五章 千早の秘密
第1話 狐のまやかし、狸の手管
人の世のものともあやかしの世のものとも知れない建物の影に隠れた
「あの人たちは……まさか、私を狙って……?」
「月虹楼に御用がある人間は、そうはいませんからねえ。花魁たちも、明治の代に通い詰めるような客にはまだ心当たりがないそうで」
江戸の御代なら、月虹楼に通って身を持ち崩す男はきっと多かったのだろう、と千早は自然に納得した。姐さんたちの美しさや艶っぽさは今も変わらないけれど、月虹楼は普通の人間には見えない時期が長かったそうだから。だから四郎も「まだ」と言ったのだ。ならば彼らが用があるのも千早と見て良いのだろうけれど──
「でも、どうして私がここにいるって分かったんでしょう。それに、並の人間は界の狭間を越えられないんですよね?」
「あー……それは、ですねえ」
四郎が、例の福福しい笑みを微妙に引き攣らせた。言い淀む彼に代わって、千早と同じく潜めた声で、
「
朔に言われて思い出すのは、千早の手を強引に引っ張って攫おうとした狐のあやかしのことだ。月虹楼の馴染み客というにはいささか不似合いな、びしりと決まった洋装の。それに、ふさふさとした尻尾が見事だった。
(あの人が、そんなことを……)
怖い思いをさせられた人(あやかし?)ではある。でも、明治の新しい世に馴染んだあやかしだと、朔は認めるような口調をしていた。それに、あの尻尾は猫の禿たちにも似てとても可愛かった。だからだろうか、黒衣の三人の狙いが知れない不安はあっても、里見を嫌う気には、不思議となれない。
「ええ、花魁たちも同じ見解で。
「あ──そ、それは、大変ですね……」
というか、四郎が語った見世の中の様子のほうが、よほど恐ろしいかもしれない。お狐さんのやることは云々と、芝鶴花魁は葛葉花魁をちくちくと刺しているのだろう。それを笑って流せる葛葉でもなし、御職の花魁同士のひりついた空気に、
見世の中の情景を思い浮かべて、千早は背筋を正したのだけれど。朔は、おかしそうにくすりと笑った。そして──物陰から、無造作に足を踏み出す。
「ならば、早く帰って宥めないといけないな」
「楼主様……!?」
不審な男たちが、すぐ傍にいるのが、見えていないはずはないのに。思わず声を上げてしまって、慌てて自分の手で口を塞いだ千早に、四郎は今度こそ曇りなくにっこりと笑いかけた。彼自身も、人目を恐れる様子もなく朔の後に続きながら。
「狐や狸に化かされて、ひと晩中同じ場所を歩き回っていた──なんてよくある話でしょう? 見世の中でも、花魁たちが目くらましの術を張ってくれています。まして、楼主様ならこれくらい……!」
「だが、知らなければ鉢合わせてしまったかもしれないな。だから四郎はよく気を利かせてくれた」
目を瞠る千早の前で、洋装の男たちは朔と紙一重のところですれ違った。朔の美貌に驚くでもなく、道を尋ねようとする素振りさえなく。息遣いが聞こえてもおかしくない距離なのに──彼らは、きょろきょろと首を振りながら通り過ぎていった。
(見えていないの……!?)
