第5話 百鬼夜行の花魁道中
真昼の吉原を、慌てふためいた叫び声が叩き起こした。
「
「何だと!?」
「
この色街に暮らす者で、大なり小なり火の被害を見たことがない者はいない。警戒を促す声は煙よりも早く広がって、最新式の蒸汽喞筒はもとより、古式ゆかしい木製手動の喞筒、
「な、なんだ、これは……?」
しかし、花蝶屋に駆けつけた者たちは、水桶やらさすまたを手にしたまま固まることになった。
花蝶屋の、二階建ての建物は全体が火に包まれている。見ているうちにも屋根が崩れ壁が落ち、心臓も凍る火災の恐ろしさそのものの地獄絵図を描いている。だが──見えない壁でも聳えているかのように、炎は決して花蝶屋の敷地を出ることがないのだ。軒を接する両隣の建物は、何ごともなく、昼の遊郭の侘しさを漂わせたまま、黙然と佇んでいる。その異様さに、誰もが息を呑んで動けなくなってしまったのだ。
「助けてえ!」
燃え盛る花蝶屋の暖簾を掻き分けて、娼妓がひとり、飛び出してきた。その女の背に、燃え落ちた木材が降りかかるが──
「あ、危な──」
これもまた見えない手が動いたかのように、赤熱した炭のようになった木材は、不自然に軌道を変えて地に転がった。女には、傷ひとつない。
「おい、いったい何が起きたんだ?」
寝ていたところを跳び起きたのか、襦袢一枚の姿の女を囲んで野次馬たちは口々に問いかける。その女は、寝惚けまなこのまま、首を振るだけだったけれど。
「あたしたちも何が何だか……」
燃える花蝶屋から逃れた者たちは、その後も続々と現れた。皆、恐怖に顔を引き攣らせ、身の回りのわずかな品を抱えただけの着の身着のままで──そして、一様に無傷で、尋常でない火災を外から見て初めて気付いて目を瞠っていた。
「内所で、楼主様とお客が話していたところらしいんだけど」
「天罰だよ! 悪どいこともしてたからさあ」
「お稲荷様が、って聞こえたよ。神様は見てるってことじゃないのかい」
その楼主はいったいどうしているのか、と。当然のごとく湧く疑問に、花蝶屋の娼妓たちは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「あたしらの証文が大事なんだってさ」
「命あっての金だろうに、ねえ!」
彼女たちの借金の詳細を記載した書面は、普通は火災にも耐える金庫にしまっておくものだが。実際に火災に遭えば気が動転することもあるのだろう。守銭奴をあえて助けに向かうのも気が進まないし、そもそも不思議の炎は、どうやら人に燃え移ることはないようだし──ならば事態を見守ろうか、という空気が辺りには漂った。避難した花蝶屋の者たちと、消防に駆けつけた者たちと、野次馬と──吉原中が集まったのでは、という大人数が見守る中で、花蝶屋の建物は天を衝く黒煙をあげ、崩れ落ちていく。
燃え尽きた木材は地に黒く積もり、熾火がそこここで赤く燃える。その燻る炎を、さくり、と軽やかな音を立てて黒塗りの高下駄が踏み躙った。
「なんだ……?」
「まだ人がいたのか?」
楼主はまた別として、見世の者は全員逃げたのではなかったのか。野次馬たちの疑問に、花蝶屋の者たちは一斉に首を振る。彼ら彼女らも逃げ遅れた同輩に心当たりはないのだ。ではいったい何者なのか──怖れを孕んだ疑問の眼差しは、すぐに讃嘆のそれに変わった。
「ああ……」
呆けたような呻きは、誰の口から漏れたものだろう。あるいは、その場にいた者の全員か。言葉を失うほどに美しい──幻のような光景を前にすれば、人はひたすらに見蕩れて溜息を吐くことしかできなくなるのだ。
先頭にいるのは、一対の禿。双子なのか、鏡合わせのようにそっくりの顔をした童女がふたり、それぞれ青と赤の振袖を纏ってつんと澄ました顔で露払いをする。桃割れに結った髪を飾る、桜を模した簪の合間から、白と黒の猫の耳が覗いているのはいったいどうしたことだろう。
次に現れたのは、定紋入りの提灯を下げた番頭風の男だった。月の中に束稲──そのような紋を掲げる見世が吉原にあっただろうか、と。観衆が首を捻るうち、眩い輝きがふたつ、その男の後ろから現れた。
地上に太陽が降りたかのようなその輝きは、豪奢な
