刮目、そして異世界より帰還せよ
マキノゆり
プロローグ
目を開くと、高い天井が見えた。
後頭部が鈍く痛む。
窓の外はというと、緑の丘や草地が広がり、遠くには相当高いと思われる山が連なっている。
(ここはどこなんだろう)
そう思った瞬間、昨日の記憶が蘇ってきた。
明は昨日、恋人の
唯奈と付き合い始めたのは二か月くらい前だ。学生時代から行きつけのバーがあるのだが、彼女とはそこで知り合った。スレンダーでバランスの良い身体つき、表情豊かでよく笑う唯奈に、明は一目惚れしたといってもいい。
マスターに探りをいれて彼女に彼氏がいないのを確認し、告白したのが二か月前。そして、昨日がちょうど記念すべき初のお泊りの日だったはずだ。
初のお泊りなので、奮発してリゾート地の良い感じの旅館を予約した。温泉宿は唯奈が嫌がるかとも思ったが、よく手入れされている旅館だったからか、意外と喜んでくれて明もホッとしたのを覚えている。
そこまで思い出して、明ははたと気付く。
夕食を食べて、その後二人で温泉に入ろうとしたのだが、その後の記憶が無い。
おかしい。
お互い社会人なのだが、仕事に追われてお互いの家に通う暇もなく、ほとんど電話かメールだった。本当にその日が初だったのだ。覚えていない訳がない。
ふと記憶のかけらを掴んだ気がしたが、同時に鈍い頭痛に襲われ、明はうめいた。
うめこうとして、口の感覚が無いことに気付いた。
(……え? 俺って、口あったよな)
慌てて何か喋ろうとする。口を開いているつもりだが、声が出ない。手で口元を確認しようと、右手を口元に持っていった。いや、持っていったつもりだった。
(え!? 腕? 俺の腕! 無い、無い!)
あるはずの腕が動かない。しかも、あるのかどうかすら判らない。
おかしい、何かがおかしい。
明はだんだんと、恐ろしく心細くなってきた。
俺、生きてるよな? 心臓の音がするはず、するはず…………
建物中は、しんと静まり返っている。
風がそよぎ、その風にのって窓から蝶がひらひらと入り込んできた。日本で見る蝶と異なり、下の方についている小さい
その蝶が、風に揺れて落ちる木の葉のように、ゆぅらゆらと揺れながら明の胸の上にとまった。目を下に向け、蝶を見る。見えにくいが、恐らく明の胸のうえだろう。
(うわあぁああぁ!)
耐え切れず、明は叫んだ。蝶をのせてるはずの胸は上下せず、いくら耳を澄ませても身体の中から脈打つ鼓動は聞こえなかったのだ。
(誰か……誰かー!!)
無い口を精一杯開き、明は叫んだ。叫んだはずの声はこの空間のどこにも反射せず、胸元と思われるところにとまる蝶も飛び立たない。
(誰か、誰か助けてくれー!)
怖くて涙が出そうだが、そもそもこの目だって本当に見えてるのだろうか。明はパニックに襲われ、必死に助けを求めた。
何度か叫び、それでも目の前の天井は静かで、空気を舞う小さな埃が窓から入る光に照らされてきらきらと光っている。
そもそも、なぜ誰も俺の声が聞こえないのだろう。誰一人として来る気配が無いし、そもそもなぜこんなに静かなのか。動揺し、揺れる視界を必死に窓の外に向けた。さっきは目覚めたばかりで気付かなかったが、窓の外には草原が広がり、片方には地平線、もう片方には唐突に凄まじく高い山脈が連なっている。
間違いなく日本の風景ではない。そう確信した瞬間、遠くで馬らしき
誰か来た!
誰か来たというより、この状態では誰が来たのかが大事なのだが、明はそこらへんはもうどうでも良くなってしまっている。その音は段々と近づいてくる。そして、何やら人の声や笑い声のような音も聞こえてきた。
(た、助けて! 身体が変なんだ。さっきから全然動かせない……)
やっと人が来たんだ。この機会を逃してなるものか。
明は必死で声を上げた。
(助けて、ここ、俺はここだ! 身体が動かないんだ、何かケガしてるかも)
何人かが建物の前まできたようだ。そして、何やらカシャンカシャンと、金属が打ち当たるような音が聞こえる。足音も重々しい。そして、何だか……臭うようだ。
(なんか臭いぞ……いや、それより助けてくれ! こっちだ!)
重々しい金属音を伴う足音が真っすぐ向かって来る。
(良かった……俺は、斎藤明って言います……、あ、英語? アイム、ジャパニーズ)
「エルド公、スイカの実分けてやるから、場所借りるぞ」
「ああ、お願いする。まな板はあるか?」
「出しっぱなしだぜ。しまっとかねえと埃かぶるぞ」
明の目の前に、ぬっと人影が現れた。
人の形をしているようだが、顔は……。
次の瞬間、明は体をがっしと捕まれ持ち上げられた。そしてまた台の上に叩きつけられる。衝撃に虚をつかれて、明は呆然と、目の前の生き物を見上げた。
(ひいいっ‥‥何こいつ、何)
男は、ファンタジー映画によく出てくる獣人のような風体であった。毛むくじゃらの、ライオンに似たたてがみを持ち、突き出た口元からは鋭い牙が見え隠れする。
獣人は、明の上に何か丸い果実らしきものを載せた。
「オルドゥン、包丁使うか?」
もう1人の声が近づいて、目の前の獣人に木の箱を手渡す。
「おう、あの有名な
「ああ。スイカの実を分けて貰う礼だ。使ってくれ」
声の主に頷いて、獣人は白っぽい木の箱を
(おい‥‥まさか、切るつもりか)
獣人が明の腹の上にある果物を手で押さえる。そしてそのままその上に包丁当てた。
(え‥‥? ちょっと待て、おい、それ危ねえって! 切ったら俺まで切れる!)