確かに目が合ったと思ったのに、彼らの目は千早を映してはいなかった。彼女を透かして、その後ろの景色しか目に入っていないかのように。千早のほうこそ、狐に摘ままれたような心地、というやつだった。
それでも通りに姿を現しているのが怖くて、千早は小走りに朔たちに追いついた。彼らはもう、月虹楼の暖簾の前に辿り着いている。
「楼主様あ、おかえりなさいんせ」
「お待ちしておりいした」
ぱたぱたと軽い足音に高い声は、禿の瑠璃と珊瑚だ。大きな目が潤んでいるのは、予想通り、睨み合う花魁たちの間に挟まれて生きた心地がしなかったのだろう。
* * *
内所には、かつてなく人が──あやかしが詰めかけていた。邪魔になるから長火鉢が隅に寄せられてしまったほどだ。
着替えて、いつもの紬を着流した朔に、四郎。彼らに対峙するように端座したのは葛葉花魁と芝鶴花魁。夜見世の時のように髪を高く結ったり着飾ったりはしてはいないけれど、咲き誇る大輪の花を思わせる美貌が並ぶと近寄り難くて圧迫感がものすごい。朔たちと花魁たちの間で、千早は精いっぱい首を竦めて身体を縮めていた。
瑠璃と珊瑚は茶菓子を運んで忙しく立ち回るし、お針のふたりや若い衆も廊下で聞き耳を立てている。座敷持ちの女たちも、物見高く二階から降りてきている。月虹楼の全体が集まってきているかのような熱気は──もちろん、見世の周囲をうろつく不審者にどう対処するのかを、誰もが気に懸けているのだ。
口火を切ったのは、芝鶴だった。ふっくらとして艶めかしい唇から、ほう、と悩ましげな吐息が漏れる。
「楼主様とわっちらの術で、不埒者が見世に入り込む隙はございんせんが。──夜になっても帰らなんだら、お客人のためにも手を打たねばなりいせんなあ」
そう、今は良くても、問題は日が暮れてからのことだ。客が訪れてからも幻術とやらを施したままにしたら、月虹楼の商売は上がったりりになってしまう。かといって術を解いたら、あの男たちが客に絡んだり、見世に押し入ろうとすることもあるだろう。
「あ、あの──すみませんっ」
畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げて、低い位置から見上げると、芝鶴はふわりと優しげな微笑で千早を見下ろしていた。でも、口元ほどには目が笑っていないこと、見間違いようもなく滲む、じわじわと真綿で首を締めるような凄みに気付かないほど、千早だって鈍くはない。
「おや、千早。なぜに主が頭を下げるのだえ」
どうしてこんなことになっているのか説明しろ、ということだと察して、千早の背を冷や汗が流れた。楼主の朔に付き添ってもらってまで寿々お嬢様に会いに行ったのに、結局何も分からなかったのだ。それを告げたら、芝鶴はきっとますます「怖く」なるだろう。でも──言い訳を重ねることこそ、もっとも怒りを買う卑怯な振る舞いだろう。だから精いっぱい真摯に、今分かっていることを伝えるしかない。
「たぶん、外の人たちの目的は私です。あの、昨晩の里見様という方の話だと、お金を積んででも攫ってでも私を探している人がいるみたいで、だからきっと──」
「まあ、かような貧相な小娘相手にそこまでするとは、奇特な人もあったもの。わっちこそ手管を教わらねばならぬなあ」
月とすっぽん、は芝鶴と千早を引き比べた時にも当てはまる。容姿にしても、立ち居振る舞いにしても。千早が芝鶴に何か教えるだなんて、たとえ皮肉の一環だとしても畏れ多すぎて恐ろしい。というか、だからこそあえて芝鶴は口にしたのだろうけれど。
(当然、よね……厄介ごとを招き寄せた、疫病神なんだから……)
この見世を助けたい、だなんて思い上がりを考えてはいけなかった。働いて恩を返すという考えでさえ、きっと身のほど知らずだったのだ。我が身の無力が悔しくて悲しくて、千早は唇を強く噛み締めた。
「……お騒がせして、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あの、やっぱり私──」
「出ていく、などとは許しいせんぞ」
震える声での口上は、けれど凛として鋭い声によって遮られた。
「葛葉姐さん、でも」
薄化粧を施しただけの葛葉は、夜見世の時のようにまだ目元を染めてはいない。けれど、月虹楼の御職の花魁は、紅に頼らずともくっきりとはっきりと、とても力強い眼差しをしていた。柳眉を逆立て、唇を軽く歪めた怒りの表情さえ美しい。
「わ、私が出て行けば──」
良いのでは、と。言い切る前に、千早の舌は葛葉の鋭い視線によって縫い留められた。
「狸めの策に乗るでない。主を脅かして、わっちを居たたまれなくさせようという企みなのでありんすもの……!」
「……え?」
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