ゴングが鳴った。


「先に仕掛けるのはどちらでしょうか。怪物退治となるか、はたまた餌食にされてしまうのか」


 ケーコとは同じ中学と高校に通っていた。中学校入学時からすでに型破りな身長と体重を備えていた彼女は、ハリー・ポッターが流行っていたからだろう、トロールというあだ名をつけられた。はじめは裏で呼ばれており、次第に表立って名指されるようになったのは、彼女の性格によるものだろう。引っ込み思案で、声が小さい。肩を叩かれただけで怯える。そして、よく失敗をしでかす。嘲笑するにはもってこいの存在。中学に入ってから卒業するまで僕は一度もケーコと同じクラスにならなかったけれど、噂は耳に入った。トロールは我が校の有名人である。もちろん悪い意味で。


「ゴア・ビーストのアイアンクロー! レイナ、思わず膝を突く! これは痛い! ゴア・ビースト、レイナを軽々持ち上げてパワーボムだ!」


 高校に入学した僕は、はじめてケーコと一緒のクラスになった。僕の知る限り中学ではトロールというあだ名ひとつだけだったが、入学からほんの半年で彼女は数え切れない蔑称を得た。ゴーレム、ジャイアント、ビッグマック、モアイ、大関、などなど。彼女はひたすら嘲笑され続け、俯き続けた。


「レイナ、なんとか立ち上がったがふらついている! そこにゴア・ビーストのラリアット、レイナかわした! ゴア・ビースト、勢い余ってロープに弾かれて、レイナ反撃のドロップキック!」


 高校三年の秋。昼休みの廊下で小さな騒動があった。学年一の不良に、うちのクラスのお笑い担当の男子が胸ぐらを掴まれているのをみかけた。肩がぶつかったとか、そんな些細なきっかけだろう。お笑い男子は引きつった顔で謝っていた。それでも、許される空気は一向に流れない。

 そこにケーコが通りかかった。俯いたまま歩いていたものだから騒動に気付かなかったのだろう。ほかの生徒が遠巻きに距離を置いている爆心地に、巨躯が突っ込んでいった。

 お笑い男子が、斉藤さん助けて、と素早く唱えたのを、僕は聞き逃さなかった。

 いきなり名字を呼ばれたからだろう。ケーコは立ち止まり、そこではじめて状況を知ったらしく、ぎょっと目を見開いた。彼女が足を止めたのは、不良の真横だった。

 失せろデブ。怒鳴り声とともに、不良はケーコの尻を蹴り飛ばした。頭に血が昇ると見境いなく暴力を振るってしまう人間は世の中にいる。彼もその類だった。

 ケーコがうつ伏せに崩れ落ちた直後である。濁ったラッパの音が響き渡った。断続的に。ささやかな茶色の水たまりが廊下に生まれ、悲鳴と嘲笑と罵倒が弾けた。


「コーナーに釘付けにされたゴア・ビーストに逆水平! ゴア・ビースト、たまらず場外へ!」


 事件から一週間くらい経った放課後、忘れ物を取りに教室まで戻ろうとしたところ、教室のなかからケーコの声が聞こえた。

 ごめんなさい、と言っていた。

 役に立てなくて、ちゃんと助けられなくて、ごめんなさい。

 長い沈黙のあとで、例のお笑い男子の声がした。


 うるせーよ、ゲリ子。二度と話しかけんな。


「ゴア・ビースト、パイプ椅子で逆襲だ! リングに戻ってレイナを追い詰める! あぁ~これは痛い! しかし二発目をかわしてっ、顔面にケンカキック、レイナ・スタンプ炸裂!」


 ケーコは完全に被害者だ。しかも、彼女の脱糞で有耶無耶になり、結果的にお笑い男子は助かっている。もっとも惨めな思いをしたはずの彼女は、それなのに、あの男子を助けてやれなかったことを悔いたらしい。

 心無い反応が返ってくるのなんて、彼女にも理解できていただろう。例の男子はほかの生徒に混じって、彼女をゲリ子と呼んで憚らなかったのだから。


「倒れ込むゴア・ビースト! レイナはコーナーへ」


 謝罪が届かなかったその日、ケーコのなかで暴力の芽が生まれたのではないか。やがてゴア・ビーストとなるきっかけが、この日の無力感にあったのではないか。

 ただ、優しいケーコが簡単に猛獣になれるわけがない。試合に向けてボルテージを高めなければゴア・ビーストは完成しない。そして人間は、ひとりでは凶暴になりきれない。大学二年次の僕が偶然ケーコのデビュー戦を目にし、再会かたがた支援を申し出ていなければ、おそらくゴア・ビーストは別の在り方だったのではないかと思う。


 彼女の暴力を支えることが、傍観者だったことへの贖罪にはならない。そんなの分かってる。僕はただ、彼女を通じて物語をみたかった。


「レイナ跳んだ! ムーンサルトが直撃~! お、ん?」


 それは、ムーンサルトに対する拍手を引き裂いて鳴り響いた。一発の、ドデカい、濁ったラッパの音。またたく間に、純白のマットに二十センチ大の茶色い染みが生まれた。


 拍手が止む。実況が息を呑む。レイナが立ち上がり、狼狽する。レフェリーさえ硬直していた。妙な空気が会場を満たしている。下卑た笑いはどこにもない。濃密な同情だけが空間を支配していた。


 静寂のなか、ケーコはゆっくりと立ち上がった。沈黙するすべての者どもを見回し――。


「ヴォー!!」


 咆哮。獣のそれを、ここにいるすべての人間が聴いた。

 すでに試合開始から十二分が経過している。ムーンサルトからの関節技でレイナの勝利となる筋書きだったのではないかと思う。ケーコは厳密にブックを調整することを良しとしていた。悪役レスラーとしてベビーフェイスに劇的勝利を捧げ、なおかつ相手選手に傷を与えないためには、技術だけでは追いつかない。以前ケーコがそんなことを話してくれた。絶対に秘密にしてねと、めちゃくちゃ下手くそな笑顔を浮かべて。


 一定のリズムで拍手が鳴る。最初は小さく、やがて会場を震わすくらいに。拍手は鳴り止まない。ゴア・ビーストは、吼えては息を吸い、また吼えた。拍手の間隔にあわせて吼えた。


「とっ」


 実況が息を吹き返す。彼が何事かを決意したであろうことは、声の震えから伝わってきた。


「とんでもない怪物だ! ゴア・ビースト! 彼女に羞恥の二文字はない! なぜなら、まだ戦いが終わってないからだ!!」


 立ったまま組み合うレイナとゴア・ビースト。掲げた両手を互いに組み合わせ、じっと相手を睨んでいる。両者の唇が素早く動いた。短い言葉の応酬があったようだが、レフェリーを含めた三人を除いて誰も聞こえていないだろう。拍手は未だに一定のリズムを刻んでいる。先ほどの咆哮のリズムで。


 それからは、あっという間の出来事だった。レイナの前蹴りを掴んだゴア・ビーストが本日二発目のパワーボムを決めた。


 スリーカウント。


 ゴングと咆哮。そして拍手。ここに満ちたすべての音が、ブックの破れる音として僕の耳の奥で反響していた。無言の歓声は、歴史の、そして物語の産声だった。

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