第3話 儚い月虹

 月虹げっこう楼の二階、葛葉の座敷の控えの間で、千早ちはやは正座して息を殺して待っていた。彼女の人相書きも出回っているかもしれないから、顔を見せるのは危険だろう、とのはじめの指示によるものだ。酒肴を運んだり、姐さんたちの着付けを手伝ったり。今日も見世の仕事ができないのが歯がゆくてならないけれど、この場は葛葉くずのはたちに任せるのが最善なのだろう。


 ぴしりと閉めたふすま越しに、階下からは、男たちと禿たちのやり取りが聞こえてくる。うろたえて上擦った大人の低い声と、対照的に明るく軽やかな、少女の高い声。


「な、なんだこの見世は。いつの間に……?」

「ようこそお出でくださんした」

「ささ、お入りなんせ」


 まやかしの術が解かれたことで、彼らには突然目の前に月虹楼が現れたように見えるのだろう。人の世の吉原も探し回ったであろう彼らのこと、こんな典雅なたたずまいの大見世に、どうしてこれまで気付かなかったのかた、さぞ不思議に思っているだろう。


「いや、我らは──」

「姐さんたちがお待ちでありんすよ」

「ささ、早く早く」


 そこへ、当然のように中へといざなう可愛らしい禿かむろたちだ。訳も分からないままに言いなりになってしまっても無理はない。瑠璃るり珊瑚さんごの軽い足音に続いて、どこか爪先で探るような重い足音が階段を上って来る。この座敷は二階の一番奥にあるとはいえ、彼らが襖一枚隔てたところに来るまで、あと、ほんの少し。ほう、と。千早の唇から溜息が漏れると──


「静かにおし。わっちの座敷の邪魔をしたら許しいせんよ」


 葛葉の鋭い声にぴしゃりと釘を刺される。既に化粧も支度も整えた葛葉と芝鶴しかくは、襖の向こうで客を待っているのだ。格式の下がった今の吉原ならいざ知らず、月虹楼では御職の花魁は客を待たせてからようやく姿を見せるものだというのに。襖を開けたら天女もかくやの美女がふたり、嫣然と微笑んでいる──そんな趣向は、男たちをさぞ驚かせ骨抜きにして、口を緩ませもするのだろうけれど。


「そうそう、『良い子』にしていなんせ。月虹楼の花魁に間違いなどありんせん」


 花魁としては、矜持を曲げることにもなりかねないのに、芝鶴もおっとりと笑う。まるで、千早の緊張を解そうとでもいうかのように。


(姐さんたちが、私のために……)


 厚意ゆえのことだとは、どうにか分かる。さっきのお社で朔が語ったことによると、花魁たちもこの見世を続けさせたくて、だから人の娘を大事にしてくれようというのだろう。とはいえ、千早自身が何かしらをできたということではないのに。

 千早が、正座した膝の上で拳を握りしめる間に、男たちは座敷に通されたらしかった。感嘆の声は、葛葉と芝鶴の美貌に見蕩れてか、それとも部屋の調度の素晴らしさにか。


(両方だわ。当然だもの)


 気持ちだけは月虹楼の一員のように誇らしく思うけれど、得意満面に胸を張る気にはなれなかった。美貌も愛嬌も、見世の役に立つ技も何もないのに、いるだけで守られて庇われるなんて、どうして甘んじることができるだろう。

 暗澹と沈み込む千早の想いとは裏腹に、座敷の空気は明るく軽やかに華やいでいる。芳醇な酒の香りが、襖越しに千早の花をくすぐった。


「さあさ、おあがりなんせ。何をいたしんしょう? 歌でも舞いでも、仰せのままに──」

「こ、この見世は月虹楼に相違ないか? 我らは里見なる者に言われて──」

「……里見様ならわっちの長年の馴染み。これは、楽しんでいただかねば合わせる顔がござんせんなあ」


 里見の名を聞いたとたん、葛葉の声がほんの少しだけ低くなって剣呑な響きを帯びた。狐の同胞の差し金だと確かめて、機嫌を傾けたらしい。とはいえ本当に少しだけ、男たちに気付かれるていどではなかっただろう。だって彼らには、ほかに気になることがあるのだろうから。


「この見世に娘がおらぬか? 十六、七の年ごろの──」

「さて、娘なら山ほどおりいすが、どれのことやら」

「並べてごらんに入れえすか? わっち以上の綺麗どころはおりいせんが」


 やけに堅苦しい口調の男たちは、何だかんだで花魁たちに絡め取られている。盃も順調に重ねているようで──これなら、葛葉が豪語した通り、秘密の用件を漏らすのも遠くないことだと思えた。


(さすが、姐さんたちだわ。赤子の手を捻るとはこのことね……!)


