35 グリンとフラン
グリン達が夕食の魚料理を堪能したその夜、フランと名付けたヤマネコは知らぬ間に居なくなっていた。
誰よりもリリナは残念がったがすぐにまた会えるだろうとイルヴァになだめられて納得した。
皆が寝静まった夜。グリンはゆっくりと目を開く。
両脇から伸びるリリナとシトラの手をかいくぐると、体を滑らせて寝床から抜け出した。二人が目を覚ます気配はない。
グリンは階段を降りると、何かを確信したように真っ直ぐに玄関へと向かう。
扉を開けるとそこに座っていたのはフランだった。
「……フランは僕を連れ戻しに来たの?」
フランは「ミャア」と短く鳴く。暗闇の中で月明りを浴びた毛並みが怪しく光輝いていた。
「僕はここの人達に恩がある」
「……」
森の木々が風でざわつき、流れる雲で月が遮られた瞬間にフランの灰色の瞳が怪しく輝いた。
「わかった。でもまだやることがある。一週間待って欲しい」
一声鳴いてフランは暗闇の中へ消えた。
しばらく立ち尽くしていたグリンはゆっくりと扉を閉めて家の中へ戻った。ふらふらとした足取りでグリンはソファに座る。遂にこの時が来てしまった。
フランはグリンを迎えに来た竜の一族だったのだ。他の生物に変身できる能力を持つ竜がヤマネコの姿になることなど容易く、竜の体質に魔力は用いない。
グリンは最初からフランの正体に気が付いていた。グリンは山猫にフランと名付けたのではなく、そのまま名前を呼んだだけだった。
フランが迷うことなくグリンの要求を呑んだのは自分が高みにいるからこその余裕だろう。竜の姿に戻ることもなく押し黙り、ずっとヤマネコの姿のままだったのがその証左だ。
その時、グリンの背後に歩み寄る人影があった。流れるような金髪の持ち主はイルヴァだった。
「……グリン、すまない。聞くつもりはなかったんだが聞こえてしまった。フランのことが気になって、万が一に備えて奥のシアの部屋にいたんだ」
グリンは手の甲を口に当てて考える素振りをすると、薄く微笑んだ。イルヴァは見たことの無いグリンの大人びた表情に見とれてしまう。
「気にしないでいい。温泉に行こう」
グリンはイルヴァと二人きりで話がしたかった。この家にやって来てからグリンは裏庭の温泉に入る度にリリナの身の上話や愚痴をたくさん聞かされてきた。グリンにとって誰にも邪魔をされずに悩みを相談できる場所を考えた時、真っ先に思い浮かぶのが風呂だったのだ。
「温泉!? そ、そうだな。うん、是非もないか……」
珍しく動揺するイルヴァの姿に、他人に裸を見せることに対する羞恥心など一切ないグリンは不思議そうに首を傾げた。
夜更けにひっそりと二人は裏庭の温泉へとやってきた。グリンは寝巻きのパジャマと下着を脱ぐと手早く真っ裸になる。
かたやイルヴァはぎくしゃくしながら黒のワンピースを脱いだ。そのまま、きめ細やかな刺繍が特徴的な紺色の下着の肩紐に手をかけるが動きが止まる。
「もう一度身体を洗った方がいい?」
そんなイルヴァの様子を気にした風もなく本日二度目の入浴になるグリンが疑問を口にする。
「いや、人の肌は繊細だからあまり身体を洗い過ぎるのも良くない。さっき入浴したばかりなのだから軽くお湯で流す程度で構わないよ」
「……それじゃあイルヴァの髪を洗う?」
(ええ!? なぜ!? リリナとシトラはグリンに毎日何を、どこまでやらせているんだ!?)
「いや、うん……。私は大丈夫だからグリンは先に温まっていてくれ」
グリンは頷くと湯を桶で掬って身体にかけ、ゆっくりと湯の中に身体を沈める。身体から力を抜いて天を仰いぐ様子はすっかり慣れたものだった。
かたやイルヴァの肌は入浴前から赤く上気しているように見えた。普段、雲のように白い肌をしているので尚更それが顕著だった。
くつろぐグリンを横目に、イルヴァは意を決して下着を脱ぐ。張りのある形の良い胸を隠しながら体を洗い流すと、身体を縮こませながら乳白色の湯に足を延ばした。
イルヴァが湯に浸かったのを見てすぐ隣にグリンが寄ってくる。
「この湯に入るのも本当に久しぶりだな。さて何から話したものか。あのヤマネコ──ひゃい! ああ、肩が当たって少しびっくりしただけだから大丈夫だ。ふ、フランの正体は……」
裸になってからどこか様子のおかしいイルヴァに首を傾げながら、グリンは彼女の質問に答えた。
「イルヴァの想像通り、フランの正体は僕の同胞。竜は自分の姿を意のままに他の生物に変身させることができる種族だから」
「……やはりそうか。抱きかかえた時にフランからは邪な魔力は感じられなかった。だが一応グリンに判断を仰ぎたいと思ってな。竜の力なら魔力を感じないのは当然だ。それであの竜は姿を変えてまでグリンのことを──」
「彼女は僕を天界へと連れ戻しに来た」
耳に届くグリンの声があまりに淡々としていたのでイルヴァは動揺した。グリンは天界に帰る気はないと言っていたが、あちらから迎えに来られては話が変わってくる。
続け様に「さようなら」という言葉が零れないかイルヴァは気が気ではなかった。
「……そうか、グリンを迎えにか」
イルヴァは言葉を続けることに怖さを感じた。永い時を生きてきた魔女が臆病な少女のように黙りこくる。微かな沈黙の後、先に口を開いたのはグリンだった。
「でも僕はまだ天界には帰らない」
「本当か!? ああ、良かった!」
イルヴァはあまりの喜びにグリンを思い切り自分の胸に抱きしめた。柔らかな乳房にグリンの顔が強く押し付けられる。グリンはなされるがまま押し当てられる感触に目を瞬かせた。
「……すまん。つい感情的になってしまった」
自分でも驚く大胆な行動にイルヴァは身体の奥底が熱くなるのを感じるが、抱きしめたグリンを今は離したくなかった。そのままグリンの身体を横にして抱きかかえながらグリンの話を聞く。まるで赤子に授乳をするような体勢だったがグリンはなされるがままだった。
「フランは僕が天に帰ることを拒めば力づくでも連れて帰ろうとする。だから先に一週間だけ時間をもらった。彼女は約束は守ると思う」
「真っ先に実力行使に出ないのは余裕の表れなのだろうな。──って、『彼女』? グリンの行方を追いかけてきた竜は女性なのか?」
「そう。天界で唯一僕より若い竜」
「……そうか、まあ今はそのことはいい。竜本来の力を使えば私達の元からグリンを連れ去ることなど容易いはずだが、わざわざヤマネコの姿に変身してグリンに近づく目的が何かあるのだろうな」
「フランが慎重になっているのは僕が人の姿になっているのが予想外だったからだと思う。それか、僕がフランにどういう対応をするのか面白がっているのかもしれない。でも一週間経てばフランは必ず僕を無理やりにでも連れ戻そうとする。そこで僕が天界に戻ることを拒めば戦いは避けられない。だからその時の為に僕は『本物の魔女の魔法』を学びたい」
聞いた事がないほど饒舌なグリンに、イルヴァは事態が急を要することを把握した。
「私が力になれるのならいくらでも、今すぐに力を貸すよ」
「僕には戦いを治めるための魔法が必要。それはイルヴァの魔法のような魔法だから」
自分の腕の中で穏やかに微笑むグリンにイルヴァは心臓を鷲掴みにされた想いがした。普段は冷静沈着な一国の女王だがもはやその面影は消えようとしている。奇しくもその姿は手塩にかけて育てた女王親衛隊長の姿に似ていた。
(大変な時だがこの愛らしさは反則だろう!? それに私も裸を見せて気恥ずかしい思いをしたのだから、少しくらい役得があってもいいはずだ! そうだ! 私の魔力をグリンに与えるという名目でグリンの身体を……)
イルヴァが悪い魔女のように、にやりと口角を上げた──瞬間、背後から物音がした。
彼女がすぐさま強くグリンを抱きかかえ問答無用で敵に魔力を爆発させようと身構えたその時、リリナの家のそばから飛び出してきた影は見覚えのあるものだった。
「ちょっとイルヴァ様! 夜中にこっそりグリン君を独り占めだなんて、女王の特権にしてもほどがありますわ!」
「もう、イルヴァさん。私とは恥ずかしがってお風呂に入ってくれなかったのに! グリンとはいいんですね!」
重なる二人の声にイルヴァは我に返り毒気が抜かれたように湯の中へ身を沈めた。グリンはリリナとシトラを見てぼそりと呟く。
(二人をフランとの戦いに巻き込みたくない)
(……わかった)
夜更けに一緒に温泉に入る怪しさにリリナもシトラもつい飛び出してしまったが、想像以上に二人の距離が近いので呆気にとられる。
シトラに背中を押されたリリナが代わりに何をしていたのかをイルヴァに尋ねると「魔女の魔法を学ぶ決心のついたグリンに魔法の講義をしていた」とのこと。
両手でグリンの耳を塞ぎ、「決して! いかがわしいことじゃないからな! お前らとは違うぞ!」と付け足すイルヴァに心当たりが複数あるリリナとシトラがそれ以上追及する術は無かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます