげで使用が可能だ。昨日、不良が君をナイフで刺せなかったのも、私が君に人体操作の能力を一時的に付与し、それを無意識下で使わせたためだ。もし私がいなければ、今頃君は病院か、あるいは無言で帰宅の二択だ」

「ベラベラと、よく喋る」

 茫然としながら、金枝が感想を言った。ホルスはクニクニと自分の白目の部分を擦った。その動作は、人が悩んだ時にこめかみへ指を当てるのと似ている。

「これは失礼。つい熱くなった。では金枝美糸クン。質問をどうぞ」

「はい先生。じゃなくて……。何で、俺に寄生してんの」

「相性が良さそうだったというのもある。それに一人、『ターゲット』がいるのだ」

「ターゲット?」

「威子口空のことだ」

 ホルスの言葉に金枝はぱちくりとまばたきをした。意外な名前、と金枝は一瞬思ったが、考えてみると意外でもなんでもない。威子口空は幼少時から優れた才覚を持ち合わせ、現当主の威子口八雲からも気に入られている。ゆくゆくは威子口家当主の座に就くのでは、と世間でもまことしやかに囁かれてきた。要人として宇宙外敵に狙われても何らおかしくない。

「それって。まさか地球侵略の為にか? 彼女に近づいていって……」

「とんでもない! 人聞きが悪いな、周りには誰もいないとはいえ」

 ホルスはコホンと咳払いをした。

「我々は共存の道を探っているのだ。さっきも言った通り、互いにメリットがある。私達は体が手に入るし、君らは毎日が絶好調で、無限の知識も利用が出来る」

「じゃあ威子口さんに寄生すれば良いじゃないか」

「それもプランの一つだったが、残念ながら体の相性が悪かった。そこで代わりの候補に寄生しようとしたのだが、その最中、君を見つけた。おやこれは、と思い観察をしていると、どうも都合が良い。そんな折、君が思い悩んで隙を見せてきたものだから、つい後先考えずに寄生した。結果的に、私の選択は大正解だった」

「ちょっと待った」

 ホルスの言葉に金枝が奇怪な顔になる。

「威子口さんには寄生してないんだな? なのに相性の良し悪しが、分かるんだ?」

「匂いと気配で大体分かる。離人症状の者の具体的な能力すら感じ取れるのだ。我々フーピーを見くびってもらっては困るな」

 不満げにホルスが言った。

「フーピー?」

「我々種族の呼び名だ」


 ホルスが語るところによれば、フーピーとは太古の昔から宇宙を流浪する宇宙寄生民族意識の集合体であり、繁栄しそうな種族に寄生して生活し、その種族が衰退しそうなら別の種族に乗り替える。そうやって永い時を過ごしてきたという。

 ホルスは小さく咳払いをした。

「さあ、他に質問は? これで一旦締め切るぞ、朝も近づいてきた」

 自分で質問コーナーを作っておいて、自分勝手だなと思いつつ、金枝は昨日の妙な出来事について尋ねた。

「俺が、ナイフで刺されなかったのは超能力を無意識下で使ったからで―」

「そうだ」

「でも、離人症の検査は陰性だった」

「能力は一時的なものだから引っかからない」

「その後の話で、おかしなことがあった。取り調べの役人を俺がアホ呼ばわりしたのに、その人は全く気付かなくて」

 するとホルスはワハハと笑った。

「ああ、あれか。あまりに低俗なニンゲンだったので、少し悪口が出たんだろう。奴が怒らなかったのは、私が奴の常識を少しばかり弄ってやったからだ」

「やっぱりお前……僕の口を勝手に使って!」

 金枝が拳を握りしめる。ホルスはシルクハットのツバに触れ、帽子を被り直した。

「私にだけ責任を被せるな。君と私で気持ちが一つになったから、ああいう言葉が自然と出たのだ。君がむかついてなければ発生し得ない言動だった。有耶無耶にしてやった私は感謝こそされど、文句を言われる筋合いはない」

 金枝が食い下がろうとすると、ホルスが強く拍手を打った。

「質問終わり。さて、ここから本題に入る」

 ホルスはステッキをくるりと回すと、古典映画を流していたスクリーンにトントンと当てた。と、白黒の画面が波打ち、白人が軽食を食べたり喋ったりソファでくつろいでいる写真が現れては消えた。まるで国際線の機内にあるパンフレットのようだった。

「改めて自己紹介しよう。私はホルス。この星に派遣されたのは、人類がどういった生物で、どういった生活をし、我々フーピーが寄生した場合、どのようなメリットがあるのかを探る為だ。具体的にいえば、ちゃんと『生』を満喫できるかどうか。『ああ、私は生きてるんだ』と実感できるかどうかだな」

 金枝は少し思案した後、自分の頬をつねりながら言った。

「じゃあ痛いとか、悲しいとかでも良いのか?」

「何を言う。それは生きる上で重要な要素だろう。負が無ければ正もない。そして私は次世代の宿主種族候補の偵察、つまり人類の下見で来たと解釈してくれ。ニ、三か月程度の体験期間を経て、今回の寄生体験を上層部に報告する。審査が通れば、本格的な集団寄生が始まる。人類は次世代寄生種の最有力候補に挙がっている。私がよほどネガキャンしなければ君達で決まりだ」

 ホルスは金枝に歩み寄ると、白い手袋をはめた手をすっと差し出してくる。

「金枝美糸君。私に協力してくれ。寄生を受け入れてくれないか」

「それは……」

 金枝は黙った。

喜んでいいことなのだろうか。

いや。

むしろ喜ばしい。

金枝は実感していた。何も知らなければ、寄生されることを拒絶しただろう。しかし、金枝は今、満足している。過去の自分は、朝起きて、イヤな気分の中、吐き気を催しながら登校し、勉強もスポーツもついていけず、周囲にからかわれる毎日を送っていた。

それが、神社で気絶した日を境に大きく変わった。朝は爽やかに目覚め、気分良く登校し、頭は冴え渡り、体育でも活躍できる。毎日がツイていて、楽しい日々の連続。今までこんなことは一度もなかった。寄生は素晴らしい。自分は洗脳されているのかもしれない。だが、本当に充実しているのだから、不満なんてない。

「喜んで」

 金枝はにこやかに握手を交わした。ホルスはグッと掌を握り返す。少しの合間があって、二人は手を離した。

「さてさて。私の目的はニンゲンへの上質な寄生体験を上層部に報告することだが、それとは別に特別な任務があるのだ。先ほど少し先走ったが、威子口空への接触任務だ」

 ホルスが再び白幕を叩くと、スクリーンが波打って、威子口空を様々な角度から映したスライドに切り替わる。それと同時に威子口空の身長や体重といった個人情報も晒された。

「君はどうやら威子口空に対し少々思うところがあるようだが。しかし、外見には文句なかろう」

 ホルスは思わせぶりな口調でスクリーンを叩く。体育で、綺麗なダンクシュートを決める威子口空のフォト。部活中、テニスコートでスポーツドリンクを口にしているフォトや、豪勢なプライベートプールで一人泳ぐフォト、寝間着姿でうどんを啜っているフォト等、威子口空の日常が流れては消えた。

「それは、そう。かも」

 金枝は認めた。

「というか、これどうやって撮った? 絶対盗撮だろ」

「私が寄生するか否か見極めている最中に目にした記憶を投影しているだけだ」

 ホルスは機嫌よく言った。

「金枝美糸。まず、君は彼女に告白し、カップルになってもらう」

「はあ!?」

 金枝が仰天する中、ホルスがステッキを回しながら言葉を選んだ。

「ニンゲン、というのは美味しいものを食べたり、友達と遊んだり、気持ちよく眠る以外にも、楽しみというものがある筈だ。それは、恋愛。君はどうやら、それが欠けているようだな」

「……ああ、悪かったな。モテないもんで」

 金枝が自嘲気味に返すと、ホルスは大きく頷いた。

「全くだ。このままではニンゲンの楽しみを完全に上層部へ伝えられない。そこで、君には異性と交遊してもらう。恋愛というのがどういうものか、私も久々に体験してみたい。君らの価値観で、どういう学生がモテるかというと、勉強が出来たり、スポーツが出来たり、バンドをやっていたりそういうことだが、とりあえず大事な要素は顔だ。しかし残念なことに君は不細工だ」

「そうだよ! よく分かってるじゃないか。悪かったな」

「ああ。全く」

 ホルスは蓄音機に近づくと、ステッキの柄でそれに触れた。ジャズ音楽がしっとりしたものから陽気なものに変わる。

「しかし。顔が悪いだけで恋愛が出来ないようじゃ困る。寄生体験者として、アピール失敗だ。私は、容姿がどうだろうが恋愛は出来ると伝えなくてはならぬのだよ」

 ホルスは軽く咳払いすると話を続けた。

「仮に。威子口空という才智に長けた高嶺の花を君の顔でオトしてみたまえ。誰も文句は言うまいよ」

「は。はは。黙って聞いてたら、俺は化け物か何かかよ? れっきとした人間だ」

 金枝が己の胸に手を当て文句を言うと、ホルスは目玉の下、顔であれば顎の辺りに手をやった。

「私もそう思ってる。正直、私にいわせればニンゲン皆、同じ顔に見えて仕方がない」

「いや、同じ顔ではなくて……」

「レントゲン写真で撮れば、誰だって骨だ」

 ホルスは言い返してみろとばかりに左手の平を金枝に差し出す。金枝は何とも言えないもやもやした気持ちになった。

「ともかく。君の当面の目標は、威子口空に告白しオーケーをもらうこと。駄目そうなら、また別の手を考えよう。次に、彼女と仲良くなったところで、寄生の事実を話す」

「話すの?」

 金枝のドングリ眼が強調された。ホルスはやれやれと手首をぶらつかせた。

「話さなくてどうする」

「どうして話すんだ?」

「威子口空は、金枝美糸がうだつの上がらぬクラスの底辺的存在だと中学時代からよく知っている」

 金枝は恨めしい顔でホルスの話を聞くことになった。

「そんな人間の変貌の原因が寄生だと知れば、寄生に対し多少なりともプラスのイメージを持つ。それも私の狙いだ。将来的な人類のリーダーに、寄生されるメリットを知ってもらう。好感触ならスムーズに事が進むし、ダメならダメで、否応なしに集団寄生が始まるだけの話だ」

「なるほど……分かった。俺が威子口さんと付き合うというのは、恋愛をするのと人類の偉い連中に寄生を認めさせるのと、二つの意味があるってことだな」

「以前より物分かりが良いな。今日はそれだけ判ってくれればよい」

 ホルスはテーブルの上の葡萄酒を手に取ると、慣れた手つきでワイングラスにトクトクと注いでいく。

一体、どうやって飲むんだ、こいつ。金枝が注視していると、ホルスはトンとステッキで床を突いた。すると周囲の視界は水を垂らした水彩画のようにじわじわと滲み始めた。

「金枝美糸クン。快適な寄生ライフに。乾杯」

 ホルスがグラスを持ち上げ、此方に傾けるのがかろうじて判別がついた。金枝の視界は色が溶け合い混ざり合い、いよいよ世界が白んでいった。


 目が覚めると、金枝はぐっしょり汗をかいていた。重い足取りで部屋を出て、洗面台の前に立つ。

「やっぱり夢。酷い夢」

「そうだ夢だ。今度はちゃんと覚えているな」

 金枝の口が勝手に動く。さっと青ざめた金枝は、鏡の中の自分の異常に気付いた。鏡に映る自分の瞳は、片方だけ薄らと灰色に染まっている。

「左目だ……」

 神社で虹色の光が飛び込んだのも左目だった。金枝は気分が悪くなった。が、何かがそれに抗うように体の芯を暖め、調子を上塗りしていく。それまでの具合の悪さは嘘のように消え失せ、旅行先の温泉で温まったように気分良く、身体も軽やかになった金枝は、自然と笑いがこみ上げていた。 

 鼻歌を歌いながら朝食のサラダをパクパク、金枝が食べていると、金枝の母親が驚いている。

「美糸。あなた、いつからキュウリ食べれるようになったの? 大嫌いだったでしょ」

「ああ。最近」

 金枝の父親が胡散臭そうな顔をする。

「お前、やけに機嫌良さそうだが、何かあったのか?」

「彼女でも出来たんじゃねーの?」金枝の姉が言う。

「この顔でか?」

 ワハハハハ。爆笑する金枝家族。

(見とけよ、これからとびっきりのを作るから)

金枝はキュウリを噛み締めながら心の中で呟いた。


 ガラリ。高校の教室のドアを開ける。すっと、お喋りが弱くなるのを金枝は感じ取った。自分に視線が集まっている。

「俺、どうかした? 何々?」

 金枝が自分を指差しながらクラスに問いかけると、くすくすと失笑が漏れ、教室の空気がまた元に戻っていくのを感じた。

何だ、一体。

そう思っていると、

「おはよう。金枝君」

お洒落にシャツの袖をまくった威子口空は、フォトジェニックな笑みを浮かべて金枝に声をかける。

出たな、と思った。

(とりあえず会話しよう)

金枝もラフに挨拶を交わすと、尋ねた。

「なんかあった? 俺、笑われてるけど」

「ああ。実はね。君に関する噂が囁かれていた。それも君の登場で立ち消えたけれど」

「どういうの」

「金枝君、昨日離人症対策庁に連行されてなかった? 離人症を発症して捕まったんじゃないかー、って」

「ああ。疑われてたのは本当だよ。取り調べも受けた」

 威子口空は、はっと息を飲む。

「でも俺、陰性だったから」

「そうなんだ。良かった」

 威子口空はほっと胸を撫で下ろす素振りを見せた。金枝は内心、胡散臭いと思っていた。威子口だから俺の取り調べ結果も既に知っているんじゃないか。そんな気がした。

 威子口空が言う。

「金枝君……最近調子良いでしょ? 勉強も運動も。急に。離人症で、何かやったんじゃないかー、って噂が――」

「これ」

 金枝は自分の右上腕二頭筋をポンポンと叩いた。

「努力」

「あぁー」

「超能力とかじゃないぜ。三日後だっけ、中間考査。クラス一位を取るつもりだ」

 金枝にも口を滑らせた自覚があった。クラス一位を取ることイコール、威子口空よりも上の成績を取ることじゃないか。言ってから気づいたが、今さら訂正するのも恰好がつかないので、金枝は黙っていた。

「えっ。金枝君が?」

 その時、威子口空は若干驚いた顔をしたが、内心『おいおい大きくでたな』と半分では呆れていたし、それをあまり隠そうともしなかった。なにしろ、平汎高校の生徒なら誰もが呆れる、異様な発言を金枝はしたのだ。周りで雑談をしていた生徒まで思わず金枝を見やる。

「無理とは言い切れないだろ」

 金枝は鞄を机の横にかけると、威子口空を見た。威子口空は楽しそうな表情を浮かべている。

「ふーん。つまり、宣戦布告だ?」

「え、いやそこまで本格的なものじゃ」

「よーし。その挑戦、受けて立とうじゃないか」

 威子口空は服の袖をまくりあげると、ニコッとふざけて笑ってみせた。開け放たれた教室の外、雲一つない青色の空を背にして、きらりと白い歯を輝かせる威子口空。ここで写真を撮れば、そのまま有名女性雑誌の表紙に載せられそうだと金枝は思った。

じゃあね、と威子口空が去った後も、そのシーンは金枝の脳裏からしばらく離れなかった。

―面白い着眼点だ。

 金枝はぎくりとした。脳内で他人の声が勝手に喋っている。

「ちょっと。誰ですか」

 自分の脳に語り掛けると、ぴたりと独り言が止んだ。

――なんだ聞こえたのか。私の声が聞こえるということは、君は今、少しぼんやりしているということかもな。それとも……。

 それは早朝の夢に出た目玉男ホルスの声と合致していた。

――威子口空は学年一位しか獲ったことがないのだ。まさか、学年トップの座を遥か格下に位置付けていた、冴えない、不細工な男子生徒へ明け渡すことになるとは、夢にも思うまい。

 金枝は少し考えてから、ホルスの言いたいことを理解して頭を抱えた。

「無理」

 金枝は誰にも聞こえない声で呟いた。

「それは、無理だ。俺の頭じゃ、毎日二十時間勉強したって無理。幼稚園からやり直しても無理」

――そう、金枝クンでは無理だ。

「じゃあホルスが試験解いてくれんの?」

――当然だ。

「じゃあ、じゃあ……いいや」

 金枝は肩を竦め、ぐーっと背伸びをした。寄生生物が問題を解くなら、むしろ楽で大助かりだ。

 それから試験までの一週間、金枝はいつもより勉強をさぼって漫画やゲームを楽しんだ。


「ここまで不安なのは初めてだ」

 金枝は目の下に隈を作り、青ざめた顔で試験当日を迎えていた。

「だって勉強しなかった」

――安心しろ。

「本当にお前が全部解いてくれるんだよね? 別に威子口さんに勝たなくていいけど、せめて赤点三つは取らないで。二つ迄にしてくれ。マジで。嘘だったら、やばい」

――全く。私を信頼してないのなら、自分で勉強をしておいたら良かったのだ。

 金枝はふわぁと欠伸をした。

「だってさ、寝不足気味で試験を迎えろっていうから。仕方なく俺は、ゲームや漫画を深夜までやってたんだ」

 教室は、試験前のいつもの雰囲気になっている。緊張と、そして変な明るさ。例えば、『俺、全然勉強してねえー』というわざとらしい声。そういう声を訊く度、金枝は毎回『嘘をつけ』と心の中でつっこんでいた。そういうことを言う人間は大抵、勉強をしていた。そして、自分より試験の成績が良いので、金枝にとっては嫌味にしか聞こえなかった。金枝は物覚えが良い方ではなく、尚且つ、勉強時間も大したことがない。精々、試験十日前から机にかじりつく程度。とはいえ、授業は当たり前だがちゃんと聞き、分からない問題があったら放課後、かなり頻繁に先生を捕まえて尋ねている。それをしていても毎回赤点を取る馬鹿さ加減で、しかも今回は勉強していない。金枝はもう恐怖だった。

「なあ、聞いてるか。何で寝不足にしたんだっけ?」

――君がぼんやりしていないと、私が君の体を自由に操れないからだ。それに関しては迷惑をかけた。謝ろう。その割に、昨日は楽しそうにピコピコ、くだらんアールピージーゲームとやらに時間を消費していたようだがね。

 金枝は知らん顔をして勉強用タブレットを開き、日本史の暗記を始める。

――こういうのを付け焼刃というのだな。

ホルスの感心したような声が響く。それが妙に頭に残った。金枝は溜息をつくと、タブレットを閉じる。

「もう、いいや。お前に全部任せた」

――もう、いいんだな?

「いいよ」

 それから数分が経過するが、金枝は金枝のままだった。

――少し眠気が足らんようだ。仕方ない、あれをやれ。

「まじかよ」

 金枝は周りの目を気にしながら、自分で用意した小型の水筒を取り出した。水筒の中身は、冷蔵庫からくすねたワインだ。

――アルコールは君ら人間の意識を駄目にする。即ち、私の独壇場になるという訳だ。

 金枝は息を止め、人生初のアルコールで喉を潤した。

――おいおい、そんな飲まなくても。

 水筒を閉じ、鞄にしまった辺りで、ふっ、と何もかもがフェードアウトしていく。

金枝の意識は途切れた。


「もしもーし。大丈夫、ですか」

低く濁ったような、アニメ的な声と正反対の声質で金枝は起こされた。

「は?」

 金枝は、はっとした。机から顔を上げると、一人の女子生徒と目が合った。女生徒は少し怯えた様子で金枝を見下ろしている。周りを見ると、教室で人の気配はなく、日は傾き西日が射しこんでいた。

「今、何時?」

 涎をハンカチで拭き取りながら金枝が訊ねる。女子生徒は黙って体を捻り、教室の時計を指した。時刻は十六時を過ぎている。

「えっ、試験は。どうなった」

「終わった、けど」

「嘘だろ。やばい、ずっと寝てた……!」

 焦りだす金枝の様子に女子生徒は怪訝な顔をした。

「あの、フツーに、解いてたよね? 金枝」

「……ああそっか。それは……良かったわ」

 放心状態でいる金枝を置いて、女子生徒はクマから逃げるような体勢で教室を出ていった。

少し経ってから、金枝は「ひょえー」と疲弊した声を漏らした。

「びびった」

――今の女子生徒は小間口伊穂か。

 金枝の脳の片隅で声が聴こえた。

「ホルス。試験やった?」

――今のは小間口伊穂だな。

「ああ、そうだよ。観返教会の。何か気になることでもあんのか」

 鞄を指に引っ掛け、金枝は教室を出た。再びホルスの声がした。

――本来、あちらさんに私は憑くはずだったのだ。威子口空との体の相性が悪かった為、別の寄生先を探していたのだが、小間口伊穂はすこぶる好都合だった。

「へえー。好都合? どうして」

 侘しい廊下を歩きながら尋ねる金枝。

――家だ。

ホルスが答えた。

――日本有数の新興宗教、観返教会。さすがに威子口の権力と比肩するレベルにはないがそれでも、多方面に影響力を持ち、勢いもある。そこの娘とあれば使い勝手は良い。体は肉付きが良く健康体そのものであったし、何より能力があった。

「能力? なんの」

 金枝は少し馬鹿にした口調で言う。

「小間口さんに目立った才能なんか――」

――洗脳。

 金枝は思わず足を止めた。頭の声が他所に漏れていないか一瞬気になったのだ。

「離人症なのか?」小声で呟くと、ホルスは肯定した。

――それも、強力だぞ。私もまやかし程度なら扱えるが、所詮はその場凌ぎに過ぎない。ほら、こないだ取り調べをした四角い顔の役人に、短期の常識改変を使っただろう。

「ああ」

――小間口伊穂のそれは、ヒトの人格を捻じ曲げられる。半永久的にだ。

「あー、そうか。小間口さんの能力で威子口さんを洗脳したら、疑似的に寄生したのと同じになるもんな。やっぱり、小間口さんに寄生すりゃ良かったんじゃ?」

――お前の体との相性を私は優先したのだ。持ってる人脈や権力がからっきしにもかかわらず。だから、君にはしっかり、私の期待に応えてもらわねば。

 勝手に寄生しといて偉そうに。金枝は思った。


 東京方面へ向かう空いた電車内。流れる町の風景を眺めながら、金枝はぽつんと訊いた。

「そういえばお前、誰が離人症か分かるんだっけ」

――私に限らず、お前だって分かる。左目で他人をよく注視してみろ。時々、雰囲気の違う人間が見つかる。

「ホントか?」

 金枝は試しに車内を少し歩いた。ぐったりして貞子のように髪を垂らし俯く女。タブレットを弄る他校の短髪の男子生徒。生きているかも分からない目を瞑った老人。よくある電車内の景色。しかし、目の錯覚といわれればそれまでだが、白い靄のようなものが、十人いれば一人か二人、肩から頭にかけて見えるようになっていた。

「なんなんだ、ああいう白いの」

 小声でホルスに尋ねる金枝。ホルスは、

――私の感覚を分かりやすく可視化したのだ。

 と、答えた。

――例えるなら、本来無臭のガスに匂いを付けるようなものだよ。実際に白い何かが纏わりついている訳ではない。

「誰が、何の能力を持っているかまでは分からない?」

――分かるとも。美糸君が所望というなら、能力の詳細まで知れるようにしてやろう。

「やってくれよ。面白そうじゃん」


その日を境に金枝は、道行く人、レストランのウェイター、学校の生徒教師、誰がどういう離人症を患っているか、一目で知れるようになった。

 

 試験期間が終わり、日曜を挟んで答案用紙が返ってきた。金枝がドキドキしたのは最初だけだった。

「よっしゃ」

一限目に返却された二つ折りの古文の答案用紙を開き、金枝は勝利を確信した。全回答に丸。自分が解いた記憶は無いのに、自分の見慣れた筆跡で埋め尽くされている。その出来栄えに惚れ惚れしていると、

「金枝がマンテン取ってる!」

 後ろの男子生徒が素っ頓狂な声をあげ、少々の騒ぎになった。次の物理も、英語も満点なので、金枝はカンニングを疑われた。

「お前、離人症じゃね?」という声も挙がった。

「そんな訳ないだろ」金枝は反論する。

「こないだ俺は、離人対策庁で検査を受けてるんだ」

「じゃあ、その後に発症したんだ」

 と、他の生徒にも詰め寄られるが金枝は動じなかった。

「そりゃ、テスト前に都合が良いですこと。んなこというなら、テストが終わったから離人症も完治か?」

 第一、お前こそ離人症だろ。金枝は内心で毒づいた。金枝に突っかかってきた男子の上体から白い靄が漏れている。

「こらー。授業中だ」

 古文の年寄り教師がハトでも追い払うように手を振り、金枝の周りの生徒を帰らせる。金枝はこっそり威子口を盗み見たが、威子口空は物思いに耽っている様子で騒ぎを気にする様子はなかった。

 それから数日の内に全教科のテストが返却された。生徒らはすっかりテストから解放され、今度は来週に迫る北海道修学旅行に話題が移りゆく中、金枝は一人、職員室前の掲示板へ逸る気持ちを抑え、早足で向かった。

「中間考査の順位、発表されてるって」

廊下を歩く生徒の声。金枝は、自身が何位か知っていた。全九教科満点の七百点。学年一位は決定済みだ。それでも見に行くのは、威子口空の点数を知りたかったからだ。

ホルスの声が薄らと聞こえてくる。

――威子口空も一位では、意味がない。二位でなければ。

職員室前は既に十数人の生徒が集まり、人だかりが出来ている。金枝はほんの少しだけ背伸びをして掲示板に貼られた順位表を見つめた。


一位 金枝美糸 七〇〇点

二位 威子口空 六九七点


 感無量の面持ちで金枝はそれを見つめ続けた。周りの会話が耳に入ってくる。 

「まじかよ。あの威子口さんが負けてんじゃん」

「金枝って誰だ? うちの学校にそんな名前の天才いたか?」

「球技大会で役人に連行された奴だよ。はあ、頭良かったんだ」

 金枝は己の顔がにやけそうになるのを堪えていると、ふっと、人だかりの前列に見慣れた黒髪の後頭部を見つけた。結うのに時間のかかりそうな、長髪をポニテにして、更に別の髪を細い三つ編みで結んだ長身の女生徒。すらりとした清楚な後ろ姿は気品に溢れていた。

威子口空が、おもむろに人だかりを抜けた。傍には北形雅が居て、心配そうに威子口を見つめている。

「威子口さん」

 金枝は流れるように声をかけた。威子口空は立ち止まると、肩口から振り返る。

 金枝はどきりとした。威子口空は口を小さく開け、放心したような表情を浮かべている。そんな顔、金枝は一度も見た事がなかった。

「ごめん。勝っちゃった」

金枝のかけた言葉は表面上こそピュアだったが、その裏には積年の恨みがこめられていた。何もかも優れている相手。自分を出汁にして学校生活に馴染んでいった計算高い同級生へ向けて、いつかいつか盛ってやろうと思っていた毒を、とうとう金枝は食らわせてやった。

 横にいた北形は金枝の本心に気づき、俄かに殺気立った。金枝はぞっとしながらも威子口空がどんな反応をするのか、じっと待った。悔しさ、怒り、涙。そういったものを期待していたが、威子口空はそのどれでもなかった。

 ただ、心ここにあらずという様子で、金枝を一瞥すると、そのまま廊下を歩いていく。あっけない結末だった。

 ふっと視界が暗くなり、金枝は黄金色の光に包まれた。以前来た夢の中の部屋。目の前には英国紳士のような恰好をした目玉男がおり、杖の柄で金枝の胸を何度も突いた。

「美糸クン。今がチャンスだろう。何故追いかけて告白しない。告白しろ、今すぐだ」

「何で」金枝は訳が分からず訊いた。

「何で? それが目的だろう。天才を自負する女の取り柄を奪い、此方を意識させる。今、威子口空はお前を誰よりも意識している」

「だからって、告白はないだろ」金枝は食い下がった。

「だって、テストで負けた男に心を許すって、意味わかんねえよ。ここから、段々と距離を狭めていって……」

「じゃあ問うが、どれくらいで距離が縮まる?」

「えっ?」

 ホルスは金枝にぐいと詰め寄る。

「一週間? 一か月? それで君は、威子口空の心を墜とせると?」

「それは分からない……」

 ホルスは大きく溜息をつくと、両手を広げながら部屋を闊歩しだした。

「美糸クン。私も君の、奥手で、おそらく全然進まないであろう青春ラブコメを手伝ってやらんこともない。が、しかし此方にも都合がある。十日、二十日でモノに出来るならともかく、やれ修学旅行だ、文化祭だ、クリスマスだ、バレンタインだ。そんなイベントをこなしながら仲良くなる猶予はないのだ。第一に、試験で負けたショックなど威子口空には一時的なものだろうし、数日で立ち直る。試しに君のプランを聞かせてくれ。しっかり時間をかければ、彼女への告白の成功率は上がるのか? え。どうなんだ」

 金枝は眉を八の字にして突っ立っていた。

「ふむ。精々、十パーセントも上がらないだろうな。だったら今、すぐに、威子口空へ告白しろ」

「でもな――」

「フラれたらフラれたで別の手は考えてある。告白は、必ず今日中に。彼女のショックが和らぐ前にな」

 黄金色の空間が収縮していく。金枝の意識が現実に帰ってきた。少しのラグがあって、昼休みの生徒らの呑気な喧騒が耳に入る。廊下の角を曲がる威子口空の美しい後ろ髪が視界に入った。ホルスとの長いやり取りは、現実では数秒間の出来事らしかった。

「威子口さん!」

 階段の踊り場で金枝は威子口を捕まえた。

「あれ。どうしたの。そんなに慌てて」

 威子口空は普段の調子を取り戻している。隣りの北形を無視し、金枝は唾を飲み込でんから伝えた。

「この後さ、時間あるかな。ちょっと、話したいことが」

「あー、ごめんなさい。ちょっと、生徒会室に用があるんだ」

 そして威子口空は「うーん」と唸ると、

「放課後でも良い?」と訊いてくる。渡りに舟だった。

「勿論」

 約束を交わし、金枝は威子口と別れた。

――告白は。

 と、ホルス。

「放課後だ」

 しかし、金枝も冷静になってみると、問題を先延ばしにしただけな気がした。

 それからいつもより長い昼休みと、五限目六限目を金枝は過ごした。金枝の脳裏には、退学した川保のことが浮かんでいた。

まさか、自分まで威子口空に告白するなど、夢にも思っていなかった。川保は酷いフラれ方をしたらしいが、自分はどうだろう。

金枝は憂鬱な気持ちになりかけたが、しかし案外なんとかなるのでは。と、ふわふわとした、妙に楽観的な気持ちもあった。

 チャイムが鳴り、下校の時刻になった。金枝はそわそわしながら廊下へ出ると、威子口空が出てくるのを待った。少しして、女子と談笑する威子口空が姿を見せる。声をかけづらいなぁと思いながら、タイミングを窺う金枝だったが、威子口空は自然と友達から離れ、金枝の方へ歩いてきた。

「やあ」

 気さくに威子口は笑うと、「おめでとう」と言った。

「え?」

「中間考査、学年一位。まさか本当にやるなんて。しかも七百点。完敗です。参りました」

「いやぁ」

 あの威子口空に誉め殺しさけて金枝は照れてしまい、頬を掻いた。

「結構、頑張ったかな」

「うん。すごいよ。私、生まれて初めて人間にテストで負けたから」

 威子口空からは、試験で負けたことへの僻みといった負の感情は微塵も感じられなかった。

金枝と威子口空は表向き、良い雰囲気で廊下を歩いた。お互いどこへ行くでもなく、テストのことや来週の修学旅行のことを話しながら、校内を巡った。

 金枝の些細な話題でも、威子口空は楽しそうに笑って聴いていた。威子口空は良い人なのではないか。次第に金枝は思い始めた。威子口空がクラスに溶け込むため自分を利用しているというのは全て自分の思い込みで、威子口空はやはり聖人君子なんじゃないか。女性に対して聖人君子という四字熟語が使えないなら、聖母マリアなんじゃないか。

 んな訳あるかよ。金枝は自分のちょろさを鼻で笑った。

 話が盛り上がり、円熟したところで威子口空は言った。

「そろそろ帰らないと。またね、金枝君」

 金枝は少し焦った。せっかく良い雰囲気で水を差すのはどうなんだ。しかし。

「ちょっと待った。屋上に行かないか。まだ話してないことがあるんだ」

 威子口空は一瞬、捉えどころのない曖昧な表情を浮かべたが、すぐに「いいよ」と承諾した。


 平汎高校の屋上は屋上菜園のようになっている。プランターで育てられている大きな緑の葉っぱが強く存在を主張していた。

(そういえば、いつもなら近くにいる北形の姿がない)

 金枝が不思議に思っていると、威子口空が言う。

「ここの植物、人類が火星開拓のお供に持っていった種の子孫なんだ。金枝君、知ってた?」

「全然」

 威子口は人の膝丈まで伸びた葉を撫でた。

「宇宙の過酷な環境でも耐えられるよう改良しているから、干ばつや降雪も耐えられる。水も自然の恵みで十分」

「それくらい、今となっては珍しくないけどね」両手を頭の後ろに回しながら言う金枝。威子口空は構わず続けた。

「宇宙開拓が初めて成功した記念に幾つかの高校へ寄贈されたものだよ。その一つがここ」

「にしては、雑な扱いだな」

 屋上の植物たちは手入れをされている様子はなく、野良のように自由に蔓を伸ばし、プランターから溢れている。威子口空は少し寂しげな目つきで植物を見回した。

「何もしなくても勝手に育っちゃうし。下手すると校長すら、コレが特別な寄贈品だなんて知らないでいるかも」

「何で威子口さんは知ってるんだ?」

「気になったから調べた」

淡々と答える威子口。

「まあ私の意見としては、この子らは幸せに思う」

「え、どうしてさ。人が管理してくれた方が、植物も綺麗になるだろ」

 金枝が訊くと、威子口空はすらすらと答えた。

「何故って人間が管理したら、間引かれる。余所の綺麗な花も、苗の段階で貧弱な子を間引いた結果だから」

 蔓を踏まないよう、落下防止柵伝いに二人は屋上を一周した。

「……で? 話っていうのは、一体何かな」

 威子口空に正面から見つめられ、金枝は呼吸が止まりそうになった。

 何だ、この感じ。

 金枝には正体が分からなかった。とりあえず頭の中を整理し、この数時間で考えた半分作り話を披露することにした。

「俺……ってさ、昔からずっと、自分に自信がなかったんだ。勉強もスポーツも全然で、周りからも馬鹿にされてた。威子口さんには中学の頃から何度も助けられてきたよね」

 威子口空は黙って聞いている。

「それで、自分で何とか、変えようと思って。威子口さんが驚くような男になろうと、高校になって頑張ってきた。だから――」

 金枝の全身から熱と汗が噴き出した。まるで何かに追いつめられたような感覚がした。 

 はたと金枝は気づいた。威子口空の瞳の中に、自分がいない。威子口空は、何も見ていなかった。彼女はまるで、自分の番を待つ病院の待機室の病人のような眼をしている。明らかに告白を受けている少女ではない。

 じゃあ今、自分は一体誰に告白をしているのだろう。

 金枝は言葉を失くした。頭の中に展開していた、ずっと君に惹かれてました系の安易なシナリオは頭から吹き飛んで、金枝は空っぽになってしまった。

 金枝が茫然としていると、威子口空がさらりと言った。

「トキソプラズマって、知ってる?」

「え……?」

「レウコクロリディウムは」

「し、知らない」

「そうか」

 威子口空は後ろに手を回すと言った。

「どっちも寄生虫だ」

「……は?」

 威子口空は口角を上げ笑っている。眼には情の欠片もない。深海のように真っ暗だった。しかしその暗闇の奥には今、金枝の姿があった。

「トキソプラズマはね」

 威子口空は手をこ招いた。

「猫に寄生する。その為にまずはネズミに寄生する。それで愉快なのが、ネズミの脳を操るんだ。操られたネズミは、猫を怖がるどころかチョロチョロ、近づいてっちゃう。世の理のようにネズミは猫に食べられ、そしてめでたく、トキソプラズマは猫に寄生できるというわけ」

 威子口空は『面白いだろ』とばかりに話を紡いでいく。

「レウコクロリディウム。北海道にもいるこの寄生虫、最終宿主は猫じゃなく鳥。最終宿主に寄生する為、中間宿主のカタツムリに寄生するんだが、これもユニークな話なんだ。本来のカタツムリは暗い場所を好むのにレウコに寄生された個体は葉っぱの上だとか、目立つ場所に移動する。そしてレウコは、カタツムリの触覚に入り込んで芋虫のようにグニグニ、運動する。これが閲覧注意の気味が悪い動きだけれど、上空の鳥はそれを、芋虫が這う動きと誤解するらしく、カタツムリは捕食されてしまう。鳥の体内に侵入したレウコは中で卵を産み、鳥がした糞には寄生虫の卵が混ざり、その糞をカタツムリが食べ、また寄生が始まる。なんてよく出来たシステムだろうね」

 威子口空は楽しそうに左手を腰に当てると、右手で金枝を指差し言った。

「まるで金枝美糸みたい」

「はっ……?」

 ぐらりと金枝の視界が渦巻き、歪んでいく。

「……なんで」

「だって、似てるし」威子口空は機敏に身を翻し金枝から少し距離を取ると、静かに振り返り、再度口を開いた。

「私に変なこと言ってきてさ。もしかして中間宿主が君で、最終宿主は私なのか」

「ちょっと待てよ。さっきから訊いてれば、俺が寄生されてる、みたいな。何のことだか。俺はただ――」

 金枝は言葉が出てこなかった。威子口空は小さく首を傾げると、軽く腕を組み、今度は金枝をじっと見つめた。普段の笑顔とかけ離れた、威子口の者にしか出せない眼差し。また金枝の全身は熱を帯び、発汗が始まる。

 ああ、そうか。金枝は悟った。全て彼女に見透かされている。何から何まで全て。

 金枝は自分の心が蝕まれていくような感覚に陥った。そも自分は何のために生きているんだろう。自分の気持ちは何処にあるのか。大体、威子口空と自分は釣り合わない。対等でない。話してはいけない。金枝は、自分が恐ろしくちっぽけな存在に思えてどうしようもなかった。

 威子口空は腕時計に視線を落とすと、淡々と言った。

「ああ、そろそろ行かなきゃ。金枝君、もういいよね」

「あ……うん」

「それじゃあ、さよなら」

 威子口空は肩を竦めると、綺麗な所作でその場を去っていく。後に残された金枝は屋上で独りになった。


――美糸! しっかりしろ!

 金枝は、気づくと落下防止の金網に手をかけて、かなり高いところまでよじ登っていた。

――何をしてる、一体。

 ホルスの驚いた声。

「いや、何か。絶望しちゃって」

 金枝はそう言うしかなかった。

――とりあえず、降りろ。死なれたら迷惑だ。

 金枝は言われた通り、屋上に足を着いた。口惜しそうに、ひゅるぅと一陣の風が吹いていく。

――意味もなく死ぬな。

 金枝は自分の両手を開いた。大きな手は赤白く染まり、金網が食い込んだ跡がくっきりと刻まれている。

 それから数分もすると、一体なんで自分が死のうとしていたのか、金枝には分からなくなった。それに比例して、威子口空に対し底知れぬ恐怖と怒りが湧いてくる。

――威子口空にやられたのだ。

 ホルスが冷めた声で言う。

「何されたんだ俺」

――知るかそんなの。

 ホルスは一度は投げ槍に答えたが、改めて推察を話し始めた。

――威子口家というのは、かなり長い期間、世界を牛耳ってきた。庶民の誰しも、物心ついた時から威子口の支配下で育っている。例えば、威子口家を無意識に畏れるような回路が脳内に形成されていて、それが強く作用した可能性はある。

「サブリミナル効果のような? 普段の生活に威子口家が仕込んでいる?」

 ホルスはそれには答えなかった。金枝は「けっ」と毒づき罵った。

「とにかく、分かったわ。確信したよ、やっぱり威子口空は悪なんだ。屑なんだよ、ガチで。俺の直感は正しかったんだ。俺を、寄生された、生きる価値のないような眼つきで見てきて」

 威子口への憎しみに囚われかけた時、金枝ははっとした。

「そういえば寄生されてるって、何でばれてんの。ホルス?」

――消去法ではないか。

「どういう消去で」

 ホルスは静かに考えを伝えた。

――フーピーの存在が知られていて、更に『フーピーが人類を次の宿主として狙い定めている』という情報を握られているのであれば、別に不可能な推測でもない。美糸君が離人症でないことは、離人対策庁の役人が知っていた。役人が知り得る情報は威子口の人間なら容易に知れる。君の最近の活躍が離人症の恩恵でないなら、君の純粋な努力の賜物か、もしくは我々フーピーのような寄生星人による助力になる。君の努力如きで学年一位が取れる訳がないのだから、即ちフーピーによる介入が原因と気づかれたのだろう。

「フーピーは有名なのか? 宇宙では」

――ふむ。そうだな、ある程度名は知れている。

「じゃあお前のせいじゃないか。俺は悪くない、お前が!」

 金枝は罵るように言うと、「あー!」と悶々とした声をあげ金網を拳で叩いた。

「寄生されてるってばれた! しかも、よりによって威子口空に。やばいやばいやばい。威子口の者が指を鳴らすだけで、俺ら庶民なんか消されるんだ! 人体実験の被検体にされたり、裏の世界で見世物にされたり!」

――その場合、残念だが被害者は美糸クンだけだ。私は君の体を惜しみつつ別の体に寄生することになる。

「ふざけんなッ」

 金枝が歯を噛み締めていると、ホルスが宥めるように言った。

――フラれるどころか、寄生を気づかれたのは想定外だったが、こんなこともあろうと別の手を考えてある。

「……どんな」

 金枝が半信半疑でホルスに耳を傾ける。

 ホルスは言った。

――同じクラスの小間口伊穂と懇意になる。そして、小間口をけしかけ、威子口空を洗脳させる。

「は? なんでそれが。いや、なるほどそうか。新興宗教の教祖の娘を丸め込み、威子口さんを洗脳して従わせればいいんだ。小間口さんは洗脳の離人症だったんだ」

――そういうことだな。

「いいよ、分かった。それでいこう」

 ヤケクソな口調で金枝は賛同した。

 ひゅるり。今度は強い風が吹いた。それに続いて、細長い金属のパイプの中を風がすり抜け奏でられるような、不思議な音が上空に鳴り響いた。何時の頃からか世界各地で聴こえるようになった終末の音だった。

「何の音か、分かるか?」

――私には聴こえない。

 遠くの方でホルスの返答があった。金枝は静かに首を回し、暮れかけの灰空を見上げてはみたものの、音の正体はついぞ知り得なかった。


 自宅で就寝した金枝は、夢の中で目を覚ました。

 黄金色のホルスの部屋に誘われ、適度に弾力のある朱色のソファに腰を下ろす。ホルスは部屋を暗くすると、スクリーンをステッキで叩いた。

「それではこれより小間口伊穂懐柔作戦会議を始める」

 軍曹風にホルスが言う。

「異議ありません、サー」

 金枝は調子を合わせた。威子口空への告白はかなり抵抗があったが、小間口に対しては悪い印象は持っていなかった。実家が怪しげな新興宗教という以外は。

 ホルスがごほんと咳払いをし、やがて話し始めた。

「小間口伊穂の父親が観返教会の教祖、小間口兆庵なのは有名な話だ。四半世紀前から着々と信者を増やしていた観返教会は、昨今の、世間における終末論、終末世相にかこつけ新規の信者を大量に獲得し一大宗教まで成長した。公安はマークを強め、威子口家も問題視している」

「なんだ。威子口家と敵対してるなら都合が良いじゃないか。小間口さんをけしかけるのに」

 金枝があっけらかんと言うが、ホルスは「まあ聞け」と声量を大きくした。

「観返教会自体はそうだが、小間口伊穂は少し変わっているようなのだ」

 ホルスがスクリーンを叩くと、小間口伊穂の身長や体重など、様々な情報が表示されていった。小間口は垂れ目で、威子口と違いチャラさのある、今時の女子高生という見た目をしている。宗教教祖の娘というのは、外見だけでは分からない。

「伊穂は小間口兆庵と現在の配偶者である愛澄との間に出来た一人娘で、父親の溺愛を存分に受けて育っている。しかし伊穂本人は幼少期から観返教会を馬鹿にする言動を繰り返し、彼女のお守り役の信者達を困らせた。兆庵は当初、伊穂を自分の後継者として育てると信者向けのメディア等で過去に何度か発言していたが、伊穂から強い反発に遭い、現在は白紙になっているようだ」

「へえ……」

 金枝にも、心当たりがあった。

或る梅雨の日の昼下がり。教室で小間口が、女友達とだらだら喋っている時に訊いていた。輪の中の女子から、小間口兆庵の自叙伝の内容について軽い調子で尋ねられると、「ああ、あれ? 全部インチキ。大ウソつきのでたらめ。というか、書いてない。ゴーストライターだし」と馬鹿にするので、周りが反応に困るという一幕に金枝は遭遇していた。当時、教室で弁当の骨付き唐揚げを頬張っていた金枝だったが、妙にそれが印象に残っている。

「別に、小間口さんと恋仲になる必要はないんだろ?」と金枝。夢の中だが、ソファを軽く押してみると『ぽふっ』という感触がするので、面白いから何度も押した。

 ホルスは強い口調で言う。

「今は、威子口空を手中に収めるのが先決である。寄生に気づいた威子口空を早めに処理しなければなるまい」

 二人で話し合った結果、小間口が離人症であることを上手く利用しようという結論に至った。

 金枝が喉を整える。

「まとめると、俺は『他人が離人症かどうか分かるし、尚且つ能力も分かる離人症状者』という設定で小間口さんに近づく、と」

 ホルスは肯定代わりにステッキを一回転させる。

「来月からは離人症の取り締まりがより一層厳しくなるようだ。小間口伊穂に限らず、離人症状を持つ者は不安に違いあるまい。我々は社会の被害者ぶって小間口伊穂に取り入る。同族意識を芽生えさせればこちらのもの。社会への不安不満を威子口空に向けさせろ」

「質問。小間口さんの洗脳能力はどんな感じで使われるんだ? 目が合うだけで操れるとか、命令口調の言葉遣いで人を従わせるとか」

「そこまでは私も分からん。人を見る目にも限界があるのだ」

 ホルスは自身の目玉を指差しながら言った。

「ともかく、小間口は強力な洗脳能力を扱える。味方にしない手はない。が、お前自身が洗脳されないよう気をつけたまえ。こっちから洗脳を仕掛けるのもリスクが高く、なるべく控えたいところだ」

「はいよ」

 翌日の早朝。学生のまばらな職員室前に金枝はいた。来週に控える修学旅行を前に、金枝とホルスはある細工を施そうとしていた。北海道では男子班と女子班でペアになり自由行動するのだが、金枝たちは自分の班のペア相手を小間口伊穂のいる班にすり替えようとしていた。というのも、金枝には小間口伊穂と離人症の秘密を共有する理由が弱い。いきなり『自分も離人症でさぁ』と告白しても不自然に思われる可能性があった。なので、離人症の秘密を共有する以前に小間口とは二言三言会話をする程度の知り合いにはなっておいた方が後々スムーズに事が運ぶと二人は考えたのだった。

 ガラガラと昔ながらのドアを開けた。

「失礼します。戸端先生。少しお話したいことが」

 担任教師を呼びつけると、金枝は頭の隅でホルスの存在を確かめた。準備はいいな、と心の中で語り掛ける。

――いいぞ。相手の目を見ながらゆっくりと話せ。

「どうしたの、金枝君」

 やや下膨れの戸端翔子と目を合わせ、金枝は口を開いく。

「修学旅行の二日目、三日目の自由行動の班なんですけど。男子女子で一緒に北海道を敢行する奴。俺は、男子のC班でしょう?」

「ええ」戸端が不思議そうに頷いた。

 金枝は小さく咳払いするともったいぶった口調で言った。

「男子C班は、小間口さんのいる女子A班と一緒に行動ですよ。先生、早い内に訂正しないと」

「……あら。何で知ってるの?」

「ええ?」

 金枝は訳が分からず聞き返す。戸端に洗脳が効いた様子がない。

「金枝君たちC班はA班と自由行動してもらうことになったのよ。知ってたんでしょ?」

「いいえ。いつ、決まったんですか?」

「昨日、かな」

「どうして?」

「それは、学校側にも色々と都合があるの」

 戸端は小さく首を振ると、詮索されるのを嫌がってさっさと職員室に引っ込んでしまった。

――女子A班は小間口伊穂の他に誰がいる?

 ホルスが静かに訊ねてきた。金枝は少し考えてからぽつりと答えた。

「北形と、威子口空」

 金枝の左手は無意識に右肩を擦った。

「嫌だな。アイツの仕業だ、多分」

 朝のホームルームが始まると、教師の戸端翔子は班の組み分けが変更になったことをクラスに伝えた。

「えーっ」クラスのマイナスな反応。何人か不満の声をあげる男子女子もいた。が、威子口空が「私は、楽しみだな」と静かに声を発すると、途端に「いいじゃん別に」と肯定のムードで教室が染まった。金枝は波にたなびく海藻のようになって、今の流れには逆らわず、水筒の冷えた水で喉を潤すのみだった。


翌週。

「座席は、53のKか」

 十月中旬、札幌行きの機内。ソラは座席のプレートに目をやった。威子口空の席は窓側だった。

「替わりましょうか。私は、通路席ですが」

 声色からソラの不満を感じ取り、北形が申し出る。

「ああ。ありがとう」

「では、座席のカードを交換しましょう」

「わざわざ?」

「はい」

 面倒な。ソラは僅かに呆れつつ、北形とカードを交換し通路席を手に入れた。と、ソラの前の座席に座っていた女子が身をよじり、カメラを手に声をかけてくる。

「ねえ。写真撮ってく――」

 ソラとは別のクラスの女子生徒だった。背後席が威子口家の者とたった今知った女子生徒は、思ってもみない光景に焦った表情を浮かべた。その様子が可笑しくて、ソラが無言で相手の顔を見つめていると、

「いいよ」ハスキーとも濁声とも取れる声。

 ソラの横の席にいた小間口伊穂が、替わりにカメラをもらい受けた。女子生徒の表情が更に青ざめる。

「じゃあ、撮んねー」

 小間口伊穂が立ち上がり、カメラの操作に少々手こずりながらも前の席の女子らを撮影する。

「はい、チーズ入りペペロンチーノ」

「さ、サンキュウ」

 カメラを返してもらった女子生徒がカメラをチェックする。少しして、「何だこれ」という声がソラの耳にまで届いた。どうやら、ちゃんと撮れてなかったらしい。ソラが隣りの小間口を見やると、小間口はペロリと舌を出し、『やっちまった』という顔をしている。

「知ーらない」と小声で小間口が呟くものだから、ソラはにやりと笑い、小間口もつられて笑った。

「そうだ、北形」

 ソラは小間口を挟んで窓側席に座る、生徒副会長に声を掛けた。

「ちゃんと、『アレ』は出来てる?」

「例の? はい」

 北形が軽く耳を押さえる。北形は金枝美糸の座席に盗聴器を二台仕掛け、どんな独り言も拾えるよう予めセッティングしていた。

「でた、時々やる内緒の会話」

 小間口はお手上げとばかりに天井へ目をやった。

「気になる?」

「ううん。そもそも教えてくれないし。威子口家の秘密なんて知りたくないね」

 そういって、小間口は今流行りのバトル漫画の最新刊をバッグから引っ張り出した。漫画本を開くとアニメのように絵が動き、色も声も匂いも、場の気配すらページから発せられる。ソラも鞄から読みかけのSF短編集を引き抜くと、栞のページを開いた。横で見ていた北形は、「では私も」というなり、鞄から厚みのある、デジタルカメラの説明書を取り出した。

「え。ミヤちゃん、まさかの……。哲学書、とかじゃなく?」

 小間口が半笑いで言うと、北形は涼しい顔で返事をした。

「修学旅行の為に新品のカメラを購入しました。いざというシャッターチャンスで、手間取りたくないので」

「あはは、そっか」

「貴女の写真も撮りますよ。自由行動で同じ班ですから」

 北形はそう言うと、米軍の新兵器のようないかついカメラの半身を鞄から出してみせた。

「わー、すっご」

 小間口が感心する横で、ソラはしれっとイヤホンを耳に嵌めた。と、八列離れた金枝の声がソラの耳元で聴こえる。

「俺? 二千五百円」

「持ってきすぎだろ……」

「どこがだよ。松葉は四千円も持ってきてるぞ」

 金枝は近くの男子生徒と、所持金を幾ら持ってきたかで言い争いをしているようだった。ソラは溜息をついた。

(『お前は寄生されてるぞ』と暗に仄めかしたのに、呑気すぎ。てっきり何かしらアクションを起こすかと期待したのに)

 屋上での一件以来、ソラは金枝から露骨に避けられていた。

 やがて、ジェット機が離陸前のランを始めると、「これ、飛ぶのか?」という金枝のとぼけた声がイヤホンから微かに聞こえた。飛ばきゃ困る、とソラは思わずつっこみそうになった。と、「それもそうか」と金枝が誰にともなく、微かな声で呟いた。誰かと会話をしているようだったが、相手の声は盗聴器にのらない。ソラは眉を顰めた。

と、機内の様子がおかしい。予防接種前の小学校の教室のような緊張感が漂っている。やがて、ジェット機はスーッと浮かび上がった。それと同時に「ワァーッ」と歓声があがる。同時に大きな拍手が機内に轟いた。たかだか離陸しただけでこの反応。機内の大多数が平汎高校の生徒という特殊な条件下でないと生まれない現象。幼少時から飛行機に乗り慣れているソラや小間口からしてみれば、異常にも思える光景だった。

「飛行機に初心なウチらの高校……ださ」

 はにかんだ笑みを浮かべる小間口の隣りで、ソラは小さく息を吐くと、金枝を盗聴がてら手元のSF小説へ意識を落とした。


 機内を降り、通路を抜ける。ガラス張りの窓から降り注ぐ北海道の日差しにソラは目を細めた。北形は無言で折り畳みの日傘を差し出す。ソラは日傘を受け取ると、慣れた手つきで傘を開いた。

「良い天気だな」ソラは思ったまま言った。

「しかし、屋内でも肌寒い」

「左様ですね」

「うわっ、金枝の奴ばっちり防寒対策してやんの、きっもー」

 二人が声の方を振り向いた。クラスのお調子者の澳津(おうつ)に、金枝が服装をからかわれている。多くの者が東京を発った時の服装のままなのに対し、金枝はウィンドブレーカーを羽織り首にはマフラーを巻いていた。とはいえ、澳津のからかいはイチャモンに近い。金枝がどんな風に言い返すかソラは注目していた。

 金枝は開口一番に言った。

「黙れよチビ」

 澳津の背は百六十もなかった。澳津は少し意表を突かれた顔をした後、「お前ぇ。変わっちまったなぁ」としみじみした顔で言うと、早々に退散していく。不満そうな金枝とソラは一瞬目が合ったが、金枝の方から目を逸らすと、さっさと空港に預けていた荷物を取りに歩いた。

「北形、どう思った?」ソラが北形を見ずに訊いた。

「どう、と言われましても。喧嘩を吹っ掛けた澳津が悪いのでは」

「そういう意味じゃない」

「では、一体どのような――」

「以前の金枝君なら『今の発言、防寒対策してる全世界の人を敵に回したからな』くらいの返しだった。『チビ』だなんて他人の身体的特徴を傷つける発言、出来なかった」

「は、はあ」

「もういい。私達も荷物を」

 北形の反応が思ったより薄かったので、ソラは淡泊な態度を取った。 


 平汎高校一年生一行の昼食は、いかにも修学旅行生が居そうな、開放的で安っぽい食堂で行われた。焼いた鮭、鮭の刺身、鮭の煮物の鮭尽くし。食堂の下には土産物屋もあったが、今買っても荷物になるだけと思いソラは買わなかった。旅行委員の田曽が事前に選んだ食堂だが、選んだ田曽本人が、「飯不味い。ごめん、俺のせいだ」と凹むものだから、「そんなことない、全然美味しいけど」とソラが励ます羽目になった。

 昼食が済んだらバスに乗り込み、長閑な牧場で生キャラメル作りを体験した。靴底を薬剤の入った水に漬けてから、空調の効いた大雑把な家庭科室のような場所で班に分かれ、スタートする。材料は卵、牛乳、生クリーム、バター。それを混ぜて加熱して冷やすだけの、シンプルなものだった。

「キャラメル作りとかつまんねえだろ」と、旅行前から男子らの期待値がどん底だった生キャラメル作り体験だったが、いざ始まってみると刺さったのは男子の方だった。

「あれ、やってみれば結構良いじゃん」と、そんな感じでかなりの好評を博したのに対し、大方の女子は「めんどくさー」と楽しめずにいた。ソラはというと、完璧な生キャラメルを作っていた。少し焦げたような、美味しそうな色に焼けているソラの生キャラメルに対し、他の班のは黄色っぽく、ちゃんと焼けておらず、普通の生クリームのようである。

「うわ、さすが威子口さん」

 出来上がったそれを見て、クラスの男女は勿論、牧場スタッフからも褒められたが、ソラは特に思い入れもなく、他班の子に自分の生キャラメルをあげてしまった。ソラが生キャラメル作りの中で最も印象に残ったのは、裏の取っ手口から入りそうになった野良のブチ猫を担任の戸端翔子が躊躇なく首根っこから掴み、野外へポーンと放り投げたシーンだった。


 夕暮れ時の羊ヶ丘展望台は情緒があった。観光客で輪の出来た大人気のクラーク像から少し離れ、ソラは高台のスポットから辺りの景色が移ろうのを眺めていた。展望台に到着した当初こそ、個々に色があったが、陽が沈む途中でセピア色に変わり、次に淡い青紫色へ染まった後、最後は暗色で閉じられ今はもう、同級生の顔の判別すらし辛くなっている。

 ソラが長袖にひっついた雪虫を払っていると、黒い影が真っすぐに隣りへとやってきた。

「お嬢様、ココアでもどうでしょう」「うん」

 北形から白い湯気の立ち昇る再生紙のコップを受け取り、ソラは自身の両手を温めつつ高温のダークブラウンな液体を啜った。ソラの物憂げな表情に気づき、北形は心配そうに言う。

「お嬢様。修学旅行の間くらい、悩み事を忘れて楽しんでもいいのでは」

「私だって。そうしたい」

 ソラはふっと息を吐いた。

「しかし、それ以前に私は威子口だ。威子口たる者、人類の為に何が出来るか常に考え、実行に移さなくては。今のままでは、あまりに悠長すぎる」

「ですが、お嬢様はまだ若いんですよ」

「終末に若いも年寄りもあるか」

 珍しく不貞腐れた口調でソラが膨れっ面をした。北形は精一杯フォローを続ける。

「それでも八雲様こそが威子口の現当主ですし」

「まあ、そう。今はそう」

「……お嬢様?」

 ボォーン。低く鈍いアポカリプティックサウンドが展望台の夜空に鳴り響いた。人々は一瞬動きを止めたが、もはや慣れたもので、他人とお喋りを続けている。ソラは空いている方の手で札幌の空を仰いだ。

「北形。民はなんだかだ、能天気に今を楽しんでいる。終末の音が聴こえても、自分は死ぬ筈ないと心の奥で確信しているようだ。しかし、敏(さと)い者は気づく。ヒトの終わりが近い」

 ソラはホットココアをぐっと飲み込むと、舌をぺろりと出して外気で冷やした。

「北形」

「はい」

「私が今一番欲しいものが何か当てられるか?」

 北形は少し迷った末、慎重に答えた。

「もう一人のお嬢様、ですか?」

 ソラはふんと鼻を鳴らした。

「はずれ。それは、いつだって欲しい」

「では、休息ですか」

「それも、いつだって欲しい。今、欲しいものは何か」

「わかりません。何でしょう」

「暗殺者」

 お気に入りのデザートでも注文するような軽い調子でソラが言った。北形の体は、シャーベット状のジュースを一気に飲み干したように冷たくなった。

「お嬢様。何を、お考えなのですか」

ソラはそれに答えず、微笑みを湛えていた。凍り付く北形をよそにソラは高台を降りると、学生の輪の中へと吸い込まれていった。


 翌日。朝十一時、天気は晴れ。気温は十四度とひんやりしており、街を行き交う人々は薄手のコートかセーター姿が目立つ。蒸気時計の鳴る小樽境町通りの信号前で、ソラと金枝ら平汎高校の男女六人が集合していた。女子三人は、ソラは言わずもがな、北形と小間口も学年ではそこそこ上位のルックスに対し、金枝は背が高い以外は平均未満の外見。残りの二人は、田曽は典型的眼鏡で、松葉はセイウチに似ている。女子組とまるで釣り合わない男子三人組だった。

「あれ、後藤君は?」

 ソラが周りを見渡した。

「君達の班でしょ?」

 田曽と松葉が言い淀んでいるので、金枝が口を開いた。

「ああ、そうだけど。あいつ別の班の連中と普段つるんでるじゃん。そっちと、周りたいって」

「ああー」と小間口。北形が眉を持ち上げ口を尖らせる。

「なに? そんな勝手なことは許され――」

「いいじゃない。北形」

 ソラはさらさらの黒髪を軽くかきあげた。

「せっかくの修学旅行なんだから、好きにさせましょう」

「しかし、お嬢様」

「今日の最後に、顔だけみせてくれれば良いわ」

 ソラはポチポチと携帯端末を操作すると、後藤と連絡を取り始めた。

その横で小間口が小さく欠伸をしながら言う。

「どっちかっていうとー、ミヤちゃんの方が生徒会長っぽいよね」

「いや」

 北形は小さく首を振る。

「私が会長では誰もついてこないんだ、伊穂。お嬢様こそが人の上に立つ器」

 女子三人がそんな会話をする中、男子組は少し離れて顔を突き合わせ、小声で話をしていた。

「なんだよ、金枝。話したいことって」

 松葉が不思議そうに尋ねる。金枝は手を合わせた。

「頼む協力してくれ。今日明日の班行動でさ、小間口さんと仲良くなりたいんだ」

「小間口さんと?」松葉が目を丸くする。田曽がシリアスな顔をした。

「金枝。お前、威子口さん狙いじゃなかったのか」

「ちげーよ」金枝は即否定した。

 松葉が「うーん」と首を傾げるとのんびりした口調で言う。

「仲良くったって、俺達は何も出来ないような……。ただ、班で札幌観光するだけで、どうやって仲良くなるのか……。女子は、女子でつるむだろぉ?」

「いいからいいから。空気読んでくれ、頼むぜ」

 金枝はニコニコしながら二人の肩を叩く。金枝自身、小間口と友達以上の関係になれるとはあまり思っていなかった。今日明日の班行動の後、小間口が金枝のことを『班行動で一緒に札幌観光した同じクラスの金枝』とさえ認識してくれればよかった。離人症のふりをして小間口に接近する為には、それくらいの繋がりは必要だとホルスも考えている。

 そんなものは軽いハードルだと金枝は高を括っていた。だが、松葉の言うように女子組と絡む機会がほとんどないまま、札幌観光が進んでいく。確かに男女共に行動はしているが、例えば、小樽運河の赤レンガ倉庫をバックに写真を撮ろうと思えば携帯端末は勝手に観光モードへ移行し、ぷかぷかと宙を浮遊して理想の角度で端末所有者の写真を撮る。なので、『男子ー。ちょっと写真撮ってくれない?』なんてという絡みもない。あるいは、混雑する硝子屋の店内で、レジを待つ間に会話、なんてこともない。何故なら大抵の店は無人で、商品を持って店を出る際、携帯タブレットの電子マネーが自動で引かれるだけだからだ。

 こんなことで大丈夫かと金枝が心配しだした頃。ようやく小間口と会話する機会が巡ってきた。

 札幌市内にある新円山マリンパークは別名、絶滅水族館と呼ばれた。とうの昔に滅んだ水生の生き物が生きたまま展示され、間近で生態観察が可能とあって、レジャー施設としても文化施設としても高い評価を得ていた。札幌の観光ツアーには必ず組み込まれる程の人気で、金枝らも例に漏れず学生割引料金で入場していた。

