終章 神代も聞かず

第1話 この子をお願い

 新聞を抱えて帰ってきた四郎しろうは、妙に楽しそうな顔をしていた。


「まだまだ世間では噂ですねえ。吉原は花蝶かちょう屋の神隠し、って!」


 人の世に散歩に出かけた彼は、例の騒動を扱った記事を買い漁ってきたらしい。本当のところは調べようもないし、渋江子爵も知らぬ存ぜぬを通すだろうから仕方ないけれど、十六年世話になった千早ちはやも知らない、おどろおどろしい「花蝶屋の真実」とやらが書き立てられていているのには苦笑してしまう。花蝶屋が天罰を受けた理由について、世間はそれらしい由来を探さずにはいられないらしい。


(殺された娼妓が埋められているとか、身代持ち崩した客が呪ったとか……)


 花蝶屋は、良くも悪くも普通の遊郭だったのだろうと、今の千早は考えている。女たちが涙を呑んで身を売るのも、楼主が金に目を輝かせるのも。どの見世でも多かれ少なかれあることで、だからそれへの天罰だというなら、吉原の街全体が灰燼に帰していただろう。


(こうなったのは……あえて言うなら──)


 必死さと偶然の賜物たまもの、だろうか。


 捕まりかけた千早は、必死に助けを願った。家に囚われていた寿々すずお嬢様は、必死に解放を願った。そして、たまたま、人の祈りを待っていた神様が耳を傾けてくれた。偶然が組み合わさったことでこうなっただけで、きっと、大げさに記事にするようなことではない。もちろん、世間の人から見れば大事件ではあるのだろうけれど。


「なんだ、どれも出鱈目ばかりねえ」


 月虹げっこう楼の女たちが見ても、記事が憶測と妄想で成り立っているのは明らかなのだろう。四郎の土産を物珍しげに手に取った姐さんたちは、笑ったり顔を顰めたりしている。幽霊や祟りとあやかしは、また別物ということらしい。


「姐さんたちはもっと綺麗でありんした」

「下手な絵師でありんすなあ」


 猫の幽霊なのか、それともあやかしになったのか──千早には分からない瑠璃るり珊瑚さんごは、挿絵が不満なようで唇を尖らせている。ふたりの頭を宥めるように撫でると、すぐにごろごろと喉がなる音がし始めた。子猫たちは他愛ないのだ。


「写真機を持ってる人は、いなかっただろうしねえ」


 たとえ写真に収めたとしても、色もついていない写真を荒い新聞紙に印刷したのでは、花魁たちの美貌の輝かしさも衣装の煌めきも、舞い散る炎と雪が混ざった妖しい眩さも、とうてい表すことはできなかっただろうけれど。あの時あの場にいた者たちは、いずれ夢のような光景を見たと、語り継いでくれるだろうか。


(きっとそうなるわ。とても、綺麗だったもの……)


 もう何度目か、千早はあの花魁道中を思い出してそっと目を閉じた。彼女を追憶から現在に引き戻すのは、四郎の弾んだ声だ。


「でも、これで見世が繁盛するなら願ってもないでしょう」

「ええ、そうですね」


 火災の恐怖や、怪談めいた報道とは裏腹に、世間の好奇心はあの道中を行ったのはどんな見世なのだろう、という方向にも向けられていた。神か鬼かは分からぬが、あんな美女がいる遊郭に登楼してみたいものだ、と──吉原周辺をうろつく若者も多いようだ。肝試しや物見遊山気分でやって来られるのは少々癪だけれど、月虹楼の暖簾を潜って花魁たちと対面すれば、並みの男なら自然と背筋が伸びるものだ。既に、良い馴染みになりそうな感触の者もいる。


九朗助くろすけ稲荷へのお参りも増えたって言うし……!)


 あの日の花蝶屋で、お稲荷様、という言葉を聞いた者は、吉原のお社にもまだ神様がおわすのだと気付いてくれたらしい。縁結びや失せもの探しなんかを願ってくれる者も現れてくれて、最近の朔は忙しそうだ。祈りの力があれば、月虹楼も当面安泰だろう。


(その間に、明治の世にも慣れていけば良いんだわ)


 あの道中で浴びた、当代の吉原中からの驚きと讃嘆の眼差しは、月虹楼の者たちに自信を与えてもくれた。ひょいと新聞を買いに出かけた四郎のように、今の世の街並みや店先を、それこそ物見遊山感覚で見物に出かける姐さんもいる。葛葉花魁がドレスを着るのも、そう遠い日のことではないかもしれない。




 一件落着、何もかもがめでたしめでたし──かというと、そうでもないのが厄介なのだけれど。


(結局、私の役目って何なのかしら)


 月虹楼の店先を掃き清めながら、千早は心中で唸っていた。人の世のしがらみを断ち切ることはできたけれど、次はこの見世で何ができるか、を真剣に考えなければならない。掃除に裁縫、料理──色々と手伝わせてもらったけれど、彼女でなければできない仕事はなく、手ごたえや適性としてもこれ、というものはまだ見つかっていないのだ。居候の身は情けないから、せめて雑用係としてもう少し使えるようになりたいものなのだけれど。


 意味もなく何度も同じ場所を掃いていると──おずおずと、千早の名を呼ぶ声がした。


「千早──」


 聞き覚えのある声で、また話したい声だった。その主を求めて慌てて顔を上げると、果たして思い描いていた姿が目に飛び込んでくる。


「……寿々お嬢様!?」


 叫ぶと同時に、千早は箒を放り出して寿々お嬢様に駆け寄っていた。女学生の袴姿ではなく、今日は千鳥柄の小袖を着て──なぜか、三毛猫の若菜わかなを抱えている。


(若菜? なんで、連れ歩いてるの?)


 吉原界隈を縄張りにしてはいても、若菜はお嬢様以上の箱入り娘だ。花蝶屋の庭を遠く離れるのは嫌がるのに。とはいえ、猫のことは気になりつつも、寿々お嬢様とは話したいことがたくさんあった。ぐるぐると頭の中で渦巻くことを上手く整理できなくて、千早の最初の言葉は唐突なものになってしまう。


「あの、花蝶屋は見世を畳むって──」


 楼主の悪行の報いを受けたのだと、もっともらしく新聞に書かれていた。寿々お嬢様の願いはこれで叶ったのか。世間からは極悪人のように噂されて、これからどうするのか。聞きたいことは多く、そして直截に問うのは憚られた。曖昧に言葉を途切れさせた千早に、お嬢様は、けれど朗らかに笑う。


「ええ。証文もみんな焼けちゃったんだもの、仕方ないわよね」


 新聞には書いていなかったことをさらりと言われて、千早は目を見開いた。証文は、娼妓の身の上を縛るもので、楼主にとっては財産にも等しい。見世が焼けても証文は焼けないよう、どこも万全の備えをしていると聞いているのに。


「誰も怪我をしなかったのに、丈夫な金庫が壊れるなんて……不思議よね」

「そ、そうですね……」


 若菜を抱えたまま、器用に肩を竦めたお嬢様は、何もかもを承知しているようだった。つまりは、何を燃やして何を遺すのかははじめの意図によるものだったということ。そして、その上でまったく責めたり悲しんだりする気配はない。それどころか、お嬢様はかつてなく晴れ晴れとした表情をしていた。


「でも、私はすっきりしたわ? お父さんも、こうなった以上は違う商売を始めるしかないでしょうしね。田舎に親戚がいるんですって。取りあえずはそちらを頼って──いかがわしいことをしないように、見張ろうと思ってるわ」

「そう、ですか……」


 生まれ育った場所を離れるのは、きっと心細いことだ。一方で、吉原周辺に蔓延はびこってしまった噂を避けられるのは良いことなのかどうか。でも、いずれにしても、寿々お嬢様は遠いところに行ってしまうのだ。何を言えば良いのか分からなくて俯いた──千早の鼻先を、茶色と黒と白の柔らかな毛がくすぐる。


「だから、この子をお願い」

「え!?」


 目の前に突き出された若菜を、千早はどうにか受け止めた。大人しい猫は、抱き手が変わってもうにゃうにゃと鳴くだけで、もぞもぞとした後に千早の腕の中に納まった。少し前までよく遊んであげたのを、覚えているのかどうか。


「無駄飯食らいだし、遠くに連れ回すのも可哀想だし……あんたのとこには、きょうだいもいるって」


 寿々お嬢様が低く呟いたのを聞いて、千早は若菜を抱く腕に力を込めた。瑠璃と珊瑚とこの子の縁は、既に聞いている。禿たちがしきりにお嬢様の猫を気にしていた理由も、それで知れたのだ。きょうだいが一緒に暮らせるのは、きっと良いことのはずだ。お嬢様は寂しいとしても。


「ええ……。あの、きっと喜ぶと思います。大事にします」

「そうしてちょうだい……!」


 若菜を抱き締めて応えると、お嬢様は安堵したように微笑んだ。思い切るためにか、一歩退いて千早から距離を取って──寿々お嬢様はそっと目を伏せた。


「私、あんたに謝らなくちゃと思って。ひどいことを言ったのと、騙そうとしたのと」

「いいえ……! 私は、気にしていません」


 この人のほうも、千早に言いたいことがあって来てくれたのだ。忙しいであろう中、人目も気になるだろうに、若菜を抱えて。もっとはっきりと、気にしなくて良いと信じてもらえるように言葉を尽くそうと思うのに、できなかった。お嬢様とのこれまでと、これからと、もしかしたらあったかもしれないこと。あまりにも色々なことが頭を過ぎって、喉を塞いでしまう。


「それに、ありがとう」


 千早がもどかしく不器用に言葉を探す間に、お嬢様は続ける。


「花蝶屋が燃えたのは私が願ったせい。あと、お父さんが強欲だったから。だからあんたは気にしなくて良いわ。見世の人たちも……行き先については、お父さんとお母さんができるだけ頑張ることだし。……だから、あんたが気にすることじゃないわ」


 言いたかったことを先に言われてしまって、千早は言葉ではなく動作で想いを伝えようとした。若菜を逃がさないようしっかりと抱えて、深々と頭を下げたのだ。


「お嬢様……。はい。私こそ、ありがとうございました」

「何に対してよ? 御礼を言われるようなことはしてないわ」


 軽く顔を顰めて手を振ったお嬢様は、いつもの強気が戻っているようだった。これならきっと大丈夫、だろうか。千早には、信じることしかできない。


「じゃあ、ね。元気で……」


 お嬢様がもう立ち去る気配を見せたので、千早は慌てて声を上げた。


「あの、落ち着いたらまた来てください。若菜の様子を見に……瑠璃と珊瑚も、会いたいと思うので!」

「そうね、できたら、ね。……ここ、どうやって来れたのかも分からないんだけど」


 寿々お嬢様は、怪訝そうに眉を寄せて、辺りの光景を見渡した。吉原で生まれ育ったのに、知らない遊郭が目の前にあるのが不思議でならないのだろう。千早もそうだったから、よく分かる。


「私や、若菜がいれば……縁があれば、大丈夫だと思います。ここは、そういうところなんです」

「そう。じゃあ……また?」


 千早の説明を聞いて、お嬢様は首を傾げながらも別れの言葉を変えてくれた。再会の可能性を残したものへと。


「はい。またお会いしましょう。──お元気で」


 千早と若菜に手を振って歩き出した寿々お嬢様の後姿は、背筋がぴんと伸びていた。きっとお嬢様も、自分の人生を自分の意思で切り拓くことができるようになったのだ。

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