第5話 月虹楼の朔
「助けていただいたのに、失礼をしてしまいました。申し訳ございませんでした」
この場所に呼ばれたのは、礼を言う場を設けてくれるということだろう。本来ならば、
千早の
「良い度胸で、よく躾されているようだ。この見世のことも、四郎のことも気になってしかたないだろうに」
「それは……そうですけど。でも、まずお礼を言わないという訳には。あの、」
「楽にしてくれ。頭を下げさせるために呼んだのではない。こちらこそ、頼みごとがあるのだ」
重ねて御礼を言おうとするのを遮って、綺麗な人は煙管を軽く振った。煌めく銀の軌跡に促されて、千早は恐る恐る顔を上げた。
(でも……お礼、ちゃんとしないと……)
言葉を紡ごうと小さく開いた千早の唇は、楼主の微笑みによって固まってしまった。吸い込まれそうな黒い目に見つめられて、またくらくらとして倒れてしまいそう。その隙に、ということなのか──綺麗な人は、首を巡らせて建物全体を示した。
「──ここは
楼主の指が優雅に動いて、長火鉢の灰に文字を描いた。自身の名と、見世の名と。寒い季節ではないから、火鉢に炭は入っていない。
「げっこうろう……」
四郎の羽織に描かれていた紋の、月の部分については納得がいった。朔、という名前にも月が隠れている。朔は、ついたちという意味でもある。旧暦なら、必ず新月にあたる夜。暗い闇夜に、月に代わって密やかに輝くような、そんな美貌の人だと思う。
「月にかかる虹のごとく、星月よりもさらにぼやけた曖昧な場所。現世からは見ることはできても触ることはできず、迷い込んで遊ぶことはできても留まることはできず──そんな場所なんだ、ここは」
「はい。だから私、こんな見世があったっけ、って──」
楼主の──朔の声にうっとりとしながら、千早はどうにか口を挟んだ。住む者だからこそ知っている。吉原は決して夢の世界ではない。
お歯黒溝の水は黒く淀んで。月も星も掻き消す地上の眩い輝きの影には濃い影が落ちる。そこでは女が泣いたり酔客が嘔吐したりしているのだ。だから遠くから見上げるくらいがきっと一番綺麗なのだろう。
「並みの人間には見えない。あやかしの世界と人の世界は──何というか、少しずれて存在しているから。ここは、あやかしの遊郭なんだ」
「あやかし……」
白い手を宙に伸べて、紙一重のところですれ違わせる──朔の仕草も舞いのように優雅で優美で、何を言われているかさっぱり頭に入って来ない。
「例えば、のっぺらぼうとかですねえ」
「そう。遊女も禿も使用人も、すべて人ではないものばかり、ということだな」
「ああ、だから……」
四郎がちょうど良く合いの手を入れてくれなかったら、朔が補足してくれなかったら。千早はひたすら鸚鵡返しに聞こえた言葉を繰り返すだけだっただろう。さらにちょうど良く、猫耳尻尾の禿たちが、茶菓を携えて戻って来る。
「わっちらの『これ』も、飾りではありいせんよ?」
「ほらほら、ご覧なんせ。自在に動くのでありんすよ」
「う、うん……すごいね……」
話の流れを聞いていたのだろう、そっくりなふたりが、そっくりな声で動く「耳」と尻尾を自慢してくる。この子たちもまた、あやかしが確かに存在することの動かぬ証拠──でも、反応に困った千早がたじたじとしていると、朔が軽く手を打って子供たちを
「
「はあい」
禿たちは、宝石を意味する名前をもらっているらしい。髪に飾った手絡の色も、名前から来ているなら分かりやすい。出された香り高い茶を口に運びながら、千早は何となく納得していた。訳が分からないことが多すぎるから、分かりやすいところから呑み込んでいかないとついて行けない。
だって、朔の話はまだまだ始まったばかりのようだから。
「……人の客が来たのは実に久しぶりのことだった。浅草寺と吉原との賑わいにあやかろうと見世を構えて百余年、徳川の御代のうちは繁盛していたのだが、近ごろでは闇に目を向ける人間は少なくなったから」
「はい……最近はガス灯や電灯も明るくなって……?」
銀座のガス灯通りがもてはやされ、鹿鳴館が賑わったのも今は昔のことだ。明治の御代も三十年を数えた今、しかもこんなに綺麗で明るい見世にいて、どうも時節に外れたことを言っている気がしてならない。