「これ、作り物だよね?」

 突っ立ったまま微動だにしないオウサマペンギンの群れに、小間口が疑いの目を向けていた。

「田舎の遊園地の、安っぽいペンギンの像、的な……?」

 金枝の比喩に小間口がうんうんと頷く。

「だよねだよね。ざらざらした表面とかさー。野ざらしにでもされたのかってくらい汚いんだけど。え、あれ? 一匹動いてる。ロボット?」

「……伊穂。水族館のゲージの中で偽物展示したりしないから。生きてる本物」と、ソラが否定する。北形がコホンと咳払いした。

「シャチのショーまでまだ時間があります。太古の海コーナーでも行きますか」

 そうしよう、ということになり、遊泳するホオジロザメやアカウミガメを流し見ながら館内を歩き始めた。

「いや。シャチは、まだ絶滅してなくないか?」

 田曽が首を傾げて言うと、ソラが「うん、そうね」と同意した。

「だけど、シャチのショーが見れるのはここだけ。普通のシャチは動物愛護団体がうるさくて、ショーをさせられないんだ」

「じゃあ何で、ここはいけんの?」と小間口。

「それは、ここで飼育されるシャチが設計生物だからです」

 近くにいた桜色の館内案内ロボがスーッと音もなく近づいて、金枝らと並行しながらアニメ声で説明を始めた。

「新円山マリンパーク内で飼われている生き物はみな、設計生物なのです。家畜を食べても問題ないように、設計生物をショーに使用することは法律で認可されているのです」

「設計生物う?」

 小間口が訊き返すと、ロボットの目が赤く光る。

「つまり、人工的にデザインされた生物のことです。種の進化退化を、望む種へ誘導することで、過去地球上に存在していた絶滅種を生きた姿で再現しています。理論上は人間の遺伝子から、絶滅したティラノサウルスを作り出すことも可能です。途方もない時間と労力が必要となりますが」

「そんなことをここで? えっ、すご」小間口はびっくりとばかりに両手をあげながら歩いている。

「新円山マリンパークは国立熱海ゲノムセンターと半世紀にも渡り共同研究をしてまいりました。その技術は、プライーターの創造にも繋がっています」

「プ、プラ……聞いた事ある単語」小間口がぽけーっと訊き返す。田曽が誰よりも早く答えた。

「プラスチックゴミを分解する人工生命体のこと。海の浄化に貢献してる」

「それらも全て、イシグチグループ様からの資金援助あってのことです。マリンパークの一スタッフとして、お礼を言わせて下さい。いつもありがとうございます」

 ロボットがソラにお辞儀をする。何人かがソラの顔をチラ見した。ソラは形式的に笑顔を作ったが、自分が関わった訳でもないので思い入れ等は全くなかった。

 館内の冷気で若干冷えた腕を擦りつつ、ソラは口を開いた。

「ロボット。気になったことが。種の進化、退化というのは具体的にどうやっているの? 例えば、このアンモナイトとか」

 ソラは歩きながら、横長の水槽をプカプカ泳ぐ風変わりな巻貝を指差して訊ねた。ロボットはピロリンと音を鳴らした。

「アンモナイトはこの水族館で一番初めに展示された太古の海洋生物です。さて、ここでクイズです」

 ロボットは四つの生物のホログラムを空中に発生させた。

「アンモナイトを蘇らせる為に利用した生物の遺伝子は次の内どれでしょう。A・オウムガイ。B・イカ。C・タコ。D・コウモリダコ。みんな、分かるかな?」

「急に子供向けになりましたね」北形が冷静な口調で言う。

「オウムガイじゃない? なんか一番似てるし」

 小間口の言葉に皆が同意する中、金枝が異を唱えた。

「答えはBかC。確か、オウムガイよりもイカやタコの方が近縁種だって昔図鑑で読んだ」

「正解は、Aのオウムガイです」

 ロボットの容赦ない発表に金枝は顔を赤くした。ソラが首を傾げる。

「どうして、オウムガイを? 金枝君の言う通り、アンモナイトならオウムガイよりイカやタコの方が」

 ソラが助け舟を出すと、ロボットは楽しげに、歌うように解説を始めた。

「当初は、現生のイカとタコの遺伝子を元に再現する予定でしたが両者とも上手くいきませんでした。そこで試しに、見た目の近いオウムガイの遺伝子を利用したところ再現が捗り、そのままアンモナイトらしいアンモナイトの設計生物を作ることに成功したのです。以後、設計生物を製造する際はなるべく近縁の種で、且つ外見も近い生物の遺伝子が再現元として選択されるようになりました」

「想像通りの見た目だと、客も分かりやすく喜べるもんね。カッケー筈のティラノがモフモフ羽毛で再現されてると、超ビミョーな気分。やっぱ鱗で覆われてる方が『うわ、やっば。マジの恐竜いた! でた!』ってなるし」

小間口の歯に衣着せない意見に金枝達は苦笑した。

「此方をご覧下さい」

 案内ロボに誘導され、金枝らは太古の海コーナーの『設計生物の作り方』という解説図の前で足を止めた。ロボットは解説図を目のレーザーポイントで示しながら可愛らしい声で説明を始めた。

「先ほどのアンモナイトを例に出しますと、まずオウムガイをエレスメロセラス目の頭足類まで退化させる必要があるのです。エレスメロセラス目こそ、現生のオウムガイやイカ、タコの祖先であり、アンモナイトの祖先でもあります。ここから幾つかの種を経て、アンモナイトへと進化させるのです」

「種が進化をするのには長い年月をかけた自然淘汰が必須だろう? この図には、その問題への対処法が書かれていないけど」

 ソラが腕組みして訊ねた。細かい文字がびっしりと書かれていたが、ソラは速読で読破していた。

「それについてお答えしますと、突然変異の発生率を高めたり、昆虫の遺伝子を組み込んで極端な早熟にすることで進化退化のサイクルを早めたり、といった方法を用いております。それにより、本来であれば数千年かかる進化のスパンを五年十年単位にまで短縮することに成功しました」

「昆虫……か」

 ソラが興味深そうに、近代海コーナーの巨大水槽内を回遊するクロマグロの魚群を見やった。

「ショウジョウバエの遺伝子か何かでしょうか」

 北形の言葉に小間口がげぇと嫌そうな顔をした。

「やめてよミヤちゃん、そういうの」

「すみません。そういうつもりでは」

 肩を落とす北形に、やれやれと小間口が首を振った。

「いいよん。行こう。ばいばい、ロボ君」

 ロボットと別れ、小間口を先頭に歩いていくと、やがて奇妙な古代生物らの絵が描かれた看板や壁が現れた。

「『太古の海へ潜水探検―ノーチラスの旅―』?」

 入り口から奥を進むと、遊園地の室内アトラクションのような独特の雰囲気が漂い始め、既に若いカップルと親子が四組、列に並んでいた。本来はもっと混むようで、行列整理用のガイドポールが複数置かれている。また、待つ人を飽きさせないよう傍の水槽には生きた三葉虫が飼育され、触れることも可能だった。

 天井からは、機械的なアルトボイスの女性アナウンスと、芝居がかった男性のテノール声が交互に流れている。現在はテノール声のターンだった。

「やあ諸君。君達は二人乗りの小型潜水艇ノーチラス号に乗りこみ、大昔の海を思う存分堪能する素晴らしい機会を得た。なんとこの札幌で。所要時間は二十分を予定している。ただし、暗い海底を狭い潜水艇で巡ることになるから、閉所恐怖症や暗闇が苦手な人は、悪いことは言わん! やめておけ。艦長との約束だ。もし、途中でこの素晴らしい旅への文句を言うようなら、君達を古生代の海へ放り出し、ヘリコプリオンの餌にしてしまうからな! わっはっはっは」

 豪傑な男性声が存分に煽り倒す。そんな大げさな、と金枝は思ったが、水に浮かぶアンモナイト型の潜水艇と、先の見えない真っ暗な水中を目の当たりにすると、あながち大げさでもない気がした。

 潜水艇の止まる網目の金属の足場の手前で、ぴたり。ソラの足が止まる。

「はあ。やっぱり駄目だ」

 威子口空が、それ以上前へ行こうとしない。金枝は、天井の金色灯に照らされる威子口空の血色が白を通り越して土気色になっていることに気づいた。

「ソラちゃん?」小間口がソラの異変に気付く。北形がソラを気遣うように言った。

「お嬢様、無理に乗る必要もありませんよ」

 北形がギロリと男子を睨んだ。

「お嬢様は閉所恐怖症かつ暗闇が苦手なのだ。それが何か?」

「い、いや全然」

 男子組は北形に気圧されながら、軽く首を横に振った。

「お嬢様が乗らないから、私もパスだ」北形が噛みつくように言うと、その場で腕を組んだ。係の女性が困惑気味に「出口はあちらです」と、ソラと北形を誘導している。

「……じゃ、じゃあ俺達は行こうか」

 田曽と松葉がいそいそと潜水艇に乗り込んだ。

「えーっ、なんだよぅ」

 見るからにがっかりしている小間口の丸い背中に、なんとか上手いこと声をかけようと金枝が口を開きかけた。と、ちらっと小間口が振り返る。その眼が金枝を捉えた。

「……一緒に乗る?」

「いいよ」

 金枝が軽く頷いた。小間口が「はあーっ」と大きな溜息をつきながら、アンモナイト型の潜水艇に乗り込んだ。

――君は、女子からの好感度が軒並み低いのだな。というか、全生徒から。

「黙れ寄生虫」

 金枝は誰にも聞こえない小さな声で怒った。次に自分のおでこを叩くと、足を折り曲げ潜水艇に体を納めた。

「行ってらっしゃい、よい旅を」

 女性のスタッフが潜水艇の扉を閉める。やがてガコンと鈍い音があった。それは、潜水艇が外界から完全に遮断された音だった。

先に田曽と松葉の乗った潜水艇が発進する。続いて、金枝らの艇もゆっくりと水中へ沈み始め、暗い海水のトンネルに敷かれたレールを辿り始める。敷き詰められた砂が舞う中、やがて潜水艇は海底トンネルを抜けた。

海底へ沈められた無数のランタン。その灯りに照らされた神秘的な蒼の世界が、暗闇の水中で音もなくどこまでも醸成されていた。

「ハァー、楽しみ」

 小間口が手を合わせていると、「あっ」と声を出す。

「もう、なんかいる」

 潜水艇の船底付近で、体長五センチ程度のナメクジに似た白い生物が泳いでいる。耳当たりの良い女性ナレーターの声が潜水艇内に流れた。

「ここはカンブリア紀を再現した海。多種多様な生物が生まれたこの時代、捕食者アノマロカリスや脊椎動物の祖メタスプリッギナ、学者を長年混乱させたハルキゲニアなど奇妙奇天烈生物が『生きた姿で』貴方達を出迎えてくれることでしょう」

「どれがどの生き物?」

 小間口が困り顔になりながらも、潜水艇の周りを泳ぐ小さな生き物らを写真に収め始めた。

「こいつ、なんだろう。ナメクジ的な?」

「ピカイアだよ」

 小間口の勘違いを金枝が正した。

「あっちで浮かんでる太めの奴は、メタスプリッギナだろうね」

「ふーん。このワラジみたいなのは?」

「それは三葉虫」

「あ、さっき入り口にいた」

「見た目は地味だけど、眼という器官を初めて獲得した生物なんだ」

「へえー。金枝、詳しいじゃん」

 褒められた金枝はまんざらでもない様子で、小間口の「あれは?」という質問に対し古代生物図鑑で培った知識で応えていった。ゾウの鼻のような管の先端にハサミを持つ五つ眼のシャコのような生き物を目の当たりにした小間口は、すぐさまカメラを構えシャッターを切る。

「それにしても、絶滅した生き物って変だよね。なーんか」

 小間口の素朴で小学生のような感想に、金枝は相槌を打った。

「うん。『あ、絶滅』って見た目してる」

「それな!」

 小間口が人差し指を立てて笑った。

(よし。なーんか上手くいってるんじゃないか?)

 金枝はしめしめと思った。

 その後も鎧のような鱗とギロチンのような歯を持つ魚に正面からタックルされたり、その二倍はある海竜に睨まれて二人で竦み上がったり、二十分間のツアーは大盛り上がりだった。

 それ以降は小間口との絡みもなく、昼食にステラーカイギュウのステーキを食べるなどして二日目の班行動が終わった。

三日目の班行動はというと、まずラーメン横丁で熊印のラーメンを食べ、北大の敷地を意味もなく通り抜け、JRタワーから夕焼け空を眺め、例の時計台にショックを受ける、といった模範的な修学旅行を過ごした。それ以上特筆すべき出来事はなく、観返教会の布教活動に街中で出くわしたり、観光中の蝶番型異星人と地下鉄で一緒になった程度だった。


「はぁー、さっぱりした」

 夜。ホテルの浴衣で廊下を歩きながら、金枝はのほほんとしていた。温泉から出た後の気分の良さを噛み締めると、

――こういう感覚を『いい湯だな』と表現するのだろう?

 ホルスが知った風な口をきいた。

「ああ、そうとも。夕食も美味かったし、今までで一番良い修学旅行だよ、今んとこ。しかも部屋にトイレが二つもある」

十八時半過ぎにクラスで食べたのは、カニだった。一週間前から貸し切り予約をしておいた札幌市内のカニ食べ放題の店で他の生徒が三種類のカニを交互に食べる中、金枝はズワイガニと毛蟹を無視してタラバガニだけを食べていた。

――なあ、美糸君。君は少し慢心してるんじゃないかね。

 頭の隅でホルスがぼやいた。金枝はふわぁと欠伸をする。

「慢心? 小間口さんと多少は仲良くなれたし、あとはどう切り出すかだけで――」

 廊下でホルスと話していると、丁度ドアが開いて同級生の男子が姿を現す。防寒用の外套をしっかり羽織り、見るからに出かける風貌だ。

「どっか行くの、今から」金枝が訊ねた。

「そうだよ。自由参加で、札幌郊外までバスで行って星空を見る。ロビーで集合だから、急がないと」

「へえー」

――美糸クン。私達も参加してみよう。

「めんどくせえ」

――参加しろ。参加。参加したまえ。

ホルスが珍しく駄々をこねた。金枝は仕方なく、部屋に戻ると急いで浴衣から普段着に着替え、先日ユニクロの抽選で当たった今流行りのライトダウンを引っかけ、ロビーへ向かうことにした。

 チン。と、明朗なベルの音があって、エレベーターのドアが開く。ロビーには金枝の想像よりも少し多くの高校生が集まって、がやがやがやとしていた。エレベーターを出てすぐのところに長卓が置かれ、その前で数人の生徒が並んでいる。傍の立て看板に貼られた紙には『札幌星空観測の参加希望者は名前を記入。※当日参加も可』と書いてある。

金枝がふらりと列に並んで、すぐのことだった。

「いいじゃん。その服」

聞き覚えのある掠れ気味の声がした。見ると、小間口が笑顔で金枝の服を指さしている。

「え、そう?」

「うん。学校で見る金枝より、全然良くみえる。かっこいいよ?」

 小間口に誉められて金枝の心は華やいだ。流行の服を着ているだけで、こんなに反応が変わることに驚きながらも平静を装いながら訊いた。

「小間口さんも星空観測?」

「そうそう。アンドロメダ座が見れるっていうから」

「じゃあ一緒に見ようぜ」

「えっ。うん。いいけど」

 小間口の目は少し驚いていたが、口からは承諾の言葉が漏れた。金枝は思わず「やった」と言ってしまい、小間口に笑われた。

――よーしよしよし。それで良し。

 ホルスも手放しで喜んだ。金枝は新品の紺のライトダウンに感謝した。


 あれだけ都会な札幌も郊外まで来れば自然の宝庫という感じで、当たり前のようにシカやキツネがうろついている。電柱一つない広い原っぱの真ん中で二台の大型バスから降りた生徒らは、激しい虫の合唱に気圧されつつも、アメジスト色の夜空一面に散らばる白い輝きに目を奪われた。

「はあ、きれぇー……!」

 小間口が感嘆の声を漏らした。その横で金枝は、澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。札幌郊外の夜の空気の美味さに金枝は感心しながらも、さてどう切り出そうかと思案した。

「小間口さん、ちょっと」金枝は小声で手招きした。

「話があるんだけど」

「は。どうしたの」

「人のいないところで話そう」

「うんオッケー」

 金枝は小間口を生徒の群れから連れ出すと、空になったバスの裏側に回った。

「なんなの。ヒグマとか出たら怖くね?」

 小間口が真っ暗な森を気にする素振りをみせる。金枝は唾を飲みこんだ。

「離人症なんだ、俺」

 金枝はきっぱりと言った。暗闇の中、小間口の息遣いだけが聞こえた。金枝が更に口を開きかけたその時、

「しっ、静かに」

 小間口が素早い動きで金枝の口を塞いだ。そして、パン、パン! と鋭く手を叩くと、バスの反対側に向かって言い放った。

「ねえ、どっか行けって。プライバシーの侵害なんですけど」

 少しの合間があってから、人影がぞろぞろとバスから離れていった。小間口はバスの下を覗き誰もいないことを確認している。

「何だあいつら」呆気に取られる金枝に向かって小間口がうんざりしたように言った。

「絶対、ウチんところの信者。私が危害を加えられないか監視してんの、マジキモイ。ごめんね、私だってやだよ」

――さすが観返教徒、どこにでもいるのだな。

 金枝がぞっとする中、小間口は何事もなかったかのような口調で言った。

「で、話っていうのは? 離人症が、なんとか?」

 気を取り直して金枝は告白した。

「実は俺、『誰が離人症なのか分かる』能力があるんだ。君の能力も把握してる。洗脳だろ?」

 小間口は言い淀んでいたが、やがて観念したのか落ち込んだ声で白状した。

「そう。そう……なんだよね。ていうかやば……それ、ずるくない? 一番隠したいこと、ばれちゃった……」

――洗脳されぬよう気をつけたまえ。

 金枝の意識の端で、ホルスの警戒を促す声が薄らと聞こえた。気をつけろって言ったって、どう気をつけんだよ。と、金枝は辟易した。

「待った、今俺のことを洗脳しようとしてないよな?」

「してないしてない」

 小間口が両手を胸の前で振った。

「だって私……はーん、なるほど」

 小間口は意味深な独り言を漏らす。金枝は気にせず考えを伝えた。

「その能力、有効活用しないか?」

 金枝は一呼吸置くと片手を広げ、いつになく熱弁をふるい始めた。

「ただでさえ、離人症は差別されてるだろ。なのに来月から、離人症の取り締まりが厳しくなる。来月だよ、来月の一日から太陽系一律。他人に何の危害も加えられない能力でさえ施設送りにされる法律なんだよ。小間口さんも、危機感はあるよね?」

「それは、もちろん。不安だし」

 小間口は思いつめた顔をした。

「でもさ、金枝。そんなこと言われても、私に出来ることなんて何も。はあ……」

 小間口は暗闇の中で目を逸らした。白い息が霧散する。

「威子口空を洗脳するんだ」

 金枝は低い声で告げた。小間口は小さく息を飲む。金枝は構わず話を続けた。

「そんなに深刻じゃない。威子口さんを離人症に理解ある人間へ変えるだけだよ。別に悪いことじゃないだろ」

「でも、それってさ……ううん」

小間口は歯切れ悪く、居心地悪そうに視線を泳がす。

金枝は、少し路線を変えて攻めてみることにした。

「威子口家当主の威子口八雲が、息子の威子口大地とその奥さんをテロで失って以来、離人症を強く恨むようになったのは有名な話だろ」

小間口は困り眉になりながら、こくんと頷く。今から十年前に起きたガニメデ星の宇宙ステーション爆破テロ事件は、六名の離人症持ちによる犯行とされていた。

「威子口大地の唯一の子が威子口空。現当主が周囲の大人の意見を聞かなくても、八雲の孫を洗脳して離人症の厳罰化に反対させれば、可愛い孫娘の言葉なら考えを改めるかもしれない。しかも、俺達は偶然彼女と同じクラスに在籍してる。こんなの、千載一遇のチャンスじゃないか。彼女が高校を卒業すれば、俺達は会話はおろか謁見すら難しくなるんだ。分かるか?」

 小間口は「うう」と小声を漏らした。金枝は軽く唾を飲み込む。握る拳に力がこもった。

「つまり、平汎高校の君にしか出来ないんだよ、洗脳は。仮に威子口八雲の説得に失敗しても、いずれ威子口さんが当主になれば洗脳も無駄じゃなくなる。俺達の為じゃない、これから生まれながらにして苦しみ続ける離人症状者を救う為、行動を起こさなきゃ駄目なんだ。離人症に理解のある人が上に立たないと。周りに何の危害も与えない人々が、びくびくしながら生きる宇宙なんて絶対間違ってるよ」

 虫達は金枝の演説などどこ吹く風で、マイペースに合唱を続けている。金枝が一息ついた時、先生の「バスに戻って、早く」という低く険しい声が、原っぱに響いた。

「あれ、もうそんな……」

小間口はポシェットから携帯端末をぎこちなく引き出すと、息を吹きかけ電源を入れた。星空観測は三十分間の予定だが、終了にはかなりの余裕がある。

 なんだなんだ。生徒らは戸惑いつつも、二台ある大型バスの、自分の席のある車両へ戻り始めた。金枝らは前の方の席で、金枝が通路側、小間口はその隣りの窓側の席だった。小間口が軽く右を向けば、嵌め殺しの窓からもう一台のバスが隣り合い停車している様子が窺える。

「不穏な気配だな」と金枝。

「まさか、さっきの会話、誰かに訊かれちゃってた?」

 小間口は少し心配そうに金枝を見つめた。

金枝が肩を竦めていると、学年主任の小池雄二、あだ名がゴリラの男性教師が手を叩いた。

「えー、みんな。伝えなくてはいけないことがある、頼むから落ち着いて聞いてくれ。今、私達のいる区画にバイオハザード警報が発令された」

「えーっ!?」

生徒の声が木霊する。車内がざわめいた。

「バイオハザード?」「マジのゾンビだ。マジゾン」

「静かに。状況がはっきりするまで、しばらくここで待機することになった。軽率な行動は取らず、バスの中でじっとしていなさい。念のため、ライトも点けないように。トイレに行きたい時は、先生に言うこと。いいね」

 そう言うと、小池主任はバスから降りて、隣りのバスへ説明しにいった。ふっと、車内の電気が消える。

「最近ゾンビ、出なかったのにね」

 小間口に話しかけられ、金枝は頬を掻いた。

「よりによって、修学旅行中かぁ」

 暗い車内で、周りの生徒は携帯端末で情報を集め始めた。しかし、詳細な情報は流れてきておらず、札幌市にハザード警報が出ているということしか分からない。

「やっぱり滅びるのかな、人類」

 生徒の一人が呟くように言う。

「最近こんなのばっかじゃん。地球に限らず」

「異星人との戦争も、負け続きらしい」

「星間防衛兵器を攻略されたせいだって」

「旧遺物の技術を流用したものなのに。それを破られちゃお終いだ」

「旧遺物……」

 ホルスが何か知っているのではないかと思い、金枝はぽろっと呟いてみたが、金枝の意識がはっきりしている為か、それともあえて無視したのか、ホルスは無反応だった。

バス車内での缶詰状態は一時間以上続いた。生徒らの不満は、次第に威子口へと向いていった。 

「ああーもう。何してんの、威子口は」

「最近ぱっとしないよな、威子口も」

「でも人類がここまで発展したのは威子口のおかげよ」

「つっても、旧遺物頼みじゃないか」

「そもそも未来予知による株や競馬の儲けで成り上がった連中だもの」

「未来予知出来るならゾンビが出る前に市民へ注意すべきだ」

「威子口空は? 同じ学年だよな。何か知ってるんじゃない」

 男子生徒の一人が冗談半分で、「威子口空さん、いますかー?」と名前を呼んだ。しかし、威子口空の返事はない。隣りのバスにもいない。そも威子口空は、この星空観測会に参加すらしていなかった。

「どうせ自分だけ、ゾンビの発生を国から知らされてたんだろ。威子口の者だから」

「だから来なかったんだ。普段こういうイベント、絶対参加するもんな」

 吐き捨てるように一人の生徒が言う。それを聞いた女子生徒が「よしなって」とひそひそ声で牽制した。

金枝がうんざりしながら水筒の麦茶で喉を潤していると、つんつんと小間口に肩をつつかれた。

「え?」

「金枝、あれ。なんなのか分かる?」

 小間口が震える指で、窓をトントンと叩いた。金枝は濡れた口を拭うと、隣り合うバス車内に目をやった。

 隣りのバスで何か揉めているようだが、あちらのバスも暗く釈然としない。金枝が目を凝らす。そして、無言で体を引いた。

周囲の生徒も、隣りのバスの異変に気付き始めていた。

一人の生徒が、野生動物を照らす為に持ち寄った懐中電灯を向かいのバスへと向ける。照らされたのは喉笛を噛み千切られて絶命した女子と、その女子の肉片を咀嚼する血みどろの男子生徒だった。バスの中は水を打ったように静まり返った。ピーッという音がして、運転手がバスの扉を無言で閉める。

隣りのバスから一人、また一人と人らしき影がふらふらと降りてくる。それらは金枝の乗るバスに両手をつくと、車体を叩き始めた。窓側の席の生徒は恐怖のあまり顔を背けた。誰一人、それらが生きた生徒なのか感染者なのか、ライトで照らそうとはしない。ホルスに寄生され夜目の利くようになった金枝には、右手の中指薬指の欠けた小池主任がゆらりと降りてくるのが見えた。

「し、出発します」

 五十歳前後の日焼けした運転手の憔悴しきった嗄れ声がして、バスはゆっくりと動き始めた。誰も反対する生徒はいなかった。バスを囲う人影を振り払い、バスは原っぱを抜け国道へと出た。バスは元来た道を戻り、札幌の街へ向かっている。

「金枝……札幌市内は、大丈夫なんかな」小間口は不安を隠しきれていなかった。

「さあ。感染爆発してたら、また引き返せばいいんじゃないか」

 金枝はライトダウンで覆われていない自身の両手に息をかけた。

「少なくとも市中にゾンビが溢れてるってことはないだろ。そしたらもっとネットでも大事になってる。一応、松葉に電話してみようか」

「じゃあ私もチイちゃんに連絡とる」

 二人は別々に電話をかけ始めるが、なかなか繋がらない。五分ほど経って、ようやく金枝の端末に反応があった。

「はい、もしもし」

「あっ、松葉? 今、どうなってる」

「どうって、どうもなってないよ。金枝今どこいんの、まさか外にいるの?」

「バスの中だ。星空観測で郊外へ出てて、もう滅茶苦茶だよ。これからホテルへ戻るって、先生に――」

 悲鳴。甲高いブレーキ音。左方向の遠心力がかかり、小間口の体が金枝にのしかかる。一瞬の浮遊感。バスが道を外れ、転がり落ちたのが分かった。金枝の体からさーっと血の気が引いた。

鈍く、重い衝撃があった。金属の破裂する悍ましい音が車内に響き、金枝の鼓膜をつんざいた。金枝の携帯端末はあらぬ方向へ飛んでいく。金枝は前の座席へ頭を強かに打ったが、意識が飛ぶ程でもなかった。

――なんともはや。厄介なことになった。

 ホルスが開き直った口調で言う。

――すぐ状況を確かめたまえ、美糸君。被害者面して、じっとしてる場合ではないぞ。

 鬼か、と思いつつも、金枝は目を開けた。

「大丈夫か……?」

 もたれかかる小間口に声をかけた。

「多分、生きてる」

 小間口が金枝の肩に手をつき、ゆっくりと体を起こした。そして、乱れた髪を犬のように振り、掠れ息を吐く。

「……どうなった?」

「見てくるよ」

 金枝は携帯端末を拾いあげ、ライトモードにした。車内は傾斜を感じるが、歩く分には問題ない。周りの生徒の息遣いが聞こえる辺り、被害はそこまでではなさそうだと、初めは思った。しかし、金枝がふっと前方へライトを当てた時、その考えは立ち消えた。

 大型バスの正面に、巨大なエゾマツが食い込んでいる。バスの顔面は真ん中でグニャリと拉げ、フロントガラスは無数にヒビ割れ蜘蛛の巣が張ったようにみえた。パカーンとドアは開きっぱなしで、冷たい外気が入り込んでいる。辺りは真っ暗。光は無い。バスは道路を外れ、森の中にあった。

 金枝よりも先に立ち上がった男子生徒が、運転席を覗いている。金枝が近づいていくと、男子生徒が金枝の方を向いて「ダメ。ダメだ」と伝えてきた。ちらっと見た限り、運転手の体の左半分がエゾマツと車体に挟まれ、まるで動く気配がない。鉄の臭いが強く匂った。謎の内臓が飛び出している。解体中の魚のようだった。金枝はもうそちらを見ないようにしながら、歪んだバスから降りた。

 バスは道路を外れてすぐの場所で木と衝突したようだった。落下した坂の傾斜も人の足で上がれるもので、金枝は少しほっとした。

「崖下にでも落ちてたら、目も当てられなかった」

――ポジティブなのは良いことだ。

 ホルスが軽口を叩いた。

坂を上るのは難しくない。草木を掻き分けると、舗装された道路が真っすぐ伸びている。生々しいブレーキ痕が地面に残り、ゴムの焼け焦げた匂いが漂っている。そして、道路には誰かが倒れていた。バスの運転手はこれを轢きそうになり、あるいは轢いて、焦ってハンドルを切ったらしい。

 多分ゾンビだろうな、と金枝が思っていると、結構な速度で走ってきたトラックがそれを撥ねた。撥ねられたそれは高く飛んでいき、道路にぼたりと落ちた。人間なら確実に即死している筈のそれは、もごもごと動き始めたが、今度は青い乗用車に無情にも轢かれると、とうとう動かなくなった。

 バスに残された生徒らは各自救急へ連絡を入れようとしたが、電話はなかなか繋がらなかった。また、何人かの生徒は体調不良を訴え始めた。身近で死人が出たせいなのかゾンビになる兆候なのか、判別のつきようがなく、車内は嫌なムードに染まった。

「具合の悪い奴は後ろへ行けよ!」

 男子の一人が苛々を隠さず言った。

「昇降口の傍でゾンビになられたら、困んだよ」

 すると、体調不良の生徒を看病していた女子生徒が言い返す。

「じゃあアンタ、後ろまで運べ! 具合が悪いんだから歩けないの。手伝えよ男なんだから」

「やだね、噛んできたらどうすんだ。自分の足で移動しろ。意識がないならともかく、まだ歩けるだろ」

「最っ低」

「少し聞いてくれ」

 バスの昇降口にいた金枝が怒鳴った。

「このバス、大して道を逸れてない。ちょっと歩けば、すぐ国道へ戻れる。ここで救助を待つより、一時間ちょっと歩いた方が早いんじゃないか」

「市内がどうなってるか分からないのに? 最悪、ゾンビだらけで麻痺ってことも」

 生徒の一人が言う。

「ここで夜を明かす方がいいのでは。ゾンビもこんな所来ないだろうし」

「既にゾンビになりそうな奴がいるんだぜ、車内に」

「決めつけないで! 具合が悪いだけよ」

 議論は収拾しそうにない。金枝が諦めて席に戻ろうとすると、ホルスの声がした。

――待て、美糸君。大人もいないこの状況、かなり危険だ。君がまとめたまえ。

「どうやって」

 小声でささやく。

――なに、問題を解決すればいい。今、何が問題になっているのか、分かるな?

 金枝は少々汗ばんだ髪を撫でつけると、お腹から声を出した。

「分かったよ。俺が具合の悪い生徒を最後列まで移動する。その代わり、具合の悪い生徒の口にハンカチ噛ませて、その上で頭にリュックを被せてくれないか。それなら安心して運べるんだが。紙袋でもビニールでもいいから」

 車内は静かになった。金枝は、前列でぐったりとしている女子生徒の傍に行く。既に看病をしている女子生徒が、口にハンカチを咬ませていた。

「誰か、空のリュックを貸してくれないか」

「俺ので良ければ」気前の良い男子が、空っぽのリュックサックを放ってくる。顔をリュックで覆い、金枝は体調不良の生徒を御姫様抱っこで後列まで運んだ。体調不良の生徒、計六人を最後方に詰め終わり、金枝は自分の席に座り一息ついた。

――美糸クン。見たまえ、皆が君を一時的にリーダーとして認めている。

 ホルスの言うように、周囲の視線が先ほどとは違うものに変わっていた。

――君がこの場の主導権を握ったのだ。

 それは不思議な感覚だった。昔からリーダーだとか班長だとか、そういった責任の伴うポジションと縁遠かった金枝にとって、それは初めての感覚だった。妙な高揚感を感じていると、小間口が少し感心したように言う。

「金枝って、いつもは頼りないのに、こういう時は結構……」

「協力してくれる気になったか? さっきの話」

 小間口は返答に窮していた。が、やがて観念したのか、掠れ声で「分かった」と言った。

「いいのか?」

「いいけど、そもそも無事に帰れる? 心配なんだけど」

 金枝は後ろを振り返る。体調不良の生徒らは荒い呼吸をしていた。

「感染とか怖いし」

「風邪と違って、噛まれない限り感染しないとか、なんとか。発症の原因も不明の謎の病気だから、決めつけるのはナンセンスかもしれないけど」

「隣りのバスに乗ってた生徒、どうなったの」

「分からない。多分、一斉に大勢が発症したんじゃないか。一人や二人の感染者だったら、ゾンビよりも先にバスから降りて異変を報せに来るはずだろ、誰かしら」

「じゃあ、ほとんどの生徒が感染してたってこと? 私達が平気なの、超ラッキーって感じ?」

「そうだな……。どうだろな?」

 思わせぶりに金枝が天井を見つめた。

――もしや、私に尋ねているのか。

 ホルスの反応があった。金枝が微かに頷く。

――君達、人類に降りかかっている奇病に対し、私も寄生前から興味があった。君が感染者を抱き運ぶ際に、彼らの体の情報を探った。

 金枝は何も言わず、ホルスの言葉を待った。

――結論からいえば、遺伝子が自然変容している。自壊、といえば分かるだろうか。

 ホルスが真面目な口調で話した。

――感染というよりドミノ倒し。連鎖反応でしかない。ウィルスの発生源はDNAそのものだ。『何を言ってるんだ』と君は思っただろう。しかし、ビッグバンが『無』から発生したのと原理は変わらない。『無』というのはビッグバンの発生し得る土壌であって、人体もまた、この奇病が発生し得る土壌だったという訳だ。

「訳わかんねえ」

「え、何が?」小間口が怪訝な顔をした。

「い、いや何でも……」

 金枝は咳払いして誤魔化した。

「とにかく、今は助けが来るまでここで――」

 俄かに、バスの前の方が騒がしくなる。最前列に座っていた生徒が、大慌てで立ち上がる。

「どうした?」

「ク、クマッ」

 切羽詰まった声がした。バスの中は、水を打ったように静まった。前列にいた生徒は無言で後方へ避難した。やがて、ギーギーとバスを引っ掻く野蛮な音がしたと思うと、ハアハア、ハアハアと獣の荒い息遣いが、車内に入ってきた。

――エゾヒグマだな。若いオスで、二メートルはある。

 ホルスが冷静に黒い獣の情報を述べた。大きな巨体が頭を揺らしながら、車内の空気を嗅ぎ、そしてゆっくりと、運転手の死体に覆い被さる。程なくして、生々しい咀嚼音と、骨の砕ける世にも恐ろしい音がした。女子生徒の一人が恐怖のあまり嗚咽を漏らす。

ヒグマが運転手の死体を、運転席から引っ張り始めた。ヒグマの強い力にかかると、運転手の体はただの軽い人形のように、いとも簡単に引き摺られた。

 そのままヒグマは、死体をがっちり咥え暗闇の中へと消えていった。

「今の、見ただろ」

 絶句と失望に包まれる車内で、真っ先に声をあげたのは金枝だった。

「今すぐここを出て、国道を辿り、市内へ向かおう。アレが帰ってくる前に。さあ早く!」

 金枝は勢いよく歩き出すが、誰一人ついてこようとはしなかった。訳が分からず、金枝は振り返る。

「どうしたんだ、急ごう」

「具合の悪い生徒はどうするの? 置いてけって言うの?」

 熱心に看病をする女子生徒が、心外とばかりに立ち上がる。金枝は「ああ」と即答した。

「だって、どうしようもないだろう。それとも、救助が来るまでヒグマに襲われ続けるのか。前からヒグマ、後ろからゾンビ化した生徒に襲われたいのかよ。バカか」

 金枝は口を噤んだ。自分への支持率がぐんぐん下がっていくのを感じた。金枝はうんざりした。

「はあ、そっか。人の集団が追いつめられると、正しい理性より間違った感情を選ぶんだな」

――美糸、もうよせ。アプローチを間違えたな。

ホルスが厳しい口調で諭した。

――君には威子口空のようなカリスマ性はない。強引にならず、慎重に言葉を選ぶべきだった。

「小間口さん。俺らだけでも行こう」

「ええーっ?」

 金枝は大股で小間口の席まで行くと、戸惑う小間口の腕を引いて、バスの通路を歩いていく。やがて、血の痕と鉄と獣臭さが鼻につくバスの昇降口まで来たところで、金枝の足が止まった。

(本当にこれで良いのか)

金枝の目の前には暗闇が広がっている。目を凝らす限り羆の姿はない。が、外へ出て、バスが落下した急こう配を生身で上ろうとして、背後からヒグマに襲われない保証がどこにあるだろう。そうでなくとも、札幌の街へは歩いて一時間以上かかる。小間口と二人だけの時に、ゾンビの群れやヒグマと鉢合わせすれば、片方、あるいは両方とも命が危うい。

「やめた」金枝がさっぱり言った。

「そう、そうだよね。それがいいよ」小間口は引き攣った笑みを浮かべ安堵の息を吐いた。

 金枝は小間口の手を引くと、バスの真ん中へ引き返す。そして言った。

「バスの中に留まるなら、ヒグマと戦うしかない」

 そう言うと、ぐるりと車内を見やった。

「あのクマは運転手を食べて人の味を知った。次に戻ってきた時、俺達は食べ物として認識されるってことだ」

「戻ってくるとは限らないでしょ」と女子生徒。金枝は指の関節を鳴らしながら言う。

「じゃあ、ヒグマが戻ってこないと信じて、何の対策も取らないとするか」

「クマと戦う武器とか何もないぞ、このバス」

生徒の一人が指摘する。金枝は頷いた。

「そう。精々水筒ぐらい。そんなの、役に立たない。非力な修学旅行生が三十人いたって、一人一人死ぬだけだ。冗談じゃない。無抵抗に食われるのはごめんだ。そうだろ?」

 生徒らはばらばらに頷いた。

「俺が言いたいのは、こういう時の為に『力』を授かったんじゃないのか? なあ」

 金枝は瞬き一つせずに言った。金枝の言葉に大半の生徒はきょとんとしていたが、はっとする生徒や、表情を強張らせる生徒もいた。

「そ、それって離人症の能力を言ってる?」

 女子の一人が恐る恐る尋ねる。金枝は無言で頷くと呼びかけた。

「離人症は五人に一人。バスの中に生徒が三十人弱。最低でも、五人はいるんじゃないか。ヒグマと対抗できる能力を持った人がいるなら、名乗り出て欲しい。みんなの為に、頼む」

 生徒らは顔を見合わせた。小間口は申し訳なさそうな顔をした。

――美糸クン、お目当ての離人症はいるのか。

 金枝はじっと息を凝らし待った。しかし、無反応。溜息をついた。

(やはり、今すぐでも小間口さんと、札幌の街を目指すべきなのか)

 その時、「あ、あのう!」と大きな声を発する男子生徒がいた。黒眼鏡をかけた真面目そうな、ぼさぼさ髪の、細身のマッチ棒のような生徒が、緊張した面持ちで手を挙げている。

「君は?」

「な、名桐だ。い、今まで誰にも言ってなかったけども、僕は離人症だ」

 見た目によらず低い声で男子生徒が告白する。

「僕の能力は、やもするとヒグマを倒せる」

 おー、と感心したような生徒らの声。名桐と名乗った男子はゴホンと喉を整えて言う。

「僕は、何にでもなりきれる。全身を包むスーツだとか、着ぐるみさえ、あれば」

「わぁーお。凄そー……?」小間口がぽかーんとした顔で名桐を窺う。名桐が黒縁眼鏡をくいと直した。

「つまり、特撮ヒーローとかアメコミヒーローのスーツとマスクさえあれば、空だって飛べるし、列車も止められるし、目からビームだって出せるってことだ」

 それはすごい、すごいと歓声が挙がる。名桐は照れたように頭を掻くが、小間口が思いのまま質問をして、事態が一変した。

「じゃあ、何のスーツ持ってんの?」

「……へ?」

「だから。スーツがないと、変身できないんでしょ? 今、何のスーツがあるの?」

 名桐は頭を掻いた姿勢のまま石のように動かなくなる。金枝は天を仰いだ。生徒らが段々と理解し始め、歓迎ムードの空気は急激に冷めていった。

――まさかと思ったがこの男、何の用意もないのか。こいつは、使えないぞ。

 と、金枝に寄生した宇宙人は辛辣な言葉を吐いた。

「誰か持ってないかな?」

 名桐が汗を垂らしながら縋るような視線を送る。

「コスプレ的なものでいい。なんでもいいんだ、なんでも」

「ねえ、誰か持ってない?」

「ない」

「持ってる訳ないだろ」

 生徒らが口々に否定の言葉を吐いた。名桐はどんどん縮んでいった。

「ほ、他に誰かいない? 後生ですぅ」

 小間口が両手を組み、祈るように言った。返事のないバス車内。ただただ、うー、うーと体調不良の生徒らが唸る声。それは次第に大きくなる。

「ねえ、様子がおかしい」

 看病をしていた女子生徒が、おろおろしている。

「もうゾンビになりかけてるんだよ。なっちゃん、離れた方がいいよ」

生徒の一人に促され、看病熱心だった夏目もとうとう距離を取った。付近にいた生徒らは、いつでも逃げれるようにバス席を立っている。

ガタッ、と物音がした。金枝は後ろを振り返った。バスを歪めたエゾマツの傍に黒い巨体が聳えていた。

 金枝の口内が苦くなった。ヒグマの再来に小間口も気づき、金枝の肩をぎゅっと掴む。

「ウソ。やだよ、金枝。どうすんの? ねえっ」

「おい、ホルス!」

 人目も憚らず寄生した異星人の名前を金枝は叫んだ。

――そうだな……ヒグマに生きて食われる前に、お前の体から出る準備だけはしておこう。

「このヤロウ」

 金枝は周りの男子生徒と一緒に、大声でクマを威嚇した。が、ヒグマは平然として、ゆっくりと此方へ近づいてくる。

「なんでもいい、投げつけろ!」

「分かった!」

 生徒らは手あたり次第、手元にあった物をヒグマのいる暗闇に向かって放った。ヒグマは鬱陶しそうな顔をして、物が当たらない昇降口まで後退していく。だが、物が飛んでくるのが止むと、また、のそのそと金枝らの方へ近寄ってきた。引っ込んでは、近づいて、引っ込んではまた近づくヒグマ。それを繰り返す毎に、ヒグマとの距離は縮まっていく。バスの最後座席からは、様子のおかしい生徒らの発する知性の感じない声が大きくなっていた。ヒグマとゾンビに挟まれ、生徒ら二十数名は恐怖のあまり、嵌め殺しの窓を叩き割ろうとし始めた。

 投げるものも無くなり、ヒグマは涎を垂らしながら距離を詰めてくる。金枝は死を強く意識した時、

「どいてっ」

誰かが、すっと金枝の前に出た。明るい茶髪の女子生徒だった。ヒグマの脇を通り抜けて逃げるつもりなのか。無茶だろ、と声をかけようとして、金枝は言葉を飲みこんだ。

女子生徒の体が泡立ち、ドロドロに溶けていく。芳しいカカオの香りが辺りに充満した。

「チョコレート人間……」

さっきまで女子生徒だったものは茶色い、人型の流動体となり、着ていたジャケット、ジーパン、ブラジャーにパンツまで、チョコレートの液体に流されて地面にドロリと落ちた。唖然としている金枝の前で、チョコレート人間の体から細長い針のような突起が何十本も生え始めた。対してヒグマは、目の前の人間が謎の変化をした為に毛を逆立てたが、甘ったるい匂いにつられて一歩、また一歩と前に出て、その正体を確かめようとした。

それは一瞬の出来事だった。液体のチョコレートがクマの体へ向かって、しゅっと吸い込まれた。いや、突き抜けた。ヒグマの巨体は光速のチョコレートに貫かれ、一瞬動きを止めた後、力なく伏せた。ヒグマの目には光が無く、事切れた後だった。

 チョコレートの滝の中から目玉が二つ飛び出し、ヒグマが死骸になっているのを確認している。そして、チョコレートは人型となり、そして泡を立てながら女性の裸体に変化した。

「おい、照らすな!」

 ライトを向けられた女子生徒が怒りの形相になる。怒られた生徒は慌ててライトを消した。女子生徒はだらんと垂れたヒグマの手を跨ぎ、床に落ちた衣服を拾い上げ、きびきびと身に着けていった。チョコレートの染みは一切ない。

「どうやって倒したんだ?」

 金枝の問いに女子生徒は腕組みをした。

「なんつーか。ウォーターカッター、みたいな? 殺したんだから文句ねーだろ」

「ゾンビもなんとか出来ないか?」

 最後列で白目を剥き、今にも起き上がりそうな生徒らを親指で差し、金枝が訊いた。チョコレートになれる女子生徒は三白眼の目を吊り上げ、不快な顔をした。

「嫌だね」

「どうして。人間だからか」金枝が食い下がる。

「違うよ。血液感染したくない」

「いいじゃんもう、金枝」小間口が急かすように言った。

「とにかくバスから降りよう」

「ちょっと待った」

 眼鏡をかけた七三分けの男子生徒が前に出てくる。

「穴だらけのクマの死体をここに残していくのは不味い。離人症状者の仕業とすぐにばれる」

「じゃあどうしろと。縄で縛って、皆で運ぶか?」

 金枝は皮肉を言いつつも、目の前の男が離人症であることに気づいていた。七三分けの男子生徒はしゃがみこみ、死んだヒグマの頭部を撫でつつ、目を瞑っている。

 むくり、と絶命したはずのヒグマが起き上がり、生徒らは悲鳴をあげた。しかし、ヒグマの目は白濁し、何も見えてはいなかった。ヒグマは声一つ出さずにバスを降り、森の中へと消えた。

 金枝達もバスを降りた。車内には、ふらつく人影しか残っていない。

「名前は?」

 クマを動かした生徒に訊ねる金枝だったが、「いやぁ」といってはぐらかされた。後ろからチョコレート人間の女子生徒が追い抜きざまに言う。

「何で言う必要があんだよ。あたしらにメリットがない」

――身元バレが恐いようだな。しかし、顔は覚えたぞ。

 ホルスが陽気な声をだす。

「ごめん、配慮が足りなかった。他意はないんだ。それにしても凄い能力だったな、二人とも」 

「死骸に試すのは初めてだよ」七三分けの男子が返す。

「今までは、石像とか人形しか動かしたことがなかった。死体の方が、簡単に動いてくれた」

「はーい、みんな。ちょっと聞いてよ」

 国道へ上がったところで、小間口の特徴の有るような無いような声質が暗闇に響いた。生徒らのお喋りが静かになる。

「離人症の生徒を守るために、口裏を合わせまぁす」

 小間口は、一枚のメモ用紙を取り出した。

「ここに、共通のストーリーを書いたから。ちょっと、全員足を止めて、読んで欲しいんだけど、いいでしょうか」

 小間口がメモ紙を金枝に渡す。そして、周りに聞こえない声で言った。

「読む『フリ』を」

金枝は無言で外灯の下に行くと、メモ紙の余白を流し見て、怪しまれないよう見計らい、別の生徒にメモ紙を渡した。

一通りメモが行き渡ったところで、生徒らは国道に沿って歩き始めた。

それから一時間半も歩くと、軍の交通規制を示す緑のランプが点灯しているのが見えた。

「助かった」と浮かれる者もいれば、軍人の携帯する銃身を目にして不安を抱く者もいた。

 平汎高校の生徒は、ぴたりと足を止めた。

「聞こえる?」「終末の音だ」

 金枝は顎を上げ、夜空を仰いだ。暗闇に低く響く、金属のパイプを風が通り抜けるような奇怪な音が轟いた。

「え、なになに?」

 小間口には何も聞こえないようで、きょとんとして周りの人の顔を見つめている。

――美糸クン。音よりも生徒の反応に注目してみろ。

「はい」

 金枝は仕方なく、生き延びてきた生徒の表情に目を凝らした。ほとんどの生徒は不安げに札幌の空を見つめているが、チョコレートに変身可能の気の強い女子生徒と、無生物を操作出来る七三分けの眼鏡の男子生徒は狐につままれたような顔をしてきょろきょろと周りを窺っている。役に立たないマッチ棒体型の生徒も同様だった。

――聞こえないのは離人症の生徒だけだ。興味深い。

「んなことどうでもいいよ。さあ、みんな行こうぜ!」

 金枝は手を叩き発破をかけた。立往生してしまったたくさんの乗用車やトラックの間を縫って、先へ進んでいくにつれ厳戒態勢のピリピリとした空気も高まっていった。グリーンランプに照らされた移動式の封鎖用ゲートの前まで来ると、「止まれ」と肩幅の広い軍人が歩いてくる。

「ここは今、国の命令で通行禁止だ」

「ああ、ですよね」

 金枝は手に息を吐くと、後ろを向いた。何も知らずにぞろぞろと歩いてくる生徒に手でバッテンを作り合図をしていると、

「君達。もしかして、平汎高校の生徒?」軍人が尋ねた。

「はい、そうですが」金枝が振り返る。

「生徒は、これで全員か」

「はい、一応」

 軍人は無言で、簡易テントの中で屯する仲間を手で呼びつける。背後にいた小間口が警戒するのを金枝は肌で感じ取った。

「君、大きいから高校生に見えないね」

 そう言うと軍人は、がしりと金枝の肩を掴んだ。

「ちょっと、来てもらえるか」

 グローブ越しの軍人の握力に金枝は顔をしかめた。軍人は肩口からレーザー銃を掛けていた。その銃口は常に、淡い水色の光をぽうっと吐いている。金枝はしかめ面のまま小さく頷いた。


 柔らかな朝の陽射しに金枝は目を覚ます。リモコンを押すと、カーテンが自動で開き、一人では贅沢すぎるホテルの一室に光が満ちた。五つ星のホテルだけあって、修学旅行で昨日まで泊まっていたそれとは格が違った。金枝は冷蔵庫からブドウジュースを取り、テレビを点ける。丁度、ニュースが始まったところだった。

「昨夜から未明にかけて発生した札幌のゾンビ汚染ですが、つい今しがた、政府から収束したとの発表がありました。この件で千葉からの修学旅行生を含む四十九名の死者が出たとのことです。現在発生地区は消毒作業が行われており――」

 木に追突したバスが青い火で焼かれているシーンが映った。傍にはブルーシートがかけられていた。

「もっと泊まりたかったな……」ワイングラスのブドウジュースを口に含みながら、金枝は独り言を呟いた。

 着替えを済ませ、ラウンジへ向かう。一階の黄金色のホールを通過すると、既に美味しそうな匂いが香った。

「おはようございます」

 ホテルの綺麗な受付に挨拶され、金枝はかくりと頭を下げた。昨晩とは全く違う世界だ。

「おはよう、金枝」

 ラウンジで小間口と一緒になり、金枝は自然と笑顔になった。

「何がおかしいの?」

「何もかも上手くいったから」

「人が死んでるんだよ」

 小間口が呆気に取られた顔で金枝を見つめる。「ごめん」と金枝は謝った。

「まあ……でも確かに、隔離の名目でイシグチグループ系列の超高級ホテルにタダで泊まれたし。さっすが、威子口って感じ」

 金枝は、熱いラザニアの入ったミニカップと、焼きたての目玉焼きが美しく載った白皿、そして見るからに旨いミニ海鮮丼をトレーに載せ、ついでにヨーグルトも取り、誰もいない丸テーブルの真っ白なテーブルクロスの上へトレーを滑り込ませた。小間口が朝食を載せたトレーを持ってうろついていたので、金枝は臆することなく同席に誘った。

「小間口さん、昨日のメモ紙。あれ、何て書いてあったんだ?」

「記憶を書き換える文言」

 けろりと小間口が言う。

「話してなかったけど、私の能力は文字を通して発揮する奴だから」

「じゃあ、朝食後に書いといてくれ」

 金枝はラウンジの入り口に佇む威子口空を見ながら言った。ラウンジのあちらこちらから拍手が巻き起こると、ソラは淑やかに会釈した。

「みんな現金だねえ。昨日悪口言ってたクセに」と小間口。金枝は念を押した。

「ねえ、小間口さん。実行は早ければ早い程良いんだよ。昨日の感染検査で、もしも離人症の検査も同時に行われていたら、俺達捕まってたんだぜ。来月からは、事ある毎に離人症のチェックが為される。法律改正が施行される前に俺達の出来ることをすべきだ」

「そう言うけどさー、金枝くん。ソラちゃんを洗脳したところでどうしようもなくない? だって、威子口のご当主様が主導してる奴じゃん」

 そう言いながら小間口は、桜色の鮭をほかほかの白米と共に頬張った。関東の鮭の味とは違うマグロのような旨みが小間口の口内に広がる。

「……つーか、金枝? こないだの球技大会で検査受けたんだよね、何で捕まらなかったの」

「さあ。偽陰性だったのかも」メイプルシロップをかけたヨーグルトの中へスプーンを潜り込ませながら、金枝はすっとぼけた。

「とにかくさ、威子口空さえ言いなりにしてしまえば、そっから取っ掛かりで当主を洗脳することだって難しくない。いいか、なる早だ、なる早」

 それから少し会話が途切れた。

「何て洗脳すればいい?」人目を気にしながら小間口が訊いた。といってもラウンジは広く周囲のテーブルには誰もいない。威子口空も顔を見せただけで、金枝らと会話もせずに姿を消している。

「そうだなぁ……」

金枝は静かに深呼吸をした。手っ取り早く、『俺の言うことには絶対服従の女にしてくれよ』というのが本音だったが、それでは小間口が難色を示すのは必至だった。

「色々と融通が利くようにしたいから『俺と小間口さんの二人の言葉には必ず従う』とか、どうだ」

「ふーん……」

 小間口はちょっと迷った顔をしたが、「それでいいか」と許可をした。

「あっ、変なことしないでよ。悪用厳禁」

「変なことって?」

「性的なこと」

「しないよ」

「怪しい」

 小間口に疑いの目を向けられ、金枝は言い返す。

「だったら『性的な指示には従わなくてもいい』と付け加えてくれよ」

「熱くなるところが余計に怪しい」

 小間口にからかわれていることに気づき、金枝はそれ以上何も言わずワサビとイクラのたっぷり載ったミニ海鮮丼を口に掻き入れた。ワサビ特有のツーンとした刺激が金枝の鼻から脳味噌へ突き抜ける。

――わっ、何だこの痛みは。こんなものを食べて人間は喜んでいるのか、危篤だ。

 ホルスはしばらくの間ブツブツとワサビに文句を言っていた。


 朝食を堪能した金枝と小間口は二人で歩いていた。ホテル内に流れる落ち着いたクラシック音楽が、五つ星ホテルの上質な雰囲気を更に高めている。

「いないね、威子口さん」小間口がギフトショップを覗きながら言う。白いチョコレート菓子や冷蔵ホタテ等のお土産コーナーに人が近づいても、安いスーパーのAIとは違って値引きやセールがコマーシャルされることもなく、しっとりとしたムードは保たれていた。

「ねー金枝。どうせ明日学校で会えるんだし、今日じゃなくても――」

「いた」

 金枝の視線の先、ガラスを隔ててホテル外に広がるトロピカルな庭園。その中に設置された、カーテンの付いた六角形の西洋風あずまやの白いソファにもたれかかり、威子口空はうたた寝をしていた。

 二人は庭園に出た。寒冷地仕様に改良された赤いハイビスカスや白のプルメリアの花々が色鮮やかに咲き乱れ、それらの発する淡い芳香が二人の鼻腔をくすぐる。

「威子口さん」

 威子口空は膝元に読みかけの文庫本を置いて、気持ちよさそうに目を瞑っている。靴と靴下はソファの手前に綺麗に揃えられ、素足だった。無防備な色白の太ももは若々しく、見るからにすべすべしていて金枝には眩しかった。

もう一度名を呼ばれ、威子口空は薄目を開けた。

「ああ……金枝君。君が無事で、安心したよ」

 そう言ってソラはうーんと背伸びをした。膝上の文庫本がするりとソファと太ももの間に挟まる。

「私もいるよ?」小間口が身体を揺すり、笑顔を作る。

「ああ、ごめん。気づけなくて」ソラは髪を撫でつけた。

「そうだ威子口さん。昨日のゾンビ汚染の件で見て欲しいものがあるんだ」

「ん、何かな」

 小間口は上着の胸ポケットから、折り畳まれた洗脳の文言の書かれた紙を取り出し、威子口空に手渡した。

「えーと……これは?」ソラは少し困ったように笑った。金枝は作り笑いを浮かべた。

「いいから、読んでみてよ」

 威子口空は嫌がることなくメモ紙に目を落とす。

一秒、二秒、三秒。五秒経ち、十秒が経った。

「……勝った」そう呟く金枝の拳は小さく震えていた。

「威子口さん? どうかな」

小間口に訊かれても威子口空はただ静かに洗脳文章を見つめている。

「小間口さん。もういいか?」

「うん。かかってると思う」

金枝はごくりと唾を飲みこむと言った。

「威子口空、命令だ。これ以降、金枝美糸と小間口伊穂に対するいかなる攻撃的な行為を禁じる。むしろ保護しろ。そして、これからは俺と小間口伊穂の命令には絶対服従するんだ」

「ソラちゃん。離人症状者全体の境遇を改善して。マジのお願い」

金枝は威圧的に、小間口は真剣な面持ちで威子口空に頼みこんだ。

ソラは目を伏せ、すらりとした両脚を折り、自分の膝を胸元へ手繰り寄せた。そして、目元に指を押し当てる。

ぽろっと、何かが零れ落ちた。それは、コンタクトレンズだった。しかも中央が黒く塗り潰されている。もう片方の目も同様に、ソラは奇妙なコンタクトレンズを外した。金枝は訳が分からずその光景を見つめた。

「金枝美糸。小間口伊穂」

威子口空は二人の名前を呼び捨てる。白い歯が覗いた。ソラはゆっくりと唇を滑らせた。

「残念。筒抜けなんだよ」

「え……?」

小間口は驚きのあまりぽかんと口を開け、金枝は無意識に小間口の方を見やったが、何の前触れもなく金枝の視界がぶれた。金枝の体は強い力で地面に叩きつけられた。小間口が悲鳴をあげる。

「動いたら殺す」煉瓦の床に押し付けられた金枝の耳元で北形雅が低音を発した。北形がステルス機能を解くと、同じくステルス機能を解除した特殊部隊の隊員らが電気銃を向け、金枝らを取り囲んだ。

「どういうことだよ、威子口さん。俺達はちょっと、からかっただけで――」

「君のことは屋上の一件以来、ずっと盗聴してたんだ」

ソラは涼しい顔で告げた。金枝の顔が青ざめる。ソラはコンタクトを手の平で転がした。

「このコンタクトは、視界を遮断する為のものだ。まあ、細かい話は後にしよう。今は二人とも、大人しく寝ていてくれ」

 二人は両手を拘束され、頭に黒い袋を被せられた。真っ暗になる視界。自分の荒い呼吸しか聞こえない世界。視覚と聴覚を奪われ、触覚しか手がかりのなくなった金枝と小間口は、首筋に冷たい金属のハンコを押し当てられた感触があった。刹那、チクリと点の痛みを感じ、やがてズーンと鈍い痛みが全身に広がる。二人の意識は遠心力で振り回されたようにぐるぐると渦を描き、それからはもう何も考えられなくなった。

 脚をだらしなく放り出し、床に伸びたクラスメイトをソラはソファから一瞥すると、隊員らに告げた。

「彼らの処理の仕方だが、私に任せてくれないか」

「構いません。我々は、深入りしません」

 隊長がくぐもった声で答える。ソラは愉悦の笑みを浮かべた。

「賢明だ。では、彼らを私のプライベートジェット機まで運んでくれ。それと、君らの部署に伝えておこう。ボーナスをしっかり弾んでおけと」

 隊長は頭を下げると、隊員に対し、例のスーツケースを持ってくるよう指示した。人が入る大きさのスーツケースが二つ、ホテルのカウンター裏に予め用意されていた。

「お嬢様、学校側へは適当な都合をつけておきます」

 北形が手の土を払いながら言った。北形だけは何の特殊スーツも着けずに姿を消していたので、隊員達は金枝らの体をスーツケースに仕舞いながらも、奇異の目で北形を盗み見ているが、北形は説明する気もなかった。

「お嬢様。小間口伊穂の家族に対しては、どう説明しましょうか。金枝家は一般家庭ですが、小間口家はおそらく信者を使って娘の安否を探ってくるかと」

「そちらには私から話す」

 ソラはおもむろに足を組んだ。

「自分の愛娘が離人症であるという検査結果も伝えてやる。本来は施設送りだが、彼女のことは解放する」

「観返教に、貸しを作ると?」

「ふふ、そうだな……」

ソラは機嫌が良かった。人差し指と中指で北形を傍に寄せる。

「北形、耳を」

 腰を屈める北形。耳元でソラがささやいた。

「彼らは邪魔で、鬱陶しい。娘を交換条件に、リアース計画から手を引かせようと思う」

 北形は息が止まりそうになりながら、姿勢を正して一歩、ソラから身を引いた。『リアース計画』という言葉を北形が聞いたのは人生で二度目だった。ソラはほんの少し冷ややかな眼差しを北形に向けていた。北形の首筋から、つうと汗が垂れた。目の前にいる誰よりも知っている筈の人物が北形は空恐ろしくなった。


「どうしたものか」

暗い黄金の部屋でホルスはソファに深々と腰をかけ、頬杖をつき、独り思案に暮れていた。と、無作法にドアを叩く音。次いで、ドアがバタンと開いた。ホルスは不機嫌な顔で立ち上がると、侵入者の方を振り返り言う。

「どこの無礼者だ、人の心にずかずか入ってくるのは」

「悪いなホルス、俺だァ。しっかし、ずいぶんと居心地が良さそーだな」

 入ってきた男に、ホルスは見覚えがなかった。白い三日月が頭になっている長身痩躯の男で、緑色の苔に覆われたロングコートは襟を立てている。その下は白衣。爪先の長いブラウンの革靴を履き、服の間から見える肌の色は黒を通り越して漆黒という外なかった。

「ホルスお前、誰か連れ込んだんか? 何かクセーな」

「名を名乗りたまえ」

 ホルスが口を尖らせる。三日月頭は黒い手で頭を掻いた。

「シモワだよ。フェーグルトフェトのシモワ」

「では最初に名乗りたまえ」ホルスがうんざりしたように言う。シモワはわざとらしく肩を落とした。

「なんだよーう。形を持たないフーピー同士、せめて同僚の俺くらいは見分けてくれると思ったのになァ」

「何の用だ、わざわざ。私は今、ニンゲンの寄生体験中で――」

「知ってるよ。でも残念だがお前の負けだ、ホルス」

 シモワがくるくると長い指を回しながら言った。ホルスは目を細める。

「何がだ。詳しく話せ。もったいぶるな」

「どうしようかねぇー」

 シモワが口笛を吹き始めた。ホルスがステッキで床を叩く。

「おいシモワ。情報共有なら光化状態になって私の宿主と接触しろ。一瞬で済む」

「そんなの、機械的すぎだろォ。コミュニケーションをもっと大事にしなさいって、学校で習ったでしょうが」

 ホルスは呆れ、シモワに背を向ける。ホルスの広い背中に、乾いた声がぶつけられた。

「大老議会が、ニンゲンを正規寄生先に指定する計画を白紙に戻したんだよ。というか中止だ。もう一度言おう、中止」

 ホルスはゆっくりとシモワを振り返った。

「代わりに俺の推薦する種族が正式採用された。つまりホルス、お前の完敗」

「信じられん。大体――」

「欠陥が見つかったんだよ」

 シモワは砂でも払うような動作をしながら言った。

「なあ気づかなかったか? ニンゲンという種には、自ら滅びたがる性質がある。馬鹿にしてる訳じゃねえ、遺伝子レベルでそうなんだよ。発表した論文読むか?」

 シモワは懐から十枚程の紙の束を引っ張り出すと、宙に放り投げた。空中に舞った紙は一枚一枚折り畳まれていき紙飛行機に姿を変え、すいーとホルスへ飛来した。

「どちらさんがやったか知らねーが、大昔に遺伝子介入を受けた痕跡があった。ちなみに、お前を贔屓してるお偉いさん、責任取って首吊ったぜ? いや、首じゃない、足だったかな。どっちでもいいかな」

 シモワはびしりとホルスを指差し言った。

「とにかくだ。ホルスお前、後ろ盾なくなってんだよ。寄生遊びに夢中で、気づかなかったんだろ」

 ホルスは無言でステッキを回しだした。あまりに回し過ぎるので、ステッキはあらぬ方へ飛んでいった。シモワは肩を竦めた。

「ご愁傷様だね。昔のヨシミで教えに来てやったんだ。俺に八つ当たりすんなよ?」

「不快な奴だな、貴様は」苦虫を噛んだような口調で言葉を吐くホルス。シモワは能天気な調子で続けた。

「悪いねえ。つうか、お取込み中だった? お前の寄生してる個体、やばそーだぞ。おかしな機械に括り付けられて……」

「私の宿主の心配はいい、もう帰れ。さあ、帰りたまえ!」

「はいよーっ。言われなくても、何か嫌な感じがするわここ。ナガイムヨ~って感じ」

 しっしっとハエを払うようにホルスはシモワを追い出した。部屋がすっかり静かになると、ホルスは深く溜息をついた。

「おのれ、シモワめ。私のいない間に、妨害工作をしたな」

 しかしホルスは半分納得していた。寄生して分かったのは、人類という種は生い先短い。その前兆はあちこちに見受けられた。

「潮時か……」

 ホルスは自分の部屋を見渡した。とても住み心地の良い空間だったが、これ以上居残る意味は薄い。ホルスは名残惜しみながら、部屋の外へ出ようとした。

「うん……?」

 ドアノブが、回らない。ホルスがどれだけ力を込めようと、微動だにしない。ホルスはショックで言葉を失った。この空間はイメージを具現化したものに過ぎず、ドアが開かなくなることなど有り得ないことだった。体験したことのない未知の現象に薄ら寒いものを感じ、ホルスはドアの前でしばらく立ち尽くしていた。


「俺は、どうなった」

 最初に目に入ったのは、薄気味悪い緑色の天井だった。右、左。そして自分の体へ、金枝は恐る恐る目をやった。

そこは手術室だった。金枝は手術台にあおむけで寝かされていた。四方からライトを浴び、手足は拘束されているのか動かない。金枝の体には緑の布がかけられ、下がどうなっているのか窺い知れなかった。部屋は消毒液の匂いに混じって、何故か焼肉屋の匂いがした。金枝の頭にはひんやりとした金属の機械が装着されており、傍には、よく分からないデータを収集するモニターが鎮座している。そこから伸びる細い管は緑の布の下、金枝の体へ繋がっているようで、モニター画面に映る情報は自分のものだと金枝は察した。また、近くの台にはメスや剪刀、血液の吸引機に加え、電動ノコギリやペンチ、ハンマーなど物騒なものも置かれていた。現実感のない光景に金枝は呆気に取られていたが、段々と自分の置かれた状況を理解し始め、喉元から嗚咽が漏れた。不安で潰れそうになる心を落ち着かせる為、金枝は叫んだ。

「嫌だッ、助けてっ。小間口さん……? 誰でもいいんだ、誰か……いないのか」

 思わずホルスの名前まで叫びそうになる。金枝は言葉を飲み込み、体の拘束が外れないか力を入れた。案の定、びくともしなかった。 

 コツン、コツン、コツ。外の廊下に響く無機質な靴音に、金枝は寒気を覚えた。それは確実に金枝のいる一室へと近づいてくる。金枝はパニックになりかけたが、次第に落ち着いていった。ホルスが金枝の感情を調節していた。金枝はホルスがいることに少しホッとした。

 だが、扉の開いた先に立つカルテを抱えた威子口空の白衣姿を目の当たりにした時、金枝の心はまた恐怖に苛まれた。

「やあ。金枝君。調子はどうかな」

「威子口さん。わ、悪かった」

 金枝は自分の口から謝罪の言葉が漏れ出しているのに気づいた。

「ごめん。ごめんなさい。俺が悪かったんです。だから俺で、人体実験しないで……」

「ああ、反省したの? それは良かった」

 ソラはケラケラと笑うと、手術台の金枝の顔を覗き込み訊いた。

「君の中にいる『ホルス』というのは、君に寄生した生物の名だな?」

 金枝が言葉に詰まっていると、ソラは淡々と言葉を紡いだ。

「正直に言った方がいい。でないと君の粗末な脳味噌を頭蓋骨から取り出し、培養液の中で飼育するぞ。ちゃんと視覚装置を君の脳に差し込んで、自分の体が脳味噌なのだと認識できるようにしてやる。そうなったら人間がどんな反応をするのか、昔から興味があったんだ」

 金枝の体はがくがくと恐怖で震え始めた。ソラはクスッと笑うと、金属台の中から電動メスを取り出し言った。

「金枝君、この部屋の匂い、分かるか? この、肉の焼けたよう匂い」

「わ、分からない……」

「これはね、患者の肉をレーザーで焼き切った匂いなんだよ。ホントだ。信じられない? 手術室で焼肉の匂いがするなんて、おかしい?」

 金枝の顔からみるみる血の気が失せた。

「な、何を……」

 ソラは爽やかな笑顔を浮かべ金枝の頭の機械を取り外すと、言った。

「これから君の頭蓋(とうがい)を開けます」

「え……」

「本当に焼肉の匂いがするか確かめたいだろう?」

 シュイーン。電動メスの電源が入る。金枝の中で何かが壊れた。

「……い、言いますっ! ホルスッ! 俺の体の中に、ホルスがいます!」

 金枝は顔面蒼白でホルスの名前を叫んだ。その瞬間、金枝の心は千本の針で突き刺されたような、果てしない後ろめたい感情が押し寄せ、胸が張り裂けようになった。金枝はもう後悔の念で死にたくて死にたくて仕方がなかった。

「アハハ、面白いなッ」

 ソラは目をキラキラと輝かせモニターの数字を指差した。

「君に寄生した者が抵抗してる! なるほど……」

 ソラは楽しそうにメモ書きをすると、また金枝の方を流し見た。

「金枝君。脅かしてごめんね。自分を裏切ろうとする宿主に対して、寄生者がどういう反応をするか知りたかったんだ。決して君を傷つけるつもりはなかった。許してくれ」

「……ウソだ。ウソだ嘘だウソだ!」

 金枝は目をひん剥いて悲鳴をあげた。ソラが面倒くさそうに首を横に振った。

「ホルスさん? 宿主が発狂しかかってるから、何とかしてあげて」

 すると、金枝の心はすっと穏やかになる。

「もう……訳が分からない」

気づくと金枝は泣きながら笑っていた。

「さて、本題に入ろうかな」

 金枝の感情が落ち着くのを待ってから、ソラが言う。

「金枝君。私は昔から君のことが好きなんだ。特に顔が好みで」

「嘘をつくな」金枝は反射で否定した。

 ソラはにこりと屈託のない笑みを見せると続けた。

「本当に好きだ、フーピーに寄生された君のこと。力を借りたい、フーピーに。ホルスとはどうやって話が出来る?」

「……話したかったら、せめてこの拘束を解けよ!」

 金枝が怒鳴る。と、パチンと金属音がして、金枝の手足を締め上げていた金属が引っ込んだ。金枝は拍子抜けしながらも言った。

「体の、管は?」

 ソラが無言で緑の布を剥がした。金枝は半裸だった。管の先端はただの吸盤で、ソラがその管を束ねて引っ張ると、金枝の胸や腹に付いた吸盤はチュポチュポと音を立てて外れ、管の先のモニター画面はエラー音を吐いた。

金枝は上体を起こした。そして、黙って自分の両手を見つめ、手を開いたり閉じたりした。

「至って健康だったよ、左目を除けば」

 ソラがカルテを見ながら言う。金枝は裸足で床に立つと、ソラに掴みかかろうとしたが、足がふらついてこけた。冷たい床に両手をつく。

「いいの? 私にそんなことして」

 ソラが少し焦った声を出した。

「また、昨日みたいに北形に叩きつけられたい?」

「昨日……? 一日、経ったのか。何時?」

 ソラは左手首に視線を落とす。

「朝の六時」

「というか、ここどこ」

「東京。君のご両親には、ゾンビ感染の再検査でご子息の帰りが遅れると伝えた」

 金枝は起き上がると、手術台に手を置きながら訊いた。

「昨日、北形はどこにいたんだ? 透明人間なのかよ、アイツ」

「北形はサイボーグ」

 ファミレスでハンバーグを注文するような調子でソラは返した。

「サイボーグ、だって?」

「そう。元々は、私の子供の頃の遊び相手。可愛い男の子だったよ」

「男の子?」金枝が怪訝な顔をする。ソラは肩を竦めた。

「私を悪い人から守りたい一心で、体を機械にしたの。その時に、いつも一緒にいられるよう女性型の体を選んだ。よせばいいのに」

 ソラはやれやれと両手をあげた。

「優秀なサイボーグでステルス機能搭載、姿を消せる。今もここにいるかもしれないし、いないかもしれない。一つ言えるのは、金枝君と伊穂が庭園であんなことしなければ、北形があの場に出てくることもなかった」

――美糸君、警戒しろ。

 ホルスの険しい声が脳内に響いた。ただならぬ気配に金枝が訊ねた。

「ホルス、どうした?」

「君の友達?」

 ソラが興味しんしんという様子で金枝に近づいた。

「ご機嫌いかがですか。私は威子口空。仲良くしましょう、ホルス」

――美糸君。私のことはいい、とりあえずコイツから情報を引き出せ。

 ホルスからの注文を受け、金枝は一旦息を整えた。

「どうしたの、金枝君」

「威子口さん。ホルスが、君に幾つか聞きたいことがあるってさ」

 金枝の些細な嘘を見抜いたのか、ソラは可笑しそうに顎を引いた。

「ふふ、しょうがないな。特別だぞ?」

「全部、俺の、俺達の企みはバレてるのか?」

 ひとまず金枝は現状を探ることにした。

ソラは小さく頷く。

「だって、盗聴してたからね」

 ソラは開き直ったのか、朗らかな声色で白状した。

「君が私に告白したのも、小間口伊穂の洗脳能力を利用して私を手中に収めようとしたのも、全部ホルスの入れ知恵なんだろう。違う?」

「違わない。さすが威子口さん」

「その『威子口さん』っていうのやめない? 白々しい」

 ソラに見透かされ、金枝は言い直した。

「分かったよ、威子口ソラ。俺はアンタのことが大嫌いだ。初めは良い人かと思ったのに、とんでもなかった」

「利用したから? 私がクラスに溶け込む為の踏み台にしたのを怒ってるのか?」

 涼しい顔でソラが言う。金枝は怒りに任せて叫んだ。

「そりゃ怒るだろ!」

 金枝は奥歯を噛み締めた。

「よくも、俺をコケにしやがって! 四年間も!」

「ごめんなさい」

「……は?」

「謝らせて。本当に、ごめんなさい」

 ソラは真摯な表情で金枝を見つめた後、長いこと頭を下げていた。金枝はそれを苦々しい顔で見つめていた。

「なあ、ソラさん。そんな演技に引っかかるほど、俺は甘くないんだよ」

 ソラはゆっくりと顔を上げると、困った顔で金枝を見た。

「はあ、昔の君なら引っ掛かってたのにな」

「かもな。俺は昔と違う」

「君は変わったよ」

 ソラは何事もなかったようにカルテのページをめくった。

「身体能力もIQも飛躍的に上がった。といっても、常人の範疇で。スーパーマンみたいに飛んだり跳ねたり、筋肉で銃弾を弾くなんてことは出来ないし、スーパーコンピューターのような演算能力もない。あくまで人の限界を超えないレベル」

「別に文句ない」金枝が感想を言った。

「離人症の能力も多少扱えるらしいな?」

「まあね」

 ソラが「ふーん」と自分の滑らかな顎を擦りながら、金枝を見据える。

「私が一番欲しいのはフーピー人の知識なんだ」ソラは囁くように言う。

「中間考査の件。IQがいくら上がっても、満点は取れない。知識がないと。あれはフーピーが予め所持していた知識でしょ」

「そうだよ」

「フーピーについても調べた」

 ソラはトントンとカルテを叩くと、艶のある低い声を出した。

「結果を先に言うとだ、君の体内にフーピーらしきものは見つからない。噂通り、物理的な肉体を持たない種族のようだ。でも君の左目に異常が見つかった。君の左目は失明している」

「……は?」

 予想外の言葉に金枝は首を横に振った。

「んな馬鹿な。俺、見えてるよ」

「それはフーピーが見せてるだけで、実際は何も見えてない。フーピーが君の体から出てったら、プツンと真っ暗になって片目の視力は無くなる」

「ホルス、嘘だよな……?」

――いや、本当だとも。

 さらりとホルスが肯定する。金枝はぎょっとして自分の左目頭に触れた。

「何で。何で、隠してた……?」

 ショックを受ける金枝に、ホルスが説明した。

――隠すも何も。むしろ何故、そんなにショックを受けるのだ? 義眼にすり替えれば、視力は高い状態でキープされるのだ、問題あるまい。義眼の費用はちゃんと払ってやるつもりだ。

「人の元々の体をなんだと思ってんだよ!」

 金枝は泣きそうになりながら叫んだ。

「義眼なんて作らなくていいなら、作らない方がいいに決まってんだ! 拒絶反応が起こる可能性だってある! それに――」

――分かった分かった。すまなかったと思っている。

 反省の色が欠片もないホルスの謝罪。金枝は怒りをどこにもぶつけられず、意味もなく手術室をぐるぐると歩いた。

「もし左目に不具合があるなら、私の方で最新の高性能義眼を用意しようか」

「ああ、それはありがとう。ホルスと同じことを言ってるよ君は」

 金枝は苦い顔でソラを見つめた。ソラは少し気まずそうに視線を逸らしながら言った。

「ああ、それとね。フーピーには宿主のメンタルや体の調子、血行を整える作用もある。寄生する生物の中では、かなりメリットがある寄生生物だと思う。さっきの感情の和らぎもそれだな。君も気づいてるだろう?」

「ああ、知ってる。寄生されてから、目覚めとか凄い良くなったよ。ホルスからも説明を受けた」

「じゃあ、これは気づいているか? 君は中学の頃と比べて、だいぶ……」

 ソラは少し言い淀んでいたが、勢いをつけるように言葉を発した。

「『クズ』になってないか?」

「……クズに?」金枝がオウム返しで言った。

「そう。いや、自覚はないかもしれないが、明らかにクズのエゴイストなんだ。以前の金枝君はもっと優しかったというか。うん」

 ソラは濡烏色の髪を揺らし、少し考える仕草をしている。金枝は口元を歪めた。

「なあ、威子口ソラ。君は他人をクズ呼ばわり出来るほど聖人か?」

「いいえ。自分の悪いところは自覚してる。君はどう?」

 金枝は否定しようとした。だが、離人対策庁の役人に似たようなことを言われたことをふと思い出した。

「確かに。俺はクズかもしれない」

 金枝は認めた。

「やっぱり」

 ソラは少し嬉しそうに金枝を見つめると、きょろきょろと辺りを見回した。

「北形。服は?」

 少し合間があって、綺麗に折り畳まれた金枝の衣服が手術台の上に表れる。金枝は「どうも」と言いながら、それらの服をさっさと着た。

「おそらくホルスは――」

 ソラが推論を披露した。

「君の本能を抑えこんでいた理性を和らげ、自分勝手さを推奨している。きっと、君の言動で他人が被る迷惑より、宿主のストレス軽減のメリットを選んだんだろう」

「そうなのか、ホルス?」

 金枝が尋ねると、ホルスは静かに答えた。

――私に他意はない。君が活き活きと生きると、周りからはクズに見えるというだけだ。こと人間社会においては、あがり症の正直者より平気で嘘をつける小悪党の方が周囲からの好感度は高くなるらしい。そして、はっきりいって君の本質は後者だ。その本質を自分で無意識に押さえつけて、無理やり善人になろうと足掻く、その必要性を私は感じなかった。

「ホルスは何て言っている?」

 ソラに訊かれ、金枝は真面目な顔をして言った。

「こいつが言うには、俺は生まれつきのクズで、どうもそっちが本当の俺らしい」

「ははぁ。なあ、金枝君」

 ソラが穏やかな顔で言った。

「優しさというのは、心に余裕がなければ生まれないものだよ。生きるか死ぬかの世界では、他人への優しさなど足枷でしかない」

「何が言いたいんだ?」

「これから先の世界は、今の君の方が都合が良いってこと」

 ソラは姿勢よく手術室のドアを開け放った。室内の息苦しい雰囲気がすっと消えた。

「コーヒーでも飲みながら話そう」

 ソラは誘うように軽やかにステップを踏み、手術室を出ていった。金枝は、白衣のソラの欠点一つない後ろ姿に内心見惚れながら、彼女の後ろを歩いた。手術室の外は白い壁の長い廊下が前を突っ切り、手術室を出て右へ曲がると、進行方向の右側の壁には大きく丸い窓がずらっと、一定の間隔で嵌め込まれている。金枝は歩きながら、窓の内部を流し見ていった。多人数向けのカラオケルーム程度の広さの、がらんとした個室が、幾つもあった。

「あっ」

マグカップを両手で持ち、アイスココアを啜っている小間口と、金枝は目が合った。

「小間口さん!」

 金枝に気づいた小間口が嬉しそうにパクパクと口を動かすが、声は全く聞こえなかった。金枝はとりあえず手を挙げると、小間口も同じ動作をした。親指を立てると、小間口も立てた。

「ねえ金枝君。そんなパントマイムしなくても、伊穂とは後で好きなだけ会えるよ」

 ソラは少し不満そうな態度を取って、足取りの遅れた金枝をじっと待っている。

――美糸君、とりあえず威子口空についていけ。彼女にヘソを曲げられるのはマズいぞ。

「分かったよ」

 

 ソラの案内した部屋は、幾つもテーブルが並び、一見すると食堂車両のようなところで、曲線を描いた壁と天井の造りは、宇宙船のダイニングルームのようでもある。部屋の奥の硝子扉から望める渋い枯山水の庭園は朝一の陽を浴びて煌々と光を宿していた。

「この建物はなんなんだ?」

 微かな風を天井から感じ取りながら金枝が尋ねる。ソラは部屋の電気を点けつつ、口を開いた。

「元々は迎賓館、異星人向けの。でも、今この区画に関しては老朽化で使用禁止。つまり、実質私のプライベート空間なんだ」

ソラがバーカウンターの操作パネルに手を翳すと、コーヒーメイカーの機械が作動した。ガリガリガリガリと豆の挽かれる音。ボフンとお湯が沸騰、螺旋の管を熱湯がクルクル流れ始め、最終的には黒い液体が純白の磁器にジョボジョボと注がれた。コーヒーの芳醇な香りが湯気と共に立ち昇る。

「北形。二人分の朝食を」

「はい、お嬢様」

 どこからともなく現れた北形雅がエプロン姿でキッチンに入っていく。北形はパン用のナイフでフランスパンを幾らか切り取り、オーブンへセットすると、今度は冷蔵庫から生卵とソーセージを取り出し、油の垂らしたフライパンでじゅうじゅう焼き始めた。香ばしいブレックファストの薫りは食欲をそそるのに十分なもので、金枝は口惜しくなりテーブルの上の木製バスケットに手を入れると、ボール型のミルクチョコレートを掴み、包装紙をめくって口内へ放った。

「うっ!?」

 危険だと全身が叫んだ。舌に広がる、明らかな異変。金枝は一瞬、毒を盛られたと思った。必死に、げぇげぇとチョコレートの破片を口から吐き出す。ソラはコーヒーを啜りながら言った。

「忘れていた。君は今、味覚異常なんだ」

 そう言うと、ソラは金枝にプラスチックケースを放り寄越した。中の粒状のガムが、ジャラジャラと音を立てた。金枝はそれの正体に気づき、ぎくりとして身構えた。

「これ……まさか『バカシタ』か?」

 金枝の額から汗が垂れる。ソラは軽く首を回した後、「ええ、そう」と認めた。

この薬について説明すると、イシグチグループ傘下の製薬会社が開発したこの錠剤は半世紀前から広がり始め、かつては星間を超え広く人類に普及していたが、現在の地球では生産終了し、禁止薬物に指定されている。効能は、食前にこれを噛めばどんな料理も美味しく感じられるというもの。つまり、人の味覚を一時的に『馬鹿舌』にした。元々、環境汚染で味の落ちた海鮮物の消費を促す目的や、美味しい料理にありつけない遠い星の開拓民の食欲を向上させる為に開発されたが、人々はこの薬をどんな食事に対しても使うようになり、バカシタ使用が前提の食生活へと世界は変貌した。生産者は味より安さを重要視するようになり、品質の悪い食べ物ばかりが世の中に出回った。一時期はバカシタ無しでは飯が臭くて食べられない状況まで陥った為、イシグチグループは一部の開拓民を除きバカシタの使用、販売を全面的に禁止とした。

「さすが威子口家。こんなものも手に入るんだな」

「いらないなら返してね」

 金枝の皮肉をソラは軽く受け流す。

「一粒で六時間効果があるから食前に使用して」

「俺の舌をおかしくしたの、君がやった?」

「さあ?」

 ソラは素知らぬ顔で天井の灯りを眺めている。

――威子口空が君の体に、何かを投与したんじゃないか? 探りを入れろ。

 ホルスの憔悴したような声が金枝の脳裏で響いた。

「ホルスが、俺の体に何かを投与しただろうと疑ってる」

 金枝が単刀直入に言うと、ソラは少しドキリとした表情をして、軽く咳払いをした。

「私、金枝君とは仲良くしたいと思ってるんだ」

 ソラの答えになっていない返しに金枝は眉を持ち上げた。

「その割には俺の告白に酷い対応をしたくせに。ああ、そうそう思い出した。俺の友達だった川保は、君に酷いフラれ方をして不登校になり退学した。あんまりじゃないか、男が勇気を出して告白したっていうのに」

 ソラはコーヒーを一口飲むと、ふと冷ややかな眼差しを金枝に向けた。

「急に何を言い出すかと思えば。金枝君。君は、好きでもない男の人から告白されている最中の女性の気持ちを少しでも考えたことあるか?」

「いいや」

「告白される時は、直感で分かる。だから『お願いだから、告白しないで』。そう思ってるんだよ」

「へえ」

 ソラは軽く唇を舐めながら、すっと立ち上がると言った。

「愛の告白を受けた女は、相手の男性が怒らないことを祈りつつ『ごめんなさい』と、しおらしく謝らなきゃいけない。それで男はスッキリして、私はうんざりする。告白された側にメリットゼロ。いや、精々くだらない自慢にはなるか。私はそれが気に食わないから、告白された仕返しをしているだけなんだ」

ソラはツンとして、片方の手を腰に当て、もう片方の手を軽く開いた。

「大体、君は私のことを好きでも何でもないのに、寄生星人に唆されて告白したんだろう? そんな人から、告白のことで文句を言われる筋合いはない」

 ソラに強い口調で言い返され、金枝は口ごもった。

「ああ、それは俺が悪かった」

 ソラはふうと深く息をつくと、元気なく椅子に座り直した。

「でも、川保君があんなにショックを受けるとは思わなかった。いつもチャラチャラしてるから、少しキツいお灸を据えようとしたんだが」

 ソラは川保に対して反省しているようだったが、金枝には謝罪する気配はない。

――おそらく威子口空は、君が自殺しかけた事実には気づいてないのだろうな。

 金枝は一瞬、『俺は君のせいで飛び降り自殺しかけたぞ』と責め立てようか迷ったが、ちょっと女々しいのでやめておいた。

「威子口空。もう一度聞くけど、君は俺の体に何かした?」

「正直に白状しよう。した」

 ソラは淡泊に答えた。

「一体、何を」

「寄生生物を一定期間、宿主の体内に閉じ込める精神薬がある。といっても脳ではなく腸で作用するんだが。それをこっそり、昨日飲ませた。副作用として、味覚異常が起きることが報告されている」

「そんなこと出来るのか?」

 金枝はホルスとソラの両方に訊いた。ホルスは無反応。ソラは流れる小川のように答えた。

「フーピー人を尋問する為に、大昔からある薬だ。タランチュラ星雲を拠点とする足が九本の医者から駄目元で取り寄せていた。効き目はあったり、なかったりするようだが、宿主と寄生者の相性が良ければ良いほど、効果は高いらしい。ホルスに訊いてみて。効果があるのかどうか」

――効果などある筈がない。デタラメの薬だインチキだ。アホらしい。

 金枝はバカシタを口に入れ、クチャクチャ噛みながら言った。

「ホルス曰く、効果無いって」

 ソラは肩を竦めると、懐から青い液体の入った小瓶を取り出した。

「一か月に一回飲んでくれれば、効果は持続するそうだ。ホルスに逃げられないよう、君には是非協力して欲しいな。バカシタは幾らでも用意する。毎日が高級料理に様変わりするぞ」

「だったら、やろうかな」

――おい、金枝美糸!

 ホルスが不満の声をあげたが、金枝は気にせず青色の瓶をポケットにしまうと、口を開いた。

「ずっと気になってるんだ。どうしてそこまで、ホルスが欲しいのか。ただ、頭が良いだけの異星人じゃないか」

 金枝の問いかけに、ソラは金枝の正面の席に座り直すと、いつになく真剣な目をして言った。

「金枝君。ここから話すことは、君と私、ホルスの三人だけの秘密にして欲しい」

「いいよ、約束する」

「出来ました」

 北形が割り込むようにして朝食プレートを二つ分、二人の前にトントンと置いた。

「お嬢様。私は外へ行きましょうか?」

「北形を入れて四人の秘密だ」

 ソラは面倒くさそうに訂正をすると、フォークでソーセージを突き、齧りながら話した。

「まず、君はフーピーをただの異星人と思っているが、彼らは大昔、少なくとも十億年前から存続する息の長い種族だ。そこらの宇宙人とは年季が違う。一線を画した連中なんだよ」

――その通りだとも。

 ホルスはまんざらでもない声で呟いた。

「金枝君は『旧遺物』についてどれくらい知識がある?」

 ソラに訊ねられ、金枝は頭を捻った。突然のワードだった。

「確か、人類の生まれる遥か昔に宇宙を支配していた異星人が遺した、未だ解明されてない文明の破片。未知の技術が使われているとかなんとか、学校で習った。人類だけが使える。まさか、元はフーピー人の?」

「いえ、別。かつて宇宙を支配したのは、旧支配者達だから。彼らの姿は今、この宇宙には見受けられない。彼らは戦いに明け暮れて、その最期は銀河が何個も消し飛ぶ大爆発を引き起こして消滅したとされている。後にはたくさんの旧遺物が残った」

 ソラはパンにバターを塗りながら思わせぶりにウィンクをした。

「今でこそ我が物顔して宇宙政府を運営しているビーカー(ガッタリコ人)や戦闘狂の体改造(ドーピ)マニア(シア人)も、旧支配者のいた時代にはなるべく目立たぬようひっそり暮らしていた種族だ。要は、穏健派の弱っちょろい異星人共の子孫ということだ。所詮、旧支配者がいなくなってからでないと表に顔を出せなかった、大した力のない連中」

「フーピーは違うのか?」

「全然違う」

ソラは両手を合わせ、金枝の方へ身を乗り出した。

「彼らは自らの身体を持たず、他の種族に寄生しながら宇宙を放浪する特殊な生命体だ。旧支配者のいた時代もお構いなしで、そんな生活を続けていた。自分らの宿主となる種族を見極める為に養われた観察眼は、宇宙広しといえどもフーピーの右に出る者はいない」

 ホルスが満足げに喉を鳴らした。金枝は唾でふやけたバカシタをミルクチョコの包装紙に出しながら何気なく訊いた。

「で、そのホルスの知識を何に使うんだ?」

「逆に、金枝君に質問。人類が近い将来、絶滅する。マルかバツか?」

 ソラからの奇妙な問いかけに、「バツ」と金枝は即答した。

「俺は観返教を信じてないし。今の時代、どれだけ人類が宇宙に散らばっていることか。人が地球にしかいない時代ならともかく――」

「正解はマルだ」

 金枝は口を噤んだ。ソラはゆっくりとコーヒーを飲み干すと、トンとカップをテーブルに置いた。

「はあ? 観返教が正しいって? 終末が来るだなんて、威子口の娘が言ったと世間に知れたら大パニックだぜ」

金枝はケチャップを目玉焼きに垂らしながらがっつくように言った。ソラは首を横に振る。

「彼らの終末論は、神を信じる者のみ救われる、という教えだろう?」

 ソラは身体を引くと、足を組み、両手の細い指を交差させた。

「実際は信じようが信じまいが平等に滅ぶ」

「ちょっと待て。それは、威子口の者として言ってんの? 個人の感想じゃなく」

「これは威子口家の総意だ。近い内に滅ぶ」

ソラは平然としていた。

「威子口家当主威子口八雲、つまり私の祖父だが、あの人が離人症の取り締まりを強化したがっているのは、離人症を終末の原因と決めつけているからだ」

「人類が絶滅? 地球どころか宇宙上から? ない。さすがに有り得ない」

 ソラの言葉を金枝の頭は端から受け入れようとはせず、ケチャップの飾りつけをした目玉焼きをフォークに載せて丸ごと口に放り込んだ。あまりの美味しさに金枝の頬が緩む。

「これ、超美味い」

「ホルスの意見は?」

 そう言いながら、ソラはミニサラダのトマトを口に入れる。金枝が目玉焼きに生まれて初めて感激する中、ホルスが言った。

――私も同意だ。人類は滅ぶだろう。

 金枝は軽く手を挙げ、北形に言った。

「オレンジジュース一つ」

 北形は嫌そうな顔をしつつも、金枝の注文通り飲み物を運んできた。ごくごくと半分飲んで、金枝は「ぷはーっ」と喉を鳴らした。

「なんて瑞々しいんだ! 高級オレンジ丸ごと使ってんな、これ」

「二百円で買ったコンビニの濃縮還元ジュースです」

 北形は抑揚なく説明すると、さっさとキッチンに戻った。

「金枝君。ホルスは何て言ってる? 教えてくれ」

 痺れを切らしたソラが再度尋ねると、「ああ」と金枝は興味なさそうに返事をした。

「人類は絶滅するってよ」

「うん、やっぱりそうだ」

 ソラは目玉焼きをナイフで切り分けながら言う。

「君だって、人類が滅ぶのは嬉しくないはず。ホルスの力を借りて、私と協力関係を結んで欲しい」

「なあホルス。人類の絶滅はいつだ? まさか十万年後とか言うんじゃないだろうな」

――このまま何もしなければ、百年から百五十年で滅ぶな。

 金枝はふんふんと頷くと、腕を組み、しけた面をしてソラを見据えた。

「悪いけど俺は協力しない」

「どうして」

 ソラの表情に困惑の色が浮かぶのを金枝はニヤニヤしながら見つめていた。ソラは唇を尖らせた。

「なに、その目は。そんなに私が嫌か? 気に食わないんだ?」

「違うよ。ホルス曰く、あと百五十年くらい人類は大丈夫らしい」

金枝はオレンジジュースで喉を潤すとギロリとソラを睨んだ。

「俺は時々思うんだ。自分が死ぬのと、世界が滅ぶのと何が違うんだろうって。別に何も変わらない。百年後なんて俺は死んでるだろうし、人類が滅ぼうが知ったこっちゃねえや」

 ソラは、サニーサイドアップの白身を切り取り、黄身だけになった目玉焼きを綺麗に口へ入れ、咀嚼し始めた。金枝の顔を確かめるようにじっくり見つめた後、また口を開く。

「君、勘違いしてない? 百年後、一斉に人類が滅ぶ訳じゃなくて、じわりじわりと数が減っていくんだ。例えば、昨日のゾンビ感染の規模の大きな奴が頻繁に起こったり、大災害に巻き込まれるかもしれない。少なくとも、君の安全は保証されない」

「それもそっか」

 金枝はソーセージをつっつきながら、ソラの指摘を認めた。ソラは金枝の真意を計りかねていた。ソラは頭を振ると、拗ねたように言う。

「もう、じれったい奴だな。何が欲しいのかはっきり言えばいい。金? 学歴? 名誉? それとも偉人として教科書に載りたいか?」

「何でもくれるの?」

「ああ。出来ることなら」

「じゃあ俺と結婚してくれ」

 笑いを堪えながら金枝は言った。

「なっ」

ソラは顔を赤くすると、金枝をつまらなそうに睨んだ。

「不快な思いをさせてそんなに楽しいのか? 口元をにやけさせて。冗談はこのくらいにして、早く――」

「冗談? まさか。俺と結婚しろって言ってんだ。無理なら協力はしない」

「結婚は無理だ」

 ソラは軽く目を伏せた。

「結婚はお互い、十八歳になってからでないと法律的に――」

「婚約にしよう。婚約なら何歳でも結べる。婚約会見を開いて全宇宙に俺との婚約会見を流すんだ」

「そんなの……君という人間は……」

ソラは言葉が見つからず、ただただ閉口していた。

――美糸君。君は一体何を考えてる。ふざけているのか?

 ホルスは早口で宿主に問いかけた。金枝は軽く咳払いする。

「俺はお金も学歴も名誉もいらない」

 金枝は突っ撥ねるように言った。

「だって、これから滅ぶんだろうが、世界が。じゃあ、そんなのあっても仕方ない。が、威子口家の者にさえなれれば、俺は安全が手に入る。少なくとも、威子口の者になれば、死ぬのはそこら辺の一般ピープルよりは後だ。俺なにか間違ってるか? どうせ昨日のゾンビ汚染も、威子口家の連中はあらかじめ知らされていたんだろ。だから、軍の連中は平汎高校の生徒と気づくと即保護した。俺が死んだら君は困るから」

 金枝が言葉を切ると、ソラの反応を探る。

 微かに間があった。

「……私が危険を知っていたら、君を星空観測会に参加させてない」

 ソラは軽く腕を組み、陰険な態度を取った。金枝は眉を持ち上げる。

「俺は事前申請なしの飛び入りで観測会に参加した。君は後から俺の参加を知り、焦ったんじゃないの」

「さあ?」

 ソラは取り合おうとしなかった。金枝の推理は何の証拠もなかったが、ソラの反応を見る限り、どうも当たらずとも遠からずの気がした。

「ところで――」ソラは疑いの眼差しを向ける。

「本当に、婚約すれば私に協力するんだな? ホルスの同意は?」

 ソラは金枝から目を離さずに静かに訊いてきた。

――私は、協力する。

 ホルスは乗り気だった。

――人類を存続させたら、むかつく同僚に一杯食わせられるからな。いや、此方の話だ。

「ホルスも俺も、全面協力しよう。約束する」

「そう、分かった」

 ソラは少しの間自分の指の爪を見つめていたが、やがて顔を上げた。

「約束を守るというのなら、わたし威子口空は君と……金枝美糸と婚約しよう。会見は今日でも、明日にでも」

「勿論今日だ」

 間髪入れずに金枝が告げた。ソラは困り気味に北形の方を見る。

「ええと。それなら、学校が終わってから私の車で披露会見場へ向かおう。ただし約束は守ってもらう。痛い目に遭いたくなければ――」

「いいよ。あと、俺への盗聴は金輪際禁止だ。そこのサイボーグ君にも伝えとけよ」

 金枝は口をあんぐり開けた北形雅を親指で示した。ソラは了承する。

「分かった何もしない。北形、私の婚約者をご自宅まで送り届けてくれ。ついでに伊穂も」

 北形は茫然としたまま立ち尽くしている。ソラが軽く溜息をつくと、パンパンと手を鳴らした。

「北形! 聞こえなかったか?」

「は、はい。かしこりましたお嬢様」

 北形は我に返ると、憤怒に震えながら金枝を連れて部屋を出た。

 金枝は可笑しくて仕方がなかった。

「威子口空がフィアンセだ。あの威子口空がだぜ」

――美糸クン。君は威子口空が嫌いだった筈ではないのか。

「だからこそだよ。俺みたいな奴と婚約するなんて、屈辱だろ? この汚点は彼女の経歴に一生残る。ははは、ざまあみろ」

 金枝がつらつらと恨みを込めて言いのけた。ホルスは少し黙り込むと、独り言のように声を漏らす。

――威子口空が、君のことを『変わった』と言った。まあ私のせいなのだが、しかしこれが君の本性というなら、私はもう何も言うまい。

「おかげで開き直れた。なんかもう、清々したぜ」

 不意に北形が立ち止まるので、金枝は危うくぶつかりそうになった。

「な、何だよ」

「金枝、美糸。貴様……お嬢様に指一本でも触れてみろ!」

 北形が凄い形相で金枝に詰め寄った。

「私は絶対に許さないぞ。例えお嬢様がやめろといっても、私は聞こえなかったフリをして貴様の首をへし折ってやる!」

「へえ。でも、お前は嫌われるぜ?」

 金枝はニヒルな笑みを浮かべる。北形の左右対称をした顔が苦痛で歪んだ。

「ああー、ところで北形さん。君、本当は男だって? ソラが好きなあまり、女型サイボーグになったんだってな? そんなにソラが大事なら、ソラの幸せの為に俺を大事に扱えよな。婚約者の俺をよ」

 金枝は一瞬、北形がこのまま憤死するんじゃないかという不安がよぎった。が、北形はふーっ、ふーっと息を吐くと、キッと金枝を睨めつけ、無言でカードキーを使いドアを開けた。

「あ、金枝!」小間口が軽く手を挙げた。

「良かった良かった。何もされなかった?」

「小間口さんこそ」

「私は余裕で無事。目が覚めたら、あれ、ここどこー? って感じで」

「小間口さん。もう、威子口空を洗脳する必要なくなった」

「え、何かあったの?」

「俺と威子口空は婚約したから。俺は威子口の者になるんだ」

「な、なんじゃそりゃ」

 小間口はぽかんと口を開けている。

金枝はかいつまんで事情を説明した。小間口は驚いていたが、話を受け入れた。途中、北形から無言の圧力をかけられたが、金枝は知らんぷりをして自分が寄生されていることまでぽろっと暴露した。

「なるほど。じゃあ金枝は、その宇宙人の力で離人症のオンオフ切り替え出来んだ?」

「そういうこと」と金枝。小間口は羨望の眼差しを向け「いいなぁ」と呟いた。

二人は威子口家の車でそれぞれの自宅まで送り届けられると、慌ただしく制服に着替え、学校へ登校した。


その日の夕方。学校を終えた金枝とソラの二人は、詰め掛けた大勢の記者を前に婚約会見をした。

無数のシャッターが焚かれた。会場の大ホールには慌ただしく人が出入りをした。金枝は威子口家の用意した高いスーツに袖を通し、会見を受けている。背が高く肩幅もあるので、金枝の恰好は様になっていた。一方でソラは普段の制服姿にもかかわらず、金枝より遥かに華があり、瑞々しい笑みを常に絶やさず、記者の少し際どい質問にも好感のもてる完璧な回答で返し、上手いこと記者を捌いていた。

若い記者が手をあげる。

「木星スクープのカドワキです。二人の馴れ初めをお聞かせ願えますか?」

「彼とは、偶然にも中学一年の頃からずっと同じクラスでした。ですが付き合い始めたのは、高校に入ってからです」

「何か、これというきっかけなどはあったんでしょうか。お付き合いに至った……」

「それは――」

 ソラは何気ない仕草で頬を指でなぞった。

「私、その気はなくても普段から近寄り難いオーラを出しているらしくて。同い年の子と友達になりたくても、なかなかクラスで馴染めないでいたんです。そんな時、彼だけは優しくしてくれました。クラスが替わる度、いつも私がクラスに溶け込めるよう、それとなくきっかけを作ってくれるし。そしたら、いつの間にか好きになっていて」

 ソラがしな垂れかかるように金枝の横顔を流し見る。カメラの瞬きが金枝の顔を執拗に連写し、金枝は思わず目を細めた。

 記者が追撃するように手を挙げる。

「はい、そこの人」

「月刊ムーンのダニエルです。婚約者である金枝さんにお聞きしたいのですが、威子口空さんのことはどう思ってらしたんですか?」

「えーと……惚れた理由ですか? 聡明で美人で、才媛ですし、奥ゆかしいかと思ったら柑橘系というか、清涼飲料水のCMみたいな爽やかさもあって。手足もしなやかで……」

「ほうほう。他には?」

「一番の理由は、何て言うか。時々見せる、威子口らしくない年相応の女の子な部分ですかね。それがもう可愛くて」

 金枝がぱっと浮かんだデタラメを並べ立てると、会見場で笑いが起こった。金枝は首を傾げた。

「やめてよ、もう」

ソラは照れたフリをしつつも口元が引き攣っていた。

「ガニメデタイムスのリーです。仲の良いお二人にお願いがあります。腕を組んでいるポーズをもらえませんか」

「え、ええっ。良いですよ」

ソラは元気よく答えると、ちらっと目で合図した。二人はぎこちなく立ち上がると、互いにおずおずと寄り添い、腕を絡ませる。フラッシュの焚く音が大きくなった。

「いっそキスしちゃったら!?」

 記者席からデリカシーのない要求が飛んだ。金枝はどきりとして、ソラと顔を見合わせた。ソラは驚いたような顔をしたが、すぐ気まずそうに顔を背けた。どうせ全部演技だろ、と金枝は鼻で笑いながら、

「え、えーと。普段はしてくれるんですが、人前だと恥ずかしいみたいで」と言った。

「普段はされているんだ!?」

 眩しいフラッシュが何度も焚かれる。

「あっ、『ミー君』。ネクタイ曲がってる」

 ソラが両手を金枝の首元に持っていく。顔を近づけ、耳元でソラが呟いた。

「あまり調子に乗るな。破談にするぞ」

「そっちこそ。イテッ」

 金枝は苦悶の表情を浮かべた。ソラの革靴のかかとが金枝の靴先を踏んづけていた。

「すみません、デブリテレビのダルヌです。婚約おめでとうございます。あの、今『ミー君』って。婚約者の金枝さんを『ミー君』と呼んでいるんですか?」

 記者の質問にソラは『まずい』という顔をした。

「あはは、イヤだな。私としたことが」

記者席のざわめきが大きくなる。

「実は、二人きりの時は彼のことを『ミー君』って呼びます」

 ソラが伏し目がちに言った。顔が仄かに赤らんでいる。

「では金枝さんはなんと?」

「え、俺ですか?」

金枝が言葉に詰まっていると、ソラが爽やかに返した。

「彼はずーっと『威子口さん』と。けれど、昨日からは『ソラ』と呼び捨てにしてくれます」

 記者の間から感嘆の溜息が漏れた。光とフラッシュ音が余計に激しくなった。


一時間半の婚約発表を終え、舞台袖に下がった二人は、揃って「ふうーっ」と息を吐いた。

「何でこんなことになったんだ」ネクタイを緩めながら金枝がぼやいた。

「どんだけくだらない質問に答えさせられたか」

「誰のせいだろうね。最低だ」

ソラは吐き捨てるように言うと、後ろで結っていた髪を解く。金枝が水を飲みながら言い返した。

「芸能人なら分かるさ。でも威子口なんて、いくら顔が売れても何の得もないし、むしろ損だな。よく考えると」

「それでもメディアには媚びを売った方が得なんだ。金枝君も少しは『大嫌いな威子口空』の苦労が感じられたんじゃないか? むしろ、大変なのはこれからで」

 ソラは疲れた顔をして、耳元の編んだ髪を軽く払う。

「はあ。お爺様へは後でどう説明しよう……」

「全部、話すのか? ホルスのこととか」

「まさか。そんな訳ない」

 ぎょっとしたようにソラは金枝の顔を見つめた。

「今朝の話は四人の秘密だ。これから先も、この後も永遠。私と君の会話は、外部へ絶対に漏らすな。内部へもだ」

 金枝は素直に頷いた。

「とにかく、これで君と私は婚約者になった。まだ君は正式には威子口の者ではないが、それでも振る舞いには気をつけて欲しい。今日から、太陽系の人間なら誰もが君を威子口家の者と周知したし、明日明後日には宇宙全土へ知れ渡る」

「凄い」

「凄い、って……あのねぇ」

 金枝の小学生のような感想にソラは気が遠くなったが、何とか堪え、金枝の腕を引くようにしてリムジンへ乗せた。


 金枝は威子口空の自宅へ連れてこられた。

「さすが威子口だ。なんつー豪邸」

 美術館の如く高い威子口邸の天井と、そこから垂れ下がる神々しいシャンデリアを眺めながら金枝が感心していると、ソラが後ろめたそうに「警備の関係上、住居はこんな感じで」と言葉を濁した。

「何でそんな控えめに言うんだ? 誇らしくないの?」

「威子口は誇らしい。だが私は何もしてない」

 ソラは流れるような言葉遣いで話した。

「それに、威子口の者は大学へ進むまではなるべく一般階級の生活をしている、という建前がある以上、豪邸に住んでいるなんてあまり言いふらされたくはないんだ。その代わり、普段の食や学校生活に関しては君とあまり変わらない」

「そんなの偽善だろ。俺が威子口の者になったら、贅沢の限りを尽くすね」

「威子口家の人間が湯水の如く金を浪費した例は過去に何度もあったが、偶然にも全員が交通事故に遭って亡くなっている。不思議だね」

 ソラが釘を刺すように言う。

「へえ、君ら威子口には、自浄作用があるってことか? 独裁一族だと思ってた」

 ソラは不満そうに腕を組んだ。

「なんなら威子口は、幼少期に選別される。無能は除籍されるんだ」

 ソラはキッチンに行くと、冷蔵庫からカマンベールチーズを取り出し、小型ナイフで切り分け始めた。

「いる?」

「サンキュー」

 小皿に載せられたチーズの欠片を、金枝はフォークも使わずペロリと食べた。

「分かってないな」

 ソラは自分のおでこに手をやるポーズをした。

「こういうのは、チビチビ食べるから美味しいの。見てて」

 ソラはフォークでチーズを刺すと、端っこを歯で千切り、口に入れた。

「なんか貧乏くさいな。ネズミみたい」金枝は遠慮なく感想を言った。ソラは悲しそうな顔をしてチーズを味わっている。金枝は訊いた。

「除籍された無能はどうなるんだ?」

「さあ」ソラは言葉を濁した。

「どうやって無能か有能か選別すんの?」

「知能、運動神経。他者への思いやり、あるいは感情に流されない判断力とか、項目はたくさんある。威子口の子は朝起きてから眠るまで四六時中観察され、勝手に点数をつけられる時期があって――」

「威子口っていうのは、血を引いてなくてもなれるんだっけ」

 うろ覚えの記憶を頼りに訊ねると、ソラは「そうそう」と頷いた。

「君みたいのは政治に関われないが、優秀な幼子が養子として威子口へ一時的に籍を置くことはある。そういった子供の中から特に秀でた子は、最終試験を受ける。そこで晴れて合格すれば威子口として認められ、人類の行く末にだって口を出せるようになるし、将来の威子口家当主になる権利も与えられる」

「君も受けた? その最終試験」

「受けたよ」

 ソラは呟くように言った後、庭を見渡せる硝子戸にそっと手を置いた。結露の水滴がソラの指を音も無くじっとりと濡らした。

「私は、威子口の血を引いていたけど、他の子は違った」

「他の子?」

 ソラは静かな眼差しで迷宮のようになった庭を見つめた。外はすっかり真暗闇で、灯篭の灯が心許なく光を発している。庭に付いたプールの底ではオレンジ色に近い黄のライトがポワンと発光し、プールは黄金色の輝きをたぷたぷと湛えていた。

「私含め三人、最終試験を受けたんだ」

 ソラが囁くように言った。

「筆記試験で、『一番成績の良かった子だけが本当の威子口として認められるんだよ』と、大人から説明があった。三人とも仲が良かったのに、今思うと残酷な話だ。しばらく困っていたら、一人の子が言った。『ねえ、みんなで零点取ろうよ』って。三人とも零点だっら、優劣がつけられないからな」

「なるほどね」金枝はソラの昔話に少なからず興味があった。

「もう一人の子も賛成したから、私も零点を取ることになった。それで三人は離れて、個別の教室で試験を受けた。そして――」

「そして?」

 話の続きを待つ金枝に向かって、ソラはあっけらかんと言う。

「罠だった。最初の試験が終わった後、私がトイレに行くと、二人が笑いながらひそひそ話をしていた。結局あの子たちだけ、ちゃんと問題を解いてたんだ。ライバルを一人蹴落とす為に」

 ソラは寂しそうにチーズを見つめている。

「そもそも、試験があることもあの子たちは知っていた。私だけが、当日に知らされた。多分親から聞いてたのね。私の両親は死んでいたし、唯一の味方だった祖父も不正は嫌いだったから」

「……え? じゃあ、君は試験で負けたのか? それとも、その後の試験で全問正解して逆転して――」

「あはは。そんな訳ないでしょ」ソラは小さく笑いながら髪を耳にかけた。

「先生に体調不良を訴えて、最初の試験は後回しにしてもらっていたんだ。念のためにね。それを二人に伝えたら、青ざめていた」

 ソラは自虐的に笑うと、またチーズを齧った。

「ま、そんな昔話はどうでもよくて。ねえ金枝君、私と君は婚約したんだ。約束通りホルスと話がしたい。ほら」

 ソラは水晶製の丸テーブルの上にチーズの皿をカタと置いた。そして、ひたりと金枝の右手に触れると、流れるように金枝の手首へ、腕時計のような器具を巻きつけた。自然な動作だったので、金枝は何も抵抗出来なかった。

「な、なんだよこれ」金枝は焦った声をあげる。

「身も蓋もない言い方すると、ウソ発見器です」

 ソラがクールな笑みを見せる。白い歯がキラリと零れた。

「君が言葉を歪曲して伝えてきた時の対策だ。ごめんね、信用してないみたいで」

「『みたい』じゃなくて、信用してないんだろ」

心外とばかりにソラは白目を大きくした。

「信用はしてる。割と」

「嘘をつけ。少なくとも俺は君を信用してない」

「私はね、昔からこうなんだ。こうでもしないと駄目だ」

 ソラは軽く背伸びをし、その反動で手を後ろに回すと、金枝の目を射抜くように見つめ、言った。

「ホルス。本当に人類は滅びるのか。その場合、人類が滅びの道を辿っている原因が何なのか、私に教えてくれ」

 一秒、二秒。ソラは金枝の右手を引いて、ウソ発見器の反応がないか眺めている。

(もし、このままホルスが黙秘でもしたら嫌だな……)

恐ろしい未来が一瞬過るが、少しするとホルスの陽気な声がした。

――よし、解説してやろう。人類という種は、無意識に滅びたがる形質を秘めているのだ。つまり、本能的に集団自殺願望を持っている。滅びの形質はドミノ倒しのように連鎖する訳だな。

 金枝はホルスの言葉の意味がいまいち分からなかった。なので、一字一句そのままソラに伝えた。ソラは至って物静かに、金枝の言葉を聞き入っていた。

――その形質は太古も太古、原始的遺伝子に深く刻まれていたものだ、間違いなく。ヒトそのものの形成に深く関わっている証拠だ。つまり、犯人はいわゆる『神さま』って奴だな。君達にはどうしようもない。それが人の隠れた本質と思って諦めたまえ。

 金枝は、ソラの反応を警戒しながら、ホルスの言葉をそのまま伝えた。ソラの表情が少し暗くなる。

「つまり、私達は純粋な自然発生ではなく、何者かによって強い干渉を受けて生まれた。ただの猿に知識の実を与えた神が実在する。滅びの運命は人のDNAと関係しているの?」

――いやはや、さすが威子口空。美糸クンと違って物分かりが良いな。元々の頭の性能が違う。君と体の相性さえ良ければ、きっといい相棒になれたというのに、実に残念だ。

「そうだってさ」

 金枝は腕を組み、ぶっきらぼうに言った。癪なので、ホルスが褒めていることを金枝は伝えなかった。

「ちょっと金枝君? 嘘の反応が出てる。これはどういうことかな」

 ソラは金枝の手首の器具を掴み上げ、小首を傾げて澄ましている。金枝は渋い顔で詳細に言い直す羽目になった。

「……ところで、気になったんだけどさ」

 ホルスとソラの対談に金枝が割り込んだ。

「なんで俺達を作った神様は、俺達が滅ぶよう設計したんだ? 自分で作っておいて、あんまりじゃないか」

 純粋な疑問だった。ソラは顎を少し引き思案していたが、また金枝の方へ澄んだ瞳を据えた。

「金枝君は『密度調節』という生物用語を知っているか?」

「いいえ」

 金枝は興味なさそうにソラの説明を聞いた。

「生物の個体群の生息域に対して個体数が増え過ぎると数が減る現象のことだよ。例えば、クスノキに生息する蛾の幼虫には、お互いに噛み殺し合ってまで数を調節する種がいる。あー、でも、これは共倒れにならない為の生存戦略の一つだな。私達が悩んでいる終末現象は人口密度の低い遠く銀河の果てまで及んでいるから、違う」

「おいおいしっかりしろよ。本当に頭良いのか?」

 金枝の見下すような口調に機嫌を損ね、ソラはぷいとそっぽを向いた。

「金枝、貴様! お嬢様になんて態度だ!」

 不意にステルス機能を解除した北形が現れ、憤怒の形相で金枝に詰め寄った。金枝は一瞬ぎくりとしたが、平静を装い「ああ、いたんだ。透明で気づかなかったよ」と返した。

「もうやめて北形。恥の上塗りだ」とソラ。

「で、ですが……」

 ソラが非難するような眼差しを北形に向けると、北形は委縮した。

吐息を漏らしながらソラは己の両肩を叩いた。

「金枝君。私だって人間だ。間違えたりするの。さ、仕切り直して推理しよう」

ソラがコホンと咳払いする。

「こういうのはね。犯人の視点、つまり私達を作った神様の立ち位置で考えればいい。神様は悪戯のつもりか知らないけど猿だか類人猿だかの遺伝子を編集した。その際に例えば、何らかの制限をかけていたとしたら」

 ソラはパチンと手を合わせた。

「ああ、分かった」

「早っ」

 金枝のからかい気味の相槌は意に介されずソラは言葉を紡いだ。

「何かしらの制限が破られると、滅びの遺伝子が自動的に働きだすよう神が仕込んだ。それが終末現象として表面に表れ、私達の目に映っている」

「『制限』というのは何だったんでしょうか?」

 北形のクエスチョンを振り払うようにソラが乱雑に言った。

「終末現象が起こり始めた時期を片っ端から調べれば分かる。どうせ何か、神様が怒るようなことを人類がやってたんだろ」

「そんなのは日常茶飯事じゃないか。毎日悪人がお人好しを騙してるんだから」

 金枝がぶっきらぼうに言うが、ソラは意に介さなかった。

「そんな些末なことじゃなく、もっと大きな、人類の転換点のような出来事があった筈。原始人の頃には起こらなかったようなことが」

 ソラは外套に袖を通しながら言った。

「北形、車。威子口家の図書館へ行って探してみたい」

「かしこまりましたお嬢様」恭しく北形はお辞儀した後、金枝を一瞥してから電話をかけ始めた。ソラは今気づいたように金枝を二度見した。

「あ、金枝君。今日はもう帰ってね。また明日学校で。ホルス、協力に感謝します。それでは」

 ソラがポケットからリモコンを取り出し金枝に向ける。

ピッ。

カチャリ。金枝の手首から嘘発見器が外れた。ソラの眼中からは既に金枝は消えていた。金枝が手首を擦っていると屋敷のメイド達がわっと現れ、あれよあれよという間に金枝は威子口邸を追い出されてしまった。その直後、金枝の体を掠めるようにしてリムジンが一台、門から出ていく。

「んだよ、あの女! 俺は婚約者だぞ、タクシー代くらい寄越せって!」

 金枝が鉄門の前で捨て台詞を吐いた。外で大声を出す不審者がいると思い、警備の大男が詰め所からむくりと出てくる。それを見た金枝は逃げるようにしてその場を後にした。


 威子口家の人間、それも次期当主と目される威子口空と婚約したのだから、生活から何から一変するだろうと金枝は想像していた。確かに、周りが自分を見る目がまるで違うものになったのは金枝もすぐに気づいたが、特別生活レベルが向上する訳でもなく、学校に遅刻しそうになって電車に飛び乗り、鞄の中の弁当が乱れているのに気づく、そんな婚約会見翌日の昼を過ごしていると、

「金枝君っ」

 感じの良さ満点、パブリックモードのソラが歩み寄ってきた。教室中の視線が集中する。今まではソラにだけ向いていたものが、今では金枝へも同等に向けられている。金枝はバカシタをこっそり吐き出しティッシュに丸めた。

「今から昼食を食べるところ。何か用?」金枝は普段通りの調子で接することにした。

「一緒に食べないか? その、話したいことが。ここじゃないところで」

 ソラが意味ありげにウィンクすると、遠慮気味に周りを見渡す。ソラと目の合った生徒が『お幸せに』という顔で会釈する。

「そうするか」

 金枝は口をつけてない弁当の蓋を閉め、席を立った。


「最近、君とよく話すね」

 人気のない特別棟の階段を上りながら金枝が話題を振る。ソラは愛想のない声で言った。

「私とこんなに話の出来る一般人は君くらいだ」

「光栄なことですね。って、俺は婚約者だから。婚約者」

 自分を指差す金枝。楽しそうにソラは言う。

「そうだった。だがフィアンセ君、今日を境に君とはちょっと距離を取ります」

「……へえ。それは残念、せっかく仲良くなりかけたのに」

 金枝は減らず口を叩いた。ソラは振り返りもせず四階の廊下を歩きながら言う。

「ごめん。本当に話す機会がなくなるんだ。少し忙しくなる」

 ソラは廊下の突き当たり一番角の教室の前で立ち止まると、小さな銀の鍵で扉を開錠した。

「はい、ここ」

 そこは机と椅子と木の棚しかない、がらんとした空き教室だった。中へ入ると、埃っぽさと古い木の香りが金枝の鼻腔をくすぐった。

「金枝君。私は離人症の部隊を作りたい」

「へえ?」

 ソラは『あっ』という顔をした。逸る気持ちを静めようと、コツンと自分の頭を叩いた。

「ごめん。順序立てて説明すると――」

「まず、ここは何の教室なんだ?」

「ああ知らない」

 ソラの素朴な口振りは『そんなことどうでも良い』感で満ち満ちていた。

「校長を説得して一週間ほどお借りした」

 ソラは窓をがらりと開けた。外から見えるのは、一面広がる墓石だった。

「良い眺めじゃん」金枝は皮肉を言うと、もう窓に近づくことをやめた。

「私がここを選んだのはお化けが見たいからでもオカ研みたいなヘンテコ部活を作りたいからでもなくてね。ふあぁ」

 ソラは欠伸を噛み締めると、窓の縁にひょいと丸いお尻を乗せた。

「ここは吹奏楽部の部室と隣り合っていて、放課後はピーヒャラ喧しいし、昼も人があまり来ないから、内緒話をするのにピッタリだと思って。威子口の会話は盗み聞きされやすい。場所を選ばないと大事な会話は危険なんだ」

「こんなところで、滅びの遺伝子の話の続きをするのか?」

 金枝は弁当を再び開ける。唐揚げの香りが教室に漂い始めた。

「大丈夫。念には念を入れて教室の外に見張りを立てた。おーい見張り」

 コン、と扉がノックされる。北形が憮然とした顔で扉を背にして立っていた。

「あ、金枝君。威子口になった感想は? 正しくは、威子口の婚約者だけど」

「知りたい? とっても良い気分なんだ」金枝は胸を張った。

「歩けば誰もが俺を見る。今日の朝、教室に入った途端、今まで俺をいじめてた奴らが低姿勢で両手を擦り合わせてご機嫌取りしてきたよ。まるで王様かアイドルにでもなったみたいだ」

 金枝はへらへらしている。

「君がプラス思考でとっても安心した」

ソラはやれやれと制服越しに肩をさすった。

「昨日から徹夜で終末現象を調べたら、興味深いことが分かった」

「何が?」

 ソラはぴっと形の良い人差し指を立てると、先生のような口調で話した。

「終末現象は色々パターンがあるよね。アポカリプティックサウンドに宇宙戦争、隠れる太陽、消える十歳児。飢饉、災害、機械の反乱。その中でも終末の代表例であるゾンビ汚染に私は注目した」

 金枝は冷めた唐揚げを頬張りながら、威子口空の授業を受けた。

「最初の汚染報告は二一〇七年の火星。民間人の宇宙進出計画が本格的に開始された二十一年後にあたる。そこからしばらく、地球外で見受けられたゾンビ汚染は宇宙病の一種と思われていたが、やがて地球でも頻繁に見受けられるようになった。ここまではついてこれてる?」

「はい先生」

 ソラは窓を開けっぱなしにしたまま金枝の向かいに座ると、弁当を包む布を解き、慣れた手つきで弁当を開けた。小脇に押し込まれた卵焼きをパクリと頬張ると、楽しそうにもぐもぐ食べている。

「どれどれ」と言って金枝は、色の良い卵焼きを盗み食いした。

「こら。行儀が悪いな」

ソラが不満そうに顔をしかめた。金枝は悪びれずに言った。

「超美味しい、これ。さすが威子口家の卵焼き」

「バカシタ使ってる人が何を。普通の卵焼きなんだけど」

「ツンツンすんなよ。それにしても、よくそんな旨そうに卵焼きなんか食べれるよな。俺はバカシタ使ってるから仕方ないけどさ」

 ソラは冷ややかな目で金枝のことを眺めている。金枝は卵焼きを飲み込むと、箸で空気を挟みながら言った。

「で? 話の続きは」

 ソラは活舌良く、はっきりした口調で語り始めた。

「ゾンビ汚染がしばらくの間、地球外で起きていたことに気づいたんだ。もしかしたら、宇宙居住者が神様の怒りに触れていたんじゃないかと思って調べることにした」

「そしたら?」

「聞いて驚くなよ」

 ソラは得意げに「ふっふっふ」と笑いながら、タイトスカートのポケットから紙束を取り出した。

「これは……」

金枝が軽く眺めた限り、英語の人名が延々と羅列されている。

「初めて地球で発生した、茨城の大規模ゾンビ汚染感染者三千百数名の名簿だ。その内の二千八百名が二次感染による被害者とされている」

「つまり、噛まれたってことだ?」

「そう。二次感染を除いた一次感染者は、二週間後に予定された火星移住計画のメンバーだった」

「ふーん。……だから?」

 金枝はぴんとこないで唐揚げを味わっている。

「地球外で感染した者と、地球の一次感染者。何か共通点があることに気づかないか?」

「もったいぶるなよ、ソラ」もぐもぐしながら金枝が催促する。ソラは眉を八の字にした。

「もう、しょうがないな。つまり、宇宙病予防のワクチン接種をしたか否かってこと。火星移住予定の人たちは、ワクチン接種を済ませていた。地球外で感染した者も当然、宇宙へ出る際にワクチン接種してる。これがトリガーだったんだ、滅びの遺伝子の」

「宇宙病の予防ワクチンが? だってそれ、人間が作ったものだよ。神様じゃなくて」

「うん。イシグチグループ傘下の製薬会社が開発してる」

 ソラは屈託ない笑顔で、注射のジェスチャーをしてみせた。

「じゃあ、滅びの遺伝子と関係ない」

 箸で唐揚げを突き刺しながら金枝が決めつけた。ソラはサランラップに包まれた鮭のおにぎりを弁当箱から取り出すと、少し言いにくそうに口を開いた。

「宇宙病というのは、この場合色々なものを指していて。地球と環境の異なる惑星で長期間暮らした際、身体的な変化が起きてしまうことも宇宙病の一種だとイシグチグループは定めていた」

「……それで?」

「つまり、宇宙病予防ワクチンは、人間の外見の遺伝子を恒久的に固定させる、人工ウィルスみたいなものなんだ。しかも優性で遺伝する」

「はあー!?」

 金枝は思わず唐揚げを落としかけた。

「じゃあ、イシグチのウィルスが滅びの遺伝子だったの?」

「……全然違う。話を最後まで聞いてくれ」

 ソラはおにぎりを飲み込むと手の平を金枝の側に開いた。

「宇宙病予防ワクチン自体には、人体に悪さをするものは入ってない。それはイシグチグループの名誉にかけて私が保証する。問題は、人の遺伝子を大規模に弄くっていたこと」

「へえ。何で弄っちゃ駄目なの」

ソラはじれったそうに目を伏せた。その時ちょうど強い風が吹いて、ソラの結った黒髪がひゅっと舞った。ソラの前髪が良い具合に乱れた。

「ちょっとは考えてみてよ金枝君。もしも自分の作ったアンドロイドが、勝手に自身のプログラミングを編集しだしたらどう思う?」

「そりゃ、反乱してきそうで怖い」金枝が素直に答えた。

「でしょう? それと一緒で、人が自身のゲノムを好きなように弄るのを神様が恐れたというのは全然考えられる話なんだよ。いつかヒトが勝手に自らのゲノム編集をし出したら、人類が自壊するよう神様が初めから人体に何かを仕組んでいたとしたら……?」

「あっ。それが滅びの遺伝子ってことか。なるほど、有り得なくもない」

 にっこりソラが微笑んでいる。微笑みが伝染しかけた金枝だったが、すっと真面目な顔に戻った。

「ちょっと待てよ威子口空。ちょっと待て。それが事実なら、威子口家の大失態じゃないか? ワクチンを人類の大半に打たせて」

「でもワクチン自体には一切問題はなかった。神様のトラップなんて、想定外で……」

 おにぎりを持つソラの顔が少しバツが悪そうになる。金枝は続けた。

「そもそも、いくらホルスからアドバイスされたからって、君がたった一日徹夜しただけでワクチンが終末現象の原因と気づけるのなら、君の祖先だって気づいてたんじゃないか?」

「それは、まあ。一応気づいてはいたよ……」

 ソラはやむなしという具合で、またグレーのスカートのポケットから数枚の紙を取り出した。その紙はあちこちが黒塗りで潰されていたが、威子口内部からワクチンとゾンビ感染の関連性を指摘した私文書だとソラは説明した。

「ほら、やっぱり分かってたんじゃないか」

 金枝はソラを責めた。

「そんなのが出た以降も、ずーっとワクチンを人類に打ち続けるなんてどうなってんだよ」

「当時のイシグチグループの言い分によると――」

 ソラは文書に目を通しながら英文を翻訳し始めた。

「えぇと、ちょっと生々しいけど。『……しかしながら、ワクチン接種者とゾンビ汚染の関連性は現状推測の域を出ない。よって、因果関係は一切認めらないものとする(WHO調査団の最終報告も参照されたし)。複数の一次感染者にワクチン接種者が見受けられるのは、感染爆発の起こったエリアで火星移住予定者の訓練を行っていたことが原因である。今後はマスコミを通じ宇宙病予防ワクチンとゾンビ汚染に何の科学的根拠も無いことを繰り返し強調して報道させ、偶然という線で国民へは説明していくものとする。黒塗り黒塗り。よって、この風評被害を払拭し、国民や企業が安心して一切の不安を抱かずに宇宙移民計画へ参画できる風潮を早急に作り直す必要がある。日本国民の性質として、黒塗り黒塗り。一度そういう流れを作ってしまえばスポンサーも文句を言わず、それ以降大きな障害にはなり得ない。ワクチン接種の義務化は絶対であり、それを邪魔するような人物、団体に対しては、黒塗り黒塗り』。ここから先、ずっと黒塗り」

 ソラは紙を捲って、もはや助詞しか残っていない黒塗りのページをひらつかせた。

金枝は唸るように言った。

「昔から乱暴だよなァ、威子口って」

ソラはどこ吹く風で澄まし顔をしている。

「というか、その黒塗りの紙、ほんとにワクチンとゾンビ化を認めた文書なのか? むしろ、全力で否定してたじゃん」

 ソラは文書の二ページ目から四ページ目を人差し指でトントン叩いた。

「ワクチン接種が想定外の人体干渉を起こした可能性について三ページ分ぎっしり言及がされてる。そっちも読もうか?」

「いや、いいよ。長そうだし」

「こんなのでも、威子口としては最大限の譲渡をしてるんだから」

 ソラは自嘲気味に黒塗り文書をぱたぱたと揺らした。

「譲渡? 本当は完全に否定したかったってことか?」

「そう。当時の威子口内で意見が割れていたから、こんな黒塗り文書が出来上がったんだと思う。でないと、どうして威子口が内向けに作成した文書で黒塗りだらけになるのか、意味が分からない。威子口家の会議録を見ようとしたけど、この時期のだけ何故か無い。相当、都合が悪かったらしい」

 ソラは自分の先祖の闇を不服そうに話した。金枝は頭を掻いた。

「こんな文書でも、精一杯の内部告発だったのか……?」

 二人の間には、意見が出尽くし飽和したような沈黙がしばらく流れた。

「……金枝君」

「な、なんだよ」

ソラは神妙な面持ちをして、静かな物言いで話し始めた。

「イシグチグループに限らず、大きな組織というのは先に結論があってね。その後で、民衆に対し説明を行っていく。この場合でいうと、ワクチン接種の義務化は最初から決まっていた。それに民衆がいくら反対しようが、例え威子口の人間が一人二人反対したところで、過去の威子口家の方針は尊重され、反対派が賛成に傾くまで説得が続けられる。イシグチグループ側から意見を曲げることはまずない。どんな手段を使っても目的は成し遂げる、それが威子口家のモットーだ」

 金枝は黙ってソラの告白を聞いていた。

「金枝君。君もこれから威子口の者になるのだから、そのくらい肝に銘じておけ」

――傲慢だからこそ、人類の上に立てたのか。

 金枝の頭の隅でホルスが笑っている。

 体を固くしているソラ。金枝は少し引っかっていた。

「なあソラ。そこまでして、イシグチグループがワクチン接種をさせたがる理由がよく分からないんだが」

「……それは、色々あるけれど」

 ソラは綺麗な所作で両手を重ねて膝の上に置いた。

「宇宙に移住するには、たくさんの障害があったんだ。何せ、私達は地球上で暮らす前提で進化してきた生き物だから。例えば、宇宙に飛び交う危険な宇宙線や長い宇宙航行の孤独への耐性を付ける必要があった」

「ほうほう」金枝は水筒の麦茶を飲みながら相槌を打った。

「特に危惧されたのは、いつか人類が遠い星へ散り散りに暮らし始め、段々と見た目がずれていくこと。これを回避する為、人の遺伝子を弄って姿形が金輪際変わらないよう対策を施すことにした。それが宇宙病予防ワクチン。地球を出る者へのワクチン義務化は、イシグチグループにとって最重要事項とされたんだ」

「なんで、変わっちゃいけない?」

「差別に繋がるから」

 ソラはさらっと答えた。

「似た外見をしていないと、人は相手を同じ種として認識出来ない。それくらい、猿でも分かるでしょ? 君なんて、同じ日本人からもイジメを受けていたし。その大きな体でいじめられるなんて、よっぽど他人から舐められやすい体質なんだと、ある意味感心してしまう」

「うるさいな」金枝は渋い顔で白米を口に入れた。ソラは健康的な喋り口で続けた。

「イシグチグループは当時も今も『人類の地球離れ』を目標に掲げている。人口増加に伴う土地不足、環境汚染、地球と運命を共にするしかないリスク。そういった問題は、宇宙へ生活圏を広げればまとめて片づく」

 ソラはごくごくと美味しそうに白い水筒の中の緑茶を飲み、喉を潤した。

「……とはいえ、遠距離の星で暮らしていた人類同士が久々に再会しても、お互いが同じ種と気づかず殺しあったりしないように外見だけは絶対に保たなくてはならない。それこそが、宇宙進出を積極的に推し進めながらもワクチン義務化に強いこだわりをイシグチが持っていた理由だった」

――見た目が似ても似つかないと、命を奪う抵抗が明らかに減るからなぁ、君らは。

やんちゃな我が子を諭すような口調でホルスが言う。

「補足をすると」ソラはさらりと話を続けた。

「思想や文化が各星系によって大きな変異を起こさぬよう、イシグチグループは代々、流行や価値観のアンダーコントロールをさりげなく行っている。あちこちの星々の、広告代理店を通して。もし宇宙進出黎明期の地球人に我々の生活を見せたら、さぞや驚く筈だ。着てる服、思考回路、美的感覚そして表面上の文明レベルの差異の無さに対して」

「でもソラ。待った」と金枝。

「威子口の影響が弱まる太陽系外では結局、地球人の隣り星同士で宇宙資源の利権を巡って毎日のように争ってるじゃないか。スペースニュースで見飽きたってくらい似たような紛争が放映――」

「それでも」ソラは固い口調で返した。

「地球人相手に『旧遺物』の兵器は使っていない。攻撃用の兵器は。敵の外見や生活が自分達から遠ざかるほど、人は容赦をしなくなる」

ソラはじっくり、火照った喉に緑茶を通して冷ました後、静かに告げた。

「人類の恒久的な外見維持の為、莫大な金と時間をつぎ込んで作ったのが宇宙病予防ワクチン。それを威子口自ら破棄する訳にはいかなかった。当時はまだ、イシグチグループは絶対的存在にはなってなかったし、このプロジェクトが頓挫するのはなんとしても避けなきゃならなかった」

「だからって、ダメだ」

 金枝は臆することなく非難した。

「終末現象の引き金になってんだろ? 今からでも外見を固定する遺伝子は無くして――」

「無理」

 ソラは言葉を被せた。

「優性遺伝のせいで、今や地球の人間ですらほぼ全員が遺伝子変調を来たしていて、地球外の人間なら全員そうなってる。きっとそういう人間が増えたから、終末現象もあちらこちらで頻繁に起こるようになったんだね。それに、今さら遺伝子を弄り直したところで、滅びの遺伝子が眠ってくれると君は思う?」

「じゃあ、どうすんの」

 金枝は不貞腐れてソラから視線を外した。

「ホルスは、何か良案あるか?」

――目の前の婚約者が何か言いたそうだぞ。

 見直すと、ソラは両目をキラキラと輝かせていた。

「もう一つ、気づいたことがあるんだ」

 ソラは目の下の隈など感じさせない明るい口調で言った。金枝は頬杖をつくと、窓から入ってくる新鮮な空気を吸いながらソラの話を聞いていた。

「離人症は、終末現象が注目され始めた時期に表面化した問題なの」

「そりゃ、そうだろ? だって、離人症自体が終末現象の一種なんだから」

「それが、違う」

 ソラは、おにぎりを食べ終えてサランラップを手の平で丸めた。

「むしろ離人症は、終末現象からの逃げ道だ」

 ソラは携帯端末を取り出すと、金枝に見せつけた。

「イシグチグループのデータベースにあった、ゾンビ汚染被害者の個人情報三百年分。性別や体重、職や住所の記録はあるけど、離人症持ちが何人含まれているかは不明だった。そこで試しにハッキングしてマスクデータを表示させたら、なんと」

「ナント?」

ソラは右手の親指と人差し指で丸を作った。

「ゼロ人。離人症の一次感染者は一人もいなかった」 

「嘘だ」

 金枝は反射的に否定した。

「そんなの、記載がなかっただけだろ?」

「じゃあ自分の目で確かめれば。これがマスクデータだから」

 金枝はソラの携帯端末を奪い取ると、シャカシャカとスクロールしていった。離人症か否かの項目は、あった。しかし、その項目にチェックが入っている人物は、どれだけスクロールしても見当たらない。

「死後は離人症のチェックテストに引っかからない、とか……」

そう言った後で金枝は、つい今朝方、強盗殺人犯が銃殺された後に検査で離人症と判明したニュースをリビングで流し見ていたのを思い出した。

「威子口の者以外で、この事実に気づいた人間は?」

「どうかな。感染者の死体は焼却してしまうし、離人症は自分のことを周りに打ち明けないから。そもそも、祖父の威子口八雲が当主になってからは離人症への風当たりが以前より強くなって、離人症に都合の良いデータはほとんど記録されないから。私が今持ってるデータは、威子口家の権限で国家機密のデータベースにアクセスして、そこから強引にハッキングして得た情報。それも近い内にばれて、私は威子口家から抹消されると思う」

「……はあ!?」

 金枝はぞっとした表情のまま固まって、ソラの顔をしばらく見つめた。

「それはつまり、どういう……」

「だから。なりふり構わずハッキングしたせいでアクセス記録が残ってしまったの。よって私は近い内に威子口家から、祖父の手自ら消される」

「何言ってんだよマジで。訳分かんねえ。お前、頭おかしいぞ」

 ドン。教室の外で業を煮やした北形が扉を踵で蹴っていた。金枝は心を落ちつかせて、もう一度ソラを見つめた。

「それ、本当なのか?」

「ほんとう」

 ソラは清々したとばかりに背伸びをすると、開き直ったように言う。

「私は、祖父を威子口の当主としても祖父としても尊敬しているけれど、離人症関連のこととなるとどうもウマが合わなくて。気になった離人症の事件を調べたくても、激しい情報統制がされているし、見られるデータは歪められたものばかりで、前から困ってたんだ。でも、ホルスと昨日話して踏ん切りがついた。それで、今まで秘匿にされてたデータを片っ端から調べあげてやった」

ソラは少し眠たげな目をして金枝の頭をちょんちょんとつついた。

「ありがとうホルス。これでやっと前に進めた」

「ちょっと待った」

 嫌な予感を覚えながら、金枝が遮るように言った。

「どうして離人症が滅びの遺伝子の影響を受けないのか、分かったのかよ?」

「いいえ全然。ホルスはどう思う?」

――私に意見を欲するか、次期人類リーダー候補の娘よ。

 ソラはいつも通りの顔をして、じーっと金枝の瞳の奥を見つめてくる。全てを見透かそうとしている眼差しに金枝はそわそわした。

ホルスは気取った調子で自分の考えを話し始めた。

――太古の昔、君らに干渉してきた『神』にも情くらいあったのではないだろうか。絶滅はさすがに哀れと思って、離人症という小さな逃げ道を作ったのかもしれない。それか、生命が長いこと積み重ねてきた『生きたい』『滅びたくない』という意思の表れこそが離人症なのかもしれない。人は無意識に絶滅しようとしながらも、また無意識に生き延びようとした。滅びの遺伝子への対抗手段を人間が『離人症』と名付けた、それ以上でもそれ以下でもない。どうだ、私の推理は。

「俺は知らねーよ」

――ま、そこら辺はどうでもよい。肝心なのは、離人症が終末現象の元凶になり得ないということだ。離人症の能力自体に意味はなく、ただ滅びの遺伝子を無害化する際に発生した副作用でしかない。

 金枝は、ホルスの言葉をかいつまんで説明した。

「なるほど。私も同じことを考えていた」

――やはり威子口空とは気が合うな。さすが我が第一寄生候補よ。

 ホルスがクククと愉しそうに笑った。金枝は自分だけ蚊帳の外のような気がして、あまり面白くなかった。

「で、これまでの話と、この教室に入ってきた時に君の言ってた話とは、どう繋がるんだ? 離人症の部隊が、どーたらこーたら」

「ああ。鈍いな君は」

 ソラは軽く喉を整えると、凛とした佇まいをして、静かに、しかしながら強い口調で告白した。

「私は、威子口八雲を暗殺する」

 一点の曇りもないソラの綺麗な眼が、金枝を真っすぐ見据えている。金枝の体からふっと現実感が薄れた。

「やって……やってからどうすんだ?」

「その質問、『今は西暦何年ですか』と訊くようなものだろ。当然私は威子口家の当主になって威子口の全権を握らせてもらう」

滔々とソラが答えた。

「……だけど十年くらい待てば、ご当主様も老衰で――」

「そんなに待ってられるか」

 呆れたとばかりにソラは体を引き、前腕を横に振った。

「終末現象のアンチテーゼとなり得るなら、今すぐ離人症への方針を百八十度転換しなくてはいけないんだ。祖父は離人症のこととなると頑固で私の言葉など聞きやしない。悪いが、祖父には退場してもらう」

「でもな……」金枝は青い顔をした。威子口家当主の暗殺など前代未聞だった。

「祖父と面会を申し出て、出会い頭にグサリと殺れないこともないが、さすがに私は捕まってしまう」

 ソラは机に膝をつき、両手指をクロスさせて口元に持っていった。

「特殊な暗殺が必要なんだよ。威子口に日頃から恨みを抱き、尚且つ祖父の身辺警護も欺ける、特殊な能力を持つ人間」

「離人症状者のことか」

 顔を強張らせ、金枝が言葉を接いだ。ソラは二人きりの教室で、金枝の為だけに清涼な笑顔を振りまいた。

「金枝君。君には誰が離人症か分かるらしいね」

「な、何で知ってんの」

「君をしばらく盗聴してたから」

金枝は慌てて自分の制服をぺたぺた触った。その様子にソラはくすっと笑った。

「もう君の情報は十分手に入ったから、今は盗聴してないって」

金枝は弄る動きを止め、鬱陶しげにソラを見た。

「強そうな離人症の奴を俺にスカウトさせて、威子口八雲を殺させる気だな? 随分と大胆なプランだな」

「まあね」

 ソラは軽い調子で認める。金枝が絶句していると、ソラは空になった弁当箱を手に立ち上がった。

「金枝君、なるべく早くして。あと九日で十一月一日だ。月初めから無作為なナイフト=トーフフ検査が始まる。そうなれば、罪のない離人症の人々が大勢死ぬか、施設送りにされる。それに私のハッキングがばれても面倒だな。もし私が捕まれば、暗殺計画のことまで吐かされて、君も人体実験の素体に回されると思う。私ほど、他の威子口の者は甘くない」

「な、何で俺が人体実験に……」

「だって、ね?」

 物憂げな眼差しでソラは自分の両肩を抱いた。

「拷問されたら、本当に可哀想だけど、私は洗いざらい口を割ってしまう自信がある。それに北形なんて、大喜びで話しそうだ。君のこと、あまり好きじゃないみたいだから」

 金枝は苦い顔をして教室の外の釣り目の女子生徒を空目した。ソラが、カチャリとドアを開ける。不敵な笑みを浮かべる北形と金枝は目が合ってしまった。

「さよなら、金枝君。どんな手段を使ってもいい、使えそうな離人症状者を早く見繕ってくれ。何か相談がしたいならすぐに声をかけて。期限は、今週までに」

「威子口ソラッ」

 金枝は、制服姿の威子口空の凛とした後背に訊ねた。

「覚悟、出来てんのか」

「私はとっくに出来ている。君は?」

 ソラは問いかけ返すと、金枝の答えを聞かずに教室を出ていった。廊下から二足の上履きの音が遠のいていき、やがて消えてなくなった。

「ああ。とんでもないことになった」

 金枝は青い顔をして唐揚げを口に入れた。バカシタを使った筈なのに、口内の唐揚げからは何の味も感じ取れなかった。


「は? 離人症集め?」

 放課後の廊下で、小間口は不審人物を見るような目つきで金枝の顔をじろじろ眺めた。金枝は周囲を気にしながら、威子口八雲暗殺計画を小声で話した。小間口の健康的な顔色は、さっと青白くなる。

「か、金枝……。そんな計画に、あたしを巻き込むな! やだやだやだやだ」

 小間口は両耳を塞ぎ目を瞑り、金枝から離れていく。金枝は少し大声で言った。

「もう君は聞いちゃったんだ。後戻りは出来ないぞ」

「そんなのテロ行為じゃん!」

 小間口が声を荒げる。金枝は慌てて歩み寄り、小間口の口を塞いだ。小間口も自ら口を押さえていた。数人の生徒が不思議そうに二人を見ている。二人は「あははは」と笑いながら、その場から離れた。

「……無理だよそんなの」

 廊下を歩きながら、金枝の口を剥がして小間口は押し殺した声で言った。

「ねー金枝、やめてよ。死にたくないもん」

「威子口さんの洗脳未遂に君は失敗してんだぞ。もう怖くないだろ」

「あー、確かに」

小間口は乾いた笑いを浮かべた。金枝は説得を続けた。

「もう君が離人症だってこと、威子口さんだって知ってるんだ。君が参加しなかったら、『伊穂を仲間に入れたら?』って言うぜ、あの人」

「はあー」小間口は肩をがくりと落とすと、顔を上げ、噛みつくような目で金枝を睨んだ。

「私は、何すればいいの?」


 威子口大地の命日になった十月二十八日は『大地祭』という名の祝日に定められている。

威子口大地は頭が切れた。人徳に溢れていた。政治手腕も優れていた。それでいてルックスも良い。欠点のないスーパーマン。それが威子口大地だった。父親である八雲は「儂がいつ死んでも大地さえいれば人類は安泰だ」と側近に話すほど、大地には全幅の信頼を寄せていた。 

彼の命を奪ったテロリストグループは世の中に不満を持つ離人症持ちで構成されていた。そのことが、八雲の離人症嫌いに更なる拍車をかけたとされる。

朝十時から始まった大地祭の様子は、各地方のテレビ局のリレーで長時間中継された。金枝はテレビの前に居座り、昼飯こそ食べながらも三時間近く画面から目を離さずにいた。

幸い、金枝宅は快適だった。先日購入されたエアコンは『初夏の自宅』モードが搭載された新型で、早速それに設定してある。十月下旬の肌寒い日であるにも関わらず、『六月中旬のちょっぴり暑くなった昼下がりにクーラーを贅沢につけて涼しくなった自宅』というニッチなシチュエーションがリビングに再現されていた為に、金枝の袖の裏や半ズボンの隙間を通る冷えた室内の空気も実に爽やかで気持ち良かった。新型エアコンは値が張ったが、自分が威子口の者と婚約したものだから両親も相当財布が緩んだんだろう。と、金枝は推察していた。その証拠に金枝の母は今まさに、家庭用最新型アンドロイドの特集電子カタログに熱心だった。

――おい。美糸クン。本当に暗殺は起こるのか? そんな気配、微塵もない。呑気で、和やかで。

 金枝の眼玉越しにテレビを眺めていたホルスは、すっかり退屈して話しかけてくる。

金枝は軽く肩を回すと、頬杖をついた。

(やるとしたら、今日だ)

確信めいたものが金枝にはあった。金枝は威子口八雲暗殺の日時も具体的な方法も何一つソラから聞かされてはいなかったし、小間口からもはぐらかされた。しかし、既に暗殺の準備は済んでいると金枝は踏んでいた。

威子口大地祭の四日前。ソラと北形と金枝の三人で放課後の校内を閉門時刻ギリギリまで徘徊したことがあった。北形は常時ステルス状態で、無言で生徒を撮影をする役だった。金枝はすれ違う離人症持ちの生徒の能力をソラに伝え、ソラがその能力を気に入れば、今度は北形が生徒の顔を写真に収める。その中には、修学旅行でヒグマを倒した目つきの悪いチョコレート少女もいた。

ソラは暗殺に利用する離人症持ちをじっくり吟味した上で、使えそうな者は後日小間口の洗脳を受け、暗殺の駒にされるのだろうと金枝は想像した。洗脳は小間口が指示を紙に書いて本人に見せれば数秒で事が済む。

威子口空は十一月一日の法改正日までには祖父の暗殺をしたがっていた。となると、八雲が公の場に姿を現す十月二十八日の威子口大地祭をソラが逃す筈はなく、ソラの父親の命日が八雲暗殺のエックスデーに選ばれる可能性は高い。金枝には今日まで、かなりの自信があった。 

のだが、一向にそんな気配もなく、派手で豪華なパレードは賑やかに日本中を駆け巡っている。威子口大地が宇宙の藻屑に消えて丁度十年ということもあり、いつにも増して大がかりなショーが列島を跨いで行われていた。特に東京はいつになく華やいで、冬も近いというのにうだるような熱気が画面越しからも伝わってきた。

 野球中継を見たがる姉や、「秋の天皇賞が……」と不服を言う父親を説き伏せ、金枝はパレードを見続けた。

「さすが婚約者ねぇ。今まで、こういうの全然興味なかったのに」と金枝の母親。

「でも美糸。お前、フィアンセなんだからソラさんの隣りにいなきゃ駄目じゃないのか」と父親がお節介を焼いてくる。金枝は答えるのが億劫で黙っていると、ナイスタイミングでインタビュアーがソラに質問した。

「ところでソラさん。貴方の婚約者さんは今日、いらしてないのですか? 姿が、ありませんが」

「ええ、だって彼はまだ威子口家の人ではありません、普通の学生ですから。英語や数学の小テストに毎日を追われる身。威子口のせいで学業に支障が出たとあっては可哀想なので。結婚するまでは、なるべく普通の生活をして欲しいんです」

 ソラは雪の結晶のような儚なげな表情で黒髪を耳にかけた。女性らしい仕草にドキリとしながら、(よく言うよ)と金枝は内心苛ついてもいた。金枝が今日大地祭に呼ばれなかったのは、ソラが金枝と長時間隣り合わせで座り、大地祭を見守るのを拒否した為だった。金枝は金枝で何時間も拘束されるのはごめんだったので、不参加になって清々していた。

 テレビ画面の右上端のワイプが、都内のスタジオで待機する何の為に存在するのか分からない大勢の芸能人の内の一人の女タレントに切り替わる。威子口空の清らかな心遣いに感銘を受けましたとばかりに涙をほろほろと流していた。

しょうもねえ、と金枝は思った。

「なんと素晴らしいお方だろう」

 金枝の父親は陶酔し切って、画面のソラの横顔に目を奪われていた。ソラはメイド服に似た黒のドレスを身にまとい、全身を黒で着飾っていた。金枝はげぇと、ひっそり舌を出す。別の話題を振られ屈託のない笑みを浮かべながら優等生回答をする威子口空を、金枝はただ感情なく眺めていた。

 夕方になり日も暮れ始め、大地祭も終幕に向かっていた。赤い壇上で、威子口大地がどれだけ偉大な人物だったかを語る銀行の頭取、大企業の社長、アメリカから来日した大統領といったお偉方の長話に耐えかね、金枝はついつい舟を漕いでいた。

ふっと目を覚ました時、壇上には威子口八雲その人がいた。マイクを通さなくても遠くまで届くであろう、しっかりとした話し声。杖をつきながらも背筋は若者のように真っすぐで、白くなった眉毛の下からは飢えた狼のような眼光が覗く。話の内容も理路整然としていて、とても七十代の老人ではない。

(こりゃ、あと十年は死なねぇな)と思いながら、金枝は欠伸を噛み締めていると、八雲がゴホンと咳払いした。

「そう言えば、最近サプライズを受けまして。先日うちの娘が勝手に婚約しましてな」

 観客から笑いが零れた。

「実は儂も前々から、言おう言おうと思いながら、しかしまだ早いと我慢してきたことがあります。だが、もう頃合いでしょう」

 八雲が一息をついた。何だろう、と観客席が静まる。

「威子口八雲は勝手ながら、今年一杯で威子口家当主の座を退くことに致しました」

 金枝はぎくりとした。眠気が吹き飛ぶ。人々のざわめきがテレビのマイクに入りこんだ。後ろで控える八雲の側近は動揺を隠せない様子で、ソラは目を丸くしていた。

「儂の後の当主ですが、それは彼女しかおりません。威子口大地の娘、威子口空以外におりますまい。どなたか、異存のある人は?」

 八雲は悪戯な笑みを浮かべ、後ろを見やる。誰からともなく拍手をし始めた。拍手の波は浸食するように観客席まで広がり、やがて地響きのような拍手(かしわで)がソラを祝福した。

「どうなってんだ、一体」

 暗殺計画は中止になったのだろうか。しかし、八雲が隠居するのは来年からだという。金枝は当惑した。威子口家の人々に囲まれたソラの顔をカメラが捉えているが、ソラも困り果てたような顔をして、それでも目の前の事実を必死に受け入れようとしているように見えた。

 ぽつ、ぽつ。雨が降ってきたらしいのは、観客の反応で分かった。人々は持ち合わせのハンカチや鞄で濡れるのを防ごうとしたが、あっという間に大粒になり、カメラの視界を遮るほどの激しい雨が人々を強く打ち叩いた。黒服の男らは大慌てで、大きな黒傘を広げて現当主を雨から守ろうとする。

「老人共の話が長いと天が御怒りのようだ」

 八雲は素早く話を切り上げると、一礼して壇上を降りていく。八雲はそのまま黒服らと共に、傍で待機していた黒塗りの車へ徒歩で向かった。

「えー、これは大きなサプライズになりました。それでは最後に、大地さんの一人娘である威子口空さんからお話を伺います」

 進行役に促され、黒い傘を開き壇上へ向かおうとしたソラは、不意に何かを気にする素振りを見せて足を止めた。画面外から聞こえる誰かの悲鳴。どよめきが起こる。カメラがパンされると、八雲老人が土砂降りの中、うつ伏せで倒れていた。画面にはっきり映ったのは八雲の革靴を履いた長い足くらいで、何が起こったのかよく分からなかった。傍にいた黒服らは傘で八雲を覆い、見えない何かから老人を守っている。場は騒然となり、威子口家の人々は黒服らに脇を固められて早々に避難を始めた。一人制止を振り切り大股で父親に駆け寄る威子口灸(やいと)の大柄な体と、取り乱したソラを抱きかかえる黒服達の様子を最後に中継映像は遮断され、タランチュラ星雲のダイナミックな環境映像がだらだらと流れ出したものだから、金枝も静かに席を立った。


威子口八雲の死から四日。葬儀は威子口の身内だけで行われた。

がらんとした貸し切りの火葬場のホールで一人ぽつんと佇むソラがいた。

「ソラ」

「金枝君」

金枝もソラの婚約者という立場で葬儀に参加していた。金枝は周囲を見渡しながらソラに近づいた。

「なあソラ。八雲さんの暗殺の件、あれは――」

「あ、黙れ」

ソラが金枝の両頬を指で潰した。

「おーい、ソラちゃん」

金枝が振り向くと、威子口灸がふらりと歩いてくる。用を足し終えた直後で、濡れた手を赤いハンカチで拭きながら、気さくに「やあ」と手をあげた。

「ほんにちわ」ソラに妨害されながらも金枝は挨拶した。

「おー。若いって良いね、お二人さん。火葬場でもラブラブかあ」

 ソラは羞恥心を感じて金枝の頬から指を外した。

「灸叔父様。私に何かご用ですか」

「ああ、ちょっとな。ところで、金枝君」

 灸は金枝に気さくに話しかけた。

「君、釣りはするか?」

「いいえ? 周りに海が無いし、全然」

「今度木星へ釣りに行かないか。あそこはウチュウオニイソメがわんさか釣れる。五メートル近い奴。君が良ければの話だが」

「もちろんです」

「そりゃあ良い。木星は俺の庭だ、色々案内するよ。それはそれとして――」

灸は恭しくソラの手を取った。

「君のフィアンセを借りる。悪いな」

灸はソラを連れて廊下の角へ消えた。結局、金枝は八雲の暗殺方法をソラから聞きそびれた。


誰もいない待合室にソラを引き入れるなり、灸は拍手をした。

「何事ですか。灸叔父様」

「どうなんだ? 当主になった気分は。なあソラちゃん」

 ソラの眉が微かに動いた。灸はキラリと白い歯を見せて言った。

「書斎にあった親父の遺言書にも、しっかり書いてあった。『自分が死んだら、後を継ぐのは威子口空』だと」

灸の話を聞きながらソラは部屋の電気を点ける。

「……灸叔父様。用はそれだけですか」

「いいや、まだある。親父の暗殺容疑で捕らえた離人症持ちの連中だが、あれは冤罪だ。親父の体をハチの巣に出来そうな能力者はいなかった。おそらく真犯人は、体を液状の何かに変化できる奴だ。それで親父を――」

「彼らがやった証拠があります。警察の報告書は読まれました?」

「ああ。胡散臭かったね」

 あっけらかんと灸は答えた。ソラは肩を竦め、静かに言った。

「お言葉ですが、灸叔父様といえども、あまり勘で語らない方が宜しいのではありませんか。少なくとも彼らがとても危険なテログループであった事実は変わりません」

「ははは。親父が惚れただけのことはある。既に威子口の当主らしいじゃねえの。ついこないだまで小っちゃかったのに」

 灸は楽しそうに笑うと、カリカリと頭を掻いた。

「まあいいんだ、もう。俺は狭い部屋で陰湿な政治やってるより、広い宇宙を飛び回ってる方が性に合うんだ。どっちにしろさ、海人の兄貴かソラちゃんが威子口の後継者だったからな。兄貴は人望がねえし、ソラちゃんがお誂え向きだったよ。ところで、兄貴もこのことは知ってんのか?」

「何のことだかわかりません」

 ソラは口を閉ざした。灸がおもむろに携帯端末を取り出すと、ソラにも出すよう促した。ブルッとソラの端末が震えてデータの受信を報せる。

「何ですか。これ」

 ソラは表示された地図から目を離し、少し怖い顔をして灸を見上げた。灸は無表情で言った。

「少し早いが当主就任祝いのプレゼントだ。そいつは、死んだ親父が秘密裏に運営していた離人症隔離施設の位置座標だ。大っぴらに出来ないことをやってたんだろうさ。もしかしたらソラちゃん、知りたいんじゃないかと思って」

「知りたい……何を?」

 ソラはきょとんとした。灸は「あれ」と小首を傾げた。

「俺はてっきり、君がご両親の死について詳しく知りたがっていたのかと」

 灸は言った後で『しまったな』という顔をした。ソラの無垢な表情は跡形もなく消えていた。ソラの無知な振る舞いが、相手から詳しい情報を探る為の演技に過ぎないと察するのに灸は少し遅れた。

「まあ……いいか。一服しよ」

「灸叔父様、ありがとう」

 灸はポケットに手を入れ、ゆらりと部屋を出ていった。 

「どうします、お嬢様」

 ステルスを解いた北形がソラの傍に寄り添うように立った。ソラは微かに小首を傾げる。

「灸叔父様の口振りからして、父と母に関する情報がこの施設にあるらしい。でも、今さら両親のことなど……」

 不思議がるソラに北形が少し柔らかな口調で言った。

「以前、灸様に泣きついたことがあったではないですか。十年ほど前に。覚えておりませんか? 『両親の最期の様子を知りたい』と」

「ああ、そういえば。親戚の集まりか何かで、あの時だいぶ困らせた記憶がある。そうか、子供の頃の私との約束を守ってくれたのか。全く、灸叔父様らしいな」

ソラは取り澄ますと、髪をさらりと振り払ってから言った。

「北形、明日の予定を変更して。『サイレント』を率いて施設へ突入する」

 ソラが口にしたのは、威子口家当主権限でのみ動く少数精鋭の特殊部隊の名だった。

「お嬢様、サイレントはまだ……」

「私は当主就任式も行っていないから駄目か?」

「いえ」

 北形は眼鏡をカチリと掛け直した。

「サイレントはお嬢様の命令を聞くでしょう。八雲様が亡くなった時点で、お嬢様が人類のトップなのですから。最期の演説で八雲様が直々に名前を出されたのですから、逆らう訳にもいかない」

「……なに、北形。その言い方」

 北形は口を閉じたままソラをじっと見つめている。ソラは自分の心が不安定になっていくのを感じた。

 北形が口を開いた。

「お嬢様。八雲様は、やもすると気づかれていたのではないでしょうか。遺言状も、大衆の前での当主ご指名も、我々にとって都合が良すぎました」

「だから、何? そんなことは関係ないんだ。私はああするしかなかった」

 ソラは自分に言い聞かせるように言った。

「私だって嫌だった。こんな形で、当主になるなんて。でも、私達は急いでたんだ」

 ソラは窓の外に目を向けた。上空に巣食う、どんよりとした灰白色の雲が都内全体を覆っている。

「ラプラスは、ヒトの絶滅を決めつけた。これまでずっと威子口を、人類を繁栄に導いてきたラプラスが。もう手遅れだろうと半分絶望しながら、やっと解決の糸口が見えたと分かった時に、離人症を殺そうとする法改正。太陽系全土で一斉に。祖父の死で法の手続きは止まったが、もしお爺様がご存命なら今頃は月でも火星でも離人症持ちが摘発されて、捕まるまいとする離人症持ちが暴れては大勢の死傷者が出たに決まってる。そうだろう北形」

ソラに問われても、北形は落ち着いた言葉遣いで答えた。

「私は、お嬢様が後悔されてないのなら何も申し上げることはございません」

「……まさか。覚悟してたでしょ、ソラ。順調に事は進んでる」

 ソラは自問自答を済ませると、目元から伝う涙とその痕をハンカチで素早く拭い取った。そして、部屋の端に置かれた姿見をちらりと見た。青空のような笑顔を浮かべる威子口空の姿があった。普段と何も変わらない、いつもの自分。ソラはふっと息をついてから、静かに部屋を出た。


 北形雅は悩んでいた。

果たして、自分のよく知る彼女は、本当に今でも威子口空なのだろうか。自分が命を賭して守ろうとあの時誓った、弱々しかった少女はまだ、生きているのだろうか。高潔で、負けず嫌いで、それでいて繊細で、硝子細工のように脆く、危うい少女の面影。それをソラから見い出すことは年々難しくなっていた。

なので、祖父を殺した自責の念に苛まれたのか突然涙を零したソラを目の当たりにした時、北形は安堵してしまった。喜んでしまった。ああ良かった、まだお嬢様はお嬢様のままなのだ。威子口の仮面を被る、両親を失った時の可哀想な少女のままだったのだ、と。

 

「なんだって?」

 昼下がり。関東圏の自然の残る森林地帯の奥深くに停まった場違いなリムジン。運転席で特殊部隊サイレントから報告を受けていた北形は、しばらく言葉を失った。

後部座席に座るソラが、不思議そうに顔をあげる。

「北形? 施設はまだ制圧出来ないのか?」

北形の思考回路に迷いが生じていた。普段の北形なら包み隠さず情報を伝えるか、あるいは完全に隠匿していただろう。しかし、先日ソラの弱い部分を見たばかりの北形は、どちらにするか躊躇してしまった。

「貸して」

 隙が有ったのでソラは北形の背後から携帯を取り上げると、ホログラムモードに切り替えた。

「お嬢様!」

 北形を無視してソラは隊員に視線を合わせた。

「私が聞きます。もう一度報告を」

 ソラの姿を目にしたサイレント隊員のホログラムは慌てて姿勢を正し敬礼すると、低い声で話した。

「施設の制圧は問題なく完了しております、ソラ様。内部の状況は、後程いらっしゃるという事でここでは割愛します。それと、ソラ様のご両親の情報ですが、たった今、施設内のデータベースを探りましたところ……威子口睦穂様のお名前がございました」

「それは母の名です。十年前の爆破テロに関する資料か何かですか?」

 冷静に訊ねるソラに対し、隊員は神妙な面持ちで答えた。

「いえ。そうではなく、此方の施設の被験者名簿に睦穂様の名が」

 ソラの口が小さく開いた。

「それは……訳が分かりません。どういう。おとぎ話なら私は――」

 隊員は首を横に振ると、緊張の面持ちで告げた。

「威子口睦穂様は、この施設内でご存命です。今も尚。施設の所長からも確認を撮りました。同姓同名でなく、正真正銘ご本人とのことです」


 ソラは黙って車から降りた。施設までは徒歩で五分とかからないと地図を見て知っていた。

「お嬢様。睦穂様はおそらく――」

「うるさい。北形は静かにして」

 後を追ってくる北形に対して、有無を言わせぬ口調でソラは会話を拒絶した。ソラは全身から『近寄るな』のオーラを毒々しく発していた。北形は何も言えず、それでも、逸るソラに付き従うように森の遊歩道を歩いた。そうして二人は、森の中に立つ異様な白い建物の前でゆっくりと足を止めた。

プラネタリウムの投影機の球部分を横に切って地面に被せたような、角ばった、ドーム状の大きな建物が、森の木々に覆い隠されるようにしてひっそりとそこにあった。入り口の前には、白衣を着た施設の研究員らしき者が五名と、強化服を纏ったサイレント隊員七名が銃を携えて待機している。

「ソラ様。おお、ソラ様」

 ソラに近づこうとする白衣の中年男をサイレントの隊員が押さえ込んだ。

「彼は?」

 ソラが隊員の一人に訊いた。が、隊員が答えるより早く、

「私はここの所長の溜渕真心(まこと)と申します! よくぞいらっしゃいました」

と興奮気味に名乗る、上背の無い白髪交じりの男。ソラは腕を組み、溜渕所長に対面して尋ねた。

「そもそも、この施設の名前は? 何をするところ? 威子口のデータベースを探しても全く出てきません」

「そうなのです、ソラ様。この施設に名称などありません。その方が、存在を抹消しやすいのです。我々は、便宜上『エックス施設』と呼んどりますがね」

 溜渕所長が金歯を見せて笑う。

「何をしているところだ?」と、北形が尋ねるが溜渕はヘラヘラしている。ソラが同じ質問をすると、溜渕はすぐに口を開いた。

「離人症の研究です。研究成果は、中に入ってご覧くださいませ。さあさ、私が案内しますよ、ソラ様。ところで」

 溜渕は情けない表情で両手を繋ぐ手錠を持ち上げた。

「これを取ってくれませんか。八雲様の命令で研究してたのに、あんまりじゃないですか」

「口の利き方に気をつけろ」

 サイレントの隊員がどやしつける。「鍵を」とソラが隊員から手錠の鍵を受け取った。

「へへ。ありがとうございまし」

 ぺこぺこと溜渕は頭を下げた。

「いいんですか? 怪しいですよ」と北形が耳元でささやくが、ソラは一つまばたきをして、溜渕の手錠を取り外してやった。


「ここに威子口の方がいらしたのはまさしく十年振りです」

 溜渕が文字通り低姿勢で、ソラの方を見ながら言った。ソラは隊員達に囲まれながら、溜渕の案内で物静かな施設の中を歩いていく。内部は博物館を思わせる開放的な空間で、天井も高く空調が整っているのをソラは肌と肺で感じた。

天井まで物音がよく響いた。妙な静けさと乾いた靴の音。

何の脈絡もなく、何百ものホワイトボードが長い列になって並び立っている光景にソラ達は遭遇した。ボードには離人症にまつわる文献や白黒写真がマグネットでペタペタと貼られている。古い時代の学術個展の様だった。

「十年前に来たのは、祖父が?」

 ソラの質問に溜渕が深く頷いた。

「貴方様のお爺様である八雲様に、私ゃ、随分と目をかけて頂きまして。いらっしゃらない十年間も、ちゃんと働いておりましたよ。我々が忘れられていないことは、毎月口座に振り込まれるコレが教えてくれましたよ。へへへへ」

 指で輪っかを作りながら溜渕が言うなり、体を曲げてホワイトボードを潜り抜け、隣りの列へ移動した。サイレントの隊員が素早く銃を構えたが、溜渕は小汚い声でホワイトボードの解説を始めただけだった。

「ソラ様。こちらのボードにあるのはナイフト=トーフフ検査の精度向上に大いに役立った被検体約二千人の各種反応データです。このおかげで無実の一般人が検査に引っかかるケースは従来の方式の十七分の一まで減少したんですね。それでこちらは――」

 溜渕は跳ねるようにして、ホワイトボードに貼り付けられた研究成果を身振り手振りで紹介していった。離人症の能力使用を阻害する超音波ジャマーの開発ログや、オーソドックスな離人症の能力である念動、発火、電撃、読心の四種を仮想敵とした強化スーツの改良とその成果等、十年分の積もりに積もった研究データを溜渕はペラペラ話し続けた。

「さらには、母胎内の胎児の離人症要素が母親のエピジェネティクスに作用して母親の離人症を発現させたマイクロキメリズム的現象を実験下で初めて観測に成功し――」

「溜渕所長。話を遮って悪いが聞きたいことがあるんだ」

「はいはい何でしょう?」

 溜渕は機嫌良く訊き返す。ソラは息を整えると言った。

「私の母、威子口睦穂は今どこにいるのか教えて欲しい。この施設内に、いると聞いた」

「ああ、お母様に。お会いになりたいと……それはですね」

 途端に溜渕の表情がぎこちなく固まる。

「何かお飲みになりますか。お茶でも」

「すぐ会わせてくれないのか」

「……ひっ。りょ、了解しました。さっ、さあさ、こちらへ……」

 ソラの強烈な気に当てられた溜渕は、額から流れる苦い脂汗をハンカチで拭き取りながら、革靴の音を響かせてエレベーター前まで皆を誘導した。


「何だこれは……」

 地下の階へ降りて数歩、ソラは顔をしかめた。上を、そして横を見る。透明な壁にこびりついた血痕、ウジウジとした何か体液の残滓。透明な長いかまぼこ形状の管の中をソラ達は歩いてゆく。そして、気づいたのは汚れが外側で付着したものだということ。ソラのいる管の内側は、至って清潔だった。

薄暗さに目が慣れ全貌が見えてくると、ソラの眉間には益々皺が寄った。仄暗く赤黒い世界。巨大な地下世界の空洞内部を蟻の巣のように走る、透明な管、管、管。その中をソラ達は歩いていた。外部の空間のあちらこちらに吊り下げられているのは、立方体の箱。無数の透明な箱が、暗闇の中に規則正しく浮かんでいた。幾つかの箱の隙間からはどす黒い人間の体液がぽたぽたと垂れ落ち、ソラ達のいる透明な管の表面をぬらぬらと濡らしている。延々と広がる地下空間は何千機ものドローンが縦横無尽に飛び回っているが、ドローン毎に役割があるらしく、透明な管の廊下についた汚れを高圧洗浄で洗い流す機体もあれば、立方体の箱の中へ乾燥した食べ物を届ける機体もあった。

「血管、みたいだ」北形が遠くまで目を凝らし、言った。

「悪趣味な。何でこんな構造にした?」

ソラは微かに声色を濁らせながら尋ねた。溜渕は、それがさも当たり前のように「ただの離人症対策ですよ」と、返した。

「何かあった時にですね、問題の発生した箱を選択し焼却、即時廃棄ができるよう、被検体の部屋は一つ一つ独立させているのです。研究員の安全を考慮し、被検体への干渉は全てドローンで行っています。見ての通りに」

「所長、あれは」

 ソラは自分達の傍に浮かぶ大きな箱の中身を指して言った。箱内部では半裸の男が全身を太い針金に絡め取られていた。男の皮膚は血管が樹木のように浮き出し、爪は焦げ、目が飛び出している。

「一体、何の実験?」

「あー。発電能力を持つ被検体がどれくらいの電力で感電死するかの実験ですね」

 溜渕は何でもないことのように説明した。

「じゃあこっちのは?」

 反対側の鉄箱の中を指差し、ソラが訊いた。

「そちらは、テレパスの被検体と重度の精神病患者を一か月間同居させることで、被検体の脳にどのような変化が生じるか調べております」

「ふうん」

 ソラが躊躇なく携帯端末のライトで箱の中を照らした。眼の血走った若い女が涎を垂らし、服もはだけたまま体を揺さぶっている。それが精神病患者なのか離人症状者なのか判別する前に箱は後方へと引っ込んでしまった。

張り巡らされた透明な管の行き着いた先は、巨大地下空洞の真ん中、中央地だった。そこには少し開けた空間があって、機械のモニターには各箱の内部が映像として表示され、箱の移動も操作パネルで可能としている。

操作パネルの前に立つと、溜渕はそわそわし始めた。ソラは溜渕の隣りに立つと、乾いた笑みを浮かべ、流し見るように溜渕へと視線を向けたまま言う。

「さあ。どうしました? この機械を操作して、私の母に会わせてくれるのでしょう?」

「ソ、ソラ様。聡明な貴女ならば、ある程度の予測はついてると思いますがね。何も、無理にご覧になる必要は――」

「いいからやれ」

 氷柱のような凍てついた声がソラの口から発せられた。溜渕は圧に堪えかね、機械のパネルをポロンポロンと短い指で弾くように操作した。やがて、たくさんの透明なキューブの中から一つの箱が浮上すると、ソラ達の目の前まですーっと接近し始めた。それが十分近づいたところで、透明管に設置された強烈なライトが二つ、箱の中身を左右から晒し者にする。

 箱の中に、人はいなかった。ただ、人の形すらしていない十センチ四方のピンク色の肉片が各種計測装置に繋げられ、盥の中にぽてりと置かれている。シュールな光景。威子口睦穂の成れの果て。ソラは片手で口を押さえ、もう片方の手で機械の縁に縋つき、力なくしゃがみ込んだ。

「貴様……なんてことを」

 北形は体を震わせながら、あまりの所業を信じ切れず、溜渕をじっと見つめ続けた。溜渕は面倒くさそうに頭を掻くと、「ソラ様なら、分かる筈です」と弁明を始めた。

「被検体S―二〇六は爆破テロに巻き込まれ四肢が飛び散ってもなお、体がひっつき再生したんです。まさに不老不死。こんなのは後にも先にも聞いた事がない事例だった。科学の発展のため、絶対に研究しなくてはならなかったのですよ。八雲様も泣く泣く、睦穂様を被検体とすることを黙認されました。その時の心境たるや、ああ」

「ふざけるな、そんなのあっていいワケがない」北形は食い下がったが、溜渕も負けじと言い返す。

「そもそも大地様の奥方様が離人症を発症したこと自体、あってはならないこと。爆破テロで大地様と共に亡くなられたと発表するしかなかったのですよ」

「何故、私の母はこのような姿をしている」

 ささやくようにソラが訊いた。溜渕は深刻な表情を作った。

「それが、ここに運び込まれて四年と二か月が経った頃を境に体の再生がされなくなり、最終的にこのようなお姿に」

 北形は爆発した。

「何が、そのような戯言ッ! まるで自然と睦穂様がこのお姿になったかのような言い草で! 貴様らが、貴様らが……ッ」

 北形は言いにくそうに言葉を切り、そして「散々、切り刻んで」と最後は掠れた声で呟いた。悲痛な感情が余韻のように周囲を漂う中、溜渕は沈黙したままのソラに懲りず語りかけた。

「離人症は逃れようのない事故のようなもの。だからといって、野放しにするわけにもいきますまい。町にヒグマが出れば、駆除せねば危険なように、離人症もまた誰かが処理しなければならない。もし私が風変わりな離人症ならば自ら被験者となり、人類に貢献して死んでいきたいと常々思っております。全ては未来の為、子供たちの為。長い人類史のどこを見ても、犠牲無くして発展はありません。ソラ様ならば、分かるはず」

「減らず口をっ」

 今にも掴みかからんとする北形の胸元を、白く細い指が軽く押し留めた。

「北形」

北形は一呼吸おいて一礼すると、一歩身を引いた。ソラはただじっと、興味の無い眼差しを溜渕に向けている。

何故だろう、溜渕の意識の上方の辺りに『死』の一文字がぽわんと浮かんだ。それは半世紀を生きてきた溜渕の心に原始的恐怖を蘇らせる。溜渕は「あ、ああ……」と言葉にならない声を発した。

ソラは淡々と話しかける。

「所長。もう、言いたいことは済みましたか? 話したいなら聞きます」

 溜渕の口から、堰を切ったように言葉が噴出した。

「わっ私は威子口八雲様の指示でやっていただけだ! それに自分がやらんでも、どうせ誰か研究をやってたんだ! 私だって、被害者の一人なんだ!」

「ただ断れば良かっただけの話でしょう。旨味があるから何十年もここにいたんだ、この高給取りが」

 溜渕は、指を震わせ引き攣ったように笑うと、濁った脂汗を垂らしながらソラを指差し啖呵を切った。

「八雲様が間違っていたとでも? ソラ様、アナタはね、まだ若く現実が見えてないんだよ。大勢の幸福の為に多少の犠牲は目を瞑らないといかん時があるのです、それが分かる日が必ず来る!」

 激しく捲し立てる所長とは対照的に、ソラは涼しい顔で周りを見渡した。

「所長には、聴こえません? ほら、ここからも。そこからも。箱の中から『うあー』て。苦しそうな呻き声」

「な、なにがだ。聞こえる筈がない。ここは防音だぞ」

「それは残念です」

 ソラは大して残念でもなさそうに両手を降ろした。

「人の声が聴こえない所長さん。楽に死ねるとは思わないで下さいね」

 ソラが手で合図すると、サイレントの隊員が左右から所長に詰め寄った。と、所長は白衣の袖から注射器を、不敵な笑みを浮かべながら迷いなく自らの首筋に突き刺した。

「はっ、残念。私は、楽に死なせてもらうよ」

 クリアな液体が溜渕の太い首に吸い込まれていく。

ソラは、くすくすと笑い始めた。

「なっ何がおかしいか」

「フフ。生理食塩水で死ねるだなんて、愉快な人ですね」

 馬鹿にしきったジト目でソラは溜渕を見据えた。溜渕は寒気を覚えながら、引き抜いた注射針から一滴、自分の舌にその透明な液を垂らした。溜渕の舌は微かに塩味を感じた。

「こ、この。すり替えたな。いつだ。どうやって――」

「溜渕所長」

ソラは腰に手を当て、挑むように溜渕へ言った。

「次はその舌、噛み切ってみたら? 楽に死ねるかもしれないぞ」 

 溜渕は山羊のような悲鳴をあげると、機械の操作パネルを素早く弄った。刹那、溜渕の体が消えた。溜渕の足元の床が開き、小柄な体が落下していた。と、溜渕の体はカゴ付きドローンのカゴの中にすぽっと嵌まり、そのままドローンは溜渕を乗せて滑空するように飛んでいく。空いた床穴からは虐げられる離人症状者の悍ましい呻き声の合唱と共に、溜渕のけたたましい笑い声が地下空間に鳴り響いた。

「ソラ様。溜渕が逃げてゆきます」

「みんな。落ち着いて」

 ソラは床の穴を避けるように機械のところへ行くと、操作パネルをなぞるように触れていたが、仕様を理解すると操作パネルを指でパチパチ叩いていった。ポロロンポロロンと機械から派手な音がしたかと思うと、遠くへ行きかけていた溜渕ドローンは、突如方向転換を始めた。溜渕のドローンはどんどん上昇し始め、やがて一つの透明な箱の上で停止した。ソラがパネルを操作すると、その箱がウィーンと開き、所長はドローンと共に離人症持ちの部屋へ入っていった。

「ぎゃあーっ! 出せ、早く出せ! ここはジャンケン殺人鬼の部屋だ! 助けてくれー!」 

 叫ぶ溜渕の丸い体がふわふわと宙へ浮かんでいく。箱のベッドに縛り付けられた人らしき影が、骨のように痩せ細った腕を溜渕に伸ばし、弱々しく手を開いた。

「ぎぇっ」

 溜渕の短い手足が、ぶちっと千切れて四方へ飛んだ。殺人鬼のパーの手が、ぎゅっと握られる。今度は溜渕の胴体がソラ達のいるところまで届くほどの恐ろしい音をあげて拉げていき、鼻紙のように丸まった。

「チョキ」ソラがぽつりと呟いたと同じタイミングで溜渕の首が跳ね飛んだ。それが暗闇の何処かへ、くるくる落ちていくのをソラ達はただただ見つめていた。


 ソラは気怠そうに滑らかな黒髪を振り払った。日の暮れかけた夕方の森の中、施設の前には救急車が六台も停車し、ウーウーとサイレンを鳴らし続けている。

 サイレントの隊員から報告を受けたソラは、「よく頑張りましたね」と労いの言葉をかけた。

「離人症持ちは能力の危険性の薄いものから運び出すように。二次災害があってはなりません」

「最後に、ソラ様。睦穂様の遺灰については……」

 ソラは口を噤んだ。溜渕が死んだ後、ソラは機械のパネルを操作し、威子口睦穂らしき肉片を灰になるまで一時間近く燃やし続け、その生命活動を終わらせていた。

「では後日、私の自宅に送って下さい」

「一同、敬礼!」

 敬礼を決めたサイレント部隊はそのまま微動だにせず、ソラと北形を見送った。


 帰り道。北形の運転するリムジンの中でソラは泣いた。止め処なく溢れる涙を拭い、鼻を啜り、顔を押さえて泣きじゃくった。

「お嬢様。着きましたよ」

 北形は優しく諭すようにソラに声をかける。ソラの視界は涙でぼやけていたが、見慣れた威子口邸の鉄門が目に入った。

 暗い雨の中、傘を差したメイドが総出で出迎える。ソラは自分の折り畳み傘を軽く差しながら帰宅した。

「北形。少し横になるから。そっとしておいてくれ」

 目を腫らしたソラの言葉に北形が逆らう訳もなかった。

 塵一つ落ちていないモデルルームかのような自室で独りになったソラは、ぴたりと泣くのを止めた。少し大げさだったな、と思いながらベッドに仰向けに寝転ぶと、今日の出来事を思い返した。

 ソラはこれっぽっちも悲しくなかった。それどころか、自分の母親だというピンク色の肉片を見て、笑わないようにするのに必死だった。あんな場所で仮に生きていたとすれば、碌な扱いを受けていないであろうことは想定の範囲内であったし、あんな状態の人間をソラは生きていると認識出来なかった。

この十年間、必死に威子口らしく努めてきたソラにとって、両親という存在はただ交尾をして自分を産んだ、血の繋がっている故人でしかなかった。母親らしき有機物を炎で焼き殺したのは、当然あんな状態で生きている彼女への憐れみもあったが、本当に不死なのかという興味の方が強かった。

「私って碌でもないな」

 ソラは独り笑った。諦めに近い感情から湧いた笑いだった。


両親が爆破テロに巻き込まれ、死んだ。暗い顔の祖父の口から事実を知った時、当時六歳だったソラは酷く不安な気持ちになった。とても大きな後ろ盾を失ったことにすぐ気づいたからだ。

親が死んでも泣かないソラを北形は心配した。メイド達は、「お嬢様はまだ、死というものが分かっていないんだわ」と囁き合っている。そんな訳ない、とソラは内心馬鹿にした。ソラは二歳の頃から、ゴジラ映画のゴジラが死んで大泣きする少女だった。泣かないのは、泣いても仕方ないと分かっていた以外にない。ソラはその頃から、大人を見下すようになった。しかしソラは翌日泣いた。その方が、皆に好かれると知ったからだ。

ソラは、見えない目に怯えた。素行や頭が悪いと威子口家から除籍されるということは、親から何度か聞かされていた。誰かがこっそり、自分の採点をしている。あのメイドだろうか。それとも北形が。朝起きてから夜眠るまで、ソラは見えない試験官へ必死にアピールし続けた。どうすれば威子口のままでいられるのか。何をすれば、威子口らしく見られるのか。両親の死んだ今、威子口という立場だけがソラの頼みの綱と理解していた。人がいてもいなくても、思考から何までソラは威子口を演じた。祖父に嫌われないよう黙々と勉強し、体育でも一番目立つ活躍をした。大人から可愛く見られるよう、鏡の前で笑顔の練習を毎日続けた。そんな生活をしている内に、ソラは何も考えずとも威子口らしく振る舞えるようになった。威子口家の試験に合格し除籍を免れた日の夜、ソラは本当の自分がなくなっていることに気づいた。それとも、今の威子口らしい私が本当の自分だったのか。もはや知る術は無かった。

ソラが今日泣いたのも、他人によく見られたいからだった。北形が望む『威子口空』は、普段は威子口らしくとも本当は心優しい普通の少女なのだとソラはよく知っていた。

ソラは酷く虚しくなって、天井の一点をじっと見つめた。

「結局、私を理解してくれるのは――」

 どこにもいない。そう言おうとしたソラの脳裏に、ぽっと金枝が出てきた。ソラは顔をしかめた。訳が分からなかった。

が、次第に合点がいった。考えてみれば、この世界でソラの本性に気づいているのは金枝美糸だ。

(そうか。アレの前なら、今さら隠すこともない。何したっていいんだ)

肩の荷が落ちたような気がした。ソラは笑いを零すと、枕元の明かりを消した。

 

「おかしなことを始めたなぁ」

飲用プリンのケースを潰すように飲みながら、金枝はテレビ画面を眺めている。威子口家の新当主となったソラは白いシャツに黒のスーツパンツを履き、後ろで大きく一つ、左の耳元で小さく一つ髪を結った、いつもと変わらない髪型をして、直々にテレビの前の国民へ語りかけていた。威子口家当主の会見とあって、いつも七分に一回は挟まるCMもなく淡々と会見は進んだ。

話の内容は、離人症状者への大幅な方針転換だった。離人症状者の保護、特に二十五歳以下の若く有益な人材を威子口が求めていること。全世界に応募をかけ、選ばれた者は威子口家が直々に支援すると伝え、会見は終わった。と、同時にピロリンと自宅の携帯端末が鳴った。金枝が電源を入れると、離人症状者へ向けた大規模面接の実施日時と会場場所、申し込み用紙、面接時の持ち物等が表示された。それと同時に家の門の隣りに設置された半電脳ポストが政府からの電脳連絡を赤く点滅し報せた。金枝はサンダルを引っかけポストをチェックしたが、案の定携帯端末と同じ内容が書かれたチラシが有った。

――どう思う、美糸。

「さあ。明日学校行って、聞いてみるか」

 自宅に入ると、自分の端末に着信があった。

「もしもし」

「こんにちは金枝君。私の会見はちゃんと見ていたか?」

 機嫌の良さそうな声だった。

「……なんだよあれ」

「見ていたんだな、よしよし。面接は日を分けて行うが、金枝君には二日とも面接官として会場まで来て欲しいんだ」

「やだと言ったら?」

「死刑だ」

 プツリ。通話が切れた。

「なんだよ。こんな脅しに屈しないぞ」

――いや、本気かもしれん。

 ホルスが大真面目な口調で言った。

――終末現象の原因は既に分かり、離人症持ちがそれに引っかからないという事実にも威子口空は辿り着いた。つまり君も私も、彼女にとって既に用済みの存在だ。

「……ははは。そんなまさか」

 金枝の顔が蒼褪めていく。

「俺達まだ色々使い道あるし」

金枝はパンと手を叩いた。

「しかも俺、あいつの婚約相手じゃん!」

――尚のことだろう。下手すると不慮の事故で処理されるぞ。君は。

 金枝の背筋が、ざーっと波打った。

ホルスのせいで金枝は、ソラが教室で近くを通るたび、びくびくするようになってしまった。


「聞き忘れていたんだが、君は直に離人症の人間を見ずとも、能力の詳細は分かるのか?」

 爽涼な声で言うと、ソラは隠しカメラのモニターをノックするように指差した。モニターには、面接者役で来ているのか、ぽけーっとした小間口伊穂の姿が画面上に映っている。

「……いや。肉眼じゃないと駄目ですね。映像じゃ、白いモヤが視えません」

 オフィススーツを着こなすソラにチラチラと目をやりながら金枝は答えた。

「了解。伊穂、部屋から出ていいぞ」

 ソラが手元の機器のボタンを押して、マイクに語り掛ける。伊穂は軽く頷くと、面接室から出ていった。

「来て」

 金枝はソラに案内され階段を下りると、面接室のマジックミラーの裏側まで来た。

「ここからなら視えそう?」

「いけます」

「オッケー。じゃあ」

 ソラは壁の時計を目にすると言った。

「ちょうど九時だ。面接を開始する」

 程なくして離人症状者の一人目が今しがた小間口のいた部屋へと入室した。

「彼が何の能力か言ってくれ。金枝君」

 ソラに促され、部屋の中で困惑する若いロックバンド風の男を金枝は凝視した。

「……絶対に、喉を傷めない能力。喉限定の再生能力者みたいです」

「あぁ。いらない」

 ソラはマイクのスイッチを入れると面接室の男に語りかけた。

「面接は以上です。合格の場合、後日連絡がいきます。そうでない場合は縁が無かったと思って下さい。次」

 ぼけっと突っ立っているロックバンド風の男にソラはもう一度伝えた。

「早急に退出して下さい」

 男は弾かれるように部屋を出ていき、入れ替わりで袈裟を纏った若い坊主がやってきた。

「金枝君、能力」

「……宇宙と交信? 出来るみたいです」

 ソラは躊躇なくマイクに向かって言った。

「面接は以上です。次の方、どうぞ」


 昼休憩を挟み、夜遅くまで面接は続いた。金枝の感覚だと、ソラに気に入られた離人症持ちは十人に一人いるかいないかだった。選定の基準は不明だったが、金枝の感覚としてソラの御眼鏡に適った能力は比較的サバイバルで役立ちそうな傾向にあった。

 金枝らのいる部屋は外の光が入らない完全防音の密室だったが、九時をさす時計を見る限り、外はもう真っ暗だろうなぁ、と金枝は思った。

「あの……ソラさん。今さら、なんですけど」

 金枝はソラに体の正面を向け、勇気を出して切り出した。ソラは面接者のリストからすっと目をあげた。

「うん?」

「俺達は一体、何をしてるんでしょうか」

 ソラはふっと笑うと、少しくたびれた笑みを浮かべた。

「それはね、金枝君。使えそうな離人症の選別をしてるんだ。というか何で敬語なの? さっきから、ずっと」

 ソラはタピオカを吸いながら金枝を横目で見つめた。金枝はごくりと息を飲んだ。

「あの……俺のこと、もういらないとか、言いませんよね? 君はもう用済みだ、とか、なんて……」

「んー……。少なくとも、明日の夜まではね」

 ソラはいつもと変わらない顔をしてリストをトン、トンと叩いた。

「今日は、これで最後にしようか」

 ソラはまだ残っているタピオカをテーブルの上に置くと、マイクのスイッチを入れた。

「次の方、どうぞ」

 身なりの良い茶髪の青年が口を真一文字にして入ってきた。背丈は百八十センチ程で、髪を長く伸ばしている。

「あ、イケメン」

 ソラはぽつりと呟いただけだったが、金枝の心は嫉妬で浸食されていった。顔立ちの良い、同年代か一歳上くらいの男を仕方なく見つめて、能力を把握する。

「……未来予知能力者、です」

「ほう」

 ソラの目がキラリと光る。ソラはマイク越しに青年を質問攻めにした。青年は木更津雅彦という名の名門私立校に通う生徒だった。木更津はソラのどんな質問に対しても表情一つ変えず即答していった。

一しきりの質問を終えると、ソラは満足そうに「面接は終わりです」と告げた。

「合格の場合は、後日連絡が入ります。そうでない場合は――」

「威子口空。この売女が」

 木更津青年は恨みのこもった眼差しをして、虚空に言葉を吐き捨てた。刹那、金枝のいる部屋の空気が変わった。金枝には、ソラの気分がカタッと傾いた音が聴こえた気さえした。

「聞こえてるか、威子口空。お前はクズでゴミの、最低な売女だ」

 木更津青年の入念な罵倒。ソラはふっと溜息をつくと、マイクのスイッチを入れた。

「そうですか。では面接の合否を特別にここで伝えます。貴方は不合格です」

「知っている。俺には未来が視えるからな。仮に合格しても、俺は死ぬ。お前に殺される」

「じゃあ来なければよかったのに」

 ソラは涼しい顔で言う。木更津雅彦は怒りを内に湛えながら返した。

「来なくても死ぬんだ。俺だけじゃない、父も母も妹も、飼っている犬から学校の友人、昔世話になった先生、腐れ縁の女。世界中の罪なき人々が、一瞬で消し飛ぶ。お前だ、威子口空。お前が、お前が全員殺したんだ。跡形もなく、何もかもだッ」

 木更津は空を掻き毟るように両手を振り回した。ソラはタピオカの残り汁を啜りながら無機質な瞳で青年を眺めている。金枝はぽかんと口を開け、二人を交互に見た。

「おい、なんとか言ってみたらどうだ、非道な悪魔」

 ソラはだるそうな手つきでマイクのスイッチを押した。

「なら、私を殺してみろ。人知れず世界の英雄になって散れ」

「やれるなら喜んでやっている」

 木更津は上着を脱いだ。細く引き締まった腹にはサバイバルナイフと、爆弾らしきものが巻いてあった。

「だが、無理だ。俺には、どうやっても暗殺に失敗した未来しか視えなかった。俺にもっと、力があれば」

 木更津は奥歯を噛み締め、悔しそうに拳を握りしめた。

「金枝君。念のため上に移動しようか」

 ソラが小馬鹿にした口調で金枝に呼び掛ける。

「あ、はい……」

 二人は階段をあがり、モニター室に移動した。

「聞こえているか、威子口空ッ!」

 木更津が低い声で唸る。ソラは冷静にマイクの電源を入れた。

「聞こえてるとも。それで、君はどうするんだ? 私に殺される未来は避けられないんだろう?」

「ああ避けられん。だが、お前に殺されるのは癪だ。せめて抵抗はさせてもらうとする」

 木更津は血走った眼つきでリュックサックを下ろすと、ペットボトルを取り出して中の液体を頭からぶち撒けた。

「威子口空。お前に人の心があるなら、少しは悔いろ」

青年は静かに目を瞑った。おもむろにポケットから取り出したのは銀色のジッポライターだった。

「危ない!」

金枝は咄嗟にソラを抱き寄せ、机の下に身を引く。木更津は右腕を真横に伸ばし、ジッポライターを親指で開いた。ポッ、と小さな火が点いた。

凄まじい爆裂音と共に、建物はがたんと震えた。

が、それだけだった。金枝達の周りでは、ソラの飲みかけのタピオカが倒れて床に零れた以外に何ら変化もない。

「金枝君。離してくれる?」

 気まずい空気の中、金枝はおずおずとソラの均整の取れた体から離れた。

「対テロ仕様にしといて良かったよ」

ソラは平静を装って黒のスーツパンツをパンパンとはたくと、顎を上げ、モニターに目をやった。モニター画面は熱で焼けついていたが、状況は判別がついた。欠けたコンクリの塵が舞う中、木っ端微塵になった木更津雅彦の黒ずんだ残骸がメラメラと残り火で燻っている。ソラは嫌でも自分の手で焼いた母の肉片を連想させられた。

立ち上がり、モニターを覗いた金枝はぎょっとして顔を背ける。

「うっ。うわ……」

 胸元から吐き気が込み上げたが、ホルスのおかげで気分はすぐさま快方に向かっていく。

ソラは目を伏せると、消え入るようにぽつりと言った。

「自死を選ぶ者に天が微笑むものか」

 ソラは無線機を口元に当て、静かな口調で警備班を呼んだ。下の階から、焼けたタンパク質のきつい匂いが昇ってくるのを二人は感じていた。明日はこんな事ありませんように、と金枝は心の中で祈るのだった。


「金枝君、デートしようか」

 それは翌日の面接が全て終了した瞬間の一言だった。金枝は目を白黒させた。

「え……?」

「だからデート」

 ソラは何でもないことのように言った。

「昨日今日と一日中働いてくれたお礼だよ。嫌?」

「いやぁそういう訳じゃないですけど。何で、そんな急な……」

 ソラは小さく吐息を漏らすと、白い歯を見せ言った。

「私がデートしたいから」

 ソラは金枝の眼を覗き込みながら、人差し指で金枝を軽く押した。金枝の頬が自然と緩む。

「するのかしないか。五秒で答えて。いち、に……」

「します」金枝の口が勝手に動いた。 

――この女は何が目的だ。クサいぞ。

 ホルスが警告したが、金枝には聞こえていなかった。ソラは自身の機能的な腕時計に目をやった。

「今日はもう遅いから、来週の日曜にしよう。お昼の十二時、麻布十番の赤い靴の少女像の前で待ち合わせ」

 ソラは一方的に日時を伝えると、てきぱきと身支度を整え、先に部屋を出ていった。


「なあどう思う、ホルス」

 東京駅で降りた金枝は、地下鉄の人混みの中で体内へ向けて呟いた。

――何度も話しただろう? あの女の考えることは分からん、と。

 素っ頓狂な声でホルスが返す。金枝は声を沈ませた。

「俺の予想だと、きっと殺されるんだぜ。交通事故か何かに見せかけて」

――ならデートを断ればいい。

 金枝は自嘲気味に笑った。

「ああ、何であの未来予知野郎が爆死したのか分かった気がする。行っても、行かなくても殺されるなら、行って死んだ方が漢らしいからだ」

――しかし、駅のホームで突き飛ばされて電車に撥ねられるというお前の予想は既に外れた。

「まだ電車乗るんだよホルス」

 いつ殺されやしないかと怯えながら金枝は新東京メトロに乗り替え、麻布十番駅四番口から地上へと出た。金枝は傍のブティック店の硝子に反射する自分に目をやった。自分でもよく分からないロゴの入ったベージュのTシャツ、その上から黒に近い紺のジージャン。下は細身の茶のチノパンという出で立ちをしていた。

――『服装は』ばっちりだぞ美糸。

「信じていいんだな?」不安そうに髪を撫でつけながら金枝は訊ねた。

――もちろんだとも。私の指揮の下、コーディネートしたんだから安心しろ。たかだか高校生同士のデートだ。清潔感があって、少し大人っぽい服を着とけば何とかなる。

「フラれるだけならもういい。下手したら『金枝君。それは威子口への侮辱と捉えて良いのかな?』とかなんとか難癖つけて、暗殺されそうなのが嫌なんだ」

――知るか。グチグチ言わずにさっさと行け、遅刻するぞ。

「やべぇ」

 金枝は慌てて携帯端末を起動した。ナビモードがスタートし、金枝の足元に矢印が表示されるようになった。


「都会だったよな、麻布って」

 金枝は辺りを見渡し言った。

「人がいねえ……」

 麻布十番はもぬけの殻だった。

「麻布は都会の都会だろ。そんな筈ないよ」

しかし幾ら歩いたところで、休日の昼間だというのに誰も出会わない。ただ、通りに並ぶ小店舗だけが開店している様は、ド田舎としか形容しようがなかった。動くものといえば、通りの向こうの道路を時々走る自家用車くらいだ。異世界にでも迷い込んだような奇妙な感覚を抱きながら、やがて金枝は、少し開けた、軽い傾斜のある石畳の広場で足を止めた。

 人がいる。葉の枯れたケヤキとトチノキの下に佇む、清廉で、透けない白ワンピースの女性。威子口空は爪先の丸い艶やかな黒の革靴を履き、ヘソの上辺りで細い黒のベルトを締めていた。スタイルの際立つ、ぴったりとしたワンピが昼下がりの陽を浴びて純白に輝いている。金枝には一瞬、ソラが西洋の古い絵画かピアノコンクールを途中で抜け出してきたような錯覚に陥った。

ソラは金枝に気づくと、気さくな笑みを浮かべながら綺麗な足取りで歩いてくる。手には橙色のポシェットを提げ、スカート部分は絹のように滑らかで、ソラが一歩歩く毎に太ももから膝にかけてのラインを強調した。一挙手一投足、どこを切り取ってもベストショットに違いない。金枝の心は自然と舞い上がる。

そして思った。

結局、威子口空はどこまでいっても、中学時代の片想いの女子だ。永久にそれが変わることはない。例えどれだけ中身が黒くとも、憧れは憧れだ。そんな人とデートして仮に途中で殺されたとしても、死の部類では大分マシなんじゃないだろうか。少なくとも、未来に絶望し無駄に爆死していった面接の青年よりはよっぽど恵まれている。

金枝は開き直った。無意味に手で服装を整え、「よう」と手を挙げる。ソラは一瞬値踏みするように目を動かしてから、愛想よく口を開いた。

「金枝君。今日は天気が良いね」

「ソラ。その服、どっても似合ってる」

「どっても?」

「……じゃなくて、とっても。その、可愛いよ」

「あ……ありがとう。なんだか、照れるな」

 ソラは珍しい表情をして目を逸らした。こんなの演技だ。という心の声を金枝は無視した。演技でもいいじゃないか、可愛ければいいんだ。

――もう陥落したのか? 白旗か?

「どうせだったら、楽しみたいだろ」

「ん?」

「いや何でもない。どっか行こうよ」

 するとソラは半地下のようになった店をぴっと指差した。

「お腹が空いた。パスタを食べましょう」

「いいね」

 二人はすぐ傍のイタリアンレストランに入店することにした。


「なあ。麻布十番って初めて来るんだけど、こんなに人がいないなんて。どうかした――」

「今日は貸し切りなの」

 ソラは歯切れ良く言うと、綺麗な瞳でレストランの窓から誰もいない外の広場を眺めた。どこかの店を貸し切りではなく、麻布十番そのものをソラは貸し切りにしていた。道理で人がいない訳だ、と金枝は納得した。

 ソラはワンピースの胸元をつまんだ。

「これ、AI搭載の人工繊維なんだ」

 キュッとワンピースが縮んだかと思うと、形と色が変化した。ソラの服装は青と白のボーダー服の、浜辺が似合いそうなカジュアルな服装に様変わりしていた。

「ね、便利でしょ。君が服を気に入らないといったら、こっちにしていたよ」

 ソラが胸元をつまむと、また白いワンピースに戻る。

「それも旧遺物の技術流用か?」

「ふふん、人類を舐めるな。これは完全自前の技術だ。今冬にもイシグチのアパレルで売り出す」

 先にソラの注文していたペペロンチーノが運ばれてきた。ソラは唐辛子の輪切りを上手いこと麺に絡め、口の中に落とし込んだ。少し遅れて、金枝の注文した千七百円のシーフードパスタがテーブルの上に置かれた。

「うん……。やっぱり美味しい」

 ソラは満足げに口元を緩めている。

「君も、好きなだけ食べてくれ。私の奢りだ」

「……なあ。せめて割り勘にしないか」金枝は複雑な気持ちで言う。

「ああ、それが良い」

 ソラはにこりと微笑んだ。

「割り勘か。なんか良い。学生のデートっぽくて」

「割り勘で喜ぶのは、普通は男だけどな」

 金枝はムール貝の中身をフォークで突き刺し、味わいながら食べた。


「あ、金枝君。あんなところに映画館があるぞ。入ってみようか」

 昼飯を済ませて少し歩くと、道路を塞ぐようにしてシネマが建っていた。

(麻布十番付近のデートスポットに、こんなもん有ったか?)

強い違和感を覚えながらも、金枝は背を押されるようにして映画館に足を踏み入れた。

 内部に違和感は無かった。黒く冷たい壁や床にところどころ赤が使用され、高級感ともプレミア感とも付かない気配がシネマに漂っている。キャラメルポップコーンの甘い匂いと真新しい座席シートの素材の香りが混じり合い、映画館特有の雰囲気が入り口から既に醸成されていた。唯一不自然なのは客が一人もいない事だが、貸し切り万々歳とばかりに金枝は喜んだ。

「えーと、もうすぐ上映の映画は……ターミネーター2、エイリアン2。バックトゥザフューチャー……古典映画ばっかじゃねえか」

「夜はセブン、シャイニング、羊たちの沈黙、ゴッドファーザーが上映予定だ。どうする金枝君。私はどれでも良い」

 ソラは悦に入った顔でラインナップを見つめている。金枝は少し迷った後、受付に一人で向かった。

「十三時十分からのバックトゥザフューチャーの映画券を二枚分。学生で」

「かしこまりました。計五百円です」

 受付がプロの笑顔でチケットを二枚、すっと差し出してくる。金枝の口から「安っ」と声が漏れた。

「こちら、パブリックドメインの映画となっておりますので」

「だけども座席料とか」

「この映画館はイシグチグループの系列です。チケット購入という行為自体も、あくまで映画デート感を出す為の雰囲気作りとなります」

 受付は笑顔を絶やさず、ソラには聞こえない程度の声量で説明した。

――なんと。まどろっこしい連中だな。君ら、家で見たらどうだ。

上映まで少し時間があったので、二人は映画のパンフレットも買い、エルサイズのキャラメルポップコーン、エムサイズのファンタオレンジとコーラのペアセットを抱えて客席に向かった。

 薄暗い中、スクリーンの白光に照らされて赤いシート席が段々畑のようになっているのが判った。金枝とソラ以外に客は無い。二人は遠慮せず、中央前寄りの、ほぼど真ん中の席にゆったりと腰かけた。金枝から見て左隣り、すぐ傍にソラがいて、コーラ片手にペラペラと、今さっき買ったばかりのパンフレットをめくっている。

「なあ。この映画館、君が用意したの?」

「ええ。麻布に映画館がなかったから」

 金枝はストローで炭酸オレンジを啜りながら、スクリーンに映る他の映画の予告を眺めた。

「……上映スケジュールに新作映画、無かったよな?」

「いいじゃない。新作より昔の方が面白いんだから」

 それからソラはさらっと映画事情にまつわる話をした。純粋な映画鑑賞というジャンルは今やすっかり零落し、最近では映画内に自身が入り込んで間近で物語を味わえる五感視聴が流行っていること。最近の映画は観客が没入出来るよう五感視聴用のキャラクターが予め脚本の段階で挿入される事が多いが、どうも影が薄くなる傾向にあり、古典映画ファンからは批判されることが多い。また、古典映画にも透明人間のような形で様々な角度から五感鑑賞が可能だった。

「五感視聴にはしないのか? これは普通のバージョンのようだけど」

 金枝が訊くと、ソラは微かに首を傾げる。濡れたソラの唇がぴとっと鳴った。

「ああいうの、好きじゃないんだ私。少なくとも昔の映画では。元々こうやって見る前提で作られているんだから、蛇足だろ」

――はっ。ただ見てるだけでは欠伸が出る。私は安眠用に白黒映画を見てるぞ。俳優共に寄生したいと何度思ったか。

 頭の隅っこでホルスがぼやくが、金枝はソラに意見に合わせた。

「だよね。それに五感視聴って、かなり疲れるよ身体的に。こないだ五感ゾンビ映画見に行って吐きそうになった。ホットドッグ咥えて気楽に見るもんじゃねえよ」 

「君もそう思うんだ。あれは気をつけないと、セットの裏側が見えたり透明な壁にぶつかったりして、逆に興醒めする」

やがてスクリーンには、フクロウや猫といった多種多様な形状の掛け時計が、右にパンされながら映されると共にチクタクチクタク、うるさいほど秒針が時を刻み、そして朝食の食パンや犬の餌がマシンで自動的に用意されるという、バックトゥザフューチャー冒頭の印象的なシーンが流れた。上映中に聞こえるのはスクリーンから発せられる映画の音色と、隣りからお互い聞こえるポップコーンを齧る音だけ。

金枝は時たま、左側に座るソラの輪郭を盗み見た。青白いスクリーンの光を浴びる威子口空の端正な横顔は、純粋に映画を楽しんでいるように見えた。

ポップコーンを取ろうとした二人の手が重なった。すこし経ってから、二度目。

三度目になると、気まずさより弛緩した笑いへ繋がった。

「ソラ。この、ご褒美のデートなんて、ホントは嘘なんだろ」

 何でも許されそうな雰囲気に乗じて金枝は踏み込んだ。

「真の目的は?」

「君も意外としつこいな。私がデートしたかったからだと言ってるのに」

 ソラは素っ気ない顔をして氷で薄まりかけたコーラをストローで啜った。ソラの視線の先のスクリーンでは、タイムスリップしてきたマーティが若かりし日の両親の通う高校の廊下にてドク博士と話をしている。

金枝はなおも食い下がった。

「正直に言ってくれ。もう俺に利用価値なんかないだろ? 終末現象の仕組みも分かってるんだ。なのにデートしようとか。何を隠してんだ?」

 ソラのコーラは底つき、ストローが掠れた音を立て始めた。

「あ、分かった。さては、ガチで俺に惚れたな」

 金枝は半分冗談のつもりで言った。そして、半分ほど減ったポップコーンに手を伸ばしたが、金枝の手首は強く掴まれ、おまけに捻られた。金枝は嫌な汗をかきながら、ソラの方を見た。

 ソラは照れるでもなく、かといって怒るでもない、活き活きとした表情で金枝を見つめている。金枝はしかめっ面で訊いた。

「違うのか? じゃあ、なんだよ」

「金枝美糸くん。君は君が思う以上に、利用価値があるんだよ。そこそこ重大で、普通の人じゃなかなか務まらないことだ」

 ソラは金枝から手を離した。

「ホルスじゃなくて、俺に?」

「今の君に。いつか話してあげるね」 

「へえ……。じゃあ、なんか自信出てきた」

 金枝は少し元気になって、自由になった左手でポップコーンを掴み、口に放った。


 二人は映画館を出た。見終わった映画の、話の構成をベタ褒めするソラの話を聞いている内、金枝はいつの間にかゲーセンの中にいた。

「ゲーセンって人がいないのにうるさいんだな」

 金枝は愚痴った。二人でメダルゲームをしたが、大して盛り上がらずゲーセンを出た。

急こう配の坂をあがると、観覧車やジェットコースターが見えた。

「金枝君。あんなところに遊園地があるぞ。行ってみよう」

「待てよ。いくら何でもおかしいだろ」

 ぐいぐい行こうとするソラを金枝は引き止めた。

「そう? あれは移動式の遊園地。遊園地といえばデート」

「普通、デートって一日で色んなところに行かないんだよ」

 金枝は頭を掻きながら言った。ソラは不満げに腕を組んだ。

「しかし行けるのなら一杯行きたいはずだ。映画館だけとか、ゲーセンだけとか、面白くないだろう」

「確かに遊園地とか映画館とかデートの定番だけども。さすがに趣きがないだろ」

 ソラはポンと手を打った。

「ああ、そういうこと。一気に消化するより、今週は映画、来週は水族館みたいに分けて行った方が長くデートを楽しめるね」

「そう、そんな感じ」

「しかし私は毎週デート出来るほど暇じゃない。行くよ金枝君」

 そう言って、ソラは金枝を引っ張り回した。ジェットコースターにメリーゴーランド、観覧車にコーヒーカップと一通り遊園地を遊び倒した。その間ソラは涼しい顔で定番のそれらアトラクションを満喫していた。

「とんでもない女……」

 金枝はへとへとになりながらソラの背中を追っていた。

「おーい。待ってくれよ」

 ソラは後ろを振り向くと、人懐っこい笑みを浮かべて後ろ手を組み姿勢を伸ばす。

「なんだ、もうへたれたの? そんなんじゃ私の婚約者失格だ」

「そんなんじゃないよ」

 金枝は息を整えると、四角い巨大な建物を指差した。

「何で君、お化け屋敷を素通りする訳?」

「それは……好きじゃないから。あ、あっちに空中ブランコがあるな」

 誤魔化そうとするソラの手を掴むと、金枝は強引にお化け屋敷の前へ連れて行った。ソラは抵抗の声をあげた。

「ちょっと! 女の子が嫌だと言っているのに意地悪な」

「知ったこっちゃないね。俺はリアルで君からホラー体験をさせられてるんだ。手術台での一連の流れや、屋上で寄生されてるのを見抜かれた時とか。こんな作り物、どうってことないって。ほら!」

 金枝がソラの手を引いて歩き出そうとした。その途端、金枝は何かに足を取られた。二人はもつれるようにして、固いコンクリに転倒した。

「いった」

「痛ぇ……。くそ、大丈夫かソラ」

「うん、君こそ。急に転んだりして、どうしたんだ?」

「いや、ごめん。何もないところなのに、足を引っかけられたような……」

 さっとソラの顔つきが変わった。ソラは無言で立ち上がると、「北形っ」と鋭く声をあげ、腰に手を当て周囲に睨みを利かせた。

「北形? そうか、あいつか……」

 金枝は膝を擦りながらゆっくりと立ち上がった。

「いるのか?」

「いる。でも、デート中だから絶対に干渉してこないよう伝えていたのに」

「北形、いるなら出てこいよ」

 反応は無かった。ソラは鼻を鳴らした。

「私がね、デート中はステルス且つ無言でいるよう命じたんだ。だって、邪魔でしょ? あんなのいたら」

「あ、ああ」

 金枝は少し遠慮気味に笑った。

「邪魔だわアイツ」

 金枝は内心、(へっ、ざまあみろ)と思っていた。

「金枝君、お化け屋敷。行かないの?」

 ソラは上目遣いで金枝の方を見た。

「え、いいのか?」

「その方が北形も反省するかなって」

 ソラは爽やかな笑みを浮かべると、金枝の左腕に自らの両腕を巻き付け、ぎゅっと抱きつく。この時、金枝は今日一番高揚した。

 

 お化け屋敷に入って早々、金枝は後悔した。ソラを怖がらせようとして入ったはいいものの、金枝自身お化けが苦手だった。

「ソラはお化けが恐いんだよな?」

「え、全然」

「は?」

 ソラは金枝から体を離した。

「言わなかった? 私は閉所と暗闇が苦手なんだ。お化け屋敷のお化けなんて、単純な機械と仮装した人間じゃないか」

「そりゃあ、そうだけど……ほら! 暗殺者が紛れ込んでいるかもしれない。機械が反乱するかもしれない」

「何それ。あはははは」

「強がるなって。女の子なんだから、嘘でも怖がっとけよ」

 金枝はソラと手を繋ごうとしたが、ソラは機敏に行為を避けた。

「怖がってるのは君の方だろ。男なんだから先に行け」

 二人はお化け屋敷の入口付近でもたもたしていたので、係のスタッフに「まだお化け出るの先ですよ」と声をかけられてしまった。二人は恥をかいた。

「分かった、じゃあこうしよう」

 金枝が提案した。

「俺が先に行くから、君は俺と手を繋いでくれ。それなら、霊に襲われた時も一緒に逃げられる」

「そんなの、君が得するだけじゃないか」

 ソラは眉を顰めながらも、渋々金枝の手に軽く指を絡ませ、言った。

「さっさと行こう。威子口の若いカップルが造り物の幽霊にびびっていたなんて世間に知られたくない」

 お化け屋敷の中は、ひゅーどろどろというおどろおどろしい効果音と併せて、作り物の柳の木が風で揺れ、照明は赤と緑をふんだんに使い、気色悪いよう古典的な演出が為されていた。初めは金枝が前を歩いていたが、あまりに歩みが遅いので途中からソラが金枝を引っ張るようにして前を歩くようになった。

「ぎゃああああ!」

 不意に白い着物の幽霊が飛び出してきたので、金枝は反射的に手に丸めて持っていたバックトゥザフューチャーの映画パンフレットで幽霊の頭をひっ叩いてしまった。

「なっ、なにすんだ!」

 幽霊役の男性スタッフが長髪のカツラを毟り取ると、すごい剣幕で怒鳴り散らした。

「あまり馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ! いくら天下の威子口だからって頭叩くことねーだろうが!」

「す、すみません」

 二人は平謝りした。しばらくスタッフの説教を浴びた後、二人は逃げるようにしてお化け屋敷を出た。

「ごめん、ソラ。俺のせいで」

 金枝はさすがにしょんぼりしていた。

「ホントだよ」

 ソラは少し呆れていたが、すぐに可笑しそうにし始めた。

「何が面白いんだよ?」

「あーあ、だってえ。こんなに怒られたの、中学一年以来だから」

 ソラは目を擦りながら言った。

「……え、そんな前?」

「そうだよ? 中一の時、君がいじめっ子に勉強用のタブレットを奪われて、プールに投げ捨てられたことがあったでしょ。それを取りに行って、授業に遅れてS先生が激怒した。あの時以来だ」

「俺なんて毎週のように、他人に怒られて――」

 金枝は首を傾げた。

「いや……。そう言えば、俺もここ最近は怒られてないな」

「君も既に威子口同然だからね。周りの人は、なかなか怒れない」

 ソラは両手を後ろに組んだ。

「怖いからね、威子口は。あんなに怒れるなんて、あの幽霊役のおじさんもなかなか肝が据わっている」

 ソラは金枝と腕を組むと、「もう遊園地は出よう」と言った。辺りは陽が暮れ、赤紫色の染まり、夕方の気配が濃くなっていた。


「あっ、金枝君。あんなところで縁日がやってる」

 またか、と金枝は思った。

ソラが指差す先には、アスファルトの道路一杯にトンネル状の半透明な膜が貼ってあって、温室のビニールハウスのように延々と続いている。薄らと中が透けて、リンゴ飴や綿飴の出店があるのが分かった。

「いいよ、今日はとことん付き合おう」

「そうこなくちゃ」

 ソラは金枝と手を繋ぐと、ゆっくりと歩き始めた。半透明の膜を潜り抜けると、夏の夜特有の暑さと湿気、それから露店の鉄板の熱気が二人を襲った。金枝は堪らずジージャンを脱ぎ始めた。子供アニメのお面を被った小さな男児が、わぁわぁはしゃぎながら走っている。焼きそば屋の前で足を止めた父親に肩車してもらっている幼子は、片方のサンダルが脱げそうになっていた。露店からは、しょっちゅう威勢のいい掛け声が飛んで、辺りには焼き鳥やたこ焼きの香ばしい匂いが漂っていた。露店にぶら下がる裸電球の灯りで、この通り一帯が明るかった。縁日全体が和気藹々として、一見活気に満ち溢れていたが、一組の若いカップルが金枝らの脇を通り過ぎ、そのまま膜から抜けることなく遠ざかっていくのを見てしまった金枝は、ここの客は単なるVR映像に過ぎないのだと気づいた。

「なあソラ。ずいぶんと君はこだわって――」

 金枝は言葉を失った。ソラのワンピースは、涼しげな浴衣姿に様変わりしていた。

「縁日らしいだろ?」

ソラはくるりとその場で回って見せた。薄い桜色の生地に青や赤のアサガオが華やかに咲いている。金枝はとても懐かしいような、甘酸っぱいような気持ちにさせられた。

ソラは屈んで革靴と靴下を脱ぐと、傍に誰かが用意したらしい赤い紐緒の木の下駄に履き替える。それを待つ間、金枝はふっと上の空になって、気づくと心の中のホルスの部屋にいた。

「美糸君。一つ確認しておこう」

 八頭身の目玉親父がシルクハットとタキシード服を身に着けている。そんなような人物が、黄金色のゆったりした部屋の中でくるくる、ステッキを回しながら低く渋い声で言った。

「威子口空の機嫌を窺うのは結構結構。だが、心までは許すな。君は奴の本性を知っている筈だ」

「そうだけどさ。アイツ、多分今は俺のことが好きだ」

 ニヤニヤしながら金枝が言った。

「だって何か、前と感じが違う。嘘じゃない、マジで。きっと俺の婚約者という立場に引っ張られて、最初は演技だったのが、段々本気になっていって――」

「騙されるな」

 ホルスは溜息をついた。

「美糸君。単純な君と、奴とは、全く頭の作りが違うのだ。頭空っぽでデートするのは危険だ」

「はいはい。もういいんだよ、ホルス」

 金枝はパタパタと手を軽く振った。

「あいつが威子口家当主、人類のトップになった今、俺に出来ることは何もない。小間口で洗脳しようとしたのに、全部見破られちゃったし。というか、俺は今ソラとデートしてんの。あの威子口空とだぜ? ついこないだまで、ソラに告白しろって言ってたのはホルスじゃないか」

 金枝は鼻を鳴らした。

「俺は今、威子口空とデートしてる。言葉にすると良い響きだ。ホルス、君だってヒトの上質な寄生体験記を自分の星へ持って帰りたいんじゃなかったか?」

「分かったもういい、好きにしたまえ。痛い目を見ても知らんぞ」

「金枝君。金枝君?」

 肩を叩かれ、金枝ははっとした。浴衣姿の威子口空が少し心配そうに金枝を見つめている。

「どうした、急にぼーっとして」

「……君の浴衣姿に見惚れてた」

「ふふっ。馬鹿なことを言ってないで、縁日を楽しもう」

 ソラは金枝を流し見ると、くるりと後ろを向いた。涼しげな白いうなじに金枝は目を奪われた。

「何せ、これが最後かもしれないぞ?」

「ははは、怖いこと言うなよ」

 膜の外では薄らと、アポカリプティックサウンドが鳴り響くのがさっきから聞こえている。金枝は少し不安になった。が、ソラと露店を見て回りながら、ああでもないこうでもないと言い合っている内、段々と気にならなくなっていった。

 二人で、金魚すくいのデメキンや亀の泳ぐビニールプールを覗いた。ソラはヨーヨー釣りで釣った紫色のヨーヨーで遊んでいる。金枝は大して美味しくもないチョコバナナを買った。食べ物はその場で食べて、残りは金網のごみ箱に捨てた。賑やかな人だかりも、映像と分かると少し物寂しく感じた。屋台を切り盛りする荒々しい店主らは、ソラが金をケチったのか、よく見ると中古の安いアンドロイドがやっていた。 

焼き鳥屋の白い煙が、膜の外へスーッと排出されていくのを金枝が見つめていると、ソラがイカ焼きの端っこを器用に齧りながら、からんころんと下駄を鳴らして歩いてくる。

「金枝君。あっちの屋台の焼きトウモロコシ、食べた?」

 金枝は軽く首を横に振った。

「何で」

「いや、焼いてる匂いがあんまり良いものだから、気になっただけ」

 お好み焼きの露店を通り過ぎたところで、二人は足を止めた。

「あ、射的」

「やるか?」

 金枝の問いに、ソラはにこりと目を細めた。

「一回三百円ダヨ」射的屋の店主ロボが二人に反応する。

「二回分」

 金枝が六百円を財布から出し、賽銭箱へ放るようにロボットへ投げた。射的の店主ロボは軍手を嵌めた機械の腕を機敏な動作で動かし、空中の小銭を残らず掴んだ。そして反対の手を伸ばし、コルク弾が五発載せられた鉄の皿を二枚、赤布の台にコトッと置いた。厳つい木のライフルは既に二丁、赤い台の上に置かれていて、誰かに使ってもらうのを静かに待っている。

射的の屋台はお馴染みの紅白の幕に囲われ、景気の良さそうな調子に仕上がっていた。手前の棚にはちゃっちい人形が統一感なくずらりと並び、奥の棚にいくほど高そうな景品、例えば、子供に人気のレアカード等を輪ゴムで束ねて立てたものや、妙に威圧感のある招き猫といった大物がどっしりと居を構えていた。

「どっちが景品を多く取れるか勝負しないか?」

 持ちかけたのは金枝だった。

「負けた方が罰ゲーム」

ソラはすぐに勝ち気な表情をして「いいよ」と乗ってくる。金枝は不敵な笑みを浮かべた。

「よし。じゃあ、負けた方はジュース奢りで」

「ジュース?」

 金枝の提案に、ソラは退屈そうに口をすぼめた。

「何だよ?」

 ソラは口元に指を当て、少し考える素振りを見せた後、神妙な顔をして金枝を見つめた。

「金枝君、こんなのはどう? 射的で私が負けたら、今日から丸一日、君の言いなりになってあげる」

「えっ?」

「その代わり」

 さらりとソラは言った。

「君が負けた場合、私の頼みを一つ聞くこと」

――出たな。怪しい誘いには乗るな。

 ホルスが警戒の声を上げる。

「頼みってさ……誰かを殺せとか、俺との婚約を破棄しろとか――」

「違う違う。そういうのじゃなくて」

 ソラは可笑しそうに笑いながら両手を振った。

「ちょっとしたお願いだよ。荷物持ちとか、足つぼマッサージとか、そういう類の」

「詳細は?」

「それを言ったらつまらない」

 ソラはからかうような眼差しで金枝を窺った。

「どうする?」

金枝は「うーん」と思案した後、訊いた。

「君が負けた場合、丸一日言いなりってことは、明日もだよな?」

「うん」

「じゃあもし明日、裸で高校の教室まで来いって、俺が命じたらどうすんの?」

「そしたら、私は家から全裸でJRの快速に乗って幕張で降りてバスに乗り替え平汎高校前で下車して、高校の正門をくぐって高校棟校舎へ向かい自分の教室に入って着席の後、鞄に入れておいた下着と制服を着て授業を受けるけれど」

 ソラはつらつらと恥ずかしげもなく具体的にイフを説明した。

「へえ。じゃあ、やる」

――何故だ。

 ホルスが嫌そうな声で問い質す。金枝は舌打ちした。

「俺、射的には自信あるんだ。威子口空、今さら吠え面かくなよ?」

ソラはクールな笑みを浮かべ、後ろで結った黒髪を手で振り払う。薄らとリンスの匂いが香った。

「じゃあ私から」

人目を気にせず、ひょいとソラは台の上にお尻を乗せると、コルク銃を胸に抱え、ガコッと銀色のレバーを引きコッキングを済ませた。

「お客サン。台の上には乗らナイデ下さい」

「黙れ」

 ソラは涼しげな口調で店主ロボを退けると、二本の指でコルクを挟み、銀色の銃口へ弾を込めた。

ソラは景品棚を見下すような体勢で近くの特撮怪獣のゴム人形に狙いを定めた。

 パン! 乾いた音がした。コルク弾は人形を掠め、後ろの幕に当たった。

「やーい外してやんの」金枝が煽る。

 ソラはコツンと自分の頭を叩くと、台から降り、寝そべるような体勢に切り替えた。

 それからのソラはなんだかんだ、景品を三つ墜としてみせた。

「こんなものか」

 ソラはつまらなそうに、戦利品のちゃちな人形を手の平で転がした。

(こいつ、何やらせてもそこそこ上手いな)

金枝は苦々しく思いながら未使用のコルク銃を手に取った。

「引き分けの場合は?」金枝は一応聞いてみた。

「その場合はなにもなし」

ソラは抑揚なく言う。金枝は少しホッとした。

「ほら、金枝君の番」

 金枝の一発目。コルク弾は難なく手前の特撮ヒーロー人形に命中し、人形は変身ポーズを取ったままぽろりと棚から転がり落ちた。

「オメデトウ。どうぞ」

 店主ロボが人形を拾いあげて金枝に寄越した。

「ふーん」

 ソラは意外そうな声をあげた。

「マグレじゃなさそうだな?」

「だから言ったろ。俺は得意なんだって」

 金枝は得意げに若干がたついた前歯を見せると、コッキングレバーを引き、弾を込め、今度は手前の鳥人間に銃口を向ける。その時、結った濡烏色の髪が金枝の肩にかかった。またリンスの良い香りがした。

「ねぇ、金枝君。君の瞳って近くで見ると灰色なんだね」

 金枝の瞳を覗き込むようにソラは喋りかけてくる。

「え、そう?」

 ソラは金枝の耳元で囁いた。

「高価な宝石みたい。誰に似たの、お母さん?」

「知らね……」

 金枝は生唾を飲み込むと、引き金を引こうとした。

「そのカッコいいジージャン、どこで買ったの? 月製? ねぇねぇ」

「……あっ」

 金枝の手元が僅かに狂った。コルク弾は人形に掠りもせず、幕に当たってポトリと落ちた。

「あーあ。外しちゃった」

「お前が邪魔するから……」

「えぇー? 私は耳元で話しかけただけなのに」

 ソラはしめしめとばかりに口元を隠し笑っている。金枝は自分の頬が熱くなるのを感じた。

「ホルス」金枝はソラから距離を取ると、体内の寄生者に語りかけた。

「俺の両耳の聴覚を一時的に停止させたり出来ないか? 的に狙いを定めている間だけでいいから」

――そこまでして罰ゲームを逃れたいなら、最初から参加するな。

「うるせえ。アイツに赤っ恥を掻かせたかったんだよ。出来んのか出来ないのか?」

――やれないこともないが。

 金枝は弾を込めると、台に体を預けて狙いを定めた。

(よし、何にも聴こえない)

 ソラが左で何かを喋っているが、脳が言葉を処理しない。惑わされる心配がなくなり安心した金枝は、一度深く深呼吸をしてから引き金に指をかける。コルク弾の弾道が微かに垂れるのを見越して、先ほどから狙っている鳥人間人形の首付近を狙っていた。

 引き金を引く間際、突如金枝の右耳にふーっと生温かい息がかかった。まずい、と思った時にはもう遅く、コルク弾は人形を掠めて紅白幕を揺らした。

「あーあ、また外しちゃった」

 ソラは心底愉快そうに笑顔をひけらかしている。金枝は右耳を押さえ、頬を紅潮させながら憎々しげにソラを睨んだ。

「お前いい加減にしろよ。そんなの何でもありじゃないか。だったら俺も君が撃つ瞬間に腋をくすぐったり髪を引っ張ったりしてたさ」

 金枝は、ソラが『じゃあすれば良かったじゃん』だとか、『勝ち負けには多少汚いことが必要だ』といった系統の反論が飛んでくると予想していた。が、ソラはそんなことはせず、おもむろに赤布の台に跨ると、的屋の中で、からん、と下駄音を響かせた。

「お客さん、中へ入っちゃ――」

「ピッ」

 ソラはオノマトペを口に出しながら右手を伸ばし、卵型のリモコンを店主に向けた。店主ロボは立ち上がりかけた不自然な態勢でフリーズする。ソラは、それまで店主が腰かけていたパイプ椅子を取り上げると、わざわざ金枝の正面になるよう設置し、前かがみで椅子に座った。そして、先ほどまで自分が使っていたコルク銃の銃身を引っ張り上げ、すっと片手で構えると、金枝に銃身を向けた。

「な、何だよ」

「金枝君。試しにこれ咥えてみてよ」

「……何かのプレイですか」

 金枝は若干引きながらも、気にせず射的に集中しようとした。が、銃を構える過程で必然的にソラの銃口が口元のすぐ傍へ来る。ソラは猫じゃらしでも扱うように、ちろちろとコルク銃を操った。金枝は苛々して、銀の銃身に奥歯を当てがった。

「北形、写真」

 眩いフラッシュが金枝の眼前で焚かれる。ソラは童心に帰ったような上機嫌な笑みを浮かべながら、コルク銃をぐいぐいと振った。こいつにはやはり加虐趣味があるんだと金枝は歯を食い縛りながら確信した。

――集中しろ美糸君。何が何でも、あと二発当てるのだ。でないと厄介なことになる。

「金枝君は、射的台の奥の景品は狙わないのか? 手前のちっちゃな玩具なんて、倒しても面白くないよ?」

「やだ」

「ふうん。私、金枝君のカッコいいところが見たいなァ」

ソラは甘ったるい声を出して金枝を見つめた。金枝の額から脂汗が垂れた。

(集中しろ俺。まず一発、絶対に当てないと)

 ソラはおもむろに脚を組むと、空いている方の手で頬杖を突いた。金枝は、ソラの素足が気になった。台に跨って的屋の中へ入った拍子にソラの浴衣はするりとはだけ、白く透き通るような滑らかな太ももがチラチラと視界で邪魔をした。

 金枝は舌打ちした。撃とうとする度に、ソラが絶妙なタイミングで脚を組み直してくる。ソラは余裕の表情を浮かべ、金枝のことを観察するようにじっと眺めていた。

「あぁ……」

 既に気持ちが切れていた。ソラはゆっくりと後ろを向いて、金枝の四発目が景品を何一つ落とせなかったのを確認すると、自分の所業を棚に上げて無邪気に喜んだ。

「負けました」

 金枝はソラの銃を口から吐き出し、負けを認めた。

「まだ一発あるじゃん。最後までやろうよ」

「でも、当てた所で……」

「じゃあ、あれを落としたら二つ分景品を落としたことにしてあげる。そしたら罰ゲーム無しだよ」

 ソラは棚の奥でオーラを放つ白い招き猫の置物を指差し、笑いを堪えながら言った。

――性悪女め。あんなの落とせる訳がないのを承知で言ってくるのだ。

 金枝は一縷の望みをかけて、招き猫に標準を定めた。ソラはあっさりと場所をどくと、勝ちを確信しながら動向を見守った。

パチッ。金枝の放ったコルク弾は、招き猫の厚い装甲にあっけなく弾かれた。金枝は絶望に苛まれながら、コルク銃を台の上に置いた。

「はい、残念。結果は、私は景品三つ」

 ソラは身軽に台を飛び越えると、はだけた浴衣を正しながら訊いた。

「……で、金枝君は?」

「一つ」

「え?」

「一つだよ」苦い顔で金枝は繰り返した。

「一つ? 嘘、私でも三つなのに。得意だって言ってたよね、射的。全然ダメじゃん」

「そんなに俺をいじめて楽しいか?」

 金枝はうんざりしたようにソラを見つめた。ソラはそれには答えず、コルク銃を静かに台の上に置くと、何も言わずに金枝を見つめ返した。

「罰ゲームって何?」

 金枝は死地に飛び込む覚悟で自分から尋ねた。少しの間があった。

「頼み、っていうのは――」

射的の名残で赤布の上に置かれていた金枝の右手に、ソラは自身の左手を重ねた。

「な、なんだよ」

「大事な時は、君が『下』になること」

「下……?」

「そう。私が上で、君が下」

「それ、どういう意味で」

 金枝の頬から変な汗が伝った。

「今は分からない方がいいし、その方がいい。でも、もしその時が来れば嫌でも分かる」

 ソラは寂しげな顔で、意味深な物言いをした。ますます意味が分からず金枝が食い下がろうとした時、ドーンと派手な音がした。

「始まった」

ソラは金枝から手を離すと、鮮やかな夜空を軽く見上げた。ただの映像とはとても思えなかった。金枝の肌は花火の振動を微かに感じたし、ひゅるひゅると闇夜へ打ち上がり、華々しく散ってはまた別のが上がる。豪華な催しに金枝の胸は自然と躍った。

 二人は何も言わずに夜空を見上げていた。何の効果音もない、ただただ純粋に花火を堪能するだけの静かで贅沢な時間。二十分ほど続いたそれは、最後にバババンと花火の大軍が夜空一杯に咲き誇ると、そのまま虚空へ吸い込まれ、唐突に終わった。

花火の余韻に浸っていると、ソラがぽつんと言った。

「あまり、リアルすぎるのも考えものだな。私、今日ので満足してしまった」

「ソラ。夏に本物の花火を見よう」

 金枝は静かに言った。ソラは口を開きかけたが、結局何も言うことはなかった。ソラは髪をさらりと払うと、さっぱりした顔つきになって、小さく微笑むのだった。


「金枝君。近くに美味しい中華料理屋があるんだ。子供の頃、両親と行った記憶がある」

 ソラは縁日の膜から出ると、下駄からハイヒール靴に履き替えている。

「いいよ行こう」

 金枝の返事に、ソラは白い歯を見せ、浴衣の襟元を軽く摘まんだ。浴衣はキュッと引き締まると、色を変え形を変えて鮮やかな紅色のチャイナドレスに変貌を遂げた。

「こっち」

踝まである丈の長いドレスの両脇には深くスリットが入っていた。コツ、コツとソラが歩く度、すらりとした白い脚が覗く。色っぽいソラの全身に金枝は嫌でも見惚れてしまった。

――美糸君。いっそのこと彼女に抱きついたらどうだ。

 ホルスにからかわれ、金枝は自分の頬を叩いた。

「今日はずいぶん、サービスが良いじゃん」

 金枝はチャイナ服を指差し尋ねる。ソラはドレスを軽く摘まむと、はにかんで見せた。

「これは、私がただ着たかったんだ。北形には破廉恥と止められた」

「いや。全然そんなことない」

「もしもデートがつまらなかったら途中で切り上げようと思っていたから、見れた君はラッキーだな」

 縁日のところから歩いて十分ほど。映画館や遊園地とは違い、元々麻布十番街に店を構えていた中華料理店へ続く地下階段の細い入り口には、神社の狛犬のように左右二体、自らの子を踏みつける黄金色の獅子の像が置かれていた。金枝は少し厳かな気持ちで、獅子の合間を通り、階段を下って店内へ入った。

 麻布の中華料理というから金枝は身構えていたが、内部もこじんまりとして、構造も店というより、部屋の多い一軒家というような造りだった。たくさんの客を受け入れる設計ではないな、と金枝は思った。また、階段を下りてきたのに店内に上への階段があった。二人は店員に案内され、階段を上がった先のパーテーションのあるテーブル席へ通された。

「両親と、何度かここへ来た覚えがあるの」とソラ。

「へえ。何が美味しかった?」

「餃子と中華麺」

 そう言いながら、ソラはペロリと舌舐めずりをした。

 

「……あれ」

金枝が目を開けると、流線形の白い天井があった。金枝は柔らかなベッドに寝かされている。そこは客室で、薄らと消毒液の匂いもした。周囲に人の姿はない。とても静かな空間だった。しかし何故、自分はここにいるのだろう。金枝は混乱した。

金枝の脳裏に最初に浮かんだのは、回転式の中華テーブルだった。そこに載った餃子がソラと金枝の間で行ったり来たりする。金枝はうっかり餃子を食べて、吐いた。ソラに見惚れるあまり、食前のバカシタをすっかり忘れていたのだ。そもそも縁日のチョコバナナを食べた時から、金枝の味覚は少しおかしかった。

――思い出してきたか?

 ホルスが非難するように尋ねる。

「いやぁ、どうかな」

――君はな。ソラの『はい、あーん』で簡単に口を開け、普段と色も風味も違うバカシタでない『何か』を口に入れたのだ。鯉のように、馬鹿みたいに。

「あ、そうだ。それで、途端に眠くなって、気づいたらここ」

 金枝は睡眠薬を自ら噛んでしまっていた。金枝は小さく舌打ちをした。

「あいつ、あんなに俺に気がある素振りしてたクセに、ひでぇ!」

――彼女が途中からやけに積極的だったのは、君への愛情表現などではなく、粗相をした自身の執事への仕置きだ。それは君も分かっていた筈だ。

「うるさいな。そこは、俺も楽しんでたからウィンウィンだったんだ。畜生、むかつく。千円もする餃子と、二千円する中華麺を食べ損ねた」

 ぐぅ、と金枝の腹が鳴る。

「空腹ということは、俺は眠った後でそのままここへ運び込まれたんだ」

 少し考えれば分かることを金枝は口にする。気が立っているところに、ウィン、と部屋のドアがスライドして何かが入ってきた。猫耳をつけた雪だるまのようなフォルムをした艶々の黒いロボットが、ホバー移動でベッドの脇に近づき金枝を見下ろした。小学校高学年程の背丈があり、額には目玉のようなセンサーが付き、本物の眼は丸く小さく、そして青色に発光していた。手はパソコンのマウスに似て、足は無く、胴体が宙に浮いていた。

「何だお前」

「こんばんは、ワタシはガネタ! 高性能アシスタントナビゲーションロボのワタシに何でも聞いてね!」

 最近のロボットらしくないフランクな口調でガネタが名乗る。声色は大人の女性が子供を演じる時のそれに似ていた。

「まさか俺ら、宇宙船に乗ってんの? 何で」

 金枝はベッドから跳ね起きながら訊いた。

「ソラ様がキミを運び込んだんだよ! デートの最後に、どうしても見せたいものがあるんだって」

「うわっ」

 悪い予感がして金枝は露骨に嫌な顔をした。ガネタの額の目玉型センサーがぐるりと動き、金枝の表情を瞬時に読み取る。

「あれ、どうしたの。若い子同士、喧嘩でもしたのかい?」

「いや、そうじゃないんだよ。きっと、ソラは俺にサプライズをするつもりなんだ」

 金枝は即興で出まかせを喋った。

「でもさ、俺だって一人の男。俺の方からサプライズして、女性を喜ばせたい訳だよ。まあ、ロボットの君には、この気持ち分からないか」

「わ、分かるとも! あんまりワタシを侮らないで欲しいな。ワタシのこんな砕けた口調だって、乗組員のみんなとすぐ打ち解ける為なんだよ!」

 もしやロボット差別じゃないだろうね、と熱くなりかけるガネタ。金枝は苦笑いしながら胸元で手を振った。

「違うよ。そういうのじゃなくて。ガネタ、俺を威子口空に今すぐ会わせてくれないか。たまにはこっちから彼女にサプライズしたいんだ。協力してくれよ」

「ええ? でも、彼女からは『あまりうろちょろさせるな』って言われたから……」

「……はあ。やっぱりロボットには人の気持ちが分からないのか?」

 金枝はやれやれと首を横に振った。

「いいか。『あまりうろちょろさせるな』っていうのは、『うろちょろさせたげて』ってことなんだぜ」

「なんだって? それはまさか、いわゆるアマノジャクって奴!? 『イヤよイヤよも好きの内』とか『押すな、押すなヨ』の類の!」

「そうそう。極度のツンデレなんだよ、ソラは」

 金枝は自虐的な笑みを浮かべた。

「あー、そういうことなんだ。ヒトっていうのは、奥が深いなぁ」

 ガネタは感心したように両耳を時計回りに一回転させると、「こっちだよ!」と言って白い通路を出ていった。金枝は余裕ある足取りでついていく。

――どうする気だ金枝美糸。

「こっちから能動的に動く。あいつの企みを知れたら有利だろ」

 口元に手をやりながら小声で金枝は言う。

 ガネタは他より一回り大きなドアの前で立ち止まると、壁に埋め込まれたタッチパネルをピポパと操作した。空気の圧縮されるような音と共にドアが開いた。

「あれ、ソラ様……いないなぁ。お手洗いかな」

 ガネタは頭部を上下左右に動かしながら、室内に入っていく。そこはどうやら、この艦のコントロールルームらしく、見るからに精密そうな得体の知れないラッパ形状の機械が壁の至る所に収容されており、最新鋭の感覚伝達パソコンが複数台、それらの機械と光線で繋がっていた。部屋の中は低温に保たれ、アロマオイルの良い匂いが漂っている。中央の霧状モニターには何処かの惑星が立体的に浮かんでおり、その惑星の横には座標軸や天候、地形の高低など基本データが表示されていた。

「ガネタ。あれは何だ?」

 金枝はモニター内の惑星を指差し訊いた。

「おや。キミは何も知らないでノアに乗船したの?」

「ノアって、この船の名前か?」

金枝が訊くと、ガネタはくるっと機械の指を回した。

「そうさ。ここは特殊航行艦ノア。人類の未来を救うための希望の方舟だよ!」

「ガネタ。彼には何も話してないんだ」

「あ、ソラ様」

威子口空は透けないワンピース姿に戻っていた。ソラは奥の細い通路から白いスカート裾を微かに靡かせながら、ライトの当たる部屋の中央までなだらかに歩いてきた。

金枝は眉を顰め、苦い顔になった。

「ソラ。俺に睡眠薬かなんか盛っただろ」

「ごめんなさい」

 ソラはあっさりと認め、伏し目がちに言った。

「何しろ、この船そのものが国家機密なんだ」

 ソラは立体モニターの電源を切った。謎の惑星はふっと霞のように霧散する。

「金枝君が寝ている間に連れてくる方が、色々手間が省けるの」

「だからって――」

「埋め合わせは必ずするから。ね?」

 ソラは金枝に向かって爽やかなウィンクをした。金枝は「二度とすんなよ」と言うしかなかった。

「さて」ソラは軽く腕組みをするとガネタを見止めた。

「ガネタ。この部屋へ彼を連れてこいなんて言った? 私」

「だって、金枝さんが『連れてこないは連れてこいだ』って、言うんだもん。ワタシは悪くないよ」

 ガネタはぷいと顔を背けた。ソラは小さく溜息をつくと、不満そうに靴を二度鳴らす。

「北形まで、入室を許して。さては、さっきの見せつけデートで拗ねた?」

「ソラ、答えろよ。何で俺をこの、宇宙船だか何だかに運んだ」

 ふぅと息を吐いた後、ソラは金枝の目を見て言った。

「知って欲しかったんだ。人類の必死の生存戦略、リアース計画を」

「リアース計画……?」

「リアースは、星の名前。計画発案当初は未発見だった惑星だ」

――ワクワクする響きだな。

 ホルスが頭の片隅で呑気な感想を呟いている。

「それと。最後にお別れをさせてあげようと思って」

「俺と? 誰を――」

「来れば分かるよ」

 ソラは金枝を連れて部屋を出た。後ろからガネタがスーッとホバー移動でついてくる。

 ソラは艦内を案内するように歩きながら、淡々と話し始めた。

「威子口家は前々から人類の絶滅を予測していた。その原因さえ分からぬまま、滅びを回避しようと足掻いた末に立案されたのがリアース計画なの」

「へえ。何か、曖昧だな」金枝は率直な感想を漏らした。

「端的に説明するとね、二種の生存プランを同時に用意しておいて、将来的にその内のどちらか一つでも人類の延命に繋がればラッキー、というような代物なんだ。良くいえば汎用的、悪くいえば何の成果も得られず色々なものをドブに捨てるような計画」

「で、具体的には?」

 塵一つない、歩行者が正面から見て六角形をした白い通路を歩きながら、金枝は訊いてみた。通路の壁には何百年も前に他界した著名な画家や漫画家のAIに産出させた、独創的で鮮やかな宇宙旅行の絵が、立派な額に収められ何気なく飾られている。

ソラは角を曲がりながら答えた。

「二つのプランの内の一つは、やる必要が無くなったので説明を省くね。もう片方がノアの方舟案。つまり、この宇宙船を遠方の惑星、通称『リアース』まで飛ばそうという計画だ」

 ソラに連れられて入室したのは、そこそこ広く造られた娯楽室だった。

人類は今、旧遺物の宇宙船から抽出した捩じれ航法の技術をあらゆる長距離航行船に採用しており、何千光年にも及ぶ航行距離の劇的な縮小に成功してはいるものの、何故か体感時間は短縮されぬまま乗組員の精神に重く影響を及ぼしていた。コールドスリープで睡眠中に目的地に到着するのが理想であったが、身体への負担を考慮し、コールドスリープは定期的に覚醒する必要があった。

娯楽室に等間隔で並ぶ十二の重たい機械テーブルには、気の遠くなるような時間感覚に乗組員が耐えられるよう、太陽系の内外で編み出された何千万という娯楽作品が記録されており、ここでいつでも見たり遊べるよう、部屋ごと乗組員向けに開放される予定になっていた。更に、人類の娯楽の歴史を保管するという目的もこの場所に託されていた。また、隣りの大部屋と娯楽室は隣接しており、本来は窓が共有されているが、現在は灰色のシャッターが冷酷に遮断し、向かいの様子は窺い知れなかった。

「ガネタ、扉をロック」 

「あ、了解しました」

 ガネタは何かを察したように娯楽室をロックすると、ソラに言われる前に室内の灯りを点けた。灯りが点灯すると共に、煌びやかなジャズ音楽が頼んでもいないのに室内で流れ始めた。ソラが椅子に腰を落とすと、椅子が重さを検知して電源がオンになり、テーブルの上に立体的な娯楽ジャンル選択画面が表示された。ソラは宙に浮かぶポップコマンドには目もくれず、金枝を向かいの席に呼ぶ。

「じゃあ、この船は色んな動物とか、家畜も乗せてんの?」

金枝は背もたれに後頭部をつけ、少し居心地悪そうに訊いた。

「ノアなんて名前を付けるぐらいだし」

「ええ。この船の生物は現人類と完全独立し、永く繁栄してもらうよう設計されているから」

 ソラが二度、軽く手を叩くと、白い天井が開いて冷気と共に機械の腕が飛び出し、冷えた金属のコップをソラの前にコトリと置いた。ジュースサーバーの蛇口が降りてきて、「何になさいますか」と伺いを立てる。

「ホットココア、濃いめ」

 ソラの声に反応し、ジョボジョボと焦げ茶色の液体がコップの中程まで注がれる。ソラは一口、コップに口をつけた後、また金枝の方を見た。

「つい最近まで、乗組員の選定が偏っていたんだ。わがままな金持ちや政治家共が『私の娘を息子をノアに乗せてくれ』ってうるさくてね。中でも観返教会は特に口出しをしてきた。もう少しの所で禄でもない連中がリアースへ向かうところだった」

「八雲さんの死後に、見直したのか?」

 ソラは小さく頷いた。

「乗船資格があるのは、離人症だけだよ。それ以外の人間は全て却下した。私も君も、この船に乗る資格はない」

「……そういうことか。俺を呼んだのは、こないだの離人症の面接で、ノアの乗組員の選定にだいぶ貢献したからだろ?」

 ソラは柔らかく微笑み、湯気を燻らすコップを両手で少しずつ回した。金枝は少し身を乗り出した。

「やっと面接の意味が分かったよ。というか、俺がいないと成り立たないじゃないか。ノアの船員選び」

「仮に君がいなくとも、能力を見極める離人症状者が他にもいるんだよ。海外で同様の面接を行っていたのを忘れた?」

 ソラが指をパチリと鳴す。ガネタがピポパとメロディ音を発した。と、灰色のシャッターがガラガラと開いた。嵌め殺しの窓の向こうは多目的の大きなホールになっており、三百名弱の人間がテーブル席に座って、不思議そうな顔で金枝らに視線を向けた。性別も肌の色も、服装までばらばらだが唯一、若者という特徴だけは共通していた。ノアの乗組員の中には、金枝の見知った姿もあった。ヒグマを殺害したチョコレート女。そして。

「小間口さん?」

 窓のすぐ傍の席にいた小間口は、金枝とソラの姿に気づくと少し恥じらうように手を振った。

「声、聞こえてる?」

金枝はゆっくり口を動かしたが、小間口は小さく首を横に振った。金枝は笑い返したが、少し不安な気持ちになった。

「……何で、彼女が?」

 金枝はソラを見つめた。

「同意の上だよな?」

「ええ、当然」

 ソラが肩を竦めた。

「伊穂に限らず、乗組員の全員が遠距離生活になることを承知した。ただ、伊穂は少し特殊だ」

「へえ?」

「十月下旬に、取引をした。『例の件』で私に協力する代わりに、伊穂を親元の影響が及ばない遠くへ行かせるということ。乗組員の中に、熱心な観返教徒は含まれていない」

「例の件って……」

――威子口八雲の暗殺に協力したことだろう。

 ホルスの指摘に金枝は「ああ」と納得する。ソラは朗らかな口調で言った。

「彼女以外にも、私に協力してくれた離人症状者は船に乗せた。こうするのが、最も安全だから」

「そっか」

 金枝は少し言葉を切ると、席を立った。小間口に指で合図をして、部屋の外で話そうと伝えた。小間口はうんうんと頷いて、同じように席を立つ。

「ソラ。扉を開けてくれ」

「金枝君。それは許可できない」

「えぇ?」

 ソラはおもむろに立ち上がると、「マイク」と言った。ガネタの胴体からポッとマイクが発射され、ソラの手に収まる。

 ソラは軽く咳払いすると、爪先でマイクの電源を入れた。

「ノアの乗組員の諸君、フライトが夜遅くになることを詫びます。そして、威子口の代表として、人類の希望になる重圧を受け入れたことにお礼を言わせて下さい。ありがとう。そしておめでとう」

 ソラの声は艦内全域に聞こえていた。ホール内に集められた若者達の耳にも、天井のスピーカーを通して届けられており、彼らは娯楽室のソラに向かって和やかに拍手した。小間口は遠慮がちに、自分の席へ戻る。

 ソラは演説を始めた。

「離人症と、威子口にまつわる歴史はあまりに残虐です。威子口家は当初、不思議な能力を発現した人々を人類の希望だと持て囃し、好意的に接しました。しかし、その能力は非常に不安定で到底人の手で制御できるものではありませんでした。技術利用を目論んでいた威子口家の当てが外れ、威子口は能力者への関心を失いました。また、当時は能力暴発による痛ましい事故が相次ぎました。能力者を重用していた威子口は世間からの批判を恐れ、方針を一転。能力者を国家に仇なす危険分子、人でない存在『離人』と定め、全ての問題を離人症に被せた後、治療という名の迫害を開始します。特に私の祖父は世間における差別感情を煽り、激しく弾圧してきました。到底、赦されるものではありません」

 ソラは一度言葉を切る。ノアの乗組員は真剣な面持ちでソラの話に聞き入っていた。ソラはすっと顔を上げ、清聴する若い男女に澄んだ眼差しを向けると、静かに言葉を紡いでいった。

「威子口である私が、貴方達をこのノアの乗組員に選んだのは、終末遺伝子の影響を受けないからだとか、そんな理由ではありません。差別のない、新しい世界に身を置いて欲しいからです。そんな世界が、あって欲しいのです」

ソラは浅く深呼吸をしてから言う。

「私達は今後、一切干渉しません。誰も知らない、そして何からも囚われない、貴方達だけの星、リアース。それが理想郷であることを、私は信じて疑いません。威子口はいらない。君達こそが英雄だから」