今の吉原に生きる者は、初めて見る者も多かっただろう。一歩ごとに花魁が踏み出す足の、意外なほどの力強さ。白くちらりと覗く踝の艶めかしさ。重い衣装を纏って涼しげに歩むために、彼女らの全身からどれだけの気迫が漂ってくるか。高下駄を履く分、花魁たちの仕掛の裾は長く厚く作られている。外八文字とは、その裾を蹴り立ててその艶やかさを見せつけるための足の運び方なのだ。薔薇の風情のほうは、炎を纏った鳳凰。牡丹のほうは、天翔ける龍。いずれの花魁も、身体の前で抱える帯はもはや一幅の絵画のような幅と豪華さだ。座敷の中で座っていては、その美を愉しむことなどとうていできない、花魁道中のためだけの華やかな装い──それが、たまたまその場に居合わせただけの有象無象の前に、惜しげもなく披露されている。
江戸の御代もかくやの、花魁道中が明治の吉原に顕現していた。それも、美しいだけではない、怪しくも恐ろしい──その列に連なる者は、どれもただの人間ではないようだった。
「あ、あれ……角、だよな……!?」
花魁に傘をさしかける若い衆は、額に牛のような角を戴いていた。鬼だ、という喘ぎがどこからか漏れる。
それだけではない。
これは、百鬼夜行の花魁道中なのだ。魅入られた者たちがようやくそうと呑み込む間に、行列は粛々と進んでいく。花蝶屋の残り火のことなど、もはや誰も気に留めていない。
行列の最後にいたのは、意外なほどに平凡な容姿の小娘だった。年のころは十六、七か。江戸の御代ならいざ知らず、今の吉原では娼妓になるには幼過ぎる。菖蒲の模様の着物も、余所行きとしては悪くないものの、花魁の仕掛の豪華絢爛さには遠く及ばない。ただ──その娘の顔かたちは、この界隈では多少、知られていた。
「おい──あれは、花蝶屋の下新じゃないか? 懸賞金が懸かってるっていう!」
「あ、ああ……確かに千早だが、なんであそこに……?」
密かに出回っていた似姿の絵に、その娘はそっくりだった。興奮した様子の男に肩を叩かれて、花蝶屋から焼け出された若い衆が頷きつつも首を傾げる。だが、尋ねた相手はその怪訝そうな表情に構わなかった。
「懸賞金の話はまだ生きてるな!? あの娘、何か知ってるかもしれない!」
尋常でない事態が続いて、混乱していたのもあるのだろう。そこに金を得る好機だと閃いて、それ以外のことが考えられなくなったのか。娘がいたのが行列の最後尾で、まわりに異形の者がいなかったのは、幸か不幸か──男は、列に近づくと娘の肩に手を掛けた。
「お前、今までどこにいたんだ!? 神隠しにでも遭ったかと──」
馴れ馴れしく図々しく、男は娘を振り向かせようとした。だが、できなかった。
「う、うわっ!?」
火花が激しく散って、男は手を跳ねのけた。花蝶屋の者たちを誰ひとりとして傷つけなかったあやしの炎が、その男の指先だけはしっかりと焦がしていた。赤くなった手を抑えて、呼吸を荒げて、男は呆然と佇む。その視線の先には、娘の傍に控えた大層美しい青年の姿があった。
花魁道中なら、見世の主がいる位置、だったのだろうか。角も牙もない男は、それでも近づき難い威厳に満ちて、異形の者たちを統べているのだと容易に知れた。美しい男は、娘を背に庇って吉原の者たちを鋭い眼差しでぐるりと眺めた。
この娘に手を出すな。
口に出してこそいないが、男の命令をその場の者たちははっきりと聞き取った。あるいは目を伏せ、あるいは頭を垂れ──了承の意を示すと、あやかしたちの主は満足そうに頷いて、隣の娘に目線で行こう、と促した。
男の目配せに頷いてから、千早という娘は息を呑んで見守る一堂に、深々と、丁寧に頭を下げた。そうして、あやかしたちの後について歩き始める。
あれは別れの挨拶だったのだ、と。見ていた者たちが悟ったのは、名残惜しさを感じさせない娘の後姿を見てからだった。
吉原中を感嘆させた百鬼夜行の花魁道中は、どこからともなく現れて、どこへともなく消えた。
その日から、吉原はある噂でもちきりになった。花蝶屋は、九郎助稲荷の天罰が下って燃え尽きた。姿が見えなかった下新の千早という娘が楼主の悪事をお稲荷様に注進したのだ。その手柄によって、その娘はお稲荷様のお傍に召されたのだ、と。
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