明の必死の叫び声も、獣人には届かない。男の顔がさらに近づき、包丁に力が入り、腹の上にさらに重い衝撃が加わった瞬間、明は叫んで気を失った。
世の中、一寸先は闇だなんてよく聞く言葉だ。
でも、今の日本でそんな状況になるなんて、そう多くはないだろう。あったとしても因果応報ってやつだ。あとはプライドの問題だ。
明はぼんやりと天井を見上げていた。
まだ死んではいないようだ。
死んでないどころか、身体は綺麗に洗い清められ、窓枠に斜めに立てかけられている。窓から流れてくる風がとても気持ちいいが、今考えるのはそういうところじゃない。
さっきは横になっていたが、姿勢が変わったので部屋の中を見渡すことが出来た。今いる場所は、斜めに洗い場、目の前に
隣合う部屋の中が見えるが、そこにはさっきのライオン頭の獣人と、もう一人、こちらは人間の顔をしているが、通常の人間と異なり、尖った耳が髪の毛の中から突き出している男がいた。いわゆる「エルフ」という生き物だろう。何やらさっき切り分けた果物を一緒に食べているようだ。
明はあまりファンタジー系に興味は無いが、映画やゲーム、漫画など、ファンタジー系は
俺が知ってる限りのファンタジーものと、今のこの状況から察するに、もしかしたらだけど。仮説だけど。
(俺って、転生しちゃった?)
(よう、目が覚めたか)
突然隣から声をかけられ、明はうおゎっ!と声をあげた。
(脅かしてしまったかな、申し訳ない。ここだよここ、お前さんの隣)
恐る恐る横に意識を向ける。見えたが、そこにはさっき明の腹に叩きつけられた中華包丁しかない。見える範囲で必死にきょろきょろする。
(誰だ? どこにいる?)
(だから、お前の横にいるだろって)
(え? いねぇよ。どこなんだよ)
声の主は、はぁーっと溜息をついた。
(気持ちは判るが、まずは現実を見て貰わないとな。お前、横見てみろ)
(何だよ! 見たぞ! いねえじゃん)
(反対だ反対。この野郎、往生際が悪いな)
明は先ほど向いてた方向の反対に視線を向けた。そこには先ほど見ていた風景と同じく誰もいないし、違うのはさっきの中華包丁が立てかけてある事だけである。
(やっと見たか。初めましてだな)
(え……包丁しか、ないよな……。おい、どこに隠れてんだよ!)
(この期に及んでまだ認めんか)
声はまたわざとらしくはぁーっと溜息をつく。
(お前の目の前にある包丁、それが俺さ。ここでは
(え!? は?! なんでイタリア人? なんで中華包丁?!)
(なんだ、お前は中国人か? 別に、お前らだってパスタ喰うだろうし、フェラーリだって乗るだろう、このくそったれが)
(そこじゃねぇ、切れんな! それに俺は日本人だ!)
え、そうなの、と中華包丁が少し戸惑ったような様子を見せた。アジア人は全員中国人に見えるクチか。
(取り合えず、今の状況を確認したいんだ。俺は斎藤明、24歳、日本人の男だ。俺は昨日まで、確かに日本に居たんだ。でも、昨日の夜の記憶が無い。……で、ちょっと恥ずかしいが……俺は、もしかして…………ああ、言い辛いな、本当に。……俺は今混乱してるんで、違ってたら笑ってくれ。この状況を見るに、俺はいわゆる異世界転生って状況にあると思われるんだ)
(ああ、当たってるぜ)
中華包丁はあっさりと肯定した。心なしか、ただの中華包丁なのに腕組して立ってる様子が目に浮かぶ。
(で、お前が何に転生したか、とっとと教えてやる。もしかしたら薄々察してるかもしれないが、思ってたのと違うって怒るなよ? あくまで俺は事実を言っている。イタリアでも地球上のどこでもねぇ場所で、日本人相手に冗談言っても仕方ねぇからな)
(わかってるって! 早く教えてくれ! 俺はゴブリンでも伝説の魔剣でも何でも)
(お前、まな板。まな板に転生したの。今日から相棒って呼ばせてもらうぜ)
居間で談笑していたオルドゥンとエルド公は、台所から派手に物が落ちる音がしたのに気付いた。台所に行くと、さっきスイカの実を切った後で、洗って立てかけていたはずのまな板が、床に落ちていた。
「? 落ちるような置き方したかな。すまんな、エルド。新しいまな板を落としちまった」
「構わんさ、問題ない。……でも、初めて見るまな板だな。どこぞからの
丁寧に塵を払ったまな板を元の場所に戻しながら、オルドゥンは笑った。
「一人でに動く物には、精霊の加護が宿ってるそうだ。持ち主のお前にも、加護があるかもしれないぞ」
エルド公は、形の良い顎に指を添え、軽く首をかしげた。
「でも、切丸のほうはともかく、まな板はなぁ」
「そうだな、まな板のご加護ってなんだって話だよな」
二人は笑い合いながら、居間へ戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます