オフィス内エベレスト

タイダ メル

第一話

 コーヒーを飲みながら、事件の資料に目を通す。

「旅行ってそんなに楽しいものなのか?」

「楽しいですよ。今度一緒に行きます?」

 後輩の田島が仕事中だというのに、スマホでどこかの旅館の予約ページを提示してみせた。なんて迅速な対応だ。

「いや、そうじゃなくて。これ」

 被害者の情報を指し示して、続きを話す。

 山本晋次、二十九歳。ITベンチャー企業のプログラマー。最近はVRのプログラム開発をしていた。

 開発中だったのは、昨今の情勢を鑑みての「気分だけでも旅行に行こう!」という、VR空間でいろんな観光地に行ける、という代物だ。

「VRがいくらすごいって言ったって、結局は映像だろう? ここまでして気分だけでも味わいたいくらい楽しいのかな」

「いや〜、わかってないっすね先輩。これさえあれば、ピラミッドでもピサの斜塔でも南極でも行き放題じゃないですか。いくらでもペンギン見に行けるってすごくないですか」

「でもただの映像だろう?」

「時代の波には乗っとくもんですよ。証拠品の検分って言ったらその試作品のVR、ちょっとやらせてもらえないですかね?」

 全く呑気なものである。

 被害者は、そのVRを見ながら死んでいるのが見つかったというのに。

「やりたいのか? 死人が出たんだぞ」

「先輩だって「ただの映像」だって言ったじゃないですか」

 おそらくは、殺人事件だと思われる。

 被害者の山本は、件のVRの作成のために、ここのところ会社に泊まり込みだった。そして、土日休みが明けて他の社員が出社したところ、VRゴーグルをつけたまま死んでいるのが発見された。

 死因は凍死。検死の結果、高山病の症状も見つかっている。VRの映像はエベレストに設定されていた。

 高山病を患いながらの凍死。本当にエベレストに行ってしまったかのようだ。

 思い込みで人が死ぬ。そういうことも、絶対にないとは言い切れない。

 目隠しをした状態の人間に熱したアイロンのスチーム音を聞かせ、その後で全く熱くもなんともないスプーンを腕に押し当てる。すると、「アイロンを当てられた!」と思い込んだその人の腕には火傷が……、ということもあるにはあるらしい。

 が、さすがにそれはない。

 いくらVRがリアルだからって、映像を見ただけで凍死するわけはない。なにかしらの方法での他殺に違いない。

 雪山に行かなくたって、体の弱い老人やまだ小さい子供が、寒い夜に暖房をつけずに凍死する例がなくはないが、それだって特に寒い地域の話だし、被害者は健康な成人男性である。しかも死体が発見された現場は普通のオフィスである。

「被害者はなんらかの方法で人為的に凍死させられた。で、その後で死体にVRゴーグルを被せられた。そういうことなんだろうけど、凍死させた方法がわからないな」

「そうですね。わかんないです。なんかめちゃめちゃ寒い部屋に閉じ込めたとか? でっかい冷凍庫とか」

「あのオフィスにも、オフィスが入ってるビルにも、そんなことができる設備はない。一応冷凍室のあるスーパーとか飲食店とかも調べて回ってるけど、どこも不審な点はなかった」

「うーん、じゃあ、あれ! でんじろう先生が使ってためっちゃ冷たい水あるじゃないですか。あれに漬け込んだとか?」

「……液体窒素のことか?」

「そう! それです! それに漬け込めば、街のど真ん中の普通のオフィスで、人を凍死させられるんじゃないですか?」

 不可能ではない。温度もマイナス百九十六度と申し分ないし、値段は張るが案外簡単にネットショップなどで手に入らなくはない。が、少しばかり難しい。

「確かに、可能だろう。でも、液体窒素は温度が上がるとすぐに気化してしまう。人体の温度は三十六度。液体窒素が人体に触れると一気に温度が上がり、気体となって膨張する。そういう液体に生きてる人を沈めるとどうなると思う?」

「……。どうなるんですか?」

 恐る恐る、といった様子で田島が聞いた。

「まず、一瞬手を突っ込む程度なら、液体窒素に触れても大丈夫なんだ。窒素は液体から気体に変わり、気体が手を覆って冷たい液体から守ってくれる」

「へー! すごいですね!」

「危ないから絶対にやるなよ」

「えっ、でもちょっとなら大丈夫なんですよね?」

「……絶対やるなよ?」

 不安である。

「で、話を戻すとして。そういう現象が起きるくらい、液体が気体に変わる時、体積がすごく増えるものなんだ。沈められて溺れて飲み込んだら、内臓が破裂する。胃袋とか。そういう報告は上がってない」

「げっ、怖っ」

「それを避けるためには、顔だけ液体から出した状態で漬ける必要があるんだけど、そんなことをしたら顔だけ凍傷を負っていないことになる。そういう報告も上がってない」

 死んだ後で顔も窒素で冷やしたとしても、鑑識が調べれば死体の損傷が生きているうちに負ったものか、死んでから負ったものかがちゃんとわかるはずだ。

「そもそも、液体窒素じゃ高山病にはならないしね」

「うーん、じゃあ違いますね……。今のところの情報だけだと、本当にエベレストにでも行ってた、って説明が一番自然ですよ」

「いやー、さすがに無理でしょ。何キロあると思ってるの」

 この後は、参考人の話を聞くことになっている。

「田島、参考人に話聞く前に一息つきたいから、コーヒー入れてもらえるか?」

「はーい、了解です」

「あ、あと、いつもよりちょっと熱めってできるか?」

「できますよー。なんすか? 先輩ビビってるんですか?」

「いいじゃないか。気分だよ気分」

 一息ついたら、約束の時間だ。

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