 ソラは口からマイクを離すと、長く頭を下げていた。ソラの目から、涙が零れた。それが離人症に対しての、威子口家からの初めての謝罪なのだと金枝は察した。ノアの乗組員は一人、また一人と立ち上がると、ソラに熱っぽく拍手をした。乗組員たちの涙腺は緩み、まるで重い鎖から解放されたような穏やかな顔つきをして、皆がソラを讃えていた。

――何でこいつらの目は潤んでいる? 自分らを苦しめた威子口家だぞ、謝罪の一つで感激するのは、おかしいのではないか。

 ホルスが当たり前の指摘をした。金枝は複雑な気分で、目の前で繰り広げられる光景を眺めていた。

金枝は納得せずとも、理解が出来ていた。威子口の代表が謝ることなど、絶対に有り得ないことだ。だからこそ、少し優しくされただけで感動してしまう。親から酷い扱いを受けた子供ほど、親に気に入られようと健気にアピールし褒められたら心底喜ぶように。

それだけ威子口家、その中でも当主というのは絶対的存在だった。

ソラはハンカチで涙を拭くと、濡れた目をして、自分を讃える若者たちの笑顔をひとしきり満足げに眺めてから、マイクに口を近づけ、にこりとして言った。

「というのは全て、ウソなんです」

 大ホールにいた若者たちの目が、一人残らずきょとんとした。金枝も例外ではなかった。

ソラは冷えた笑みを浮かべながら、先ほどとは打って変わって冷酷な声を発する。

「私は先代が作り上げた離人症差別社会を変え、君達の境遇を良くすると言いました。そういうのは全部嘘。私は、君達のような離人症持ちが嫌いで嫌いで仕方がないの。さっさとくたばれと常日頃から思っています。今もね」

 ソラは淑やかに白い歯を零した。

「だって私の両親、君達が殺したんだもの。そのせいでどれだけ苦労したことか。もう、憎くて憎くてたまらない。貴方達のようなクズは、生きていてはならない。突然能力暴走して罪のない人達を巻き込んだり、社会を逆恨みしてテロを起こす。碌でもないよね、本当に。もう最初から産まれない方が良かったんだよ、君達は」

「そ、ソラ?」

 金枝は理解できずにいた。ソラはおもむろに、澄んだ笑い声をあげた。不穏な空気を感じたノアの乗組員達は及び腰になり、おろおろしている。何人かが勇ましく離席して大ホールから出ようとしたが、ロックされたドアに阻まれ、その場で立ち尽くした。ソラは嘲笑混じりに言葉を紡ぐ。

「甘い言葉に誘われて、こんなところまで来て今さら逃げられる訳がないでしょう? ノアに乗船した時点で、ゲームオーバーなんです。自分の境遇を呪って下さい。来世は普通の人間に生まれ変われるよう、祈って下さい」

 金枝は、小間口と目が合った。小間口の瞳は恐怖で怯えていた。今まで見た事ない、虐げられる者の眼差し。見てはいけないものを見た気がして、金枝は動揺した。

「金枝君」

 ソラに軽やかに声をかけられ、金枝はヘルメットのようなものを渡された。よく見ると、それはガスマスクだった。ソラはてきぱきとマスクを装着する。

それを受け取ったまま目を白黒させる金枝を見止め、ソラは尋ねた。

「つけ方、分からない? 仕方ないな、つけてあげよう」

 ソラはマイクの電源を点けたまま、テーブルの上にコトンと置いた。そして、金枝からガスマスクを取り上げると、手際よく金枝にガスマスクを被せた。

 ソラは再びマイクを取ると、ガスマスク越しの掠れた声で、窓の向こうでざわつく乗組員の若者達に向かって、優しく語りかけた。

「さようなら、哀れな離人症の諸君。楽に死ねるよう、肺一杯に空気を取り込むことをお勧めします。でないと、かなり苦しむから」

 ソラはマイクの電源を切ると、ガネタに向かって言った。

「さあ。全室へガスを」

「命令を確認。ノアの全室にTNガスを投下します」

 ガネタの目が赤く光った。すると、天井から真っ白いガスがシューシューと遠慮なく噴き出した。それは娯楽室に留まらず、大ホールも同様だった。金枝は茫然として、ガスマスク越しに逃げ惑う若者を眺めていた。あっという間に、白いガスは大ホール内を満たしていく。ガスに包まれた若者は、白目を剥いて虚空を掻き毟ったり、床でジタバタと死にかけの虫のようにもがき苦しんでいた。大勢の人が息を止め、一縷の望みをかけて扉の前に殺到したが、扉はびくともしない。やがて一人、二人と我慢出来ずにガスを吸っては、目を真っ赤にして、首元を引っ掻きながら、バタバタと倒れていく。目を覆いたくなるような光景だった。

小間口は窓を手で叩き、助けを求めていた。金枝はソラからマイクを奪うと、窓に叩きつけた。が、窓は分厚く、耐久性も頑丈な素材で出来ており、簡単にマイクは弾かれてしまった。

「畜生!」

 金枝も窓をバン、バンと叩いたが、叩けば叩く程に自身の行為が何の意味も為さない事を脳が理解していった。互いのいる空間のガスが濃くなる中、ガスマスク越しに、金枝は小間口と目が合った。その瞳は激しい恨みと絶望で汚れていた。金枝は急に薄ら寒さを感じて、窓から三歩、四歩と離れたまま、もう窓を叩くのをやめてしまった。しばらくの間、伊穂の両手は窓を叩いていたが、ガスが一段と濃さを増し始めると、伊穂の内出血をした片手がズルズルと窓を舐めるように触れたが最後、もう二度と叩くことはなかった。

「……ガネタ。もういいわ。ガスを排出して」

 ガス投下から五分。ソラのくぐもった声が真っ白い空間の中で聞こえた。やがて、大気中のガスは薄れ、視界が開けていく。

「ノアの全室で濃度ゼロパーセントを確認。排出完了」

 ガネタが場にそぐわない明るい声で言った。金枝はゆっくりと視線を上げていき、窓の向こうに目をやった。

 大ホールには誰一人、立っている者はなかった。さっきまで動いて笑って泣いていた若者達は、影も形もない。あるのは、床に転がる人、人。その向こうにも人、人、人、人。特に扉付近では、折り重なるようにして大勢人が倒れていた。床に伏した彼等の顔は、恐怖と苦しみに晒され、皺が刻まれ、まるで鬼のように歪んでしまっていた。

「何だよ、これ」

 金枝は呟いた。

「何なんだよ、これは!」

 金枝は気づいた時には、ソラに掴みかかっていた。

「何でだよ! 離人症は、人類を救うんじゃなかったのかよ! おかしいじゃないか、何もかも」

「金枝君、離して」

 ガスマスク越しにソラが低い声で言った。金枝は首を横に振った。

「いや。さすがに許せねえ」

「金枝美糸、離せ。でないと――」

「この野郎ッ!!」

 金枝が手を挙げた瞬間だった。顔面に強い衝撃が走り、金枝は吹っ飛んだ。強かにゲームテーブルに頭を打ちつけ、金枝の視界に星が弾けた。

「だから言ったのに」

 胸元をはたきながら、ソラが言った。ソラのすぐ傍ではファイティングポーズを取る北形の姿があった。北形は憎悪の眼差しで金枝を睨んでいる。

「やっと、お前を殴れた。今日だけで何度、拳が疼いたことか」

 北形はふぅと短く息を吐くと、「お嬢様、お怪我は?」と訊いた。

「私は大丈夫だから。北形、艦内に異常が無いか見てきてくれる?」

「はい、お嬢様」

 北形は床に伏せた金枝に唾を吐き捨てると、すたすたと部屋を出て行った。ソラは軽く息をつくと、ガスマスクを外してテーブルに置いた。傍でぐったりしている金枝に寄り添うように、ソラは床に膝をついた。ゆっくりと、北形の右ストレートで歪んだガスマスクを外すソラ。ガスマスクからは血と涎が垂れ、ポロリと、折れた前歯が床に落ちた。

「可哀そうに。ここまでやることはないのにね」

 ソラは優しい手つきで金枝の頬を擦った。虚ろな目で金枝はソラを見た。ソラはにこりと微笑んでいる。

「安心して、金枝君。誰も死んでないから」

「……死んで、るだろ」

 金枝は口内の血と唾液を吐いた。ソラはポケットからハンカチを取り出すと、金枝の口元を拭きながら言った。

「生きてるんだよ。白いガスは人体に無害の催眠ガス。ちょっと、苦しみを感じる臭気を混ぜただけ。驚かせてごめんね」

「嘘だ……。何で、そんなこと」

「面接会場で自殺した、未来予知の離人症状者を覚えてる?」

「あいつが一帯……」

「彼は、宇宙船の乗組員がみんな死ぬと予知していたでしょう? あれ、とても縁起が悪いなーと思って。念のために、色んな辻褄が合うよう、こうして一芝居を打ったの。これなら、未来予知で皆が死んだように見えるから。君も、良い反応をしてくれた」

 金枝は無理やり立ち上がると、ソラには目もくれず、よろよろと娯楽室を出た。ドアは開いていた。大ホールのドアも開いていた。金枝は足元に倒れる人を踏まないよう歩いていき、やがて跪いて動かない小間口の背中に手をやった。

小間口の背は、緩やかに動いている。床のあちらこちらから寝息が聞こえていた。

「冗談、きついわ」

金枝は気が抜けたように、力なく笑うしかなかった。


 ソラの後に続いて金枝は鉄梯子を上り、ノアの上へ出た。

航行艦ノアは、真っ暗な夜の海上に浮かんでいた。遠くの夜空に白く輝く満月が、金枝の心に焼き付いた。

用意してあった救命ボートに三人は乗り込んだ。

北形がボートを漕いだ。ざあぁ、ざあぁという素っ気ない波の音が、無情に世界を支配している。

ふっと、満月に続いて世界に光が灯る。ソラは電源を入れた懐中電灯を金枝の口元に向けた。

「金枝君、口開けて」

「何で、そんな」

「ほら、あーん」

 金枝が渋々口を開ける。痛々しく折れた前歯が姿を見せた。

「あらら、やっぱり綺麗に折れてる。明日、学校終わりに威子口家の医者へ診せよう。すぐ治してくれるよ、欠けた歯もあるし」

 ソラが無邪気に、金枝の折れた前歯の欠片をつまんで見せつける。「海に落とすなよ」と、金枝は念を押した。

 少し間が開いてから、金枝がぽつりと言った。

「結局、小間口さんとは会話出来なかった。眠ったまんまで」

「いいじゃない、窓越しにやり取りしたんだから。そんなに仲良くなかったでしょ?」

 金枝は無言で潮騒に耳を傾けた。

「ノアは、いつ飛び立つんだ?」金枝は知らなくてもいいことが気になった。

「あと、一時間くらいかな」

 ソラは腕時計を見ずに答えた。

「どんな星へ行くんだ?」

「威子口家の影響すら及ばない、地球に似た星。その存在を知っているのは私含め数人。惑星リアースを発見してから、威子口家はこの星を秘匿し続けた。私達人類とこの先一切の関わりを絶つことで、介入される可能性をとことん避け、仮に私達が絶滅したって、ノアの乗員はそのまま別の種族のように生存してくれればいい」

「離人症の人間だけなら、終末現象は起こらないんだろ?」

「多分ね。両親とも離人症の子は高確率で離人症になるというデータがあるし、あまり心配はしてない。それに、乗組員達の『ヒトの外見が変わらないようにする遺伝子』も、一応元に戻しておいた」

「じゃあ、完璧じゃん。やったじゃないか、ソラ。俺達、人類を存続させたんだ。絶滅を回避出来たんだ」

「あのね、金枝君。ノアはまだ、飛びたってない」

 諫めるソラだったが、その声は喜びを隠しきれていなかった。

――これで一件落着か。美糸クン、そろそろ私を解放してくれないか。

 金枝はその声を無視した。


 翌朝、欠伸をしながら金枝が階段を下りると、テレビの前に家族が集まっていた。

「どうかした?」

「美糸。お前、ソラさんから何か聞いてないか」

 父に訊かれ、金枝は首を横に振った。母と姉は、金枝を一瞥すると、テレビに視線を戻した。ただならぬ気配を察した金枝は、買い替えたばかりのテレビに目をやる。父が頭を掻いた。

「ニュースを見てたら突然切り替わってな。どのチャンネルにしても、これが繰り返されてんだよ。ほら、また最初に戻った。電波ジャックだ、こりゃあ」

 テレビ画面には暗闇に、ベージュのフードを被った人間が五人佇んでいる。その内の一人、大学生くらいの血色のいい男が代表者なのか、此方に語りかけてくる。

「地球の皆々様。我々は、宙(そら)の羊飼いです。十二時間前に我々は月を掌握し、この映像を地球へ送り込んでいます。我々は、十年前の『消えた十歳児事件』の子供達です」

――何なのだ、それは。

 ホルスが尋ねる。

「消えた十歳児事件って、何だっけ」

「美糸が六歳の時に起こった、大規模な神隠し事件」

 金枝の姉が説明した。

「地球のあちこちから一斉に子供が消えて、それからずーっと、消息不明。あたしのクラスにも消えた子がいたっけ」

「ふうん」

 金枝はベージュのフードの男を見た。かつて誘拐された子供が成長したとは思えない、自信に満ち溢れた表情が口元から読み取れる。

 男は口を開いた。

「我々はこの十年間、人より上の存在、『神』によって教育を受けてきました。今、我々は、誘拐した彼らを恨むどころか、感謝しています。いかに人間が愚かなのか、知ることが出来たからです」

 金枝は胡散臭そうに眉を上げた。ベージュのフードの男は軽く息を吐いた。

「神は今、人間を滅ぼそうとしています。現在の終末現象もその手段の一つに過ぎません。しかし、神は情けをくれました。我々宙の羊飼いに優れた艦隊を下さり、そして、我々が人類を『無条件降伏』させられたならば、ヒト族の存続を赦すとおっしゃっています」

 男はフードを脱いだ。金髪碧眼のゲルマン人種で、ドラマ用にめかしこんだような二枚目俳優風の面が露わになる。男は自らの優位性を誇るように言った。

「人類の代表たる威子口空。我々に傅(かしず)きなさい。そして全宇宙へ向けて、『人類の完全敗北を認め、地球を除いたあらゆる生息域を全て放棄する』というメッセージを繰り返し発信しなさい。さすれば、人類の『地球内での』生息は認められます。この約束は必ず守られます」

――図々しい奴だ。

 ホルスが呆れた声で言う。

男は爽やかに言った。

「心苦しいですが、これが此方の出せる精一杯の譲渡です。更なる生息域を認めるつもりは一切ないし、交渉にも応じません。何も言わず降伏し、敗北を全人類へ伝えなさい。もし、この要求を威子口空が拒むようならば、三日後、我らが愛する地球は地獄と化します。誰も得しません」

 男は身を乗り出すと、唇を突き出し、意気揚々と言う。

「威子口空。これは脅しではない。貴女は既に我々の掌の上にあります。嘘ではない、その証を見せましょう」

 画面がぐにゃりと乱れ、真っ暗な空間を飛行する楕円形の宇宙船が映し出された。それは突如、暗闇に浮かぶ巨大な白い戦艦から放たれた紅の光線に貫かれる。激しい光に包まれた楕円形の船は宇宙空間で爆散した。そして、また映像が戻り、フードを被った男が先ほどと同じことを繰り返し始めた。

「美糸。本当に、ソラさんは何も言ってないの?」

「知らない。今起きたんだ」

 金枝は言葉少なく立ち上がると、学校の支度を始めた。だが、金枝の心の中は電波ジャックの一カットに囚われていた。

(あの宇宙船……)

 月灯りに薄ぼんやりと照らされる、海上のノア。おそらく半分以上は海中にあったのだから、金枝ははっきりとノアの全体像を見た訳ではない。が、それはどうも、映像で爆破された宇宙船のような気がしてならなかった。


「ホルス、どう思った? さっきの映像」

 少し遅刻気味の中、通学路を歩きながら金枝は訊ねた。

――あいつらの裏にいるのはヴシャペトレだろう。

 ホルスの声は、金枝の割と近くで聞こえた。

――月を威子口に気づかれず制圧できたとすれば、それはヴシャペトレの技術以外に有り得ない。

「何でわざわざ、んなことすんだろ。大勢子供誘拐して、兵士にして、武器を与えて、人間同士戦わせて。俺達人間がそんな憎いかね」

――君達は目立ちすぎたのだ。旧支配者達の旧遺物を使いこなす生命体など、少なくとも表立っては現れなかったからな。

「まあ、旧遺物を使えない異星人からしたら、人間は脅威だろうな」

――ん、美糸君。車だ。

 歩道を歩く金枝の横に、黒塗りのワゴン車がゆっくりと横づけする。どうせ威子口関係の車だろう、と金枝は怠けていた。ワゴン者のドアがスライドして、サングラスをかけた男が三人降りてくる。挨拶しようとした金枝は、一人の男に鳩尾深くまで拳を叩きこまれ、息が出来なくなった。よろめく金枝の身体を男達は手際よく車の中へ押し込むと、鋼鉄のドアを鋭く閉めた。


 ざらざらとした冷たい金属の床の感触を金枝は裸足で感じていた。

金枝は椅子に座らされていた。目隠しで何も見ることは叶わず、猿轡を咬まされて呻き声しか漏れ出ない。椅子に、四肢を縛り付けられている。金枝の心は半分パニックになった。もう半分は諦観に沈んでいた。

――まあ落ち着こうではないか。喚いても仕方あるまい。

 ホルスに精神状態を操作され、金枝は気分が落ち着いた。

 重たげな金属の扉が擦れながら開いた。次いで、複数人の足音がする。一つの足音がコツコツと近づいてきて、金枝の猿轡を解いた。

「ソラなのか?」金枝の声が微かに反響する。返事はない。次いで、目隠しが取られた。

制服姿の威子口空は、無表情で、金枝から少し距離を取っていた。地下牢のような、薄暗く、じめじめとした部屋に金枝は繋がれていた。ソラの背後の赤金色の鉄壁には、全身黒ずくめで頭からズタ袋を被った、処刑人とも人形とも取れるような性別も釈然としない痩躯の人物がずらりと並んでいる。金枝の猿轡と目隠しを取ったのも、その内の一人だった。

「ソラ。何なんだよ、これ」

 異様な気配に気圧されながらも金枝は訊ねた。

「自分の頭に訊いたら」

 ソラは黒ずくめが用意した簡素な椅子に腰かけると、脚を組み、目を据えて、動物を模したビスケットをサクサクと食べ始めた。

「意味が分からない。何の話だ」

 金枝は顎を引き、自分の体を確認する。拉致時の白のワイシャツに黒のズボン姿の高校指定の制服のまま全身を拘束されている。手首には以前威子口邸で付けられたウソ発見器が装着されていた。

「金枝君。私に何か隠していることは?」

「そんなの、ねえよ」

「ふうん……」

 ソラはバター味の蝙蝠形ビスケットを飲み込むと、くいと人差し指を折った。キュルキュルと新幹線の車内販売で使われるようなワゴンを黒ずくめの一人が運んでくる。金枝の額から嫌な汗が伝う。ワゴン内にはぎっちりと、拷問で使われる恐ろしい器具で満ち満ちていた。

「いつもの……冗談だよな? 手術台の時と一緒でさ」

 金枝打は無理に口角を上げた。

「昨日も、驚かされたよ。ほんと。ソラは、そういうの好きなんだから」

 ソラは少しだけ指を迷わせたが、「じゃあ、これ」と、一つの器具を指差した。黒ずくめが取り出したのは、飾り気のない鉄のペンチだった。黒ずくめはペンチを持って、金枝に近づいてくる。

――なんだか、嫌な雰囲気だな。

 ホルスが他人事のように言った。黒ずくめは、すっとしゃがむと、素足だった金枝の右足小指の爪へペンチの凹凸の咥え面を挟ませた。ひんやりとした金属の凹凸を感じながら、金枝は恐怖で顔を引き攣らせた。

「な、ソラ。君はいつもこうやって、俺を脅かすけどさ。結局、痛いことはしないんだろ。寸でのところで止めてくれるし、何だかんだ優し――」

ソラはビスケットを齧ると、言った。

「やって」

ペンチはテコの原理で軽々しく、金枝の小指の爪を毟り取った。金枝は激痛に顔を歪め、涙を零した。

「ああ、ああ。何で……」

「薬指。少し焦らして、左足の中指。それから――」

 ソラの指示通り、躊躇なく黒ずくめはペンチで爪を剥がしていった。金枝は無心で泣き叫んだ。どうしようもない激痛。延々と続く苦しみ。耐えられないのに何も出来ない無力さ。金枝はただ、生きている自分を呪った。

事が終わった後、ソラは口内でどろどろになったビスケットをゆっくりと咀嚼しながら、痛々しく腫れ血が滲み、弱々しく震える金枝の両足を退屈そうに眺めた。

「金枝君」

 ソラは言った。

「もう一度聞くね。何か、思い出したことは?」

 金枝は消え入りそうな声で「分かりません」と答えた。「うーん」とソラは首を傾げ、そして事務的な口調で言った。

「昨日のノア、なんだけど。残念ながら、変てこな連中に爆破されたんだ。それに、向かう筈だった惑星もついさっき報告があって、宇宙の塵になってた。金枝君、人類を救う計画は失敗しちゃった」

 金枝は、ゆっくりと顔を上げ、体内でぐちゃぐちゃになった感情の玉を虚空へ向かって嘔吐するように滅茶苦茶に叫ぼうとした。が、すっかり喉が嗄れていたので大した叫びにもならなかった。ソラは取り乱す金枝の様子を困ったように見つめながら、最後のビスケットを口に放った。

「……金枝君。私だって悲しいし、苛ついている。何故って、ノアの大まかな離陸時刻と惑星リアースの位置情報が宙の羊飼いに漏れていたとしか思えないんだ。今、一人ずつ容疑者を洗っているんだが、一番疑わしいのは金枝君、キミなの。というか白状すると九割九分、君で確定してるんだよね」

「知らない……なんも知らない……」

 掠れた声で金枝は呟いた。ソラは不満げに目を逸らすと、鬱陶しげに髪を払った。

「金枝君、コントロールルームのモニターで惑星の位置情報を見たよね。それに、私からノアの出発時刻も聞いて知っていた」

「じゃあ、お前がやったんだ……」金枝はへらへらと笑った。

ソラはするりと立ち上がると、金枝の頭を右手で掴んで、軽く揺さぶった。

「ホルス? これから君の宿主の手の指を切り落としていくから。何か申し開きはある?」

 金枝は「嫌だ」と呟いた。黒ずくめの人物が、小箱のようなものを持ってくる。五つの穴が開いていて、上部には木の出っ張りと、鋭利な刃が見えた。「嫌だ」金枝は呟いた。小箱の穴に金枝は指を通された。木の取っ手を上から叩けば、刃がスライドしてスパッと指が五本揃って床に落ちる。

誰の目からも明らかな仕掛けだった。

「ほ、ホルス。ああ。どうすれば……」

 金枝の指は一本一本が意思を持ったように勝手に痙攣を始めた。ソラの唇がゆっくりと開かれる。その時。

「あ、ま、待って! ホルスがソラに、話させろっテェ!」

 死に物狂いで金枝は声を発した。ソラが唇をすぼめた。

「ほんとか? ホルスは何て言っている?」

「そ、それは……ア……」

――殺虫剤を焚くから待て、と言え。

「さっ、殺虫剤! 殺虫剤を焚くから!」

「……何。それ」

 予想外の返答にソラは狐につままれたような顔をした。金枝は続けた。

「何か俺の中に、ホルス以外にも寄生生命体がいるみたいなんだ! だからそいつを退治するまで、待ってくれないか! 頼むよッ」

 ソラは呆気に取られていたが、小さく笑うと「いいよ」と言った。

「その代わり、第二の寄生者と話がしたいな。君の口を通して」

「わ、分かったから……」金枝は青い顔で何度も頷く。ソラはシンプルな腕時計に目をやった。

「時間は……三十分でいいかな。それまでに第二の寄生者を連れてこれなければ、君は指を失います。はい、スタート」

 金枝はがくりと項垂れた。意識は遠のいていく。

金枝は黄金色のホルスの部屋にいた。

「ホルス! お前の他にも寄生してる奴がいたのか!?」

 金枝はソファにもたれるホルスに駆け寄り、訊く。

「まあ座りたまえ」ホルスに手で促され、金枝は適度に弾力のある赤いソファに着座した。

「なあ。ホルス。どうなんだ?」

「うむ。実は、咄嗟に出た仮説なのだ」

「……は?」

 金枝はわなわなと震え、青白い顔になり「やめろよ、そういうの」と両手を揉んだ。

「じ、じゃあ、さっきの話は全部ウソっぱちで俺は、指が……」

「そうとも限らん」

 ホルスはシルクハットを脱ぐと、帽子の中から毒々しい燻煙式の殺虫缶を取り出してみせた。

「威子口空は何やら確信をもって、君と私を尋問しているようだった。しかし、私も君も変な動きをしてはいない。してないな? で、あるならば、我々以外に別の生命体が体内に寄生し、君の見た情報を外部へ送り届けた可能性がある。本来――」

 ホルスはステッキをくるりと回し、互いの胸を叩いた。

「スパイ活動を終えれば、体外へ出て行くのだろうが、皮肉なことに美糸君。君は欠かさず、寄生生物を体内に留めておく薬を飲んでるだろう。もし君に寄生なんてしていた奴がいれば、高確率で今も尚、我々の中から出られないでいる可能性が高い。そこでだ」

 ホルスは殺虫缶を床の上に置いた。

「精神殺虫剤を焚く。言われてみれば前々から、変な視線を感じていたのだ。気のせいかどうか確かめてみようじゃないか。それで何も出なければ――」

「出なければ?」

「君が、演技で乗り切れ」

 ホルスはワッハッハと深みのある声で笑うと、金枝の背中を叩いた。

「焚く間、君は部屋から出ていたまえ。この殺虫剤は毒だ。当然、私もタダでは済まないだろう」

「じゃあ、ホルスお前……」

 ホルスは何も言わず、金枝を部屋の外へと出した。

「美糸君。これを貸そう」

 部屋の境目でホルスは何やら重たく冷えたものを金枝に渡した。

それは金ぴかのごつい腕時計で、時計盤は謎の文字と絵で構成されていた。ホルスは、普通の時計なら十一がある箇所、黒電話のような絵をシルク手袋の人差し指でトントンと示した。

「長針が、ここまで来たらドアを開けるのだ。それまでは、何があっても開けてはならん」

「もし、開けちまったら?」

「半端な薬の効力で怒り狂った第二の寄生体に精神を壊される。というのが、私の考え得る最悪の展開だな。それが嫌なら、絶対に開けてくれるな。頼んだぞ、美糸君」

「ホルス。生きろよ」

「ふむ」

 二人は固い握手を交わす。「では」とホルスはシルクハットのツバに触れ、そっとドアを閉めた。

 それから少しして、シュウシュウと激しい煙の音が部屋の中から聞こえた。ドン、という音もした。ドアの隙間から零れる灯りがふっと弱くなり、暗闇が一層色濃くなる。

 しばらく、何も起こらなかった。

不意にドアノブが回った。金枝は慌てて、ドアノブを引き戻す。

「美糸クン。美糸クン。開けてくれ」

「ホルス? でも、まだ時間になってないぜ……」

 焦りながら金枝は腕時計を見やる。

「美糸クン。美糸クン。開けてくれ」

 ドアの向こうの主は同じことを繰り返している。金枝の全身から、どっと汗が噴き出した。

「お前、誰だ」

「美糸クン。美糸クン。アケテクレ」

 ドアノブにかかる力が一層激しさを増した。金枝は歯を食い縛り、両手でドアノブを固めた。

死守しなければ。よく分からない何かが出てくるのを金枝は必死に食い止めた。不意にドアノブから力が消えたが、金枝が手を緩めることはなかった。

 現実では一体、どれくらい経ったのだろう。金枝の体感的には一時間は経過しているように感じる。現実世界では今にも、自分の手の指が切断されるのではと金枝は気が気じゃなかった。金色の時計の針を見ると、いつの間にか約束の黒電話を指していた。

「ホルス、開けるぞ?」

 返事は無かった。金枝は覚悟を決め、勢いよく扉を開けた。

「あっ」

 金枝の呼吸が止まった。

時間も止まった。

目の前に、得体の知れぬ何かが立っていた。一目見れば、『これは見てはいけないものだ』と誰しも直感させられる。原始的恐怖を抱かせる何か。

シルエットは少女のよう。

肌は真っ白で、服を着ていない。

瞳は大きく開きっぱなしで、瞼はなく、高速でスライドする瞬膜が時折目玉を覆った。

鼻は正三角形で、小さな口は赤い糸で痛々しく縫われ、閉じたまま。

頭部は長く、草食動物を思わせる口と大きな歯が生え、終始ひくつき、全身に毛は無く、また耳も顎も無かった。

腕は縮れ麺のように細く垂れ下がり、お椀のような手から生えた指は四本しかなかった。スカートに似た皮膚がべろんと腰から生え、足は電柱のように一本足だった。

四六時中、銀河を思わせる渦巻状の染みが幾つも白い皮膚の下を這い回り微生物のように体内を移動していた。

「あら。コンニチハ」

 『それ』は言った。声種は特徴的なメゾソプラノだが、聴いた傍から金枝の脳から失われ、脳内での再生は不可能だった。ただ、発言内容だけが記憶に残った。

「あ、あ」

金枝は言葉に詰まった。『それ』は黒目を中央に寄せたり、反対に離したりした。

「ニンゲンのオス。そんなに怯えなくてもいいじゃないの。これは精神上の姿で、実際はもっとニンゲンに近いわ。あたしの存在に気づいたから、会ってあげたのに、何よ!」

 金枝はごくりと息を飲むと、「誰ですか」と訊いた。

「あたし? あたしはヴシャペトレ人(びと)の精神から分離し、フーピーに寄生した意識の欠片よ。名前は――」

 『それ』は聞き取れない音声を発した。金枝の脳裏に石のバナナのイメージが浮かんだ。きっとそれが名前の意味なのだろうと金枝は悟りながら、僅かに体を傾けて部屋の様子を窺った。ソファにホルスがもたれているが、動く様子はない。

「お願いがあるんですが。俺の口を通して、ある女性と、つまり威子口空と話してくれませんか?」

「あら、いいわよ。その代わりといってはなんだけど、後であたしを一思いに殺ってくれないかしら。宗教上の理由で自死が出来ないのよ」

 『それ』の感情は捕捉し難かったが、死に深い意味を抱いていないことを金枝は感じた。

『それ』は黒目を大きくした。

「おいニンゲンのオス。こう見えても、あたし結構瀕死なのよ。あたしはあんたじゃなくて、そこで気を失ってるフーピーに寄生してんのよね。だからこの部屋から出られないし、換気しようにもあんたが邪魔したせいで、体中刺すように痛いのよ」

 生気のない瞳を真っすぐ向けられ、金枝は息苦しさを感じながらも『それ』と視線を交わしつつ約束した。

「アナタが威子口空と会話をし終えたら、俺は絶対に貴方を殺します」

「いいわ。約束よ」

 『それ』は糸で吊られた人形のように、縮れた左腕を持ち上げた。握手を求められたと金枝は一瞬思った。だが、その手は獲物を襲う蛇のように真っすぐ金枝の首筋へ向かった。白い四つの指はそのまま金枝の喉元へズブリとめりこむと、芋虫のように食道内を這った。


金枝は静かに目を開ける。目の前に彼女がいた。はっとするような端正な佇まいで、椅子に軽く尻をつき、手元の文庫本へ視線を落とすソラ。

金枝の口が勝手に開き、喉仏が蠢動した。

「何を聞きたいのよ、ニンゲンのメス」

 声色自体は金枝だった。ソラは、すっと顔を上げる。読みかけのリルケ詩集を閉じ、うららかな口調で訊いた。

「貴方、ヴシャペトレの人でしょう?」

「よく分かったわね。そうよ」

「幾つか、質問があります。訊いて宜しいでしょうか」

「手短にお願いするわ。あたしはさっさと死にたいんだから。あたしは本体から切り離された残留思念でしかないんだからね」

 ソラは姿勢を伸ばし、椅子に座り直してから尋ねた。

「貴方達はガッタリコとドーピシアを結託させ、更には軍事技術の提供までして人類を潰そうとしているように見える。何故、そこまでして人類を滅ぼそうとされるのですか?」

「今のあんた達の宇宙での横暴は、あたしらに責任があるからよ。あたし達が撒いた種。何せ、その血にあたし達ヴシャペトレのDNAが流れてるんだからね」

 金枝は感情のない人形のように抑揚なく言葉を述べる。

 ソラは静かに訊いた。

「では、私達を作ったのは貴方達ヴシャペトレ人だと言うのですか?」

「そうよ」

 にべもない返事があった。

「だから、あんた達は旧遺物を使えるのよ。旧遺物は、元々あたしらヴシャペトレの製造物。他の知的生命体に流用されるのを避ける為、全ての旧遺物はあたし達の遺伝子に反応し初めて使用が可能なのよ。だからあんた達以外の生命体には旧遺物が扱えない」

 金枝の口から淡々と紡がれていく真相。ソラも、背後の黒ずくめの人形達も身じろぎ一つせずに聴いていた。

「何故、貴方達は我々人間に自身のDNAを流入させたのですか?」 

 ソラの問いに、少しの間があった。

「それはね、驕りよ」

「驕り……?」ソラはぽつりとオウム返しをした。

「そうね。あたし達は大きな戦争の果てに多くの種を滅ぼし、星を砕き、空間そのものを不能にした。生き残ったあたし達は戒めの意味を込めて隠居した。けれど、次第に、おこがましいことに、奪った命への贖罪をしたくなったのよ」

 金枝の口は動き続けた。

「他人の為に尽くすような、知的生命体を望んだ。あたし達は前々から目をつけていた地球の、一匹のメス猿に自らの遺伝子を分け与えて育てた。いつか、あたし達が成し遂げられなかった宇宙平和を代わりに成し遂げて欲しかったのよ」

 ソラは険しい表情で下唇を指でなぞった。ステルスモードの北形がソラの耳元に屈み、「甲子園に出られなかった父親が息子に夢を託すのと一緒でしょうか」と呟く。

「まあ、酷く自己中心的な動機だわね」

 金枝の口が機械的な笑い声を発すると、また淡々と抑揚のない声を垂れ流した。

「でも結局、あんた達はヴシャペトレと同じ道を辿っていったわ。自らの利益の為に平気で他者を傷つけられるんだもの。宇宙進出した当初に一部の異星人から『ハダカザル』と揶揄されたのを逆に利用し、未だに被差別星人の立場を取って様々な権利を他所様へ吹っ掛け、一切の文句を封殺しているところも、あたし達と似てるわ。それにあたし達の旧遺物を無断盗用し、しかもそれを当たり前のように軍事利用する図々しさも備えている。あんた達ニンゲンが今、異星人の間で何と呼ばれているか知っている?」

 ソラは口を閉ざしている。金枝の口が開いた。

「『旧支配者の再来』よ。当然ね、何せあたし達のDNAが入ってるんだもの。なるべくしてなったという感じだわね」

 金枝の口は上下の唇を擦り合わせる。微かな摩擦音が部屋の中に鳴った。

「こういった懸念は、最初からあったのよ。だから、あんた達の遺伝子には調子乗ると滅びるよう設計してあんの。でも、あんた達の繁殖力が強くて、ぽんぽん産み落とすしで、終末が追い付かなくて困っちゃうわよ。仕方ないから上層部が重い腰をあげて、人類殲滅に舵を切ったの」

「金枝君に寄生した理由は何故ですか?」

ソラはマイルドな質問をした。金枝の口周りの筋肉がぐにゃりと動く。

「あたしはフーピーに寄生していたの。フーピーは別の個体に寄生すると思ったのよ、威子口空とかいう、ニンゲンのメスにね。まあ結果的に情報を得られたし、正解だったわね。宙の羊飼いにノアを撃墜させたし、リアースも破壊された。あんた達ニンゲンがどれだけ愚かで醜いかも、すぐ傍で確かめられたし、全ての情報を仲間へ送信済みよ。彼らはニンゲン殲滅の意思をより一層固めたことでしょう。事が済んだから、あたしはもう消えるわ」

「最後に、宙の羊飼いの存在意義について教えてくれますか?」

「彼等? ああ、あたし達の気の迷いよ。なんとか、ニンゲンを正しい存在に出来ないか生後十年の人間を教育してみたの。ニンゲンへの先兵としても丁度善いと思って。彼らが上手くやったら、人類存続の道も一応用意しておいたのよ。具体的には人類のトップたるニンゲンが己の意思で服従すること。あんたのことよ、威子口空。けどね、あたしがニンゲンの醜さの一部始終を存分に仲間へ送りつけてやったから、きっと方針転換が為されて宙の羊飼いすら殲滅対象にされたんじゃないかしら。いいえ、絶対にされたわ。所詮は同じニンゲンだもの。残しておくと危険だわ」

 ソラは不満そうな顔をして、軽く眉を顰めている。金枝の口が笑った。

「そんな顔しても駄目よ、ニンゲンのメス。既に宇宙全体で、ニンゲン包囲網が形成されつつあるんだから。宇宙のあちこちに散らばってるあんたらは、各個撃破されて簡単に滅ぶでしょうね。何しろ協調性がないんだもの」

「なるほど、回答頂きありがとう。もう、死んで下さって結構です」

 ソラは席を立ちながら、金枝の中の者に告げた。

「そうはっきり死ねと言われると、居座りたくなるわね」

ヴシャペトレ人の思念は捻くれた言葉を残すと、金枝の口を解放した。

 ソラは強い口調で言った。

「尋問班、ご苦労様。医療班、金枝君の足の手当を」

 黒ずくめの人々と入れ替わるようにして白衣を着た医療従事者が現れ、金枝の応急手当をいそいそと始めた。


会議室の中央で鈍く光る銀色の空間共有装置。プラネタリウムの映写機に似たそれは、威子口邸にいるソラや木星の威子(いし)口(ぐち)灸(やいと)、彼方アンドロメダ大銀河で軍事指揮を執る威子口海斗を同じ空間で引き合わせていた。ソラはゴシック調の白いブラウスに黒のスカート、海斗は紺のスーツ、灸は着崩したワイシャツに黒のズボンという出で立ちだった。

「やっぱりヴシャペトレの野郎だったんだな」

 金枝の内部にいた者の話をソラがすると、灸は拳を叩き、席を立った。

「ソラちゃん、待ってろ。今すぐ木星の戦力集めて月の馬鹿共へ殴り込みに――」

「灸。ソラちゃんではなく『御当主』だ」海斗が広い額を擦りながら言った。

「いいんです、海斗叔父様。灸叔父様、それには及びません」

 ソラは淑やかだが芯のある声で言った。

「宙の羊飼いは私の、威子口の屈服が狙いです。それが、ヴシャペトレ人から課せられた人類存続の条件らしいから。地球を攻めるだけなら、既にやっている筈」

「じゃあ、ソラちゃんが降伏しなければ問題ないって言うのか? このままにしておけるかよ、月を取られたままで」

 熱くなる灸を海斗が宥めた。

「灸。まず奴らがどうやって月を占領したか考えてみないか?」

「そんなのは分かってるぜ。百年前の月面転送事故で発生した空間の裂け目。あそこから侵入したんだ」

「恒星『WASP―三九』付近と偶然繋がったワームホールか。やはりそうなるか」

 海斗が沈んだ声で言う。ワームホールについてソラが汲んだ。

「犬で実験したら、十匹中三匹は体が捩じれて死にました。ですから移動手段の利用をイシグチグループは断念しています。もし、あの路を用いたなら羊飼いは三割前後、あるいはそれ以上の兵士を最初から失っている可能性が高い」

「奴らは使い捨ての駒だ。ヴシャペトレからしたら何てことはないんじゃねえか」

「それで一部の羊飼いは、ヴシャペトレに対し不審感を抱いた可能性があります」

「だからなんだ。裏切りを仕向けようって言うのか? まあ無理だと思うぜ」

 ソラは灸を直視した。

「灸叔父様。太陽系の戦力を集結させ、勝つのに充分な戦力を整えて下さい」

 灸は肩を竦めた。

「それはだいぶ時間がかかるが、いいのか? 万全の状態で挑むなら一か月。いや、もうちょいかかる」

「耐えます」

 ソラは快活に返す。海斗が低い声で唸った。

「私は心配だ。宙の羊飼いは君の心身を抉ってくるに違いない。ノアの爆破映像はその第一弾に過ぎんだろう」

「私も同意見です」とソラ。

「ソラちゃん。俺が来るまで、ちゃんと耐えれるんだな? 何をされてもだ」

 灸が念を押す。ソラは涼やかに頷いた。

「私が降伏しなければいいだけの話です。ところで、海斗叔父様。ヴシャペトレの人類包囲網についてどう思われますか?」

 海斗はふぅと息を吐くと、堅苦しい口調で言った。

「御当主の言うように、ドーピシアとガッタリコ以外の異星人も怪しい動きを見せ始めている。もし本当に包囲網を敷かれるようなことがあれば、種の存続すら危うい」

「人類同士、互いに手を取り対抗していかなければいけません」

 ソラが均整の取れた指で灰色のテーブルをトントンと叩いた。

「海斗叔父様。どうすれば私達人類は結束できると思われますか」

「うーむ」

 海斗は両手を重ね、しかめっ面で虚空を睨んだ。

「人類の生息圏は今や広がり過ぎている。星毎に愚かしくいがみ合っているのが現状だ。何か分かりやすい、共通する危機感を煽れれば、あるいは一時的に共闘出来るかもしれない。それこそ、人類包囲網が出来上がれば、あるいは」

 海斗の発言に灸は気のない口調で言った。

「それはどーだろな。包囲網なんて個々で一点突破すりゃ良いとのたまう連中が出るに決まってる。グレースを攻略された後、親父が潔く防衛ラインを下げたおかげで大きな敗戦には繋がってないだけって言うのに、未だに余裕こいてる連中がわんさかいる」

「灸叔父様は何か作戦が?」

「いいや。具体的な案はなんも。ただ、頭の固い爺共の脳味噌を強く引っ叩けるようなインパクトがねーと人類全体の結束はないと思うんだよ。人類包囲網が敷かれるのを待つ、なんていうのは断固反対する」

「それは私も同じだよ、灸」海斗は静かな口調で灸と同調した。

 ソラは言った。

「ヴシャペトレ人の残留思念の言葉が本当なら、宙の羊飼いも殲滅対象に入った可能性があります。太陽系にヴシャペトレの艦隊が襲来する可能性も視野に入れ、灸叔父様には戦力編成をして欲しいのです。それから――」

「ちょっと待った、ソラちゃん。なんか、焦げ臭くねえか?」

 怪訝な顔で灸が周りを見回す。

「……いえ。特に何も――」

「ソラ様!」

 若いメイドが会議室の扉を開け、勢いよく中へ入ってくる。ソラの目が微かに大きくなった。扉の外には、おろおろするメイドが何人も控えていた。

「どうしたのです、一体」

「お屋敷全体が、燃えてます!」

 メイドが泣きそうな顔で言った。扉の外のメイド長が言いにくそうに口を開く。

「威子口の会議中に大変、ご無礼を致しました。火の手は、まだそこまでですが――」

「何故早く言わない」

 ソラは若いメイドの手を引くと、会議室を飛び出した。


金枝は、リムジンの後部座席で頬杖をつき、ホルスのことを考えていた。

 金枝は約束通り、ヴシャペトレの精神体を殺害した。

『それ』は頭の口からサーベルを抜き、金枝に「これで刺せ」と手渡していた。『それ』は、自身の体内で回遊する十字型の心臓を両手の指で皮膚から絞り出すように示した。それを、金枝は突いたのだ。

『それ』が白い泡となって溶けたのを見届けた後、金枝はホルスのことを揺すった。ホルスは目を覚ますことはなく、そもそも生きているかどうか分からなかった。

なので金枝は諦めた。

金枝の家の前でリムジンが停車する。運転席の北形は溜息をつくと、「何で私が」とブツブツ文句を言っている。

金枝はぎこちなく車を降りた。朝に拉致され、拷問に遭い、東京の病院で前歯を補完し両足の爪の再生治療を終えてからの帰宅。既に陽が傾いて、辺りは暗くなっている。

「待て」

 鞄から鍵を取り出す金枝は、振り向いた。北形が音もなく背後に控えていた。

「金枝。お前の家の住人は何人だ?」

「何でそんなこと聞くの」

「何人かと訊いている」

「俺と両親と姉」

 北形は息を吐くと、片腕で金枝をどかし、ドアノブに手を掛けた。

 カチャリ。

 開いたドアの隙間から黒い手が伸びる。北形はあっという間に家の中へ引き込まれた。激しく揉み合う音。そして、寂寥。金枝が呆気に取られていると、再びドアが開いた。

「金枝、車に戻って鍵を閉めてろ」

 北形は厳しい表情で言った。真っ暗な玄関には、見知らぬ男がぐったりと伸びている。手には刃先を折られたナイフがあって、柄ごとテープでグルグル固定されていた。

「何なんだよ、それ」

「今から確かめる。車内にいろ」

 北形はバタンとドアを閉めた。


「遅いなァ」

 金枝は腕時計を見た。既に五分経っているが、何かが動く様子もない。次第に金枝は腹が立ってきた。何故、自分の家の前で待たされているのか。

 北形の言葉を無下にして金枝は帰宅した。薄暗い家の中には、見知らぬ大人が何人も転がっている。気絶しているだけの者もいれば、瀕死の者もいた。金枝は己の首元を手で擦った。自分の家なのに、息が詰まる。棚の上にいつもあった家族の写真立てが、床に落ちて割れていた。まだ夕方なのに雨戸が閉まり、家の電気は消えている。そして、咽返るような亜鉛の臭い。それが金枝の鼻の奥を突いた。子供の頃、雨上がりの日の学校の鉄棒で顎をぶつけた時の赤錆びた鉄の臭いが金枝の脳裏で蘇り、弾けた。

「北形……?」

「金枝、来るなと言っただろ」

 不意にぬめりとした床で足を取られ、金枝は転倒した。右手にべったりとまとわりつく、常温の黒い液体。顔を上げた金枝は見てしまった。朝まで生きていた自分の家族が、椅子に縛られている。誰が誰かは体型で分かった。挽肉から見える白い骨。三人とも顔はザクロのように潰れて形を保っていない。ハンマーか何かで嫌という程叩かれたのか、三人の血痕でダイニングは血の海と化し、天井まで跳ね返っている。激しく飛沫した赤い雫は粘度が高く、垂れそうで垂れずにそのまま天井で留まっていた。

「舌を切られ、鈍器で殴られたらしい。金枝、残念ながらご家族は……」

「……見りゃ、分かる」

 血を吸った靴下で立ち上がり、唇を濡らすと、金枝は無表情で言った。

何か、違和感があった。それが何なのか喉奥まで出かかっていたが、頭にロックがかかったように身体が認知を拒んだ。

金枝がぼーっとしていると、

「大丈夫か。金枝、襲ってきた輩の胸ポケットに、これがあった」

 北形が見せたのは観返教のシンボルマーク『スキンヘッド頭』の描かれた特徴的なピンバッジだった。

「何で、観返教が……」

 金枝は口を噤んだ。小間口伊穂の顔がふっと浮かんで消えた。

「自分の娘が船に乗って爆死した事への復讐か……? 俺が、ソラの婚約者っていう理由だけで」

 金枝は苦い唾を飲み込んだ。

「そんなの、ソラにやればいいじゃんか」

 北形は突然金枝の手首を掴むと、足早に歩きだした。

「おい、なんだよ」

「お前の言う通りだ。お嬢様が危ない」


 リムジンの中で北形はテレビを点けた。速報という白いテロップ、『威子口邸で火災』という文字。アニメから番組が切り替わり、マスコミのドローンヘリの中継が映った。大火で激しく燃え盛る威子口邸。それを何機ものドローンが真上から撮影していた。

「クソッ! 私は何やってんだ!」

 ブツブツと北形は恨み言を言いながらリムジンのアクセルを踏んだ。金枝の体が重力で背もたれに押し付けられた。

「危ねぇ。おい、どうすんだよ?」

「威子口邸に行く」

「いや。この燃え具合じゃ、中にいてもアレだろ」

「なんだと?」

 車内の空気が険悪になりかけた時、助手席に無造作に置かれた北形の携帯端末がブルブルとバイブした。


 港区六本木にあるイシグチグループ本社ビル。通称イシグチタワーは天空に居を構えるように、東京タワーより僅かに低く都内を見下ろしていた。連峰三棟で形成されたそのタワーの内、中央棟地下のだだっ広い駐車場で威子口家のリムジンが停まった。

「家に行くのはやめたのか?」

 バタン。湿気た暗曇色の空間にドアの閉まる鈍音が反響する。

「知らん。本社から緊急連絡が入った」

 北形は素っ気ない調子で歩いていくと、カードキーをパネルに翳し、エレベーターを呼んだ。

 到着した赤色の鉄匣に乗り込む。北形は今度はエレベーター内部の機械の凹凸にキーを咬ませ、四十四階のボタンを押した。


 チン、快活な音と共にドアが開いた。高級ホテルの廊下のような場所に金枝らは出る。北形は通路奥のドアの呼び鈴を鳴らした。

「どうぞ」

 若い女性の声と共にドアのロックが解除される。

 ドアを開いた先には開放的な居住空間が広がっていた。

入ってすぐ右手には日中陽射しに困らない、今は真っ暗なベランダがあって、熱帯の観葉植物が元気よく葉を広げている。床はひんやりとした堅い白黒の大理石。リビングとダイニングは分かれておらず、併せて五十畳はあった。玄関から横に長いリビングにはミルク色の高級ロングソファ。壁には最新鋭のバーチャルテレビが貼られている。リビングから十一時の方向には廊下が続き、そこから寝室とボイラー室に行ける作りになっている。三つある寝室にはどれも曇りガラスの浴槽付きシャワールームを有し、そして当然のように皺一つない清潔なキングサイズベッドが備わっていた。にも拘わらず、側転が悠々と出来てしまう空間の余裕まであった。ダイニングには古風な木のテーブルが置かれ、カウンターの角を曲がると冷蔵庫やシンク、食器棚等が見て取れた。三人や四人家族ではちょっと広すぎる、そんな生活空間がそこにはあた。+

 インターホンの傍にいた若いメイドがペコリとお辞儀する。

「金枝様、北形様。どうぞこちらへ」

二人がスリッパを引っかけて歩いていくと、一番奥のモダンな寝室に通された。大の字でも手足のはみ出ないベッドの白いシーツ上には、ごろんと寝転んで経済学の本に浸る威子口空の姿があった。

「ああ、お嬢様。ほっとしました」

 北形は嬉しそうな声をあげたが、すぐに声色を変えて頭を下げる。

「申し訳ありません。このような大事に、何のお役にも立てず……」

 ソラはぱたりと本を閉じると、ベッドから緩やかに下りた。いつも結っている黒髪を自由にさせ、バスローブを纏い、肌はいつも以上に白く透き通っている。

 金枝は渋い顔をした。

「風呂上りかよ。放火されたのに、ずいぶん呑気なもんだな」

 しかめっ面の金枝と、平静の落ち着いた様子のソラが対峙する。

「なあ。俺の家族、殺されちゃったよ」

漏らすように金枝は言った。

「三人とも、顔が、グチャグチャにされてた。観返教の報復だった。小間口さんのアレで」

 ソラは微かに表情を変えつつも、それ以上何も言わず金枝を見つめている。金枝は歯の奥に物が挟まったような顔をしていた。

「ねえ金枝君」

 ソラが訊ねた。

「ご家族が亡くなって、どう思った?」

「どう、思ったってお前」

「死体を見て、何か感じた?」

 硝子細工のように透き通るソラの両眼が、金枝を鮮やかに見ている。金枝は、自分の心につけ込まれるような感触がして胸の辺りが苦しくなった。

変わり果てた家族の亡骸を目にして、自分は何を思ったのだろう。怒り、悲しみ、あるいは無だろうか。改めてその時の状況を脳内で辿った。そしてようやく金枝は、自分の抱いていた違和感に気づいた。

金枝はごくりと唾を飲み込む。さらりと言葉がついて出た。

「俺は、安心した。『ああ、自分じゃなくて良かった』って」

「亡くなった御家族に対しては?」

「……なにも。だって死んでるんだぜ? 死んだら、どうもこうもない。死体に抱きついて生き返れと泣けばよかったのかよ。あんなグチョグチョのそれに触りたくない。生き返りようがない」

「じゃあ、観返教についてはどう思ってる?」

 ソラは、微かに己の声を震わせながら訊ねる。金枝は眉を怒らせた。

「そんなの、さっさと潰れろって……。信者を利用して俺達に復讐する気なんだろ? あんな終末宗教、早く無くなれ。ソラ、なんとかやれないか?」

 直情的な返答。ソラは心内を隠しながら、金枝へ歩み寄る。ソラは物言わず右手を差し出した。金枝は僅かに迷ったが、プラスの意味に捉えて握手を交わそうとした。

 あっと、金枝の口から声が漏れた。ソラの掌を握った刹那、彼女の合気道術に見事嵌められ、百八十ある金枝の巨体は赤子の手でも捻るように握手の腕ごと下方へ引っ張り落とされると、そのまま床に跪いた。ソラは喜悦に浸りながら自分の足元に蹲る金枝に上からぎゅうっと抱きつくと、「威子口らしくなった」と、耳元に囁くのだった。

「それは、ホルスのせいで――」

 金枝が戸惑いながら言う。ソラは金枝からぱっと離れると、「違うよ」と返した。

「ホルスは寝てるんでしょ。今は文句なしに君の身体だ。それに私は以前の君より、今の君が好きなんだ。でなかったら、君を保護せず観返教会に差し出している」

 金枝は気持ちがまとまらなかった。家族が死んでも悲しめなくなった自分を認めたら、全て終わってしまう気がした。

「金枝美糸はもう引き返せない所まで来てるんだよ。知らなかった?」

金枝の気持ちを見透かすようにソラが言った。

「異星人に寄生され、私を脅して婚約者になって、結果的に家族は殺された。宗教団体から命を狙われているし、近い内に人類が滅びようとしていることも知ってしまった。これからは一般席ではなく威子口用の席で人類の行く末を見るんだ。それが君の今後の予定だ」

ソラの「そろそろ着替える」という一声で金枝は北形に無理やり立ち上がらされ、部屋を追い出された。

 

 宙の羊飼いによる電波ジャックが為されてから三日後。朝の六時を過ぎても外は薄暗かったが、計らずも金枝の目は開いた。目覚める直前、妙な胸騒ぎを覚えていた。それが、外でひっきりなしに鳴っている終末の音のせいだったのか、それとも夢の延長線なのか金枝には分からない。ただ、のそりとベッドから起き上がり、スリッパに爪先を滑り込ませて、ふらりと部屋を出た。

リビングのカーテンが揺れていた。灰色をした朝の空が鈍光を湛え、室内を微かに照らしていた。そして、パジャマ姿の威子口空の後ろ姿がベランダにある。金枝はどんよりとした睡魔を飲み込むと、スリッパのままベランダに出て、ソラと同じく手すりに肘をついた。ソラの物憂げな眼差しは青灰色の虚空に向けられている。

「よう。この三日間、忙しかったんだろ。全然会わなかったな俺ら」

 金枝の声は聞こえている筈だったが、ソラは湿った風を正面に受けながら、淀んだ早朝に身を預けている。

「ニュースで見たぞ、観返り教の本部を警察が取り囲んでるところ。幹部は一斉逮捕、観返り教は消滅。教祖の潜伏先も絞り込まれているというし、あっけないもんだよな、威子口の手にかかれば」

 骨の芯まで震わせる明瞭なアポカリプティックサウンドが前触れもなく鳴り渡った。その残響は青灰色の天空から六本木の路地裏まで深々と巡り消えていく。

金枝は少し間を置いて、独りで続けた。

「地球外への避難要請で未成年者は手あたり次第、火星と金星の定期運航船に無理やり乗せられ、退避させられてんの。いくらなんでも、強引じゃねえか?」

 ソラは横目で金枝を見やると、「金枝君は――」と言いながら、ぬかるんだ朝の世界に再び目を向けた。

「この三日間、どう過ごしていた? 最後の平穏な日々になるかもしれない、この三日間を」

「特には。部屋にあった本で暇を潰してたよ。威子口タワーから出ることを禁じられてたからな」

 金枝はつまらなそうに答えた。

「何か、面白い本には出会えたか?」

 金枝は一瞬迷ったが、正直な感想を言った。

「いや、全然。ぱっとしねえ」

「まあ、そんなものだよ」ソラは気分を害すどころか、ふっと頬を緩めた。

「自分に合った本なんて、十五冊に一冊あれば良い方だ。その中でも特に、他人から勧められた本だとかレビュー評価の高い本というのは、期待値が上がって駄目なんだ」

 ソラは軽く息を吐くと、右肘をついたまま金枝へ体を向けた。

「実は、宙の羊飼いと取引をしていた」

「あいつら、応じないって言ってたのに?」

「それは人類の命運に関してだ。私は、人類の代表たる威子口空が東京に留まることを条件に、地球を離れる宇宙船への攻撃はしてくれるな、という取引を持ち掛けたんだ。向こうも承諾してくれたよ」

「……へえ? だから、子供から優先して逃がしてるのか。攻撃されないから安心だと」

 ソラは左腕を持ち上げ、精巧な腕時計のようなものを見せた。

「何だよそれ」

「宙の羊飼いから贈られた交信機器。命令のまま昨日から付けているんだ。GPSの役割も担っていて、私の位置は奴らに筒抜けという訳だ」

「大丈夫なのか、そんなの付けてて」

「どうだろう。少なくとも、あまり好い気はしない」

 ソラは曖昧な顔のまま小さな笑みを零した。

「……ところで、君はこれが気になって起きたんじゃないのか?」

 ソラは小首を傾げ、上空に鳴り響く不穏な終末の音に右耳を向けた。

「羊飼い曰く、今日が人類降伏の期限日だそうだ。当然私は屈しないから、彼等が何かをしてくる可能性が高い。そう思って、私は朝ぼらけの刻からずっと起きて、薄明の空を眺めていた」

「ヴシャペトレ人からすれば宙の羊飼いも人間であって、殲滅対象に入るってはっきり言ってたんだぜ、奴ら。そのこと、宙の羊飼いには伝えたのか?」

「うん。君の口を介して語られた話等は全て、月に映像で送ってやった。だけど期待薄かな、やはり」

 ソラは気怠げに、デフォルメされたハリネズミの描かれた自分のパジャマを引き延ばすようにして肩甲骨へ手を回すと、きめ細やかな指の爪先でカリカリと背を掻いた。

そんな時。

 クヴァワーァァン……。

今まで聞いたことのない、地殻に亀裂が走ったような不気味な空鳴が早朝の寒天を駆け抜けていった。金枝は得も知れぬ不安定な気分になって、思わず腕を擦った。

「ソラ。もう室内に入らないか」

「金枝君、見て。白霧だ」

 薄灰色の都内に発生した濃霧は六本木の高層ビル群を掻き消していき、とうとう二人の視界を奪った。見通せる距離は一メートルほど。その先は濃い白が漂う。異世界に迷い込んだような、奇怪な光景の真っただ中に二人はいた。

「金枝君。君は『ミスト』という映画を知っているか?」

 ソラは霧に揉まれたベランダで楽しそうに腕を組み、金枝に問いかけた。

「あるいは『ザ・フォッグ』でもいい」

「ミストは知ってる。スティーブンキング原作の」

「そう。霧に紛れて気色の悪いモンスターが襲ってくる、後味の悪い古典映画。もう六回もリメイクされてる。『ザ・フォッグ』はジョン・カーペンター監督作品で、悪人に貶められ殺された人々が死霊となって濃霧の日に蘇り悪人の子孫たちに復讐をするという、まるでハリウッド版落ち武者の祟りのような、日本人の感性に馴染む映画なんだ」

 そう言ってソラは肩を竦めた。

「つまりだ。私が言いたいのは、霧というのは往々にして悪い兆候だ。室内へ入るか」

「だから俺が言っただろ」

 金枝は文句を垂れながら、ソラと共にリビングへ入り、ちゃんとドアを閉めた。

「お嬢様っ」

 リビングには青ざめた顔をしてスーツ姿の北形が待ち構えていた。

「北形、どうかした?」

「各地のレーダーに多数の反応有り。月から地球へ夥しい数の物体が襲来、約二十分後を予定しています」

「月からの侵略者って奴か?」

 金枝の質問に北形は一瞬むっとしたが、ソラに向けて言った。

「飛来物は、元々月が管理していたスペースデブリと思われます。大気圏で燃え尽きればよいのですが、おそらくは疑似的なメテオストライクになります。アジア一帯に相当な被害が及ぶでしょう」

「参ったな。月だと近すぎてグレースの防衛範囲外になる」

 ソラは深々と息を吐くと、玄関口のコートを羽織って廊下へ出た。金枝も急いでジャケットを羽織り後に続いた。

「どこ行くんだよソラ」エレベーターに乗り込みながら金枝が尋ねた。

「特殊災害対策会議室。宙の羊飼いを警戒して作っておいたんだ。稼働させてあるな、北形」

「はい、お嬢様。万全の準備は整えてあります」

「電話は繋がっているか。貸せ」

 ソラは北形から携帯端末を奪うと、朝に冷水を浴びせるようなはきはきとした口調で電話越しに指示を出し始めた。ソラ達が会議室に入る頃には既にアジア全域へ隕石襲来の報が知れ渡り、各々の国のミサイル迎撃システムが感度を高められていた。

 ソラは会議室にいる険しい顔をした大人達へよく通る声で告げた。

「アジア圏の国民の携帯端末にアラームで伝達。隕石襲来時の定型文その一とその三をコピペして繋げ、流して下さい。日本国民に対しては最新の健康状態を片っ端から無断収集」

「了解しました」

 左目が機械眼になっているオペレーターの男女が一斉に、空中に浮かぶ霧状パソコンのキーボードを操作し始めた。今の時代、自身の携帯端末に触れるだけで人間ドックへ行ったのとほぼ同じ情報が得られる為、ガン等の病気の早期発見が可能となり、また端末の操作中に万が一重大な身体異常が起きるようなら、自動的に最寄りの病院へ通報がされるので、心臓発作等の突発的な死亡件数も大幅に減少していた。

「隕石衝突で家屋が倒壊しても、端末握ってたら発見されやすいもんな」

「それだけじゃないけどね」

「ソラ様。日本各地の気象観測所から、緊急通信が」

「内容は?」

 オペレーターのパソコン画面を覗き込んだソラの眼が、素早い速度で動いた。金枝も別のオペレーターの画面を覗く。そして絶句した。

「北海道、東北地方で……植物が一斉に消失、恐ろしい速度で砂漠化が進行中。九州沖縄では豪雪が止まず、畿内では気温が、五十度まで上昇……? マジかよ」

「いかにも終末という感じだ」北形が眉間に皺を寄せて呟く。

 戦々恐々の面持ちのオペレーターの一人が、おずおずと口を開いた。

「あの、ソラ様。もし、これが事実ならば、宙の羊飼いの科学力は我々のそれを遥かに超えています。もう、神に等しい存在なのでは……」

 畏怖の念に駆られる会議室内。その中で、人類の頂点に立つ齢十六の少女は周囲に感化されることもなく、結われていない豊かな黒髪を払い、背中に流しながら飄然としていた。

「そうね。灸叔父様の手綱を引いて正解でした。常駐戦力で突貫されていたら目も当てられない事態になっていたと思います」

 ソラは腕を組むと尋ねた。

「国外で異常気象は? こういった現象は起きていますか?」

「いえ。今のところ報告はありません」

「……もし、彼らが本当に神と同格の存在であるならば――」

 オペレーターの返答を受けたソラは、少し間を開けてから芯の有る物言いをした。

「地球全体で一斉に異常気象を起こす筈。その方がこの星をカオスに貶められるのだから。では、どうして日本限定なのか」

 ソラは会議室の大人達の顔を見やった。

「それは、日本という狭い国土を弄るのが彼らの限界だから。恐るるに足らず、必要以上はね」

 そう言って、ソラは可愛らしくウィンクした。それだけで、会議室に伝播していた動揺はふっと途切れ、何処かへ紛失する。こんな風に場を支配してしまうソラの言動を金枝は学校内で幾度も目撃していたが、その度に感心させられた。

