四日目②
「いい湯でした。あ、浴槽の水は流して軽くハイターをしておきましたよ」
「ありがとうございます。そしてこの本も面白かったですね」
寝転んだ姿勢から立ち上がり、読み終わった本を返す。
……てっきり慣れたものかと思っていたのだが、床での長時間の仰向けで背中と腰が痛い。鈍痛が走るが、手で抑えながら笑って誤魔化す。その時の黒咲の表情がふと悲しげに見えたが、直ぐに笑みを浮かべていた。
一体何を哀しく思ったのだろうか? 無遠慮に聞ける話か判断するには材料が足りない。今はノータッチで行こう。
「それは良かった。著名な小説家が書かれている本なので、多々良部さんも読んだ経験がお有りかと少し不安でしたが、楽しめていただけたのならば幸いです」
軽く口を隠し、優雅に微笑むその姿は正に聖女。”黒聖女”だけど。ちなみに寝間着も黒色だし。
そして十分間だけ、僕達はその本について語り合った。
作者について。主人公は場面毎にどのような心情だったのか。トリックは現実でも可能かどうか。続編が出るとしたらどのような内容なのだろうか。
……こんな他愛もない会話を出来るなんて、初日の僕は思いもしなかっただろう。此処に至る過程で、少し傷つき、いがみ合い、勇気を出さねばならない場面があった。それらを乗り越えて、僕と彼女はこの関係に落ち着いている。そのことを誇りに思う。
「では部屋の電気を消しますね」
そう言って明かりを消そうとすると、スイッチに手をかけたところで、黒咲から待ったがかかる。そして次に放たれた言葉は、僕の想像を超える発言だった。
「待ってください。今日は互いの寝る場所を交換しませんか?」
「えっと……それはつまり、僕がベッドで寝て、黒咲さんが床で寝るってことですよね? 止めたほうが良いですよ」
笑顔でそう断った。しかし彼女は引き下がらず、逆に言い返してきた。ズズッと身を前に乗り出してきてるのは珍しい光景だ。
「し、しかしずっと多々良部さんが床で寝ておられると、貴方の身体が不安になってしまいます」
「慣れてきましたし大丈夫ですよ」
「先程腰を抑えていましたね? それについてはどうご説明をなさるのですか」
どこかムッとした表情でもっと詰め寄ってくる。初めて見る顔にドキッとしてしまった自分を内心で殴り、心を落ち着かせた。
だが視界に黒咲の寝間着が無理にでも入り、雑念が次々に湧いてくる。今までは彼女の寝間着に興味を持てるような精神状態ではなかったので、何故か新鮮に感じてしまうのだ。
寝間着は黒いシャツと黒い短パン。黒ということで地味に思えるかもしれない。しかし、服を用意した誘拐犯と服を選んだ黒咲の両方のセンスが良かったのか、ミステリアスな空気を纏わせるコーデとして成り立っていた。
服だけでなく、彼女自身の身体にも目が行ってしまう。黒咲は胸が特別大きい女性というわけではない。しかし硬い制服で抑えられていない分、膨らみが大きく見える。
短パンからはスラリとした美しい両足が伸ばされていた。白いそれらに目が惹かれる。……言い忘れていたが、彼女は美人なだけではない。スタイルが整っており、足が長く顔が小さいので八頭身のモデル体型なのだ。
無論、テレビの中だと多くの美人やモデルを目にすることがあるだろう。しかし彼女は、自然だ。そうあるべきと思わせられる、と言うべきか。
……さて、話が大きくズレてしまった。何を黒咲の服装と身体について長々と感想を述べていたのか。
まぁしかし、それだけの美人である黒咲は、どうしてこんなしょうもないことに、こうも注力するんだ?
性格が明るくなったと思ったら、黒聖女様は次は別のところで意固地になっていた件について。
申し訳ないが、それが僕への気遣いが原点であれど、面倒くさいことには変わりない。僕が変わらなくていいと言っているのだから、別にそれで良いじゃないか。
初めに床で寝ようとしたのは僕だ。黒咲がベッドに寝ていたからどうしようもなく床で寝たのが始まり。さっきは慣れない姿勢だったことが原因だし……。彼女自身が先にベッドで寝たから僕が床で寝る選択肢しか残されなかった、という罪悪感をもし感じているのなら、それは必要の無いことだ。
「別に変える必要が無いので、もうこの話は止めにしませんか?」
「質問には質問で答えるなと習わなかったのですか? もう既に義務教育課程は終えているはずですが」
訂正、確かに明るくはなったが毒舌は変わらず。
「……腰については、慣れない姿勢で倒れていたことが原因です。だからもう良いでしょう。それで満足しましたか?」
「満足するわけないでしょう。なので私と貴方、双方が満足に至るまでキッチリした話し合いの場を設けさせていただきます」
「そんなのしてたら夜が明けますけど?」
この部屋からじゃ太陽も月も見えないけれども。なんなら夜空すら見えないし。
「ならば多々良部さんが折れてください。大人しくその床を私に譲れば貴方を眠りにつかせることが可能です」
……やれ、重要なことに気付いてないようだ。
「そこまで望むなら折れますけど、それってつまり僕のベッドで黒咲さんが寝て、黒咲さんのベッドに僕が寝るってことですよ」
「……ッ!」
ハァ、本当にその事が心になかったんだな。キョロキョロしだしたところを見るに余程混乱していたのか、又は急に思いついた案だったのか……真相は分からないが、とにかく彼女の決心に揺らぎを与えられた。後はとどめを刺すだけ。
「あと、互いのベッドで寝合うのは男女の友情から微妙に外れてますから。それは行き過ぎた考えですよ」
僕の思う男女の友情を教え、その明確なラインについては伝えていなかった僕のミスだ。彼女に少しでも男を慣れさせてしまった責任として、残りの三日間で彼女が性的な被害に合わないような常識を与えなければ。まぁこれも僕だけの思想かもしれないわけだけど。
「そぅ、そこまで言うのならば……」
ようやっと折れてくれたようだ。囁く声で呟き、元気なく自分のベッドに戻る姿を見た。
……一体どれだけの数、彼女のあんな姿を目撃したのだろうか? 美人だけれども高圧的で、男に対して毒舌を吐くのが日常な彼女が、しおらしく布団に入る様子など誰も見たことがないだろう。
彼女自身が言い、そして自覚しているように、黒咲は美人だ。美人の頼りない姿を見て欲情しない男子は少ないのではないだろうか? この部屋に閉じ込められる前、少なくとも僕と出会って二日以内の彼女ならば、あのような姿を見せることは決してなかっただろう。だが現実は異なる。そして、そうさせたのは僕だ。
美人故に多くの男に狙われ、毒舌故に自分の身を守ってこれた。弱々しい雰囲気を露も感じさせない態度を取ってきたのだ。
そんな彼女を変えてしまった責任を、僕は取らなくちゃならない。
らしくもなく重い事を考えながら、僕も床についた。
「……多々良部さん、起きていますか?」
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