 安堵の息を吐いたところで、けれど、千早の胸を不安がよぎった。声を潜めて、隣に控えた朔に囁く。


「あの、気になったんですけど──」


 話の行方が気になるということで、楼主自ら座敷の裏に控えていたのだ。思えば、狭くて暗いところにふたりきり。夜の吉原の裏路地や、真昼の隅田川とはまた違った距離の近さは、我に返れば恥ずかしくてとても正気ではいられなかっただろう。でも、幸か不幸か今の千早はそれどころではない。紅くなった頬も、薄闇が隠してくれるはず。


「あの人たちはお金を持っているでしょうか……足りない場合は、私が働いて返すつもりではあるんですけど! でも、何か月かかるか──」

「心配いらない」


 太陽の下でも暗い中でも、朔の声は穏やかで、千早を優しく宥めてくれた。


「あやかしには、人の世の金など不要のものだ。この見世は──あくまでも、人の世の遊興に倣いたいあやかしが集った場所だ。色や芸や、恋を売る『店』ではないし、客が落とす金で成り立っている訳でも、ない」

「え──でも、あの、台の物や皆さんの着物や簪は……? 襖も畳も、とても綺麗なのに」


 笑い声が聞こえ始めた座敷のほうでは、襖には涼しげな柳と燕が描かれている。季節に合わせて変えているのは明らかで、簡単なことではないのは千早にも分かるのに。


「客の相手をするのが楽しいと思う者もいれば、恋の真似事をしたがる者もいる。衣食住のそれぞれにやりがいを見出す者も。これは、白糸と織衣が良い例だな」


 確かに、千早の今日の着物もお針のふたりが手妻のように鮮やかに用意してくれたのだった。あやかしの技は巧みで美しいのに──朔は、真似事だなんて卑下を言う。


「あとは、江戸の御代の小判だとか、花魁が客に貢がせた品があるからな。いざとなれば金はどうとでもなるんだ、本当に。……ままごとのようだろう。里見が嗤うのも無理はない」

「そんな、ことは」


 襖越しの、男たちの陽気な笑い声を聞きながら、千早は掠れる声で呟いた。三味線の音も聞こえるから、葛葉か芝鶴か、あるいはふたりともが踊っているのか。あまつ風、と。百人一首の一節が浮かぶ。天女が雲間に遊ぶような、いつまでも終わって欲しくないと願いたくなるような、夢のような光景に違いない。けれど、襖一枚隔てた華やかさを余所に、朔の声はどこまでも暗かった。


「月は、太陽の光によって輝く陰のもの。月にかかる虹は、その暗い光が生み出す、さらに淡く頼りない幻──あやかしは、人の陽の気から生じ、けれど陰の中でなければ生きられない。哀れなものだ」


 美しいとばかり思っていた見世の名の由来もまた、ひどく翳った、しかも儚いものだった。哀れだ、と呟く朔は、きっと神様の顔をしていた。あやかしが人の暮らしをできるように、陰をとどめる居場所を与える──慈悲深くて優しい神様。


「光から生まれる影は、光に焦がれずにはいられまい。皆が千早を歓迎するのはそういうことだ」


 千早の疑問を読み取ったかのように、花魁たちの厚意の理由も教えてくれる。だから、気にするな、と──お社での話に重ねて、甘やかしてくれる。でも、素直に喜ぶことなんてできなかった。


(楼主様は、私をどうしたいのかしら)


 今日の朔の言うことは、どこか後ろ向きだ。最初は居ついてしまえば良い、なんて言っていたのに、寿々お嬢様にはひとり立ちした後が心配だから、みたいなことを言っていたし。


(私の願いを叶えてくれる……何もかも、私次第、ということなの?)


 見世を去るのも、残るのも。たぶん、そうなのだろう。でも、千早は頼って欲しいと思ってしまう。朔のほうこそ、願って欲しい。さっき、四郎の迎えで言葉にできなかった想いは、今こそ千早の胸の中で形になりつつあった。


「私は、光なんかじゃないです」


 そんな大それたものではないし──あやかしたちと、くっきりと分けて語られるのももどかしい。たまたま逃げ込んだ居候ではなくて、もっと親身になりたい。そんな思いを乗せたひと言は、思った以上にぶっきらぼうに聞こえてしまっただろう。


「千早──」


 困ったような声で、朔は何を言おうとしていたのだろう。でも、千早は唇に人差し指をあてて彼を止めた。座敷では、男たちはだいぶ寛ぎ始めている。しきりに持ち上げて機嫌を取ってくれる美女たちに、心が緩み始めている。その隙を見逃さず、葛葉と芝鶴が探りを入れ始めていた。

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