首を傾げながら相槌を打った千早だったけれど、朔はまさに、と言わんばかりに頷いてくれた。
「夜が暗くなくなれば、人は闇を恐れなくなる。妖しのものが潜む余地があるなどとは考えなくなる。まして、文明開化に廃仏毀釈と来て、科学で解き明かせぬことはないと考えているのだろう、近ごろの人間は」
「そうかも、しれません……?」
千早は、反対側に首を傾けた。欧米列強の科学も技術もすごい、らしい。それこそガスも電気も、外国の発明を取り入れたはず。鎖国時代の遅れを取り戻すべく、今の日本は国を挙げて働いている……のだと思う。吉原しか知らない千早にとっては、どこか遠い世界の話のようだけれど。
「神も仏も──あやかしも。信じもしなければ恐れもしない。そんな時代はあやかしには生きづらい。神仏ならまだ信仰を集められるかもしれないが、畏れられないあやかしは弱い。いないも同然なのだからな。もはや存在しないと思われているから──だから、この見世も人には見えなくなった」
「私……さっき、願いました。神様仏様、助けてください、って」
不意に考えていたことを当てられた気がして、千早の心臓は跳ねた。追手が迫るのを感じて、吉原で女を助けてくれる神仏なんていないんだ、と思い知らされた。絶望しかけて、それでも諦めたくなかった。朔の声も腕も、祈りに応えてくれたように感じられた。
目を見開いた千早に、朔は蕩けるような優しい笑みを見世てくれた。
「この際、化物でも何でも良いから、とも思ったのではないか? 貴女の願いがこの見世を呼んだのだ。そして、
「道を、繋ぐ……」
朔の話が、じわじわと腑に落ちて来た。どうして千早が、この見世を見つけることができたのか。花蝶屋の追手たちも知らなかったらしい見世が、どうしてあの時あの場所に現れたのか。この見世は──この人は、千早の声を聞いてくれたのだ。助けを求めて足掻く、必死の声を。
(それなら、なおのことお礼をしないと……!)
「あの、私に頼みというのは──」
できることがあるなら、と。千早は居住まいを正し、身を乗り出した。
「この見世は、客もあやかしだ。だが、あやかしだけで成り立っているという訳でもない。あやかしは、人がいなくては生きられないものなのだ」
朔の隣で頷きながら、四郎が両手で顔を覆う。
「さっきの連中の顔と言ったら! お見せできないのが残念でした。あれほど見事に嵌ってくれたのは、いったいいつ以来だったか……! 人を驚かせたり怖がらせたりもね、我々にとっては大事な食事みたいなものなんですよ」
いないないばあ、の要領で四郎が手をどけたり戻したりすると、そのたびに目鼻口も消えては元の場所に現れる。
「きゃ……!?」
怖いし、驚きもする。でも──たとえ「のっぺらぼう」の時でも──四郎は楽しそうだった。宴席の余興のような、滑稽で軽妙な動きは、明るい音楽さえどこかから聞こえてきそう。いつしか、千早も悲鳴を忘れてくすくすと笑い始めてしまう。
「この通り、見世にいるあやかしの力は可愛いものだ。今の世の『明るさ』に掻き消されてすぐに消えてしまうような」
そして、朔に言われて気付く。四郎は、何も突然おどけ始めた訳ではない。驚かせることしかできない──「そのていど」のあやかしなのだと、身をもって示してくれたのだ。
(消えてしまう、って……本当に、文字通りに、なの?)
疑問と不安は、口に出すまでもなく朔には伝わったようだった。彼は深く頷くと、座っていた座布団から腰をずらして畳の上に直接、端座した。そして、長くしなやかな指を、畳に揃える。
「この見世には人の客も必要なのだ。貴女がいれば現世からも『気付く』者がいくらかは増えるだろう。だから──しばらくこの見世に留まってもらえないだろうか」
頭を下げるのは日常茶飯事でも、頭を下げられた記憶はとんとなかった。しかも、こんな綺麗な男の人に。
「え──えええ?」
だから、否とも応とも、答える余裕なんてなくて。千早はただ、間抜けな声を上げることしかできなかった。
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