 場の空気が安定する中、一人のオペレーターが告げる。

「日本へのスペースデブリの飛来が始まりました。間もなく、此処へも降り注ぎます」

 金枝は分かりやすく顔に不安の感情を浮かべた。ソラは「まあ見ていろ」とミルク色のカーテンを開く。晴れた日なら都の街並みが一望できるはずだった。しかし、今はただ深く濃い白霧に飲み込まれ、六本木は視界不良だった。

「何も見えねえよ……あっ」

 ピカリ、と緑色に何かが光る。まるでプラズマ現象のように、あちこちで緑の光が弾け飛ぶのが霧越しでも分かった。

「なんだあれ」

「威子口タワーは防衛機構を搭載している」

 ソラは得意げに答えた。

「グレースと同じ原理で動く小型機械を北東と南西の地下に埋めてあるんだ。防衛機構が向かってくる飛翔物体を危険物と認識し、分解する際に放出される光が、ああして霧の中で光る。この塔は威子口家の象徴だ、そう簡単に壊されてたまるか」

「さすが威子口だ、もうすごい」

「何を言ってるのか。君も威子口だろう」

 ソラはこめかみを人差し指で擦ると、空いた席に腰を降ろして霧中の緑の閃光を眺めた。

それから五分もしない内に発光現象は終わったが、また切羽詰まった問題がソラの下に届けられた。

「え、渋谷の人間がゾンビ化したの?」

 ソラが軽く目を見開き訊き返す。日本国民の携帯端末から自動送信された身体の状態をチェックしていた担当責任者は、酷く青い顔をして報告した。

「此れまでに送られてきたデータから、現在渋谷にいる人間全てにゾンビ化の兆候が見受けられます。これ程までに大規模なゾンビ化現象は、俄かに信じられないでしょうが、しかし本当のことです」

 報告を受けて、ソラは初めこそ難しい顔をしていたが、やがて諦めたような溜息をついた。

「関東だけ濃霧で済むとは私も思っていませんでした。では、今すぐ渋谷区を封鎖し、その上で渋谷全域を爆撃します」

 しんと静まる会議室。ソラは気に留めず颯爽と立ち上がり、待機中だったオペレーターの横からパソコンを操ると、国防省にリモートを繋いだ。

「そ、ソラ様。これはこれは。ご機嫌麗しゅうございます」

 待ち構えていた白髪痩躯の男がかさついた右手で帽子を取り、霧状モニター越しに頭を下げる。ソラは容赦せず言葉を放った。

「栄田防衛大臣、今すぐ渋谷一帯を上空から戦闘機で爆撃してもらいたい。その用意はありますか?」

「あ、はい。それは……。え、ですが」

「これは命令です。渋谷はゾンビの街と化しました。一秒でも早く爆撃し、焦土にして下さい」

「り、了解ですソラ様」

 狼狽えながらも大臣は了承した。ソラはさも当然のように頷くと、更に注文をつけた。

「爆撃を実行する者は人工知能ではなく、人間にやらせて下さい」

「わざわざ、人力で? しかし今、都内は霧が立ち込めている状況でありまして……」

「ええ知っています。パイロットは日本で最も優秀な人間を選びなさい。年齢と階級は無視し、操縦技術と度胸と勘のある者を任命すること。分かっていますね、大臣。これは東京の命運をかけた闘いの一幕です。早急に任務が完遂されなければ、貴方の命すら危ういという覚悟を持って挑みなさい」

「は、かしこまりました」

 慣れた手つきで敬礼する栄田大臣との通信を切ると、ソラは不満げに天井を仰いだ。

「……北形」

「はい、お嬢様」

「今の男は、優柔不断だな。私自ら実行部隊と話がしたい」

「それでは、国防軍入間基地に連絡を入れてみます」

 ソラの細かな指示が功を奏したのか、濃霧下での渋谷爆撃はゾンビ化の報告から僅か三十七分後に遂行され、渋谷区は寸分の狂いもなく火の海と化した。

 爆撃が完了したとの報告を受け、ソラの顔は微かに翳った。

「ふう」と息を吐くソラに、

「ソラ様。宜しければお茶を」

気を利かせた女性オペレーターの一人が二人分の湯呑を盆に載せて運んできた。茶髪にショートカットの小綺麗な女性に金枝はお礼を言って、熱々の茶碗に手を翳し温まる。ソラは何も言わず、湯気の立つ湯呑の中で揺らぐ透き通った若草色の液体を見つめていたが、やがてオペレーターと目を合わせヌメリと唇を動かし言った。

「私はいらない。代わりに貴女が飲みなさい」

 カタカタ、カタカタと音が鳴った。金枝は違和感を覚え、軽く顔を上げた。湯呑を運んできてくれた女性オペレーターの指が震え、爪が盆に当たっている。女性の顔色は一切消え失せていた。

「北形!」

 ソラの鋭い声に女性オペレーターはお盆を落とした。彼女は茶髪を揺らしながら、流れるように空いた右手を上着のポケットへ突っ込む。そして、取り出したレーザーナイフの電源を押した。

ソラの声に反応した北形は会議室の白い長テーブルへ飛び乗ると、両膝をついて態勢を安定させ、右腕を垂直に不審な女性へ向けた。北形の右掌の真ん中は冴えた音と共に開口し、露わになった白金属の機械穴から青白い光弾が放射される。レーザーナイフを振り上げた女性の右手は高速の光弾を食らうと、握りしめていた光短刀の紅色の刃は光となって砕け散り、更には親指の第一関節と人差し指の第二関節までが吹き飛び宙を舞う。場が騒然となる中、オペレーターの女は北形と、後から駆け付けた黒服に取り押さえられた。金枝は茫然としながら、手元の湯呑を横にどけた。

「こいつを連行しろ」

 北形は手の穴を閉じながら黒服に命じる。女は恨めしそうにソラを睨みつけると、強く歯軋りをした。黒服達が色めき立つ。

「奥歯に毒を仕込んでやがった。医務室へ運べ!」

女は口は、陸に揚げられた小さな蟹のようにぶくぶく泡を吹いている。彼女はそのまま引き摺られ、会議室から除去された。

「お嬢様、お怪我は」

「大丈夫。多分お茶に毒を入れられていた。危うく飲むところだった」

「そっちは?」

「俺も飲んでない」

 金枝の返答に北形は肩を竦めると、黒服に湯呑を処分させた。金枝が言うより早く、「観返り教徒でしょうね」とソラがささやく。

「よく、気づけたな?」

 金枝は尊敬と畏怖の眼差しでソラの顔を見つめた。

「もしかして、タイムリープでもしてんの?」

「私にそんな能力があったら、もっと上手く立ち回ってる」

 軽口を叩くソラだったが、表情から疲弊の色が隠せなくなっている。北形は気遣うように口添えをした。

「お嬢様、一旦休まれてはいかがですか。暗殺未遂に遭ったのですから、誰だって平気ではいられません。残りは官僚共に引き継がせます。それに灸様や海斗様だって指示は出せるのですから」

「そうしろよソラ。夜が明ける頃から起きてたんじゃないのか?」

 ソラは一瞬迷う素振りを見せたが、力なく微笑んだ。

「正直、気を張りすぎていた。そのおかげで死なずに済んだけれど」

 時計の針はいつの間にか八時を指していた。

「私は、朝食を取ります。皆も今の内に何か腹へ入れておいて下さい」

 ソラが席を立つと、会議室内で自ずと拍手が起こった。ソラは北形にしっかり守られながら会議室を出ていく。そうなると金枝は居づらいことに気づいて、しれっと後を追った。

「おいソラ。まだ俺に謝ってないことがあるよな」

 エレベーター内で金枝は問い詰めた。

「うん? 何かな」ソラはだるそうな顔で金枝を見返した。

「足の爪を剥がしたことだよ! 忘れたとは言わせねえ」

 金枝は苦い顔で片足をくねっと持ち上げた。

「治療してくれたからチャラ? そんなの通らねえからな。治療費、一千万寄越せ。いや、やっぱ駄目だ。威子口なんて一千万なんか、はした金だもんな。まず第一に誠意が無――」 

金枝の言葉は途中で潰れた。金枝はソラに壁へ押されると、勢いのまま唇を塞がれた。それはほんの数秒の出来事だったが、金枝は金縛りに遭ったように身じろぎ一つ出来なくなった。ソラは普通の顔をして金枝から離れると、「静かになったな」と軽く笑っている。  

エレベーター内の黒服達は無言だが気まずそうにしていた。北形はというと目を点にして、石像のように静止していた。

 何故こんな風にファーストキスを済ませるのだろう。あるいはソラにとって違うのかもしれない。この程度で拷問を有耶無耶にされていいのか。そうぼやくホルスの呆れ声が聴こえたような気がしたが、ただ一つ言えるのは、金枝は満足した。

 金枝は軽やかな足取りで四十四階の部屋に入った。頭をフル回転させて疲れたソラと対照的に、金枝は元気になっていた。

「なあソラ。なんかおススメの本を教えてくれよ」

 一直線で自室のベッドに寝そべりたいソラを金枝は呼び止めた。

「どんな本が読みたいの?」ソラがすぐさまレシーブを返してくる。

「そうだな……。一生に一度は読んでおくべき本とか、あるか? ほら、今って絶賛終末中だろ? ここ数日で命狙われてるし。死ぬ前に読んでおくような本が、急に読みたくなって――」

「金枝君。一生に一度は読むべき本なんて、この世に一冊とて無いんだよ」

 ソラはニヒルな笑みを浮かべて言う。

「一冊の本を読むより、毎朝何気なく食べているコーンフレークの方が人間の頭の栄養になるんだ」

「ずいぶん、本を見下した発言だな。結構本の虫のくせに」

「私は本は好きだよ。ただ、自分が見つける本と他人から勧められる本では感動も変わるものだ。何故そんな現象が起こるのか、読書をする代わりに少し考えてみたらいい。そこら辺の売れっ子作家が勧めた本のページをめくるより、遥かに有意義な時間を君は味わえるかも」

 ソラは欠伸を堪えながら、自室に入るなりカチャリと鍵を閉めた。金枝はムクムクと捻くれた反骨精神が心の中で湧いたので、自分も部屋に篭もると、ソラの禅問答のような提案を一切無視し、エレベーター内で味わった異性とのキスの感触を小一時間噛み締めた。

 ドン。ドン。大きな鈍い音がキッチンの方から聞こえた。金枝は大して警戒もせずベッドから起き上がると、ふらりと部屋から顔を覗かせた。

「金枝君。こっち」

 向かいの部屋のドアの隙間から掠れた声が金枝を呼んだ。ソラの瞳と目が合う。

「なんだよ、一体」

 金枝は廊下へ出て、キッチンの様子を窺った。のそりと大きなものが動く。それは、冷蔵庫を抱えたメイドだった。メイドは冷蔵庫のコンセントが引き抜かれても気にせず、何の前動作もなしに冷蔵庫を放った。質量のあるメタリックな巨塊。

――避けろ。

脳内に走る危険信号。金枝はソラの部屋へぶつかるように飛び込んだ。冷蔵庫は廊下を飛び去り、突き当たりのボイラー室にシュートされる。金属の拉げる悍ましい音が空気を引き裂き、床は衝撃でブルッと震えた。床に強かに体を打った金枝を、ソラは引っ張りあげると、素早くドアを閉めて鍵をかけた。

――死ぬところだったぞ、危ないな。

「ホルス、ホルスなのか? 何で――」

――接吻が効いたらしい。

「金枝君、ベッドを立て掛けて即席のバリケードを作る。手伝ってくれるか」

 切羽詰まった声でソラが言った。金枝は二度頷くと、ソラと呼吸を合わせキングサイズベッドを直立させると、そのままドアの前に宛てがう。

「何で俺達は殺されかけてるんだ?」

 金枝が苦い顔で呟く。

「あれは家政婦ロボット、私を火事から助けた個体だが、人工知能の反乱は典型的な終末現象なのに全く油断していた」

 ドアが突き破られる感触があった。続いて、キングサイズベッドの分厚いマットレスが恐ろしい力で引き千切られる。バリケードは今にも崩壊寸前だった。金枝はソラの手を取り、部屋奥の角を曲がるとシャワールームの鍵を掛けた。

「あまり意味がない」

 洗面台の前でソラは顔を軽く左右に振った。

「ちょっと安直過ぎ。クローゼットに隠れた方が良かったんじゃないか?」

 金枝は諦観するソラを半ば強引にユニットバス内に立たせ、自分も浴槽に立ちシャワーカーテンをピシャリと閉じた。お互い何も言わず、すとんとバスタブに尻をつけて体操座りになる。浴室に仄かに漂う二つの息遣い。外では暴れ馬が二、三頭はいそうな事物破壊の激しい音。それは着実に二人のいるバスルームへ近づいてくる。

――せっかく私が目覚めたのに、今度は君が死にかけるとは。

 ソラが金枝の左手をきゅっと握りしめてきた。浴槽の水溜まりで濡れた人肌の生温さが互いに伝わる。もしやソラは怯えているのでは。金枝は横顔を盗み見たが、その顔は至って平静、ないしは深く集中している様子だった。

 バコンとバスルームのドアが吹き飛び、カーテンが風圧で揺れる。ドアは剥がされた後もバネのようにビョンと小刻みに振動していたが、その活動も侵入者の靴に踏まれていとも簡単に事切れた。そして、さっとカーテンが開いた。

「ご無事ですかお嬢様」

 バスルームの侵入者が北形だと分かり、二人は深い溜息をついた。

「お、お嬢様! 何故。手なんて繋ぐ必要はありません!」

「北形、君が悪い。本当に死を覚悟したんだ」

 金枝の手の甲からサッと右手を離すソラ。機敏に立ち上がるとユニットバスを跨いだ。

「気味が悪いってよ」

「お前っ」

 金枝と北形はユニットバス越しに睨み合った。

「私が駆け付けていなければアンドロイドに惨殺されていたぞ。人体を引き裂かれて。少しは私に感謝したらどうだ」

「だって。ソラ、執事から文句があるとさ」

「お嬢様とは口に出さずとも判り合っているから良いのだ。私はお前に言っている」

「はいはい、ありがとうカッコワライ」

 バスルームを出た先の廊下には、黒く焼け焦げた人型機械の成れの果てがごろんと転がっている。部屋の中の物は完膚なきまでに粉砕され、ソラが隠れ場所に挙げた黒檀のクローゼットは原型も留められず前衛的なモニュメントのように激しく歪んでいた。


 始まった機械の反乱。正確にいえば、高度な人工知能を搭載した機械の暴走だが、加えて慢性化するゾンビの発生やスペースデブリによる物理的被害、各地の超異常気象。あらゆる災厄が重なった日本列島は今、終末と呼ぶに相応しい未曾有の土地と化している。

 威子口はすぐさま人工知能搭載の機械使用中止を日本政府に要請。政府はこれを了承した為、高度な演算能力を持ったコンピュータや対ゾンビ用に開発された汚染浄化戦闘車など人工知能が組み込まれたありとあらゆる機械は使用不能となり、日本国家は危機的な終末現象に直面しながらも旧時代の機械による対応を余儀なくされていた。

 世の中が狂い始めて一週間。時刻は十七時の手前。六本木を覆った白霧は、夕日の茜色と融合し幻惑的な黄橙色に色合いを変えた。ブラインドの隙間から差し込む特殊な黄昏の灯を肩に浴びながら、金枝は独りテレビを見つめている。場所は人っ子一人いない会議室。傍には敷布団。家事用アンドロイドにより四十四階の住居が破壊されてしまい、観返り教徒による暗殺の危険も考慮して寝床の変更を余儀なくされていた。

「日本は平和だなぁ。こんな時でも着ぐるみが天気予報やってるよ」

 正確には『お天気お姉さん』なる謎の存在がマスコットを従え、ヘンテコなステッキを手に持ち、日本独自に発達した天気予報をやっている。

――平和かどうか、外の様子を見ても言えるか?

 金枝は立ち上がると、こっそりとブラインドから威子口タワーの外を見た。

 橙色の夕陽光に焙られ、その日の霧はいつになく透き通り、全体は朱く輝いている。その為、金枝のいる三階からでもた大勢の観返り教徒の薄影が佇んでいるのが判った。その光景は不気味というほかなく、彼らは、幾ら警備員、あるいは警察が追い払っても翌日にはタワーの周りに戻ってきた。それどころか、日に日に数が増えている。威子口家の終末現象への対応に不満の募っていた人々が、抗議の名目で威子口タワー前に集まるようになっていた。彼らの多くは終末現象というより経済の機能停止に怒っていた。この一週間、あらゆる株価の下落に歯止めが利かないので経団連までもがイシグチグループに苦言を呈する始末だった。株式市場は一定まで下がると強制停止される仕様になっており一気に暴落することはないが、市場が開かれては強制停止、日付が変わってはまた停止を繰り返している状況だった。そもそも命の危険があり仕事どころではないというのに、片手に拡声器、もう片方に缶ビールを持ってわざわざ文句を吐きにきた熱心なサラリーマンの姿も外にあった。皆で集まり一緒に騒ぎたいだけの若者も大勢いた。本来そういった若者は渋谷に集まるのだが、渋谷の街があった場所は黒く焼け焦げ、未だ黒煙が燻っていた。

「ある意味、呑気だよな。なあ、ホルス」

――皆、終末に慣れて、動じられない体になっている。しかし、それがヒトというものだ。美糸クン、君だってアポカリプティックサウンドを怖がらないじゃないか。

 六本木の日暮れ空には丁度、夕焼け小焼けの五時のメロディに混じり細い金属パイプを風がすり抜けるような終末特有の奇幻な音が鳴り響いている。

「そりゃ、子供の頃から聞いてる音だし? どうってことないね」

 天気予報の画面が突如切り替わり、慌ただしいスタジオ内の様子が映った。老年のアナウンサーが正面に浮いたホログラム原稿を読み上げる。

「えー、たった今入ったニュースです。お台場に未知の機械が出現しました。鋼の巨体によって、付近の建物が破壊されたとのことです。台場付近の皆さんは落ち着いて、安全な場所に避難して下さい。それでは、現場と中継です。宇佐見さん?」

土気色になった若い男性アナウンサーが震える手でマイクを握る映像に切り替わる。

「こちら、お台場の宇佐見です!」

「現場はどういう状況ですか」

「……何もっ。何もありません!」

 アナウンサーの恐怖はスタジオには伝わらなかった。台場周辺は濃霧に包まれ、怪物の姿も被害の状況も何一つ分からなかった。ただ、遠くの方から、ドーン、ドーン、という鈍い爆裂音が聴こえてアナウンサーの声を掻き消している。

「宇佐見アナ、もう少し詳しく教えていただけますか」

「はい!」

 アナウンサーは声を張り上げた。

「えー、私もはっきりと全貌は見えていません! ただ、酷く大きな音! 最初は強い地震かと思いましたが、そうではなく。建物が潰れていくような悍ましい音が何分間も続いていましてっ。地形観測ボールを付近に放ったところ、多数の建物が倒壊している模様です!」

 宇佐見アナの横から「ドローンの映像繋げてっ」というカメラマンらしき地味な声。次いで、再び画面が切り替わり、今度は白霧の中を漂う小型ドローンの映像が再生された。

――なんだ、これは。

 黄金色の霧の中、ドローンが収音したのは身も凍る電動刃の凶音。刃のついた巨大な歯車が、高速で地上にある様々なものを巻き込み、引き裂き、砕きながら強引に回転する音が幾重にも重なり、台場の湾岸一帯に轟いた。また、何百トンもある船が激しく地面に叩きつけられるような重低音も、定期的に大気と地面を震わせた。おそらく、その巨大な怪物は、周辺のものを巨大な鉄板のようなもので物理的に叩き潰しながら、刃で轢き裂きつつ、ゆっくりと進んでいるであろうことが狂暴な音だけで理解された。ドローンが更に近づくと、鈍く輝く灰色のメタルな装甲が窺えたが、あまりの巨大さに全貌は不明瞭。ただ、送られてくる映像から何となく察せられるのは、それが百メートル超の、ヒトには到底製造不可能な殺戮マシンであるということだけだった。

 金枝はソラからの呼び出しを受け、特殊災害対策会議室に足を運んだ。重々しい会議室の空気を、金枝は元気よく破く。

「こんちはっ。怪獣が出たらしいですね」

 金枝は冷たい視線に怯むことなくホワイトボードの真ん前の席に座った。報告をしていた見るからに偉そうな国防軍の長官がゴホンと咳払いする。

「報告では、正体不明の鋼のデカブツはレインボーブリッジを破壊し、田町へ上陸した模様。このまま北西へ直進するルートを取ると思われ、ルート上の住民には最上級の避難勧告をしていますが、この濃霧も相まって混乱が予想されます」

 会議室が異様にざわついた。

「なあ、レインボーブリッジくらい良いじゃない。老朽化で問題になってる橋なんか」

 金枝の呑気な発言に、隣りにいたソラが脇を小突いた。長官が口髭を撫でながら渋い顔で言う。

「このままデカブツが直進するとなると、この威子口タワー三棟と衝突する。そうなれば、映画のゴジラに出てくる東京タワーのように真っ二つに折られてしまう。だから皆、慌てている」

「あ、そうなんですね。俺、東京の地理には疎いもんで。へへへ」

――馬鹿者。

 ホルスにまで注意され、金枝は不機嫌そうに腕を組んだ。

「しかし、このタワーにはグレースと同じ防衛機能が付いています。そう簡単に壊されるとは――」

 眼鏡のオールバックの仕事の出来そうな女性の発言に、涼しい顔をしてソラが言葉を被せた。

「いいえ、壊されます。グレースは既に型落ちですから」

 ソラの歯に衣着せぬ言葉に息を飲む声があちこちで挙がった。しんと静まった会議室でソラが滔々と話を続ける。

「鋼の怪獣は宙の羊飼いが寄越した刺客と予想されます。彼等のバックには厄介な異星人がいます。遠方でグレースを張った惑星が落とされているのは、その異星人の軍事技術が絡んでいるというのが威子口家の意見です。鋼の怪獣にも、グレースを破る何らかの手段が備わっていると考えた方が良いでしょう」

「で、では、我々も避難するべきでは……」

「どうぞ」

 そう言ってソラは会議室の出口を手で示す。会議室の面々は最初こそ躊躇していたものの、様々な理由をつけて会議室を去っていった。

 後には威子口の警備をする黒服二人とソラと金枝だけになった。

「ソラ。俺達も避難するんじゃないのか?」

「金枝君。君は男の子だろ。巨大ロボバトルを見たくないか? 特等席で」

 ソラは悪戯に白い歯を零した。

避難を促すサイレンが全フロアに鳴り響く中、二人を乗せたエレベーターは全てに逆行し、威子口タワーの最上階、展望台でウィンと軽やかに透明な口を開けた。

――北形雅も護衛もいないが、いいのか?

 ホルスの指摘を金枝が代弁すると、ソラはふっと目を細めた。

「金枝君は、護ってくれないの?」

「ま、護るとも」

「なんて冗談は置いといて。黒服達は既に避難させた。私の我儘に付き合わせるのは可哀想だからね」

俺だって可哀想だ、と金枝は思った。

半屋内の展望台は、冷たい風が身体をすり抜け、冬場はとても肌寒くなるが、その代わり都内を一望できる抜群の見晴らしという取り柄がある。が、関東一帯に停滞する夕霧に呑まれた現在は、東京タワーとスカイツリーの判別も叶わなかった。しかも赤金色の霧の粒子まで震える、万物の潰えていくような低く重たい音が丁度、六本木を襲っている。金枝が湿った手すりを握ると、微かに振動まで伝わった。金枝はあえて音には触れず、尋ねた。

「ところでソラ。気になってたんだけど、それ何」

「ああ、これ?」

 ソラは今気づいたように、エレベーターに乗る直前から胸元でずっと抱えていたジュラルミンケースを床に下ろすと、ブーツのつま先で蓋を蹴った。ケースはワニのようにパカリと上下に口を開けた。

中に仕舞われていたのは二台の、碧色をした精巧な機具だった。

「暗視ゴーグルか?」見た目で安直に金枝が訊いた。

「霧視のゴーグル。濃霧でも遠くまで見通しが利く特注品だ」

 ソラは積極的にゴーグルを装着して金枝に見せた。パチリと音がして頭部にベルトが巻き付く。いくら威子口空が容姿端麗な女子高生であろうと、それを付けた途端に怪しげな科学オタクのそれに成り下がってしまった。

「ほら。何のために二台あると思った? 金枝君、早く」

 ソラにどやされ、金枝は言われた通りにした。紺碧色のレンズ越しに見れば霧はすっかり濾され、東京の街は以前と変わらず平気な顔をして、そこに、無かった。

田町方面を仰ぐと、いつもの虹色でもなんでもない灰白色の橋は既に崩落し、海に沈んでしまっている。そして。

金枝の視界が止まった。

周りのビルよりも高く聳える巨大な怪獣が一体、あった。下半身は武骨なアイロン、上半身は西洋の処刑人のよう。見るからに頑丈な鋼の巨躯が日常を轢き潰しながら、ギシギシと、緩やかな速度で往く。回転刃のついた歯車を下部の地面との接地部に幾つも備え、それらは全てのモノを巻き込み、轢き刻んでいた。両腕は厚い鉄板のようになっていて、交互に街へ叩きつけている。それは文字通り、東都を潰し、平たくしていた。ひっきりなしに轟く重低音の正体は、破壊行為の副産物だった。頭部は甲冑のような形で、鋼鉄の仮面の暗がりから鮮やかな紅のモノアイが無機質に覗いている。

「地獄で生産された重機はこんな感じなんだろうな」

 ソラは興奮した声で言う。

「ソラ。俺はもう避難するわ」

 及び腰の金枝をソラは手で引き止めると、白シャツの胸元の無線機に呼び掛けた。

「北形。『ムゲン』を起動させろ」

 そう言ってソラは、もぬけの殻の国立競技場跡地を弧を描くように指差した。すると、競技場からふっと伸び上がるように光の粒子が飛散し、それらは舞い、人の形に集合を始めた。

「旧遺物のナノマシン技術を用いて、本来は人型の超大型ロボットにする予定だったんだ」

 ソラは濃霧を引き裂き形成されつつある光の巨人を見つめながら言う。

「しかし予算は膨れに膨れ、開発期間は一世紀を要した。曾々御爺様の代から三度の中止を経て完成した日本防衛の機人は、各人の夢を詰め込んだ結果ごてっとしてスリムではなくなったが、機能は保証する。史上最強だ」

 出現したそれは、人型と呼ぶには少し難があった。全長は百メートル弱。体は主に七色をしており、細い足の先からは三本の爪が突き出している。一応二足歩行をするが雷のように脚は曲がっており、ジャンプしても衝撃を吸収する仕組みになっている。上半身と下半身を接続する三本の臍の緒のようなバネは背骨の役目を果たした。また、バネの周りには炎と波と光が常時対流し、血肉の代わりを務めていた。胸には翼のようなV字の眩い光の盾と、その周りに二つの小振りの派手な盾が浮かぶ。両腕はなく、代わりに機人の右腕位置には氷と炎の二種の形質を兼ね合わせた巨大剣が刀身剥き出しで浮遊し、左腕位置には氷山のような棘を生やした赤紫色の頭に黒紫色の太首を持つ目玉の無い竜が鎌首をもたげ、口からバチバチと漏電を起こしていた。そんな仰々しい体躯の割に顔は簡素で、つるりとした兜から丸い黒目が覗き、口元は野暮ったいマスクで覆われていた。

「ムゲンは、全身武器なんだ」

 ソラは威子口製の巨大ロボットを嬉しそうに紹介した。

「全ての機能を話すと本当に一時間かかる。最大の武器は右手の剣でも左手の蛇でもなく、背中から生える虹色の大砲、その名も『プロビデンス・カノン』。見える? あれに撃ち抜かれれば、小さな衛星程度は木っ端微塵で――」

「んなことはどうでもよくないか」金枝は大げさに手を広げた。

「早く避難しようって、ソラ。こんな所で死んだら、洒落にならない。あの鋼の怪獣、こっちに来てるじゃねえか」

――それは私も同感だ。

「ほら、ホルスも言ってるぜ。早く非難しようって」

 逸る金枝は独りでエレベーターの下ボタンを押した。それとは対照的にソラはその場で腰に手を当て、仁王立ちになっている。

「まあ待て。さっきイシグチグループの社員全員に建物外へ避難するようアナウンスを流したから、どうせ今は下も混雑しているし、ここで時間を潰すしかないぞ?」

 実際、エレベーターはどれも来そうな気配がない。非常階段で降りるには時間がかかりすぎる。金枝は不承不承待つことにした。

「ソラ、あのムゲンとかいうロボット、人工知能は入ってないのか? もし暴走でもしたら……」

「ああ。機械の暴走防止の為に、コアを取っ払ってしまった。代わりに北形がコアとなってムゲンを操作しているんだ」

 金枝は少し同情的な目でムゲンを見た。光るナノマシンの集合体だったそれは今、完全なる一つのものとして東京の空を飛行し、鋼の怪獣の正面に降り立つ。鋼の怪物は相変わらず破壊活動に勤しんでいる。ムゲンは左腕代わりの紫の蛇を鋼の怪獣の右肩に咬ませた。

 バリッ、バリッ。電撃で大気が裂ける音と共に、レモン色の稲妻が夕空を駆け巡る。鋼の怪獣は癪に障ったのか、鋼鉄のアームをムゲンに振り下ろした。ムゲンの体を周遊していた盾が防御し、激しく火花が散った。衝撃で二つが仰け反る中、ムゲンは炎と氷結の大剣を鋼の怪獣の脳天に叩きつけた。

 東京の街をつんざく金属の悲鳴。鋼の怪獣は半身が熱で朱く輝きながら、もう半身はカチコチに凍り付いて、その周囲の大気は冷え、雹になり田町の街へと降り注いだ。

「見ろ、モノアイが明滅している」

 にこにこしながら観戦するソラだったが、鉄の怪獣は蒸気を噴き出し熱を吐くと、凍り付いた鉄腕を振り上げムゲンを突き飛ばした。

「ああ、そんな。北形、何してる。虹の大砲を使ってやっつけてしまえ」

「ソラ」

「今いいところ」

「ソラ、見ろよ」

 金枝はソラの頭のゴーグルを掴むと、半ば強引に左側へ顔を向ける。

「何が――」

 ソラは小さく口を開け、そして閉口した。

 新橋駅の方角に、百二十メートルはある人型の何かが立っていた。手足の長い、白いロングドレスの女性のようで、しかしその上半身は何十何百体もの大きな西洋フランス人形の首や胴体を寄せ集め、凝固し、形成されていた。恨めしげな金髪碧眼の人形らの怨念が全身に沸々と籠もっているような、決して生物とも機械とも呼べぬ、気味が悪い、呪いの具現化であり、戦慄すべき何か。

それはけたたましく甲高い笑い声を上げ、小刻みなテレポート移動で威子口タワーに近づいてくる。

「北形、新手だ。私を護れ」

 ソラの声に反応しムゲンはびゅっと飛行した。寸でのところで人形尽くしの怪獣の行く手を阻んだが、とうとう、威子口タワーのすぐ傍で戦闘が始まってしまった。

「ソラ!」

「逃げよう」

 二人は展望台を去り、エレベーターの前に立つ。硝子越しに、人形塗れの化け物とムゲンが容赦のない殺戮を繰り広げている。金枝は堪らず透明なエレベーターの下を覗いたが、匣は遥か下にあった。やきもきしながら待つ間、二人は気づいた。南東の上空から回転しながら飛来する、ヒトデ型の物体に気づいてしまった。

「ムゲンは? このままだと……」

 威子口ご自慢の機人は人形怪獣の白く長い手に絡まれ、身動きを封じられている。あっという間にヒトデの怪獣は威子口タワーに接近したが、不意にピタリと移動を止めて空中で静止した。

「グレースの防衛機能だ。通じると良いが」

 ソラは不安げな口調で呟く。全長八十メートル弱のヒトデは赤紫色をしていて、中央には蒼いコアがあった。サメのエラのような部位がたくさん有り、身体の半分は皮膚が剥がれ内部の骨のような器官が見え隠れしている。ヒトデはブルッと震えると、蒼いコアからマリンブルー色の光をドロドロと漏らし始めた。金枝とソラは咄嗟に耳を覆った。甲高い音が鼓膜を突き刺す。

「何だこの音ッ!?」金枝が顔を歪め叫んだ。

「多分、グレースが割れる音っ」

 ソラは苦いお茶を飲み下したような顔で返した。

 ぱっと、二人は耳が楽になる。それはまるで、耳に入っていた水が抜けたような感覚だった。金枝は安堵の表情で耳から手を離したが、反対にソラは顔色を失った。タワーのバリアが機能不全を起こし、威子口タワーが丸裸にされたことを暗に告げるものだとソラは悟った。

ヒトデの怪獣は光を吐くのを止め、とうとうタワーの目と鼻の先まで接敵すると、ビタンと五本の太い腕を外壁に回し、ぎゅっと抱きついた。タワーの丁度真ん中辺りにひっついた、ヒトデ怪獣。ソラと金枝は不安そうに視線を交わした。

 まず、硝子が一斉に割れた。次いでタワーそのものがミシ、ミシと軋む。金枝は吐き気がした。自分達のいる棟だけでなく、威子口タワー三棟が同時に拉げ、歪んでいく。今、威子口タワーは三棟ともヒトデの腕で抱き寄せられて、真ん中辺りでくびれ、歪にされていた。

 バキバキと階下のフロアが潰れていく。床が傾き始めた。

――これは駄目だな。美糸君、短い間だが楽しかったぞ。

蒼ざめたまま金枝は動かなくなった。

「金枝君、もうエレベーターは来そうにない。展望台へ行こう」

 ソラは金枝の腕に爪を立て、強引に展望台へ向かわせた。

「どうする気だよ、ソラ。非常階段で逃げようにも、こんな傾いて」

 そう言っている間にも、威子口タワーはガタン、と、何か基盤のようなものがズレた。とうとう、大海原を行く遊覧船に揺られているような平衡感覚の異常を二人は感じて、生きた心地がしなかった。

「北形、聞こえる?」 

 ソラが胸元の無線に鋭く声を吹き込んだ。

「盾を一つ、裏返した状態で屋上に向かわせて。それに乗るから、安全な場所へ運んで、すぐッ」 

ムゲンはぴくりと身震いをした。西洋人形の金髪から盾の一つを引き剥がし、念で屋上へ飛ばす。それは、窪みを夜空に向けながら、タワーに接触しないよう屋上に姿を見せた。

「金枝君、あれ。飛び乗れる?」

 崩落寸前の屋上でソラは訊いた。盾はビルから八十センチほど斜め下方向に離れ浮遊している。金枝はバランスを取りながら、余裕のない顔でかくりと頷いた。

「いくよ、せーのっ」

 二人は飛んだ。展望台の手すりを蹴り、青白い夜霧の只中へ真っ逆さまに落ちていく。それは二秒にも満たない滞空時間だったが、金枝には全てがスローモーションにようにゆっくりと感じられた。

「……あははは。はは、あはっ」

 ぺたりと盾の底でアヒル座りの姿勢のまま、ソラは過呼吸気味に笑っている。

――美糸君、君も笑ったらどうだ。助かったようだぞ。

と、ホルス。金枝は「冗談じゃねえ」と弱音を吐きながら、両手と奥歯ををかたかたと震わせた。程なくして、ゴオオオと尋常ならざる崩落の気配がして、威子口のシンボルは地に墜ちた。ホルスが安全を考慮し金枝の恐怖の感情を一切緩和しなかったので、金枝は外の景色を見るどころか飛行する盾の縁から指一本すら出せず、地上へ着くまではずっと体を小さく、ソラと身を寄せあい、盾の底で子鼠のように縮こまっているだけだった。


盾から這い出た金枝は、地面のありがたみを両膝と心で噛み締めた。ソラが軽やかに降り立ったところで盾は薄ら寒く青白い夜霧の中へと消えた。石畳の大通りに人影はまばらで、乗り捨てられたロードバイクが二台、通りの端に転がっていた。

「ここどこ。安全なんだ?」金枝は碧色のゴーグルで辺りを見回す。

「表参道だけど」

「へえ。それって、どこだ」

「六本木から表参道まで、タクシーで九百円くらいで行ける」

「じゃあ、全然危険じゃねえか。戦闘中の音が普通に聞こえるもんな」

「いいから来てよ」

 ソラは金枝の腕を取ると、つかつかと洒落た石畳の通りを横切って、蔦の絡まるアパートメントビルの前で足を止めた。一階は赤と黒のモダンなオープンカフェが入っていて、ビーチパラソルで使われるような素材のぺたっとしたグリーンの布が庇代わりに張られていた。外に出しっぱなしの丸テーブルや椅子は、まとめて裏返しにされていた。

 ソラは『CLOSE』の板が掛けられたドアに手際よく銀の鍵を差しこみ手首を捻った。

「ここはうちの直営で地下に核シェルターがある。最寄りの避難先としては最適だ」

「もっと遠くに逃げればいいのに。ブラジルとか」

「ダメだ、私は宙の羊飼いと契約を交わしてる。地球から逃亡する船を見逃してもらう代わりに、私は東京を離れない約束。前に少し話したろ」

 店内は真っ暗で人気はない。少なくとも二、三日は閉店無人なのが空気の澱みや冷め切った室温から感じられた。入り口のドアを再び施錠し、ゴーグルを暗視モードに切り替える。

店内に入ると、部屋中央の客席テーブルが真っ二つに砕けていた。白い天井を見上げると、木板が裂けラグビーボール大の穴が開いている。

「スペースデブリが落下したんだな」

貫かれたアパートメントビルから覗く、霧に包まれた夜空を二人は仰ぎ見た。

店の奥で、湿気た地下階段を見つけた。壁の電気のスイッチを入れると、点在する裸電球にぽっと小さな明かりが灯る。二人は頭を締め上げていたゴーグルを取っ払うと、裸眼で階段を下りていく。低い天井から垂れ下がる裸電球に、顔をぶつけないよう金枝は何度も左右に避ける必要があった。先頭を歩くソラは手すりに白い指を滑らせながら淡々と地下まで到達した。

正面には三メートル弱の冷たく大きな固い鉄鋼扉があった。中央の蒼く濡れたモニターにソラは瞳を覗かせ、虹彩認証をこなす。次に、白銀球の出っ張りをつまんで、すーっと引くと、細長い引き出しを露わにした。引き出しの底には玉虫色の液体が薄膜を張っており、ソラは右手を平行にして液体に四つ指を漬した。

「何だよそれ」

「遺伝子試験液。国から『良』として登録されている人物の遺伝子を検知し、ヒットすると――」

ピポポと天井の緑色のランプが点灯し、次いでガタンと金属的な物音がして核シェルターの扉がゆっくりと開かれた。金枝はニヒルに口元を歪めた。

「なるほどな。上級国民様だけが核シェルターに入れるようになってて、当然威子口は入れると。なんか、性格が悪い機能だな。核シェルターまで選民かよ」

「じゃあ君は、入らなくていいのか?」

「……何言ってんだよソラ。俺なんてもう上の上、特上国民じゃん。ってことで、お先」

 金枝は闊歩しながらシェルターの中へ入っていく。ソラも後に続いた。

「なあ。君の居場所は、誰か知ってんの?」

 振り返りながら金枝が訊いた。ソラが澄ました声で返す。

「北形と、君。それと羊飼い」ソラは左手に嵌めた異星人の装置を軽く振った。

「シェルター内に外部との通信機器があるから、それで政府とイシグチグループと、直属部隊のサイレントにも安否を報せるつもりだ」

「ふーん」

核シェルターというと、ビジネスホテルの一番安い宿泊部屋のように、狭くて不自由な空間を金枝は思い描いていた。シングルサイズのベッドを、威子口空と二人で分け合って質の悪い睡眠を貪り、食物は賞味期限が切れかけた不味い乾パンばかりをちびちびと齧って、数少ない業務用常温二リットルペットボトルで喉の渇きを凌ぐ、そんなひもじい生活をこれから送るんだ。

しかし、その予想は外れた。

部屋の中央の床にあった、潜水艦ハッチを改良したバルブ。それを回し、鉄蓋をぱかりと開けると、ぶらんぶらんと垂れる鎖の梯子。それを伝って階下に降りるなり、金枝は目を丸くした。

「うわっ、広ぇ」

 金枝の目の前には南国ホテルのロビーのような空間が広がっていた。トロピカル感溢れるソファが贅沢に配備され、亜熱帯の観葉植物が元気いっぱいに花を咲かせている。バーカウンターの戸棚にはたくさんの酒とグラスが仕舞われていた。

「驚いた?」

 金枝の真後ろにすたっとソラが着地すると、金枝の背中を軽く押しながら言う。

「定員は二十名。核の爆風、放射能汚染、地震、水害、化学兵器による汚染等、あらゆる状況に対応している。地下は六階まであって、二年分の水と食糧が備蓄されてる。キッチンにガスに水道、遊技場に温泉、ミニシアター、図書室にフィットネスジムまであるぞ。ジムのトレーニング器具と発電機は繋がっていて、外に頼らず電力供給もいけるのだ。どう、快適だろ」

「快適だとも」

 バーカウンターから禿げた、五十代くらいの男がひょっこりと現れた。高級な白いスーツにいかつい革靴。首から両手の指まで金ぴかの装飾品を身につけ、いかにも強欲な見た目をしていた。その横には白装束を着た若い女性らが連れ添っていた。ソファの蔭からわらわらと屈強な体格の男らが現れ、金枝とソラを遠めに囲んだ。

「小間口兆庵。こんなところに隠れていたのか」

 ソラの顔に翳りが差す。兆庵はにやにやとほくそ笑んだ。

「さすがの威子口家当主も、顔色が悪くなったな」

「顔色が悪い? それは貴方でしょう。威子口家に楯突いたばっかりに、一瞬で自分の築いた宗教が瓦解したのだから」

 ソラが強気に言い返すと、兆庵はしょぼんと肩を竦めた。

「確かにそうだ。私は少々思い上がっていたし、娘の死を知って頭に血が上ってもいた。とはいえ、君があれほど迅速に我々を潰しにかかるとは。かかれるとは」

「観返り教の息がかかった連中は、既に重要な役職から外していた。老眼で気づかなかったか?」

 ソラが無表情で問う。兆庵はニヤニヤ笑った。

「宗教の恐ろしさを怖がるどころか、信奉者を問答無用で豚箱送りにする過激さ。君に独裁者の自覚はあるのか?」

「お、俺は関係ないんで。帰ってもいいですか」

 生ぬるい汗を垂らしながら手を挙げる金枝に、小間口兆庵はゆっくりと首を横に振った。

「君は彼女の婚約者でしょう。いつものボディガードは、いないようだ。ついているな我々は。お喋りは終わりにしよう」

 兆庵がパチンと手を叩く。二人はスーツの男らに無理やり床へ押し倒され、強引に手と視界の自由を奪われてしまった。

――美糸君、君はこんなことばかりだな。私が憑く前もこうだったのか?

 ホルスの声がぼやんと頭に響く中、金枝は金星由来の薬物の沁み込んだ麻布を不意に嗅がされ、ふっと意識が遠のいた。

 

 金枝が目を覚ますと、椅子に縄で縛られていた。乾いた空間。どうやらシェルター内の物置のような場所に金枝は連れ込まれたようで、壁際の天井高くまで段ボール箱が隅々まで積まれている。中には保存の利く缶詰でも入っているのか、何となく重たそうに見えた。

「ホルス。お前何かした?」

――いや何も。君が平静だから心を整える必要もないだろう。

「なるほど」

こういう場面にすっかり慣れて、恐怖を大して感じられなくなっている自分に、金枝は少し寒気を感じた。傍には能面のように無表情の男性信者が立ち、金枝を見張っている。ひょっとして人形ではないかと金枝は疑いかけたが、ドアのノック音に反応して信者はドアを開けた。

「ふん、どうだね調子は」

 金ぴかな小間口兆庵が金枝に笑いかけた。金枝は何と言っていいか分からず黙っていると、兆庵は少し離れた壁際の柔らかそうな薄緑のソファにぽんと腰かけ、気さくに話しかけてくる。

「驚いたよ。君、足の爪を剥がされてるって? 大方、御当主様にやられたものだろう。それとも君に自傷癖でもあるのか」

「あいつですよ。クソ女ですから」

 兆庵は「ふーむ」と溜息をつくと、ツルリとした頭を擦った。

「金枝君、といったね。ちょっと話そうか。おい」

兆庵は葉巻を咥えながら、見張りを部屋から追い出した。

「さてさて」

 兆庵は小気味よく笑うと、両膝に手を置いた。

「改めまして。私は小間口兆庵と申します。他人は私を観返り教の教祖と呼ぶし、私を崇めるものは実際いる。しかしその前に私は小間口伊穂の父だ。そのことは知っているだろう」

「はあ」

「君と伊穂は仲が良いと訊いたがね」

小間口伊穂の笑顔が金枝の脳裏に浮かんだが、すぐに暗闇へと消えた。金枝が口を閉ざしていると、兆庵は軽く手を広げる。

「表情が硬いね。誤解しているようだが、観返り教は別にカルト宗教じゃない。単なる、そう、昨今の終末現象を不安視する者たちの、精神的受け皿の役割を果たしていた。そういった存在が、今の無機質な社会には必要だったのだ。それは威子口の者達も認めていることだ」

「俺の家族は惨殺されました」

 兆庵は深い皺の刻まれた目元を指で揉んだ。

「ああ、そうだ。それに関して、私に全て責任がある」

「信者から金も巻き上げてる」

「ぶっちゃけてしまうと、宗教と詐欺の違いは精神的な幸福を得られるかどうかの差異しかない。騙されたと知らない方が幸せなことだってあるんだ、世の中には。どの宗教だって、そんな言い訳が根底にあるんだな」

「あの、一体俺に何の用ですか。殺すんなら殺す、解放するんならさっさとして下さいよ」

 金枝は臆さず考えを吐きだした。

「どうせアンタの目的なんて、威子口空への復讐でしょ。散々痛めつけてびーびー泣かせたい、そういうアレ」

 すると兆庵はガラガラとうがいをするように笑った。

「金枝君、君はァ思い違いをしている。私は別に御当主様の尻を引っ叩いて、反省させるつもりは毛頭ない。そもそも、うちの娘の伊穂は生きてたんだ」

「……はぁ?」

 金枝は咳払いをした。

「いや。死んでるでしょ。だって――」

「ノア爆破の映像を信じたのか? あんなのは、尻の青い御当主様をびびらせたい宙の羊飼いのコラージュだ。作り物のインチキ映像だよ」

 金枝が黙っていると、兆庵はおもむろに立ち上がり傍にあった金属の丸椅子を引き摺ってきた。そして金枝の正面に合わせてよいしょと腰を下ろすと、泥濘とした顔の造形に似合わない滑らかで耳当たりの良い声を喉元から発した。

「金枝君。話は変わるが、威子口家の昨今の終末への対処を君はどう思っている? ゾンビが多いからと渋谷区そのものを爆撃したな。あれで何人の罪なき女子供が死んだのか分かったもんじゃない。大体、さっさと他の惑星から月へ攻撃を仕掛ければいいのに、何故しないのか? ポーズでもいいから彼女が降伏すればいい。下手なプライドで意地を張っているせいで、日本国民はとても迷惑をしている。彼女が日本にいなければ、こんな終末被害に見舞われていないんじゃないか、ええ? そうだろう?」

 兆庵は言葉で大勢の人間を惹きつけただけあって、自信に満ちた聞き取りやすい話し方をしていた。金枝は別にソラを庇う気もなく、「そうですね」と乗っかった。

「俺もそう思いますよ。苦しむ国民を尻目に、のうのうとソラは安全な威子口タワーで過ごして、塔が崩れればこの安全な地下シェルターに避難してんですもの。一般人は、入れもしない場所ですよ。指導者として、あまり褒めたものじゃないと俺は思いますね」

「そうだろうとも。……ふむ」

 兆庵は葉巻で一服すると、その太い指で金枝を指差した。

「実はね、金枝君。私は脅されているんだ、宙の羊飼いに」

 兆庵は懐から携帯端末を取り出し、葉巻を咥えながらタップする。

「ノアの爆破映像に怒り、私の娘をくだらん宇宙船に乗せてくれた威子口空を襲わせたがそれも失敗し、意気消沈した私の元に、こんな動画が、送られてきた」

兆庵の再生した動画には困り顔の小間口伊穂が映っていた。

「お父さん、お願い。助けて。宙の羊飼いに協力してあげて。でないと、殺すって言われてるの」

 そこには両眼に透明な珠の涙を浮かべ、必死に懇願する小間口伊穂の姿があった。それは短い映像ではあったが、確かに小間口伊穂は生きていて、此方に喋りかけている動画だった。金枝は複雑な気持ちでそのショート動画を見つめていた。

 兆庵は端末を懐に仕舞うと、煙草をくゆらせ言う。

「宙の羊飼いに協力すれば娘の命は助かると言われた。放火と君の家族の殺害は私の指図だが、威子口タワーでの暗殺計画からは私ではなく羊飼いの指示で動いている。暗殺計画というより、暗殺失敗計画だがね。あれは元々、暗殺失敗で終わるのが目的だった」

「……は? 何だそれ。何でそんな――」

「そう思うだろう。彼等の要求は『威子口空の精神を擦り減らし絶望させること』であり、決して当人は殺すなと言ってきた」

 兆庵はやれやれと頭を振ると、「あと気になったんだがね」と葉巻を咥えた。

「君と話をしてみて分かった。威子口空とあまり仲が良くないようだな。婚約者なのだろう?」

「先日のデートで初めて手を繋いで、暗殺未遂の日には初キスを交わしました」

「今時珍しい古風な男だね、君は。ふん、笑えるな」

「……俺も笑えるよ、兆庵さん」

 金枝は意地悪い顔で兆庵の懐を顎で示した。

「娘の生存に縋りたいんでしょうけど、さっきの動画、あれフェイクですよ。小間口伊穂はまず死んでる」

「ほーう。何故そう思う」

「だって小間口さんは、貴方のことだいぶ嫌ってましたから。あんな潤んだ、媚びるような目で助けを乞わないでしょ。逆によく、信じられますね」

「うちの娘が? 出鱈目だ」

「ほんとですよ。アンタの自叙伝、ウソばっかだって」

「は、くだらない」

 兆庵は苦い顔で葉巻を噛みながら席を立った。

「あまり私を怒らせるなよ。君の命は私の手の内にあるのだ。こうして君を生かしてやっているのも、あの高慢ちきな威子口空を洗脳し服従させる際に、もしや心を折る手段の一つとして使い道があるのでは、という保険でしかない」

 金枝はそれ見たことかと、兆庵を睨んだ。

「結局、それが目的だな」

 金枝は吐き捨てるように口舌を揮った。

「威子口家の当主を言いなりにして、自分達の身の安全を確保しようって魂胆。本当に汚ねえ連中だよ、お前ら。生きる価値のない、最底辺のクズ」

 カルト宗教の教祖に罵詈雑言。金枝は内心、主人公になった気分だった。

兆庵は渋い顔で煙を吐き出すと、金枝を見据えた。

「確かに君の言う通り、私は悪人かもしれないな。しかしだ、君は親の気持ちも、私が子供の時分の酷い境遇だって、何も知りはしない。何一つだ。それでよく知った風に、私を責められるな」

「あんたは子供の気持ちを知らないじゃん。それに、酷い境遇ながらマトモに育った人間は世の中に五万といる。境遇を悪事の言い訳にすんのはマトモに育った人間に対して失礼だよ」

「もういい。そんな話がしたいんじゃない」

 兆庵は太い腕をばさばさと振った。

「君が非協力的だというのは分かった。てっきり威子口空に復讐したいかと思ったが、とんだ期待外れだ。晒し首にして使うぐらいか」

兆庵は腹を立てながら部屋を出ていった。

「ふん、ざまあみろ」

――兆庵の娘を用いて、奴と同じように威子口空を洗脳しようとしていたのは、どこの誰だったか?

「君だろ」

 金枝は自分のことは棚に置いて、とても胸の奥がすっきりした。

 

 軟禁されている間、金枝はすることもないので夢想した。能面の見張りを欺き拘束から逃れた金枝は、スーパーヒーローのようにばったばったと狂信者をなぎ倒し、拷問を受けしくしく泣いていたソラを御姫様抱っこで救い出す。そんな痛快な妄想。しかし現実は非情で、金枝はそれから丸三日間、ほぼ放置されていた。

――美糸君、気づいているか? 君は寄生生物を体内に留めておく薬品を飲むのを怠った。おかげで私は自由の身になったのだ。

 金枝の視界の半分はちらちらと、受信信号の低下したテレビのようにざらついた。

 少し間があって、またホルスが言った。

――くふふ、安心したまえ。君の最期は近そうだ。どうせなら見届けやる。 

 浮ついた、部屋の外の物音。気付いた金枝が、ゆっくりと顔をあげる。二日は水を与えられておらず、まずは枯れた喉を唾で潤して喋ろうとしたが、手間取った。

 その内に、金枝を見張っていた男も異変に気付いて、外の様子を確かめようとドアノブに手をかけた。

男は驚いたような呻き声をあげた。ドアの真ん中から黄色い光の刃が突き出し、見張りの男の胸を貫通していた。びしゃりと胸元から血を噴き出して、見張りはあっさり命を落とした。

「だ、誰」

 ギィィとドアが開く。そこには真っ赤な目をした血みどろの女がいた。戦闘形態の北形雅が全身に仕舞っていた殺傷用の兵器を剥き出しにしていた。

「金枝美糸。貴様は、お嬢様を護れなかった」

 北形は脚を引き摺りながら金枝の前に立った。血走った眼は怒りに染まっていた。殺気に当てられ、金枝の皮膚はピリピリと泡立つ。

「お……落ち着け。俺だって何も、出来てなくて。悔しかったんだ」

 北形は変形した左腕から伸びる光の刀を振りかざした。金枝は反射的に目を瞑る。

 吐き捨てるように北形が舌打ちをした。金枝は諦め気味で目を開けると縄が鋭く切られていた。

「あいつは、ソラは……?」

 金枝は言いにくそうに訊ねる。

「今、手当てをして寝かせてある」

「状態は」

「命には別状はない。金枝。彼女の傍にいてやってくれ。私は、下のフロアも見て回る」

 北形は胸ポケットに仕舞っていたルームキーの鉄輪の部分を歯で咥え、器用に金枝へ放ると、全身返り血の浴びた機械のボディを軋ませながら部屋を出ていった。

「ちぇっ。ガチでサイボーグ女だったのか」

――あの様子、身体にガタがきている。巨大ロボットのコアにされていたのも、かなり負担が大きかったようだ。

「あっそ」

 金枝は凝り固まった体を両手でほぐしながら、ホルスの話を聞き流した。


「ここだな」

 掠れ声で金枝が言う。ルームキーに付属した金属板に彫られた数字と部屋番号が一致しているのを確かめ、金枝は静かにドアを開けた。

内部は金枝のシングルルームとは違い、三人家族を想定した部屋の造りをしていた。未使用の、静の空間。その中に異音がした。くぐもった、啜り泣くような声が、寝室の方から聞こえた。

「ソラ?」

 金枝は半信半疑で、白く清潔そうなベッドに近づいた。遠目には清潔だと思ったのだが、ところどころ血が付着している。人を受け入れ、薄く人の線に盛り上がる白布の中からは、微かに、か弱い呻き声がしていた。

 枕元まで回って、金枝はソラを見つけた。

トレードマークだった長髪の黒髪を乱雑に切り取られ、ソラは前より安っぽくなっていた。短髪のソラを金枝が見るのは、中学一年生以来だった。ソラの目元は朱色に腫れ、頬には涙の筋が幾つも垂れている。時間が経ってすっかり乾いた痕もあれば、まだ濡れ光っているものもあった。両の瞳の中に金枝は居らず、どこか遠くの幻想の彼方に向けられていた。小さく開いた口からは弱々しく嗚咽が漏れた。金枝は面食らった。ショックで言葉を失った。それでも、おずおずとソラに掛けられた薄布をめくった。

ソラは両手足を縛られ、威子口に似合わない簡素な麻布の服を着せられ、仰向けで寝かされていた。

「良かった。手足ある」

金枝は安堵した。柔らかなタオルで丁寧に縛られている様子を見るに、縛ったのは観返り教徒ではなく、ソラの自傷を防ぐ為の北形の処置だろうと金枝は想像した。

――様子がおかしい。

「見りゃ分かるよ。ソラがこんな、泣いてるの初めて見た」

 金枝の記憶にある威子口空はいつだって、憎たらしいくらい欠点のない、才色兼備の女生徒だった。今ここでぼんやりと虚空を見つめ、はらはらと涙を零し、シーツを湿らせている女が威子口空である訳がないと心が拒否していた。

――美糸君、威子口空の体に手を翳してみてくれないか。

「……ああ。いいけど」

 金枝は何も考えずに右掌をソラの体へと近づけた。おでこ、口元、首から胸。腹部を通過したところで、ホルスの声がした。

――やはりそうか。

「何か分かったの?」

――腸内に地球外来の寄生虫がいるな。どうやら、『懺悔虫』の拷問を受けたようだ。

「何だ、それ」

――聞いた事ないか? 観返り教徒の有名な手口だ。

 ホルスはつらつらと懺悔中の説明を始めた。

――奴らは裏切り者の信者や、洗脳された信者を教団から取り戻そうとする邪魔者に対して、ジュースや酒などに虫を潜ませ、飲ませるのだよ。その虫というのが、木星の衛星エウロパの氷海で獲れる懺悔虫だ。この寄生虫は宿主の腸内に到達すると、特殊な物質を分泌し始める。

「えげつな」

 金枝が何か言いたそうな様子に気づき、ホルスは面倒くさそうに告げた。

――原理までは知らんよ。

「ちげーよ。俺も寄生されてるし、『寄生仲間じゃん』って思ったんだ」

――とかく宿主は寄生されると、強い後悔の念を抱き始めるのだ。大切な人を傷つけてしまった際の記憶、人前で大恥をかいた時の記憶、吐き気を催す最低な記憶。そういった古い、どうしようもない記憶をフラッシュバックさせ、宿主の心をズタボロにしていく。そんな精神状態の輩は簡単に大事な秘密を洩らすし、神父が目の前にいればひたすら懺悔をして、怪しい宗教にだって縋りつくようになる。

「さすがホルス。寄生虫だからお互い知り尽くしてるんだな」

――私を知能の無い虫と一緒にするんじゃない。

 ホルスは機嫌を損ねて解説を止めた。

金枝は急に強がりたくなった。

「ソラにも懺悔っていう感情があったんだ。おーいソラ、俺は見えてる? 懺悔したかったらしろよ」

「ふざけるな、金枝美糸」

 金枝が振り返ると、部屋のドアが開いていて、血みどろの北形が立っていた。北形は自他の血が混じった固形物混じりの赤黒い液体をぽたぽたと垂らしながら、ギクシャクした機械音を発するのも厭わずに寝室の手前まで歩き、立ち止まった。

「北形。お前……大丈夫か」

 金枝が心配をかけるほど、北形は損傷していた。

「私のことはどうでもいい。お嬢様に、虫下しの薬を飲ませなくては」

 北形は光の刀を発するのを止め、右腕を元に戻そうとした。しかし、何かがつっかえているのか腕は元には戻らず、不自然な形状のまま止まった。北形の左腕は銃口が剥き出しのまま、モーターが不愉快な音を出している。北形は悪態をつくと、肩から掛けた黒鞄を金枝に放った。

「中に、水と薬がある。飲ませてあげてくれ。私の手は故障して上手く使えない」

 金枝は肩を竦めると、キャッチした鞄から飲料水と蜂蜜色の顆粒薬の瓶を取り出した。虚ろな目をして天井を見つめるソラの、半開きになった口に薬を流し込んで無理やり水で飲ませた。

北形は寝室には入ろうとせず、力なく俯いた。

「お嬢様。申し訳ありません。今の私ではもう、お嬢様に薬を飲ませることも出来ず……」

「入ってこいよ。北形」

「こんな姿でか? お嬢様に、血の匂いを嗅がせたくない。お嬢様に、こんな姿を見られたくない。私は、ここにいる」

「でも、ソラの奴ぼんやりして、何も見えてないようで……」

 北形は憎々しげに言葉を吐き捨てた。

「信者共はお嬢様を拷問にかけ、幻覚作用のある薬物を使ったのだ。寄生虫と併用することで、強いショックを与えられるからな。私は、ああ何故お傍にいてあげられなかったのか!」

「それはソラに命じられて怪獣退治してたからだろ。倒したのか?」

「……時間はかかったが、三体とも消し炭にした。ここにいる気の狂ったカルト集団も、全て私が息の根を止めてやった。念入りにな。しかし、そんなことはもうどうでもいい。お嬢様が無事なら、それで……」

「なあ、北形。まずはシャワー浴びてきたらどうだよ」

「あ、ああ。そうさせてもらう」

 

 ソラは一日もするとぼんやりとではあるが意識を取り戻し、ぽつぽつと仄暗い会話をするようになった。寄生虫は飲み薬で死に、三日も経つと薬物はほぼ体から抜けて、ソラは次第に聡明な女性に戻っていった。金枝はそれが妙に嬉しく感じられたが、照れ臭いので口には出さなかった。

重症なのは北形の方だった。ムゲンという、旧遺物の技術を存分に使用し完成した威子口家渾身の巨大ロボット。その人工知能の代役を急遽務めて怪獣と戦った北形の身体は限界を超え、機械神経の三割が焼け焦げていた。

「怪獣は一週間に一体ずつという暗黙の了解があるのにな」

 金枝は冗談を言ったつもりだったが、寝込む北形には通じなかった。


観返り教徒から解放されて五日が経った。元気を取り戻したソラとは対照的に、全身損傷の北形は日を追う毎に衰弱していった。見かねたソラは北形の部屋へ入るなり、「君を入院させる」と言明した。

「もう、病院側には連絡を入れたから。救急車が来るから今すぐ準備」

「それはっ。それはダメです!」

 慌ててベッドから北形が体を起こすが、ソラは有無を言わせぬ口調で言う。

「北形。これは命令です」

「私は、この身が朽ち果てようとお嬢様のお傍にいたいのです。調子は悪いですが、最悪でも盾くらいにはなれます」

 ソラは黙って北形のベッドに腰かけると、溜息と頬杖を同時についた。カフェに残されていた新品の制服を気に入って、ソラはここ数日、鼠色のチェックのシャツに細い黒のズボンを履き、腰には深緑色のエプロンを巻いている。

「お嬢様」

北形は己の傍らにいる、清潔な身なりをした貴人に皺の一つも付けぬよう、繊細に身を捩りながら言う。

「では、せめてこのような人気のない場所ではなく、もっと安全な所へ移動して頂けませんか。国の要人が大勢避難している、警備の強固なシェルターにでも――」

「北形。私はあえてここを選んでるんだ」

 ソラはバネの利いたベッドの縁をポンと手で叩いた。

「宙の羊飼いは私を苦しめたがっている。が、殺したい訳ではない」

 ソラはフォトジェニックな笑みを零した。

「怪獣と北形が戦った拍子に、一帯の電気ガス水道の供給が止まってしまった。が、水も食糧もこのシェルターの中にたくさんある。餓死の心配もない」

 北形は不安そうに口を尖らせた。

「しかし……」

「威子口タワーの惨劇を思い出せ。タワーの防衛レベルが高いとみるや怪獣をけしかけてくる滅茶苦茶な連中だ、奴らは。私が人の多いシェルターに入れば、却って被害が大きくなる」

