二章 月虹楼の女たち
第1話 やりたいことって何だろう
座敷の障子を開けると、見事に手入れされた庭が広がっていた。建物で囲んだ中庭に、四季折々の趣向を凝らす──あやかしの世界も、やはり妓楼の造りは人の世と同じらしかった。蓮が浮く池のほとりには、ほど良く苔むした石灯籠が配されて。初夏の深緑に、
(あやかしの世界でも普通に夕方になって夜になるんだ……)
不思議な気持ちで暮れ行く庭を眺める千早がいるのは、とりあえず、ということで与えられた一階のひと部屋だった。ひとり立ちした花魁は見世の二階に座敷をもらうけれど、使用人や水揚げ前の
早めの夕餉も、花蝶屋の賄いとは比べ物にならなかった。白いご飯に梅干しを添えて、香り立つ出汁をかけて茶漬けにして。さらには鮭の切り身まで焼いてもらった。この半端な時間に、千早のためだけに温かい膳を用意してもらえるなんて破格のことだ。箸を動かすうちに感動の涙が溢れて、塩気が濃くなるのではないかと思ったほどだった。
「新入りを迎えるのは初めてじゃ。嬉しいことじゃ」
「姉さんたちが起きなんしたら、見世を案内してやりんしょう」
空いた膳を片付けながら、
(新入りじゃ、ないんだけど……)
幼いふたりは、千早の立場や状況をよく分かっていないらしい。とにかく、下の立場の者ができたのが嬉しいようだ。珊瑚は黒、瑠璃は白の尻尾が得意げに揺れるのが可愛らしくて、姉さん気取りなのが微笑ましくて。思い違いを訂正する気にもなれないまま──千早は、朔とのやり取りを思い返していた。
* * *
あやかしの世と人の世を繋ぐため、月虹楼に留まって欲しい──朔の頼みを聞いた千早は、身の上を打ち明けた。花蝶屋で育てられて、これまで自身の境遇に疑問を持つことなく過ごしてきたこと。それが間違っていたことに気付いたこと。
(だから──私は、もう流されたくない。生きる目的を見つけたい)
抱いたばかりの決意が揺るがないよう、千早はお腹に力を込めて朔に向き合った。月のない夜のような黒々とした目に見つめられていると、うっとりとして一も二もなく頷いてしまいそうだったから。
「──そういうことなので……妓楼にいたくなくて逃げ出したのに、妓楼にお世話になるわけにもいかないと思うんです」
「若い娘を追い回して売り飛ばすような見世と同じにして欲しくはないのだが」
「すみません」
朔が形の良い眉を寄せるのを見て、千早は肩を縮こまらせた。禿たちの伸び伸びとした様子を見れば、この見世ではひどい折檻なんてしないんだろうと分かる。ここではきっと、どれほど金を積まれても女の意志に反して売ったりしないのだ。でも、それを分かった上でも、千早は吉原育ちの娘だった。妓楼とはどういう場所なのか、肌身に染みて知っている。彼女自身の想いとして居られないのと同じくらい、千早はここにいてはならない存在だと思うのだ。
「私……でも、何の芸もないんです。ただ置いていただくなんてできません」
花蝶屋での千早も、雑用係の何でも屋だった。まだ客を取らされていなかったのはもちろんのこと、座敷に出て芸をするほどの腕もなかったから。でも、いずれはそうなるはずだった。だから、養ってもらえていたのだ。そのことの、本当の意味に気付いたのが遅すぎたのだけど──客を取りたくない、そのつもりもない癖に、妓楼に置いてもらおうなんて図々しいにもほどがある。
「でもねえ、千早さん、行くあてもないということじゃないですか。ここを出てどうするつもりです?」
「それは……その……」
にこやかな困り顔という、器用な表情を浮かべた四郎に尋ねられると、言葉に詰まってしまうのだけれど。
「えっと、鉄道馬車の乗り方さえ教えていただければ。どこかで、住み込みの仕事でも見つけられれば、と……」
助けてもらった上で、それも、頼まれごとを断ったうえでおねだりなんて。あまりの虫の良さに、千早は頬から火が吹く思いだった。しかも、彼女の答えは寿々お嬢様の言いつけをなぞっただけのもの。千早はまだ、自分の頭で「これから」を考えることができていない。
「そんなあやふやなことで、どうして若い娘さんを笑って送り出せますか」
「それこそ芸がないのに、まともな仕事が見つかるとも思えない」
「それは──そうかも、しれないですけど……!」
相変わらずの笑顔のまま眉を下げる四郎に、ごく静かに指摘する朔に。ふたりに返す言葉が見つからなくて、でも、引き下がることもできなくて。正座した膝の上で拳を握る千早に、四郎がふわり、と笑いかけた。
「では、こういうのはいかがでしょう」
言いながら、四郎はずいと膝を進めた。千早と朔の間に入るような格好で、ふたりを交互に見比べながら、続ける。
「千早さんは、しばらく月虹楼にいてくだされば良い。少なくとも、もといた見世の連中も諦めるまでは。その間、こちらの手伝いでもしていただいて、お給金も出す、ということでは……? ね、そのほうが今後の
「あわ良くば、ここに居ついてくれれば願ってもない、な」
四郎の案は、朔の気に入ったようだった。彼のそもそのも「頼み」と、ほぼ同じ形に落ち着くことになるのだから当然だ。でも、これではまた流されているうちに話が決まってしまう。
「でも、それじゃ──せめて、期限を決めるとか」
「では、千早の『やりたいこと』が決まるまで、ということでは? それすらまだ決まっていないのだろう?」
懸命に抗おうとはしたのだけれど。朔にさらりと名前を呼ばれると、顔が火照って心臓が止まりそうになってしまう。死にそうな金魚のように口をぱくぱくさせていると、四郎はまた上手くその隙に入り込んでしまうのだ。
「一度匿った人が行き倒れたら、こっちも後味が悪いじゃないですか。で、千早さんだって完全に世話になる形は心苦しいですよねえ。お互いにちょっとずつ譲るということで、ご勘弁願えませんかねえ」
「ご勘弁、だなんて……」
きっと彼は、酔って管を巻く客もこうして言い包めてしまうのではないだろうか。下手に出ている風でいて、気が付くと否とはいえないところに追い込まれている。収まらないのは千早の気持ちだけで、確かに素晴らしく都合の良い条件ではあるのだけれど。
「では、改めて──先ほどの部屋に寝泊まりすると良い。珊瑚と瑠璃に、勝手を教えるように言っておこう」
とどめは、朔の嬉しそうな満面の笑顔だった。闇夜に、桜が吹雪と咲き誇るかのような──綺麗で晴れやかで、華やかな。その笑みを翳らせることなんて絶対にできないと思ったから、結局のところ、千早は月虹楼の居候に収まることになったのだ。
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