第29話 『倉岡と母さん』
天野さんがシフト表から顔を上げる。
「倉岡くんと春日野さん、仲良くなったの?」
俺は天野さんを伏せ目でチラチラと見る。
そんな様子を見て、天野さんは慌てて手を振った。
「いや、いいのよ!なんか、言いずらいなら!嫌ねえ、歳取ると若い子の青春に首突っ込みたくなるのよ。気にしないで!」
俺は天野さんに無言で会釈すると、ナースステーションから立ち去った。
9月のシフトを俺の休みと春日野綾乃の休みを合わせて提出した。
休みは全て、アイツと同じ日という訳だ。
そりゃあ疑われても仕方ない。まぁ、交際しているのは事実なのだが。
だが
春日野綾乃と俺が交際しているとバレれば、他の病棟に左遷されかねない。
それは一番避けなくては。
俺はいつも通り、いつもの病室へと足を急かす。
513号室に辿りつくと、取っ手に手を掛けた。
スッと扉を開けると、機械音が静かな病室に響いていた。
俺は明るい声で話しかける。
「母さん、来たよ」
俺は母さんの寝ているベッドの脇にパイプ椅子を広げて置き、静かに腰を下ろした。
母さんは俺に反応するとこなく、ただ必死に機会の力を借りて呼吸していた。
ズキンッ
俺は胸の痛みに顔を歪ませる。
母さん。
俺は母さんの温かい手をそっと掬うように両手で包む。
小さい頃の思い出。
幼稚園の帽子を被り、泣きじゃくりながら母さんの胸に顔を埋める。
仕事終わり、そのまま幼稚園へ迎えに来た母のスーツは俺の涙と鼻水で汚れてしまっていた。
そんな俺の背中を、母さんの温かい手が撫でる。
『どうしたの、しょうちゃん』
優しい母さんの声。
俺は母さんに何度も救われた。
だが、俺はまだ、母さんに何も返せていない。
人気モデル、ショウ。
俺の源氏名『ショウ』は、本名である『
母さんが俺のことを『しょうちゃん』と呼んでいたからだ。
モデルを始めたのも、母さんに恩返しをする一貫だ。
母さんが交通事故で植物状態になったのは5年前。
俺が高校の授業中、堂々と居眠りをしている時のことだった。
突然体を強く揺すられ、先生に居眠りを怒られると思い込んで飛び起きた。
『すんません』
咄嗟に口を吐いて出た俺の言葉などどうでもいい様子で、先生が鬼気迫った様子で俺に告げた。
『すぐに病院に向かいなさい』
次の瞬間から俺の記憶は飛び、続きの記憶があるのは手術室の前でひたすら祈っている場面だ。
手術はまぁ、上手くいったと言っていいだろう。
しかし、それは母さんが無事であるとイコールではないのだ。
その手術は、一命を取り留めることが目的の手術だったのだから。
母さんは後遺症で、そのまま意識が戻らなくなってしまった。
母さんを轢いた相手は当然捕まった。
原因はよそ見運転。
運転中、取引先からの電話に慌て、携帯を取ろうとしたとき目の前の横断歩道を渡っていた母さんを轢いてしまった新社会人。
俺へ泣きじゃくりながら土下座をしてきた。
若い男性だった。俺とそう大差ない年齢の男。
真面目そうで、普段は優しいんだろうなと思えるような好青年。
正直、その時の記憶はあまりないが、今の俺に、相手に対する殺意や恨みの無さからその時俺は、そいつを許したのだと思う。
完全に相手が悪いなら俺のこの気持ちのやり場も多少あったのだろうが、俺は相手に同情してしまった。
それに、まだ母さんは生きている。
俺に出来る事はまだ残されているのだ。
俺はそこから母さんの為に何が出来るか、混沌とした複雑な心情の中で考えた。
とりあえず、今までのらりくらりとやり過ごしてきた勉強に手を付けた。
もう俺に甘えられる人は居ない。俺がしっかりしなきゃ。
そう思い、母さんの見舞いに足を運びながら勉強を無我夢中でした。
そこで、看護学校へ行こうと思い立ったのだ。
母さんの状況を少しでも理解するため。
少しでも救うため。
本来なら医者を目指したいところだったが、高3の夏に勉強を始めるには間に合わなかった。
成績オールCからまともに受験できる成績まで伸ばすので精一杯だったのだ。
そんなこんなでちゃらんぽらんから見事看護学生にレベルアップできた訳だが、それでも母さんを救うことにはならなかった。
大学2年の夏。
街中をうろうろしていると、声を掛けられた。
『ねえ君、モデルしない?』
清潔感のあるひげを整えたおじさん。
怪しさは特になかったが、人前に出てあれこれするなど自分の性に合わなかったからその場で断った。
しかし男はしつこく、何かあれば連絡しろと言うので仕方なく連絡先だけ交換しておいた。
数日後。
たまたまSNSで流れて来たドキュメンタリー番組の切り抜き。
巨額のお金を掛けて、難病の子供がアメリカで手術を受ける話だった。
俺はこれだと思った。
金があれば、母さんを救う事ができるかもしれない。
気付けば俺は、先日の男に電話を掛けていた。
それが、モデル『ショウ』の始まりだ。
俺は母さんの手に額を乗せる。
「母さん・・・・もう少しだよ・・・・」
潮はそろそろ満ちていた。
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