 ソラは自分の太ももに手を滑らせた。

「しかしここなら、せいぜいゾンビだ。少し離れた場所からサイレントの一小隊にカフェを見張ってもらっている。見かけよりはずっと安全だ」

「おーい、救急車来たぜ」

 金枝が二人に報せにくる。

「頼まれてくれるね。北形?」

 ソラに頼まれた北形は首を縦に小さく振った。


 カフェの前で北形はソラにぺこりと頭を下げた。次に金枝の前に立つ。

「金枝」

「何だよ」

 身構える金枝を、北形は真っすぐ見つめた。

「お願いだ、お嬢様を危険な目に遭わせないでくれ。時々無茶をするのだ」

「ああ、気をつける」

「頼んだぞ」

 北形は一瞬不安げな眼差しをソラに向けた後、静かに救急車へ乗り込んだ。

「あいつ、いつ戻ってくるんだ?」

金枝の質問にソラが答える。

「かなり損傷しているから、一か月くらい。その頃には、羊飼いと灸叔父様の戦闘も終わっている頃だ」

「勝ってるといいな」

 ソラは小さく頷いた。


観返り教徒らの惨たらしい死体は一つの部屋に集められ、満身創痍の北形によって扉を完全に溶接されていた。それでも不思議と、シェルター全体には死人の嫌な臭いが漂う。ソラと金枝は日中、シェルター内でお湯を沸かし、地上のカフェで暖かいコーヒーを飲むなどして気を紛らわせた。

「金枝君、どうかした? さっきからぼーっとして」

 ソラはマグカップで手を暖めながら、気さくに微笑みかけてくる。

「え、いやぁ。なんでも」

 金枝は素っ気なく返事をすると、カフェラテを啜った。

「カフェラテ、好きなんだっけ」

「まあね」

それは嘘だった。コーヒーなんて香りくらいしか金枝は好きではないから、ただなけなしのミルクを入れてマイルドにしているだけだった。しかし、コーヒー好きのソラにはそのことを黙っていた。

最近、ソラに変な遠慮をしてしまっている。金枝自身もそれは感じていた。ソラは懺悔虫の拷問を受けた時の詳細を話さないし、聞くのはさすがに不味いと金枝は思っていた。気遣いなど不要とソラなら言いそうだが、実際のところは分からない。お互い黙っているから、何となく二人の間に溝が開いたような気がした。

もう一つ、金枝にとって気がかりなことがあった。シェルターのソラの部屋の前を通る時、時々楽しげな男女の笑い声が聴こえてくる。一人は当然ソラなのだが、もう一人は宙の羊飼いのあの、電波ジャックで映っていた金髪男のようだった。宙の羊飼いから渡された、ソラの手首に巻かれた腕時計に似た機械を介して会話をしているらしい。

「何であんな奴と話すんだよ。元はと言えば、羊飼いのせいで拷問を受けたんだぜソラは。何で仲良くするんだ。しかも盛り上がってるし」

――じゃあ本人に訊ねれば良いじゃないか、美糸クンよ。君は一応婚約者なのだし、問い詰める権利はある筈だ。

 ホルスに促された金枝は、ソラとのカフェの中で何度か話題に出そうとはしたものの、タイミングが合わなかったり忘れてしまったりで、毎度切り出せずにいた。

そんな調子のまま、二人の合同生活は一週間が経った。

外に出ず、何もしない生活。金枝の今のお気に入りは、カフェの店の中から外を眺めて、色々なことを想像することだった。相変わらず濃い霧に覆われ、普通なら視えない世界も碧色のゴーグル越しにはよく窺えた。

カフェの前の通りは、お洒落な気配がした。なかなかない、純西洋の雰囲気。この通りの角っこに、金枝らのいるオープンカフェが構えていた。カフェの柱には、細身のテニスラケットが三本、置いてけぼりを食らっている。きっと持ち主は女性だろう。金枝は想像した。表参道にある、西洋から切り抜いたような粋なオープンカフェにやってきた、全身テニスウェアの女子大生数名が、アイスコーヒーを飲んで火照った身体を冷やしている。そんな折に、隕石かゾンビといった終末現象に巻き込まれ、その若者達は命からがら逃げ出し、後にはラケットがぽけーっと残された。そうに違いない。

通りの向こうに目を向ければ、銀杏の樹が立ち並んでいる。本来ならアスファルトの通りに陰を作って夏に涼しさをもたらすのだろうが、生憎と絶賛冬で、風景も寒々としていた。他にも、銀杏並木の合間合間のスペースには置き去りにされたアコーディオンとか、無人のケバブ店。更には、大きな銀色の筒のオーブン機の中に黒ずんだ小ブタの丸焼きがそのまま入っていた。可哀そうな小ブタは横の鉄棒に肉体を貫かれ、宙ぶらりんで誰からも忘れられていた。きっとオーブンに再び電気を通せば、辺りにはたらたらとこんがり焼けた良い匂いが漂い始めるのだ。すると、匂いに釣られてアコーディオン奏者が帰ってくる。テニスで汗を流した女子大生がふらりとカフェに立ち寄って冷たいコーヒーを飲み、ぺちゃくちゃお喋りをし始める。

そんなことを想像するだけで金枝は楽しかった。次第に増えつつあるゾンビの通行人には成る丈目を瞑りながら。


 シェルターに足を踏み入れてから三週間が経過していた。金枝は暗いカフェのテーブルで独り、ミルクたっぷりのコーヒーに口をつけながら、白霧の世界を嫌というほど堪能している。通りの景色にはすっかり飽きて、今は練り歩くゾンビの生前の人物像を妄想していた。

――美糸クン。今日が何の日か知っているかね。

「知らねえ」

 欠伸混じりに金枝が答えた。

――少しばかり外へ出てみろ。ゴーグルを付けていれば大丈夫だろう。

「うーん、そうだなァ」

 金枝は壁の時計を見た。『常連客』らしきゾンビがドアの前に立ち塞がる時刻まで、二時間弱の猶予がある。

 金枝が席を立ち、店の出口へ向かう途中、何者かが後ろから金枝のゴーグルを取り去った。

「金枝君。濃霧用ゴーグルは大切なんだ」

 音もなくシェルターから出てきたソラはツンとした表情で金枝を睨んだ。 

「暇つぶしに使わないで」

「はぁ? 何だよ。俺の唯一の楽しみだ、返せ」

 ソラは知らん顔でゴーグルを持ち去ろうとするので、金枝は怒った。

「おい、ソラ」

 勢いに任せて金枝は訊いた。

「俺知ってるぜ。お前、宙の羊飼いの野郎と楽しそうに通話してんだろ、結構な頻度で。あの、化粧したドイツ人か何かと」

 ソラは立ち止まると、不満そうに金枝を見つめ返した。

「金枝君、まさか嫉妬してるの?」

「さあね」

 ぶっきらぼうな金枝に、ソラが軽く腰に手を当て言う。

「宙の羊飼いだって人間なんだから、仲良くしておいて損はないはず。現に今、ギュンターは私に心を開きかけている」

「へえ、あいつギュンターって言うんだ、名前までかっこつけだな。じゃあソラはそいつを篭絡すればいいんだ。おっぱいを見せろ、それが良い」

 ソラは鼻を鳴らし、これ見よがしにふーと息を吐いた。

「全く、君はクズだな。言っておくが私は、人類の未来の為なら何だってする。が、今は胸をはだけてる場合じゃない。大変な事態が起きたんだ」

「へえ、どうだか」

 気のない態度を取る金枝に、ソラは溜息をつくと言った。

「ゴーグルを常時使えるようにしておきたいのは、いつ何が起きても出られるように備えておきたいから。分かる? この意味」

 ソラの告白で金枝は急に冷めた。いよいよ、来るべき時が来たのか。そんな気配が薄暗い店内に沸々と漂い始め……。

 が、金枝は気づかないふりをした。

「はあ? 分からねえな。ここで宙の羊飼いをぶっ潰すまで粘るんじゃなかったのかよ。やっぱ電気ガス水道のある場所へ変えんの? それとも灸さんの軍隊が、羊飼いを潰走させて――」

「ヴシャペトレ人の本隊が、太陽系に侵入した」

 ソラが単刀直入に言った。金枝は一言「何だそれ」と言った。

「ナンダソレもヘチマもないよ。どうなるか分からないから、いつでもここを出られる準備をしてってこと」

 ソラはコンコンと霧視ゴーグルを指で弾いた。

「金枝君、来るか? 灸叔父様から連絡があって、ヴシャペトレの科学力がどんなものか、分かる映像を送ってくれるらしい」

「俺というより、ホルスに見せたいんだろ」

「そういうことだ」

 ソラは跳ねるように答えると、先だってシェルターへと向かった。


 核シェルター地下六階は唯一南国バカンステイストがない。飾りっ気がない通信室のドアを開けた金枝とソラは、奥にある一メートル弱の壁に掛かったモニタータペストリの前に立った。

「メリィークリスマス! ようアダムとイブ。元気にしてたか?」

 たくさんの武骨なパイプを背景に、サンタコスをした威子口灸がおどけて手を振った。ソラと金枝は少し驚いたように顔を見合わせた。

「うわ。クリスマスだっけ?」

「すっかり忘れていた」

「おいおい。二人とも。少しは外に出た方がいいぞ? 街はクリスマス一色だっていうのに」

金枝は久々のソラ以外の話し相手に歓喜した。

「久しぶりです、灸さん。こっちはもう二人っきりで退屈ですよ。ソラが外出禁止だっていうから――」

「当たり前だ」

 ソラが間髪入れずに声をあげた。

「外はゾンビがうろついているのに。これでもマシな方で、私が渋谷を焼却しなければ大変な数になっていた」

「おや、ギスギスしてるじゃないか。美糸君、髪を切った新妻は気に入らないか?」

「いや、そういう訳じゃないですけどね。おっしゃる通りぎくしゃくしてて、たまに感染者がカフェのドアを叩いたら、いっそ、いらっしゃいませと招き入れたくなるっていうか。気分転換で」

 ソラがしかめ顔で金枝を睨んだ。灸と金枝は少しの間、軽い調子でお喋りに興じたが、それも一段落ついたところで灸が真面目な口調になる。

「ところで、悪い報告と良い報告がある。どっちから聞きたい?」

「そういうの嫌い」

 ソラの口からぼそっと呟かれた声は金枝の耳にだけ届いた。

「じゃあ、良い報告から」と、金枝。

「太陽系の戦力を火星へ集結させた。これでいつでも宙の羊飼いと戦える」

「悪い報告を」と、ソラ。

「ヴシャペトレが海王星を攻撃し、一瞬で墜ちた」

 金枝は、ぽぉっと胸の内が暖まるのを感じた。太陽系内で、大きな戦争が始まっている。

「被害は? トリトンの潮汐防衛網はどうなりました」

「んなもんは通用しねえ。見た方が早い」

 灸はモニターに人差し指を近づけ、横に振った。

 画面が切り替わり、海王星の地表に築かれたドーム内の居住エリアが映し出される。商店街、学校、駅、公園。色々な角度でカメラアングルが切り替わり、海王星の生活が垣間見える。人工太陽によってドーム内は疑似的な真昼を作り出し、海王星の人々は地球と変わらない生活を送っていた。

「何か……美男美女ばっかですね」

「ふっ。そう見えるだけで実際は地球と変わらない」

金枝の感想にソラが説明をした。

「海王星の住人は八年前から自動美化フィルターを身体にかけて生活している。深刻な少子化を食い止める為に政府主導で始められたんだ。私は大して変わらないだろうが、金枝君がここに行けばクリント・イーストウッドになれる」

「何かの弾みでフィルターが取れて阿鼻叫喚すりゃあ良いのに」

 金枝が素っ気なく言う。灸が話を続けた。

「ドームは海王星の地表に二つ、地下に三つある。一ドームあたり約二億の住民が暮らしていたが、二時間足らずで死体に変わった」

 カメラが切り替わる。昼下がりのドーム世界。さっきまで普通だった平凡な映像に一瞬、赤い光が走った。赤い光はドームの外の、氷と岩の世界を貫き、ドーム内まで到達していた。

それから一時間もすると、突然倒れる人間が映像に現れ始めた。夕方になると、どの場所にカメラが切り替わっても、立っている人間は見当たらない。皆、突然死でもしたように床に伏し、ぴくりとも動かない。

「全員、死んだんですか?」

 金枝は静止した光景に瞬きをした。建物が破壊されていない、と呟くようにソラが言った。

「いや、全員はじゃない。一部の大人や老人なんかは生きている」

 灸は時間を巻き戻した。そこは託児所のようだった。保母らの胸の中で、赤ん坊がぐったりとしている。何人かの保母は周りの赤ん坊を必死に揺すって、反応のある赤ん坊がいないか探していた。

「最初に死んだのは赤子だった。で、次は幼稚園児、小学生、中学高校大学と年齢が上がっていく。最後に大人の順だ」

「生き残った者に共通点は?」

 ソラの問いに灸が答える。

「そうだな。弱ったじいさんばあさんに、遺伝性の不治病感染者。子宮を摘出した女に、睾丸を摘出した男……」

――なるほど。子孫が続かない連中か。

 ホルスの言葉が金枝の脳内に虚しく響いた。

「何だそれ。じゃあ、ヴシャペトレはわざわざ子孫が続く可能性のある人間だけを殺して、残りは見逃した?」

 ソラは無言で口に指をやった。画面が切り替わって、灸が映る。サンタ帽と白髭を取り、疲れた顔で黒のサングラスを磨いていた。

「さすがヴシャペトレ人が直々に指揮する艦隊とあって、俺達には理解不能な兵器を平気で使ってくる。旧遺物が奴らの文明の残骸という噂も納得だよ」

「ホルス、君どう思う?」ソラは、金枝の瞳の奥に潜む先輩の異星人を不意に覗き込んだ。

――人類の将来を憂うなら、民を避難させることだ。

 ホルスは他人事よろしく提案する。

――例え旧遺物の技術を使って対抗しても、たかが知れているだろう、人間は。太陽系から脱出し、そのまま宇宙の果てまで逃げ続けるしかあるまい。

 金枝がそれを二人に伝えた。ソラは「そうか」と冷え白飯のような素っ気なさで言ったきり、深い世界に没入していく。

そんなソラを尻目に、灸は自嘲するように言った。

「灸叔父さんはな、宙の羊飼い討伐用に集めた兵力を木星に集結させて、そこでヴシャペトレを迎え撃とうと思う。月は後回しだ」

「ええっ。冗談でしょ」

 金枝は立ち上がると、モニターに詰め寄った。

「俺達地球の人間はどうなんすか。一か月我慢すれば灸さんが助けに来るんじゃないんですか。誰も助けに来ないなんて聞いてないですよ」

「助けなど必要ないかもしれない」

 金枝は鬼の形相でソラを振り返った。

「どうして!」

「宙の羊飼いを懐柔すればいい」

 ソラは真顔で指を振った。金枝は半信半疑でソラを見返す。

「話を聞こうか?」と灸。

「ありがとう灸叔父様」

 ソラはこほんと咳払いした。

「彼等の信奉する神様(ヴシャペトレ)が完全武装をして太陽系へ出現し、海王星を襲った。宙の羊飼いの連中だって当然疑念を持ちます。彼等は人類の攻略を託されたのに、それを反故にされたのだから」

「まあそうだな」

「私は何度も何度も、『宙の羊飼いだって人間なのだから、殲滅対象に入っている』と彼らに伝えてきました。それが遅効性の毒となり思考を誘導してくれる。宙の羊飼いと人類は手を組んでヴシャペトレを迎撃します。これは絵空事ではなく、私がそう仕向けさせます」

 ソラは確固たる口調で言い切った。

――自信家め。あくまで戦うつもりか。

 ホルスのからかうような口調が金枝の意識の深層で発せられた。

金枝はソラを直視した。ソラは離人症ではないのに何故だか薄らと白く輝いて見えた。

「ソラちゃんがそこまで言うなら、待ってやってもいい」

灸が首を軽く回した。

「奴らの次の標的は天王星だ。ご丁寧に、太陽系の外周から順に我々を潰すつもりのようだ。おかげで此方も準備の時間はたっぷり取れる」

 ソラの合図があるまでは太陽系軍のヴシャペトレ攻撃を延期すると灸は約束した。

 その日の夜。またソラの部屋から宙の羊飼いの男の声を金枝は耳にした。金枝は内心面白くなかったが、通話が終わったタイミングを見計らい、部屋をノックした。

「よう、ソラ。懐柔、上手くいってるか?」

 金枝はドアを開ける。椅子に腰かけていたソラは金枝と目が合うと、得意げに鼻を高くした。

「それが、もう少しで寝返りそうなんだ」

「マジで?」

「フフフフ……」

 ソラの眼はとても綺麗な色をしていた。蟻の巣を自宅の庭で見つけた小学生男児の瞳と同じ類の、純粋な悪の輝きをしていた。

「ところで、金枝君。カフェでティーパーティでもしないか。私はココアが飲みたい」

「いいね。じゃあ俺はカフェラテ」

「またカフェラテ」

「悪い?」

 二人は寝間着のまま、沸かした熱湯を電気ケトルごとシェルターから持ち出すと、クリスマスの夜のオープンカフェで体の芯を暖め合った。


 金枝とソラが表参道の地下シェルター及びカフェに来てから二十五日が経過していた。

その日は朝から雨だった。昼から夕方にかけて雨脚は増し、カフェの前の通りは溜め池のようになっている。店内も、アクリルシャッターの隙間やスペースデブリの開けた穴からじわじわ浸水してくるものだから、雑巾を土嚢替わりに床に侍らせたが、雑巾達はあっという間にぐしょ濡れ、白旗を挙げた。

 金枝は一人しゃがんでせこせこ雑巾を絞り、何故か潮の香りがする汚水をバケツに貯めていた。

――何故、潮の香りがする。

「さあね。だったら、これだけ風が吹いてても霧が晴れないのだっておかしい」

――それに関しては宙の羊飼いが関東一帯で濃霧を対流させているからだろう。

ふと、金枝の視界に映り込む紺のジーンズ。そして鈍光を纏う黒のレザーブーツ。金枝はしかめっ面で顔をあげた。

「ソラ、急に消えてどこ行ってた。さぼってねえで手伝って――」

「金枝君、ここを出るぞ」

 金枝はしかめっ面のまま立ち上がった。見るとソラは白黒ボーダーの長袖のシャツの上に橙色のレインコートを羽織り、フードまで頭に被って、今からこの大雨の中を進軍しますという恰好をしている。ソラに半透明の合羽を差し出され、金枝は無言でそれを羽織った。

 ソラはときめいたような笑顔で言った。

「金枝君。やっと、ここから出られるんだ」

 金枝はぽかんとしていたが、次第に顔がにやけ、心が高揚した。

「それって……この死臭くせぇシェルターから出れる?」

「そう」

「見飽きたカフェからも出られるって?」

「そう言ってる」

 被せ気味にソラが答えた。

「じゃあ、宙の羊飼いは人類側へ寝返ったんだな!? だから俺達はもう、他人の命を考慮してこんな所にいる必要はないんだな?」

 ソラはにっこりと微笑んで見せた。

「やったぜ!」

 金枝は天井に拳を突きあげた。

「そんなに悪い生活じゃなかったけど。死臭にも慣れたし」

そう言いつつもソラは感慨深げにカフェの中を見渡した。

 ドンドン、とカフェのドアが叩かれる。ソラはスキップしながらドアの小窓を覗いて訪問者の容姿を確かめると、軽々しくドアを開ける。レーザー銃を携え霧視ゴーグルを被った、パワースーツのサイレント部隊隊員ら四名が大量の雨水と共に雪崩れるように入ってきた。

「どうぞどうぞ。好きなだけ水浸しにして下さいよ」

 滔々と流れ込む雨水を金枝は歓迎した。隊員達は仰々しくソラと金枝に敬礼し、避難方法を説明した。

「当初のヘリでの移動はこの強風と白霧を考えると危険と判断し、我々がボートでお送りします」

「え、ちょっと待った。別にこんな大雨の中、わざわざ出なくても。雨が止むまで待ったら?」

 隊長らしき撫で肩の男がゴーグルをずらすと、金枝の方を見た。

「ソラ様からは何も聞いていませんか?」

「佐久間隊長、説明をしてやってくれ」

 ソラはカフェの二人席に腰かけた。

「は、それでは。現在東京湾の海水が高台へ向かって逆流を起こしております。湾岸付近の住民には避難勧告が為されており、なるべく低い土地へ避難する必要があります」

「何だって?」

 金枝が呆れていると、ソラが口を挟んだ。

「宙の羊飼いによる新しい終末現象だ。おそらくこれが最後の」

「まだあいつら悪さしてんのか。人類側についたんだろ?」

 ソラはひらひらと手を振り口元をすぼめた。

「内乱があって鎮圧するのに手間取ったらしい。私もさっきようやくギュンターと連絡が取れて、羊飼いが人類側につくと知ったんだ。その内乱の間に、親ヴシャペトレ派の奴らが終末現象を加速させた。収まるまでは半月はかかるそうだ。私はもう東京にいる必要はないし、海斗叔父様のところへ――」

「ああ。そりゃいいや。マゼラン星雲へね。あ、まだ地球から出られない人はどうすんの。置き去りか?」

 金枝の軽口に、ソラは微かに眉を顰め、目を瞬かせた。 

「私は……威子口としては、ヴシャペトレが冥王星を滅ぼした時点で太陽系全域に避難指示を出している。貧困家庭の子供は、その星の輸送艦に片っ端から乗せている。しかし、船の頭数が足りない。太陽系から短期間で全ての人間を退避させるのは物理的に不可能だ」

 ソラは威子口の者特有の異様な気配を漂わせ始めた。サイレントの隊員は身じろぎをし、金枝は背筋で薄ら寒いものが駆けていくのを感じた。

――地雷を踏んだらしい。

「大体君は、地球地球ってうるさいな。もし辺境の珪酸塩と水銀で爛れた恒星に敵艦隊が迫っていて、その星から私が開拓民より早く脱出を敢行しようとしていても、君は同じようにぶー垂れるか?」

ソラは苛つきを隠さず言う。

「不満なら君だけ残ればいい」

「不満は一切ありません、ソラ様」

 金枝がさっと敬礼する。ソラはそれを無視した。

「威子口家は代々、人類の地球離れを目標に掲げてきたというのに。精神性では今も昔も地球ありきだ」

「地球の基準で統一した方が良いこともあんだろ。例えば木星の一年は地球換算で十二年弱。木星で生まれたからって木星基準で一歳の誕生日を祝う頃には子供の肉体年齢はほぼ十二歳だぜ。そのせいで年齢という概念がゴミ以下になった」

「私は、そういうことを言ってるんじゃない」

 ソラは軽く自分のおでこを叩くとブツブツと独り言を漏らす。

「地球信仰の傾向は地球から離れる程に顕著に現れるというから不思議だ」

「そうだソラ。俺がコーヒーを挽くよ。最後の一杯を飲もう」

 機嫌を損ねたソラを金枝は何とか宥めすかせ、喧嘩にはならなかった。外は轟々と暴風によりかき混ぜられ続けている。滝に近い雨は白霧と共にうねり暴れて、ボタボタとした雨粒は硝子を叩き、張りつき、斜めに流れる。通りの水嵩はいよいよ人の膝上の高さまで達し、外をうろついていたゾンビは一人、また一人と水流に捕まり水中へ飲まれてゆく。長い付き合いになった常連客のゾンビも、とうとう流れていった。

カフェ店内は雨と海と泥の濁水が床を侵し、少し歩くだけでバシャバシャと水音が鳴った。


「遅いね」

 ソラはアンニュイな顔つきで呟いた。ソラは霧視ゴーグルを付け、水甕を引っくり返したような荒れ狂う世界を眺めていたが、迎えのボートは一向に姿を見せない。既にカフェの中まで海水が浸水し、膝は常時漬かっていて歩けば太腿が濡れる程までになっている。棚の下に仕舞われていた写真立てやコルク瓶は、ぷかぷかと水面に浮かんでいた。カウンターの上に置かれたラジオからは『海水が高台へ向かう性質上、水平に内陸部へ避難するか、あるいはなるべく低い土地へ避難するように』という、聞いていて頭のおかしくなるような避難指示が真面目に流れている。

不意に隊長の通信機が小さく震えた。隊長は通信機のスイッチを指で弾いた。

「はい、こちら佐久間。……何。後続部隊との連絡が途絶えた?」

 隊長は雨に濡れた短髪を掻いた。

「分かった、もういい。一班のボートはC地点で待機。周囲の安全を確保した後、カフェで合流。十五分後を予定、以上」

 ソラは少し不安そうに訊いた。

「何か問題でも?」

「いえ。霧の中ではぐれたようで。地球脱出の支障にはなりません。ご安心を」

手持ち無沙汰な時間が再び、カフェの中で流れ始めた。雨合羽を着たまま退屈していた金枝は、この沈みつつあるカフェを写真に残したくなった。手元の携帯端末を起動させ、自動撮影モードにする。ふわっと端末は浮遊すると、店の中を色々な角度で記録し始めた。素朴な木の扉、店内に仕舞われ浸水した小さな黒板に、カウンター奥にある精巧な黒檀色の珈琲焙煎器。アンティークな白銀の西洋電燈。指示を待つ若い隊員。木の丸テーブルに軽く伏せて微睡むソラ。

ソラは浮遊する端末に気づくと、纏わりつく海水に足を取られながらも先回りして端末の撮影を邪魔し始めた。

「おいソラ、カフェが撮れないだろ!」

「碌な被写体のない水びたしカフェより、生まれながらにして威子口であるこの私を撮れ」

 ソラがふざけているのに気づき、金枝も一緒になってふざけることにした。浸水途中の店内を飛び回るカメラに何とか写ってやろうと、二人が変なポーズをして遊んでいると、カメラが金枝の手元に戻ってきた。

「ソラ。一緒に写真見ようぜ」

 金枝はカウンターに飛び乗り、保存した画像をチェックし始めた。

「やだ、見ないで。変なのしか写ってない」

「なんで。君が最初にやってたんじゃないか」

「途中で我に返って恥ずかしくなったんだ」

 そう言いながらも、ソラはカウンターにお尻を乗せると金枝の横に腰かけ、端末の画面を覗き込む。

「どれどれ……。ぷっ、何だこの顔は」

 写真の中の金枝は、目を瞑っていたり半目だったりと普段より輪をかけて恰好悪かった。ソラも同じようにふざけている筈なのだが、彼女とその周りだけはまるで映画タイタニックのワンシーンのように幻想的で様になっている。

(何で俺だけ……)

金枝は内心落ち込みながら、どこかにソラの変な画像が撮れていないか血眼で探していると、不意に「はぁ?」と声が出た。

「ソラ。なあ、ソラ。変なの映ってる」

「君の顔だろ?」

「ちげーよ。そうじゃなくて、ほら。アクリルシャッターの所に……」

 金枝は端末から顔を上げ、ぎょっとして押し黙った。

写真に写っていたおかしなものは、今もなお透明なアクリルの外側部にへばりついていた。水中から覗くそれは、ハンドボール大の一つの目玉だった。半透明な白目に、鮮やかな蒼の瞳の眼球。それが店内を、外からぎょろぎょろ覗き込んでいるのだ。

「え、なに?」

 眼球に気づいたソラは、怯えた声をあげた。異変に気付いたサイレントの隊長が、「どうしました?」と声をかけた。

「佐久間隊長。巨大なイカの目玉のようなものが、外に」

 佐久間は途端に厳しい顔になると、手を挙げ隊員を呼んだ。すぐさま店内でばらけていた隊員三名が集まり、レーザー銃を構えて謎の目玉を遠巻きに囲った。

「揖斐野。見てこい」

「はい」

隊長に言われ、一番若い揖斐野は慎重に、その眼球に近づいていった。ピチャ、ピチャ、と静かな店内に揖斐野の立てる水音が鳴る。

「……た、隊長。近づいても分かりません」

「揖斐野ッ」

 佐久間に叱咤され、若い隊員はごくりと唾を飲むと、アクリルに張り付いたそれにあと一メートルという距離まで近づいた。

ぎょろり。霧視ゴーグル越しに奇妙な蒼い瞳と目が合った。揖斐野は激しい悪寒がした。レーザー銃を構え直した時、巨大眼球はすっとシャッターから離れると、氾濫する海水の中へと消えた。

「隊長、いなくなりましたぁ」

 佐久間が大きく溜息をついた。安堵に包まれるカフェ。ソラが唐突に口を開いた。

「分かった。今のはレコンだ」

「レコン、ですか」

 隊員らが顔を見合わせる。

「レコンって何」

 金枝の質問に、ソラは思考を巡らせながら返事をした。

「人工の生命体だ。広い海洋からプラスチックを探知し、超音波を発してプライーターを呼び寄せる。プライーターはプラスチックを食べるが、レコンはプライーターの排泄物を栄養源にしている。プライーターとは共生関係にある」

「じゃあ、それが海水と一緒に流れてきたってことか」

その時、ドアがノックされた。隊員達の無線機からざらついた声が流れる。

「こちら一班、到着しました」

 佐久間は無線に「了解」と伝えた。

「ソラ様、美糸様。準備は宜しいですか」

 ソラは小さく頷くと金枝を見て言った。

「金枝君、出よう」

「言われなくても、一人でだって出てくよ」

 オープンカフェのドアを開けると、雨ざらしの隊員が二人、ボートと連れ立っていた。金枝とソラは隊員に後ろから押され、滑り止めの凸凹がついたボートのへりを超える。雨合羽を着た二人はまどろっこしい霧視ゴーグルを持ち上げ、ボートの中で目配せした。

 雨が強かにビニールのフードを打ち付ける。金枝は目を細めながら、白霧と水の世界を見回した。真っ白な靄が表参道を包み込んでいる。その時、何かが水から上がる音を雨の音に混じって金枝は聞き取った。隊員が水中に身を潜めていたのだろうか。金枝はぐしょ濡れの手でゴーグルを鼻先まで降ろした。

 ボートに捕まっている隊員の真後ろに、透き通った生き物が立ち尽くしていた。それはサメの頭部とイモリの胴体を合成したような姿をしていて、透明な体はゼラチンのようにブヨブヨとしており、カラフルな内臓が透けて見えていた。体内に仕舞われているのは七色のプラスチックの破片だった。ようやく隊員が気配に気づき、おずおずと後ろを振り返る。その生物はクマのように立ち隊員を見下ろしていたかと思うと、力強く隊員の頭を齧った。それの透き通った口内で、隊員の頭が歪み砕け、トマトのように鮮やかでグチャグチャに潰れていく様を金枝はゆっくりと見つめていた。

「杉田ァ!」

「何だこの、化け物っ」

 隊員達の怒声で金枝は我に返った。雨の中、マゼンタ色の光線が降りしきる雨を蒸発させながらプライーターの巨体へ次々に撃ち込まれる。プライーターは怯みながらも絶命させた隊員を離さず、隊員を水中へ引き込みながら攻撃を躱した。

「ボートを店の中へ!」

 二人の隊員がボートを引っ張り、カフェの中へ引き入れようとする。ボートが屋内へ半分ほど入ったところで、まだ店の外にいた隊員が「ぎゃあ」という悲鳴をあげ、水中に引きずり込まれた。ボコッという音と共に、カフェのアクリルシェルターが破られ、プライーターが次から次へと店の中に侵入する。サイレントの隊員はレーザー銃の銃口を水中に向け、節操なく乱射した。マゼンタ色のレーザーが水中を貫き、白い湯気があがる。

「ソラ、逃げよう!」

 金枝はソラを引っ張り、ボートから降ろした。

「どうするの?」

「地下シェルターに避難すんだよ!」

「ソラ様の護衛を!」

 佐久間らが二人の背後につくと、忍び寄るクリスタルの影へレーザー銃を放ち、水ごと焼いた。二人はまとわりつく水に足を取られながら、カフェの中を進む。一人、また一人と隊員が食われていく。金枝は顔を引き攣らせ言った。

「何でプライーターが人を襲うんだよッ」

「羊飼いが好みを変えたんじゃない!? 本来は、プラスチックを分解してくれる海の益虫だから!」

「クソッ」

二人は地下階段を水音を立てながら降りていく。後ろからは激しい銃撃の音と、ジュージューと水の蒸発する音が聞こえる。

地下は水が溜まり、プールのようになっていた。ソラは泳いで扉の前に近づくと、手順に沿って光彩認識を行い、銀球のつまみを引いた。飛び出した引き出しへソラが手を入れるより早く、雨水と海水が流れ込む。ソラは小さく舌打ちした。

「金枝君、下手すると開かないかもしれない」

 ソラは引き出しの底に指の腹をつけながら言う。金枝が白目を剥いた。

「何でッ」

「遺伝子認識液が薄まってるから」

 ソラは早口で答えた。佐久間隊長が後ろ向きで階段を下りてくる。既にサイレントの生き残りは隊長一人になっていた。

「ソラ様、敵が多すぎます!」

 隊長が怒鳴った。複数のプライーターのくぐもった唸り声が階段で木霊する。

金枝はソラと目があった。ソラは神妙な顔で自分の左手を口元に持っていく。そして、奥歯を見せるなり、躊躇もせず親指の付け根の肉を強引に食い千切った。金枝が驚愕する中、ソラは目に涙を溜めながらも、皮膚の剥がれ、血の滲む己の左手を引き出しの奥まで突っ込んだ。

シンセナイザーな電子音と共に天井のランプが緑の光を灯し、鉄の扉がゆっくりと開く。大量の水に誘導されるように二人は扉の中へ流れ入ると、急いで床のバルブに手をかけた。少々手こずりながら、鉄蓋を開ける。金枝は落下する水と共に地下シェルターへ飲み込まれた。手痛い尻もちをつき、顔をしかめる中、ずぶ濡れのソラがするりと真横に着地した。

「金枝君、佐久間隊長の安否を」

「分かった」

 水がドバドバと流れ落ちる中、金枝は鉄梯子を伝い上を覗き込んだ。水の流れに目を細めながら階段の方を見ると、佐久間は今まさにプライーターから突撃を受け、壁に叩きつけられていた。金枝は佐久間を呼ぼうとしたが、口元の水しぶきで叫ぶこともままならない。

 その間に、一匹、二匹と無色のサメイモリのような図体の怪物が階段から雪崩れ込んでくる。

――もう助からんな。早いところバルブを閉めろ。

 ホルスに促されても、金枝は五秒待った。その間に佐久間は震えながらも腰にぶら提げていた枯草色の手りゅう弾を取り外すと、グローブをした手で派手にピンを引き抜いた。金枝は黙って重たい鉄蓋の取っ手を掴み、体重をかけて引き落とす。フロアへの水の流入は止み、一瞬落ち着いた後、遠くの方で爆発音が聞こえた。それからはもう何も聞こえず、フロアは絶対的な静寂を取り戻した。

 二人はしばらく無言のままその場でへたれていた。いくら慣れても不愉快な死臭を嗅いで気分が落ち込むのは無理からぬことだった。

 二人は互いに喋る気も起きず、弱々しい常温のシャワーで体の汚れを順々に洗い流した。金枝はすぐにベッドに沈み、ソラも外部と連絡を取って、同じく気絶したように眠りこけた。

 朝の感覚もなく金枝は目を覚ました。凝り固まった、どうしようもない肩に吐き気を催しながら地下一階へと向かう。

 金枝の気分と相容れないトロピカル調のフロアの、長い緑青色のソファにはソラがちょこんと座っていた。ソラは湯気立つマグカップ内のレトルトのスープカレーをずずずと音を立てて啜ると、手短に「おはよ」とだけ言った。

「外は?」

「表参道は海の底のようだよ」

 ソラは淡々と言う。

「この辺りは海抜が高い。今回の終末現象は水が高台へ向かう。港区全体の雨水や海水はここへ吸い寄せられたように集って、水製のピラミッドが表参道に出来たんだ。私達は今、その淡水ピラミッドの真下に閉じ込められている」

「救助はどのくらいかかる?」

「分からない。今、政府のダイバーがピラミッドに入りカフェの様子を探ろうとしたけれど、複数のプライーターの襲撃に遭っているみたい。二、三日で出られる感じじゃない」

 金枝は頭を掻くと、地上へ続く鉄梯子を上っていく。腕力でバルブを回し、鉄蓋を開けようとしたが、昨日と違ってびくともしない。

「クソ、閉じ込められた」

悪態をつく金枝を見て、ソラは身を震わせた。観返り教徒に捕まって以来の、完全なるシェルター生活が再開されたという現実は、ソラの心に暗い影を落とした。


金枝は汗を流していた。太腿がパンパンになりながらもエアロバイクを漕ぎ続ける。それは、ソラの為だった。

シェルターに閉じ込められてから三日後。つい電力を使い過ぎたのか、シェルター内の電源が落ちて全フロアが真っ暗になってすぐ、ソラがパニックを起こした。

(そういえばこいつ、閉所と暗闇の恐怖症だったな)

 過呼吸に陥るソラの背中を擦りながら、金枝は北海道の絶滅水族館でソラが潜水のアトラクションをパスしていた記憶を思い出した。

「あの時は、楽しかったよな」

 学校の連中はどうしているだろう。何もかも遠い昔のように感じられ、金枝は臍がきゅうと切なくなった。

 その一件以来、金枝は目が覚めると、エアロバイクを漕いで電力を補充した。ソラはというと熱心に金枝を誘っては卓球をしたり、ビリヤードをやってみたり、名作映画を鑑賞し、時には二人で温泉に漬かったりした。気楽にも思える生活だが、金枝にはそれらが、シェルターに閉じ込められているという事実を極力忘れる為のソラの精一杯の努力だと気づいていた。

「そんな、怖いか?」

 ある日金枝は、卓球でストレート負けした腹いせにソラへ訊いた。

「シェルターっつっても、広いじゃん。開放的だろ」

「閉所恐怖症は大丈夫。それより、地下の、それも水の底にいるのが恐いんだ!」

 ソラは体を擦りながら寒そうに答えた。

「君には淡水ピラミッドの映像とか見せてないから分からないだろうが。表参道が、沈んでるんだぞ。バルブも水圧で開かないし、もう最悪。疑似的に潜水艦が、深海で動かなくなったような――」

「へへっ」

「何が可笑しい!」

 ソラは怒りのまま、鋭いスマッシュを金枝の顔面に叩き込んだ。


 十二月三十一日。濃霧の表参道に現れた濁水のピラミッドと、その中で回遊するプライーターの群れの処理に日本政府が悪戦苦闘する中、未だ地球から避難出来ずにいる日本人はじっと、静かに息をするように、年越しを待っている。金枝とソラの二人は地上の空気も知らずに、昼食はインスタントの蕎麦を啜っていた。

 年明けまでもう幾ばくもない静寂の深夜帯。無味乾燥とした地下六階の通信室に独り、枝垂れるようにして威子口空が座っている。ソラは壁時計の秒針には目をくれず、パソコンのモニターを見つめていた。木星の傍で鶴翼に陣取るのは人類側の星間戦闘船舶約六千隻と、月を一瞬で制圧した羊飼いの戦艦が千四百隻程度。それら一隻一隻は小さな光点として、木星宙域を示すパソコンの青黒いカラーモニターに簡易表示されている。七千四百の白い光点は溌剌と輝いて、主張し合っているよう。それに比べ、ヴシャペトレ人の艦隊を指し示す僅か二百足らずの光点は仄暗く、いつ、宇宙の暗闇と同化してもおかしくないが、それらは臆すことなく人類側の艦隊で形成された巨大な光の束へ等速で近づいていた。パソコンの傍らに置かれた旧式スピーカーからは時折、人類側の船舶のノイズ混じりの船員の声がランダムに拾われてはソラの意識を流れる。交戦への緊張感漂う中、船員達は不安隠しに派手で野蛮な言葉を口にしては自らをその気にしていった。

「ソラちゃん、聴こえてるか。こちら威子口灸」

 唐突に自分を名指しする声にソラは背筋を正した。

「はい、こちら威子口空。状況は?」

「待機。ヴシャペトレの艦隊は此方の中央突破を目論んでいるのか真っすぐ直進を続けてる」

「そうですか」

「ソラちゃん。俺らのこと捨て石くらいにしか思ってねーんだろ」

「いいえ。勝ってくれるものと信じています」

 ソラの応答に灸はからっと笑う。

「奴らが宙上戦闘でどういう戦法を取ってくるか、しっかり情報を探って次に活かせよ」

 灸は一方的に告げると交信を切った。

ヴシャペトレは人類側の艦隊の射線に入るか入らないかのギリギリの位置で停止する。そして、一瞬明滅をした。人類軍の射程外から、何らかの攻撃を行ったらしかった。

二十秒ほどラグの後、鶴翼を作る光点の四分の一が消え失せた。残っていた光点が、一斉にヴシャペトレへ向かって前進を始める。が、その間にもまた人類側の光点が消えた。スピーカーからは事態が飲み込めない船員達の、縋るような息遣いが雑音に混じって漏れ聞こえた。

ようやく、ヴシャペトレ艦隊に攻撃が届くようになった頃には、人類側の光点は半分にまで減っていた。

 さすがのソラも言葉を失った。まだ、数の上では圧倒的に有利な筈だが、負けに等しい戦況だった。散り散りになった人類軍は、コバエかシラミでも潰すようにヴシャペトレの艦隊に追われ、光を奪われていく。

結局、ヴシャペトレ側の損失は無人の偵察船九隻と二隻の駆逐艦のみ。人類側の損失は、威子口灸の乗る旗艦を含めた八百隻余りの艦隊。太陽系の全戦力に羊飼いの艦まで加えた巨大連合軍は甚大な被害を出し、失意の果てに潰走した。ヴシャペトレはそのまま木星に接近すると、海王星の時と同様に人類根絶の光線を浴びせた。

ソラが時計に目をやると、既に時刻は零時をとうに過ぎていた。

「ハッピー、ニューイヤー」

 ソラの言葉は虚空で蒸発した。果たして、こうも忌まわしい新年を迎えたことは今まであったか。まさか、ある筈がない。ヴシャペトレの艦隊は空間縫合航法を小刻みに行いながら太陽系の外周を順に回り攻撃している。海王星から木星までは僅か七日での進軍。火星を滅ぼした後は空間縫合もするまでもなく近接の地球へ襲来するだろう。猶予は四十八時間もなかった。

ソラは体を引き摺るようにして通信室を出た。人の気配の消失を検知した通信室は、自ら消灯を行って深い眠りについた。


「はぁー……」

威子口空の周囲には、南国チックな一階フロアに場違いの淀んだ空気が漂っていた。ソファの肘置きに頬杖をついて、今日何度目か分からない深い溜息をつき、壁に直接描かれたヤシの木の絵を物憂げに見つめ、何もない時間を過ごす。それが丸一日続いた。

「なあ、ソラ」

 一月二日の朝。とうとう金枝は我慢ならなくなった。

「ちょっとヴシャペトレにボコられたくらいで辛気臭ぇよ。こっちまで気分が下がる」

 ソラは微かに目を丸くしたが、それだけだった。その時、ソラの携帯端末が鳴った。上の空のソラの代わりに金枝は端末を手に取った。

「もしもし金枝です。はい。はい……。そうですか、分かりました。よろしく頼みます」

 金枝は通話を切ると、再びソラを見た。

「国防長官から。地上の水ピラミッドが崩壊した。プライーターの掃討を行うから、ここへ救助が来るのはその後になるって。ヴシャペトレの艦隊だが、もう火星まで侵攻して多くの死傷者が出てる」

ソラは、くるりと背中を向けて言う。

「あぁ。肩が凝ったなー」

 金枝は何も言わずソラの肩を揉んでやった。細いのに石のように固い両肩に悪戦苦闘しつつも、手を緩めずにマッサージしていると、ぽつりとソラが言う。

「人類が滅べば、私の責任になるのか」

「……ああ、そうだろ。だって、威子口が裏で社会を牛耳ってんじゃねえか」

 金枝の無遠慮な言葉にソラは悲しそうにした。

「そんな悪の組織みたいに言わなくても」

 一拍、間があってから「まあ、そうだ」とソラは肯定した。

「地球の外へ人類を引っ張ったのは威子口だ。こうしてヴシャペトレに目をつけられる要因を作った」

 ソラは金枝の手から逃れるように立ち上がると、小さく肩を回した。

「やはり、威子口が最後まで人類を導かなければ。その責務がある。たとえ、どんな手段を使っても人類を存続させる」

「勝算は無いのか? 人類皆で力を合わせれば、数の上では圧勝だろ?」

「うん……」ソラは二の腕を擦りながら言う。

「先日、海斗叔父様と宙の羊飼いの生き残りとで話し合ったが、見通しは暗いな。幾ら団結したところで所詮はただの悪足掻きにしか――」

「上等じゃないの、悪足掻き」

 あっけらかんと金枝は言う。

「ゲリラ戦法でも何でもいいから、これから人類は宇宙中を逃げて、戦ってを繰り返せばいいじゃないかよ」

 ソラは呆気に取られたように一瞬固まったが、すぐに破顔した。

「それはホルスの入れ知恵か?」

「俺の意見だけど」

「良いことを言うじゃない」

 ソラは手を叩いた。清らかな音がした。

「そう、一致団結して逃げ回る。しかも嫌がらせもする。粘っている内に彼等も厭戦ムードに変わって手を引く可能性もゼロじゃない」

「だろ? 人の足は逃げる為についてんだ」

ソラは手を差し出した。

「ありがとう金枝君。君のおかげで踏ん切りがついた」

「踏ん切りって、まさか降参するつもりだったのか?」

 ソラは笑ってはぐらかしながら金枝の手を握りしめると、すぐに離した。

「といっても、前向きだろうが後ろ向きだろうが救助が来なければ私達は死ぬんだ。火星から地球までヴシャペトレなら普通の航行で八時間もかからない」

「空間縫合に必要なエネルギー充填を待つより通常の航法の方が速いのか」

 ソラは軽く頷いた。

 二人はなるべく地下一階に身を置いて、少しでも出入口の傍にいるようにした。無慈悲な光線による死が刻一刻と迫っていることを肌で感じながら、お互い口には出さず、長いようで短い空白の時間を二人は静かに過ごした。

 一月二日、二十三時十六分。地下シェルターの扉がこじ開けられ、金枝とソラは六日ぶり外の空気を吸った。サイレントの隊員に誘導され、水でふやけた階段を上ると、目と鼻の先でプライーターの屍がぶよぶよと浜辺に打ち捨てられたように転がっていた。

水の腐った匂いに二人は顔をしかめながら、雨水と海水の引いたカフェの中を通り抜ける。

霧は晴れていた。半分に欠けた黄色い月は東京の天辺で素っ気なく光り輝いている。ああ、一区切りついたんだ。と、金枝は思えた。

 

 政府の用意したヘリに乗って、新羽田宇宙港の滑走路に二人は降りた。

「ソラ様。長距離星間航行船の用意は既に出来ております、こちらへ」

 サイレントの隊員の護衛を伴い、滑走路を二人は歩いた。

「初めてだぜ、宇宙へ行くの。ソラは?」

「私は幼少の頃に月の遊園地へ十七回連れて行ってもらった。けど、記憶はさっぱり」

「もったいねえな」

 辺りにはカラフルな床のネオンパネルに照らされ太陽系の外へも出られそうにない中小型の宇宙船がぽつぽつと停泊しているのが窺えた。五分ほど歩いたところでサイレントの隊員達が止まった。隊員の一人がドライバー工具に似た機器を空中で回す動作をやると、ステルス機能が解除され紅白色の巨大な船舶、ラムネ瓶に似た形状の宇宙船『ネスト号』が無の空間から出現する。

「最新の旅客船ね。AI反乱のリスクは?」

「その可能性は排除済みであります。安心して船の旅をご堪能下さい」

 隊員の回答にソラの顔が少し和らいだ。

――地球ともお別れだな。なあ、美糸クン。

 ホルスに指摘されると、金枝は名残惜しそうに滑走路を靴で踏み叩いた。

隊員らに促され船舶へ乗り込もうという時、「もし、すみません」と声をかけてくる集団があった。困り果てた顔をしたハーフ顔の中年男と、少し離れて若い女性が数人、そして二十人ほどの幼稚園児くらいの子供が後ろに控えている。

「何だ」隊員はレーザー銃に触れながら訊き返す。

「民間の避難ボランティアをしている者です。エンジントラブルで離陸が出来ず、子供らを輸送できません。どうか其方様の船に、子供達だけでも乗せてやってくれませんか。見た所、大きな船ですし。何卒」

 ハーフの男は深く頭を下げた。場の空気から、自分らが宙ぶらりん状態なのは子供にも分かるようで、幼い顔は暗く落ち込み、何人かはグズグズと泣いている。

「駄目だよ駄目。これは政府高官用の船で一般人は乗れない規約になっている」

 隊員が突っ撥ねる。

「そこを、どうにか」

「法律で決まっていることだ。別の船を探してくれ」

「乗せてあげよう」

 ソラの声が闇夜の滑走路に凛と響いた。

「し、しかし」 

「こんな状況だ、法律も何もないだろう。とりあえず展望室に案内してやれ」

「ああ、ありがとうございます」

 ボランティアはぺこぺこと頭を下げながら、急ぎ子供達を船に追い込んでいく。ソラと金枝は、遠巻きでその様子を眺めていた。

「らしくねーな」

 金枝は左横のソラを見ずに言う。

「ん、何が?」

「だって、もしアイツ等がテロリストだったら終わるぜ」

「……ああ、そうだ。一応、船には危険物スキャナーもついているから。乗り込めているなら多分、大丈夫」

 歯切れの悪いソラが気がかりだったが、金枝はそれ以上の追及はせず、自身の頭をボリボリと掻いた。

 金枝とソラが乗り込んで十分間のウォームアップがあった。機体がしっかりと温まると、浮遊感と微かな駆動音を伴い、ネスト号は地球を離れて、澄み渡った闇夜に向かって上昇を始めた。

するりと船が大気圏を抜けたところで、乗員らはセーフティベルトを外し船内を自由に歩き始めた。

「やったー、俺達助かったんだな」

 角ばった通路を歩きながら、ほくほくとした笑みを零す金枝。ソラは真面目な顔をして傍に付き従う隊員に訊いた。

「ヴシャペトレの現在位置を教えて」

「はっ。奴らが地球に到達するまで、まだ……四十分以上の猶予があります」

「それは良かった」

「それと、ソラ様。貴女に会いたいという人が」

「誰ですか?」 

 丁度その時、個室のドアが横にスライドし、見慣れた人が姿を現す。

「わあ、北形!」

「ご無沙汰しております、お嬢様」

 北形はぺこりとお辞儀をする。旧式の車椅子に乗っていたが、顔色は見違えて良くなっていた。

「メンテナンスは終わったの?」

「いいえ、まだです」

 北形は右腕を持ち上げた。

「ちゃんとしたパーツはこれだけで、残りは一般人型機械仕様の間に合わせです。どうせ別のに取り換えるので、適合運動も軽度ですから、お嬢様。海斗様と合流するまでは、なるべくリスクの無い行動を心掛けて下さい」

「心配性は相変わらずだな」

 ソラは小さく笑うと、「空間共有室はどこかしら」と尋ねた。

「それなら私が」と、北形が案内を申し出る。車椅子の肘置きの先にある漆色の球を片手でホイールし、船内を静かに進んでいく。

 空間共有室の入り口の緑のパネルが空室を示している。三人が室内へ入ると、自動で部屋にロックが掛かった。何もない大部屋の中央に置かれた、細いスタンドの先には凸凹とした球体。鈍いシルバーの輝きを帯びた空間共有装置が独りで立っている。

「海斗様と連絡ですか? でしたら私が――」

 ソラは右掌で北形を制すると、整った足取りで空間共有装置に歩み寄る。懐から透き通った長方形の平たいカードを抜き取ると、空間共有装置の球の下部、挿入口に押し当てた。装置はカードをするりと飲みこむと、小気味良い機械音をあげながら稼働を始める。程なくして、立ち眩みのような症状が連続で金枝らを襲った後、視界が白み、今度は暗くなった。

 既に三人は別の空間にいた。映画館のような暗い室内。光源は、中央にある空間共有装置の光と、窓の外から漏れ届く赤と緑の鮮やかな光。

「お嬢様、ここは……?」

 北形が辺りを見回す。この用途不明の部屋には扉らしきものはなく、空間共有装置でしか来れない場所になっていた。金枝はおもむろに窓の方へと近づき、赤と緑の光の出所を覗いた。

 金枝達のいる部屋はボックス席のようになっており、階下には劇場かコンサートホールのような円形の空間がよく見渡せた。だが、そこで繰り広げられているのは芝居でも演奏でもない。光る液体を湛えた巨大な水槽が隣り合わせで二槽、稠密とした灰色の機械群により管理されている。立方体のそれらは深紅の液体、メロンソーダのような鮮明な青い液体が満ち満ちて、時折、外部と繋がる太いポンプからボコ、ボコと気泡が吐き出されては、水槽を満たすクリアな液体を掻き回した。

得体の知れない、大がかりな実験の途中のような壮大な光景。金枝は無意識に目の前の大きな硝子窓に手を触れたが、ぞっとするような冷えを感じ、慌てて手を離した。

「ここは地球の地下深く」

 ソラは玲瓏な声を発した。

「光る水槽には、旧遺物の技術を用いて生成した反物質水溶液が貯水されている。赤と緑、二つの水が混ざり合えば、夥しいエネルギーが生じて……」

 ソラは言葉を切ると、静かに告げた。

「この宇宙から地球という惑星は完璧に消滅する」

「何故、そんなものが……」

「地球を爆破する為に決まってるじゃない」

 唖然とする北形にソラはさらりと答えた。

「威子口は前々から『リアース計画』と称して二つの計画を進行していた。一つは、一切から隔離した地球環境によく似た星へ少数の人間を飛ばすこと。そしてもう一つが、地球を破壊することだった」

「何で地球破壊すんの?」

「地球離れの為のショック療法が根底にはあるらしい。だけど今回の爆破理由は全く別物。人類が地球離れ出来ていないことを利用するだけだから」

 ソラは背後の壁に近寄ると、爪先立ちをして壁の上部を人差し指と中指で押した。すると天井で物音がして、ルービックキューブのような物体が降りてくる。ソラはそれを両手に掴むと、繋がっていた糸を強く引き千切った。

「ソラ、そいつは?」

「起爆装置」

 ソラはこともなげに言うと、空間共有装置からカードを抜き取る。程なくして三人は宇宙船の船内に引き戻された。

「どうせなら地球の見える部屋に行かない?」

 ソラは二人の意見を聞くことなく、空間共有室を出る。

――おい、美糸クン。彼女、地球を爆破しようとしているぞ。いいのか、止めなくて。

 金枝は息を吐くと、ソラを追いかけた。青ざめた顔の北形ものろのろと続いた。

 ソラが選んだ部屋は貸し切り状態のラウンジで、ゆったりとくつろげるカウンターからは宇宙の輝きを望めた。嵌め殺しのワイドな窓からは碧い宝石のような地球が暗黒の中にぽわんと浮かんでいるのが見えた。

「金枝君、今は話しかけないで。あと北形、部屋をロック」

 ソラは手元のタブレットと、薄い色をした金属の立方体を交互に見ながら、カチャカチャとルービックキューブが如くそれを回している。

「それで、地球を爆破できんの?」

「ええ、そう。でも祖父の設計したパズルを解かないと、起爆装置にならない」

 金枝は肩を竦め、近くのソファに腰をかけていると、車椅子の北形が横へ来て震える声で囁いた。

「金枝。お嬢様は一体、どうしてしまったんだ……」

「は、何が?」

「地球を、爆破……などと。後世まで残さなくてはいけない母なる星を、何故そんな」

「知らねーよ。本人に聞け」

 金枝に冷たくあしらわれ、北形は口ごもる。ソラはかれこれ十五分以上も熱心にキューブを回していたが、やがてパチンとバネの弾けた音と共にキューブは変形を始め、赤いブロックの出っ張りが一つ、表面に突出した。

「ふう、出来た」

「あのお嬢様。どうして地球を破壊などと……」

 堪らずに北形が尋ねると、ソラは少し迷う素振りを見せながら言った。

「それはね、北形。地球破壊の重罪をヴシャペトレ人に擦り付けることで、人類の結束を強められないかと思ったんだ」

「擦り、つける……?」

 北形が茫然とした顔で呟く。

――そうだろうな。

 ホルスのしみじみとした声が金枝の脳内で聞こえる。

「宇宙各地に散った人類に強い危機感と種族の結束を促すには、地球消滅くらいのインパクトは必要なの。ヴシャペトレが攻めてくるから、私としては正直やりやすくなった」

「地球に残っている人々が、どうせ死ぬからですか?」

 北形が声を震わせる。ソラは無言で頷いた。北形は顔を歪めた。

「お嬢様、目を覚ましてください! たとえヴシャペトレに地球の人々を殺されたとしても、地球そのものは残るはず。それをわざわざ、私達の手で破壊するなど、あってはなりません! 地球の生命、自然、あらゆるものが宇宙の藻屑と消え、二度と修復されない。そんな大それたことを、ああ……」

「ねえ金枝君はどう思う? 地球を爆破するの」

「そうだな。俺は……ソラの意見に賛成かな。太陽系の住民はもう死んだか逃げたかで、今さら地球に拘る必要がないし」

「しかし、まだ水星と金星にも人がっ」

「二対一。多数決で決まりだね」

ソラが澄ました顔で言う。北形は絶望の表情を浮かべ、がくりと肩を落とした。

「こんな、こんな筈……。お嬢様がこんなことする筈が……」

 うなだれたまま独り言を呟く北形を尻目に、ソラはすたすたと化粧室に入ると、新品の可変ウィッグを頭に付け、高校で撮った自身の写真をウィッグの疑似アイに翳した。ウィッグはするすると伸張し形も変え、ものの数秒で、例の美しい黒髪長髪が結い目の細部まで完全再現され、ソラの頭部に出現した。

「ま、こんなものか」

 ソラは満足げに鼻を鳴らすと、鏡台に背を向けた。そして、「金枝君」と爽やかな笑みを浮かべながら金枝に近づいてくる。

「な、何か」

「これなんだけど」

 そう言って赤い出っ張りの飛び出した金属のキューブを金枝に差し出した。

「冗談じゃない。俺は嫌だからな!」

 意図を察して拒む金枝の手首をソラが素早く掴み、半ば強引にカウンター席に座らせ、ソラも右隣りの席に腰かけると二人の間のテーブルの上にキューブをそっと置いた。

「金枝君。私は、共犯者が欲しいんだ」

 ソラは目を爛々とさせながら言う。

「北形はあんな調子だし、元々期待してなかった。地球を破壊するという重い枷に耐えられる人間はそういないもの。私ですら今、心震えてる。でも君ならば。もし、私が臆してしまった時、背中を押してくれる人間は君くらいだと私は思ってる。結構買ってるんだよ? 君のこと」

――どうするんだ、金枝美糸。

 金枝はしばらくの間渋い顔をしていたが、やがて口を大きく開けて言う。

「ああ、いいよ。地球爆破の共犯になってやるよ。主犯は君な。で、いつ押すんだ?」

 ソラは嬉しそうに微笑むと、乙女の手を取る騎士のように丁重に金枝の手を取ると、その人差し指をキューブの赤い出っ張りの上に触れさせた。

「金枝君はただ、こうしていればいい」

 ソラは金枝の指に自身の人差し指を重ねた。

「その時が来たら、私が上から力を与えるから」

「……つまりは、結局俺が押すってことじゃねえか。普通逆だろ、主犯格はどう考えても君で、共犯者が俺なんだから。押すのは――」

「『君が下で、私が上』。縁日の射的勝負で交わした約束。覚えてるよね」

 金枝は言葉を失い、唾を飲んだ。

(ソラはあの時から、こうなると予測して……いや、そんなはずが)

 金枝は薄ら寒いものを振り払うように小さく息を吐いた。

(いや、違う。曖昧なこと言っておけば、後からどうとでも取れるんだ)

そう思うことにしたので、金枝は微笑するソラを前にして畏怖せずに済んだ。

「喉が渇いたな。お酒が飲みたい気分だ」

 ソラはカウンターテーブルをノックし、「柑橘系のカクテル二つ」と注文した。魔法のように手際良く船のAIが飲み物を用意する。

「お二人様から未成年の識別反応が検出されましたので、代わりに新鮮なグレープフルーツジュースをご用意しました」

 カランと澄明な音がして、カクテルグラスの氷が泳いだ。

「地球に乾杯」

「地球に、乾杯」

金枝が唱和する。二人はグラスを持ち上げ、軽く縁をぶつけ合うと、絞り立ての濁冷水を顆粒ごと喉奥に流し込んだ。その時、ソラの携帯端末が震えた。

「あ、もう時間」

「押すのか?」

「ええ、もうやらないと。あまり時間をかけると、ヴシャペトレ人の襲来と地球爆発との辻褄が取れなくなるし」

 ソラの指の震えが金枝の指に伝わってくる。空気中の視えない糸がぴんと張り詰めるのを金枝は感じた。

(ああ、威子口空でも躊躇うのか)

そう、思いかけた。それも束の間、金枝の人差し指はぐっと上から押し込まれる。手汗で汗ばんだ赤い凸部はキューブの内部でカチッと小さな音を立てた。指への反発が消えた時、金枝は青い星に自然と意識を吸い寄せられた。一秒、二秒、三秒。何も変化がない。金枝が呼吸を再開しかけた時、メディアや本で見慣れた群青色の惑星は橙色の光を帯び、流動する液体状の力に飲み込まれ、静かに、暗黒の宇宙に絵具が滲むように瓦解し、霧散していく。そして後に残ったのは生命の宝庫だった水の惑星の成れの果てらしき、粒子状をした灰色の塵。それが煙か靄のように漂う光景だけ。

金枝もソラも力が抜けた。

アポカリプスサウンドが唸るようにして船内へ届いた。脳を揺さぶる、悲しげで悍ましい音色。それが余韻を残しつつ遠くへ吸い込まれるように消えていった。

「北形?」

 ソラの声色で金枝は異変を察した。北形がぐったりしている。終末の音色から耳を覆うような姿勢で、目を瞑っているが、左手の掌とこめかみの間から血肉が垂れている。

「北形。何で」

 ソラは青ざめ困惑しながら北形に歩み寄ったが、途中で床にへたれこんでしまった。北形の右手はレーザー銃に変形し、自ら己の頭部を撃ち抜いて死んでいた。自身の脳漿が壁に飛び散らぬよう、左側頭部を反対の手で押さえて、遠慮気味に自死する光景に、二人とも言葉を奪われた。

 居た堪れない沈黙の中、「何でどうして」と涙を流すソラの背中をじっと見つめていた。

 やがてソラは立ち上がると、部屋のロックを解除した。

「どうするんだ、これから」

 金枝の問いにソラは目の腫れた白い顔を向けた。

「私は、緊急の演説を行う。地球が爆破されたこと。ヴシャペトレの脅威。全てを説き、人類の結束を促すつもり」

 金枝は思った。どうせこの女は、人の心を動かす言葉を予め用意して暗記してあるのだ。そして本当に、人類をまとめあげるに違いない。

「北形は俺が見てる」

 ソラは軽く頷くと、悲しみを胸に抱き締めるようにして部屋を出ていった。金枝は独りになった。

「もったいないな、お前。これから始まるってのに」

 誰もいなくなった部屋で金枝は屍に話しかけてみる。勿論、返事は無かった。

風呂上りで臍が冷えたような、妙な虚しさを感じながら、金枝は再度、部屋を施錠した。


その後人類はヴシャペトレの侵略に抗い続けたが、じわりじわりと星を追われ、銀河を追われ、勢力図を縮めていった。やがて人類は散り散りとなり、僻地の星々を転々としながら細々と暮らすようになったが、次第にその姿も見られなくなった。

最後に人間の生き残りが射殺されてから百年が経過した頃には、もう人類は一人残らず宇宙からいなくなったというのが通説になっていた。人類の存在は、今では昔話として宇宙の酒場で語られている。まだどこかに人間だけの星があって、そこでこっそりと奴らは生き永らえている。そんな噂が流れることもあった。。

ある辺境の酒場で、妙に詳しく『人間だけの星』について話す宇宙人の酒飲みがいた。

「まるで見てきたみてーだな」と聞いていた客からツッコまれると、その宇宙人は酩酊状態でヘラヘラと笑う。

「見てきたどころか、人間の中で暮らしてたぞ」

「ははは、んな訳あるか」

 酔っ払いの戯言に、聞いてた客は興醒めして席へ戻っていく。独りになった酒飲みは醸造酒を一杯グイとあおると、色褪せた記憶の中にしばらく浸っていた。

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終末中に恋したあの子がとんでもなくて大変です 桧秋 @hiakihisui

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