第40話

「ようやくお目覚めか?眠り姫」


 日の出前、未だ薄暗がりが拡がる黎明の空。

 先の大騒ぎが嘘のように静まり返った東京の街並みが、少し肌寒い春風を巻き上げる。


「ここは……?」


「ショッピングモールの屋上。今は下の方で突入してきた警察やら機動隊やらで騒がしいから、ちょっとこっちに逃げてきた。ま、お互い正体がバレても色々と面倒ってのもあるけど」


 なんせお互い格好はストレガドッグのままだ。

 こんな状態で見つかったらそれこそまた別の騒ぎが起きてしまいかねない。

 だからこうして人気の無い屋上でミーアの目覚めを待っていた。

 お嬢様を地べたに寝かすのも如何なものかと思ったけど、長座した俺の膝で眠る少女はスヤスヤと心地よい寝息を立てていた。

 だが、覚醒と同時に状況を理解したらしく、やや冷静さを欠いたように跳ね起きる。


「大丈夫、全部終わった。そんないつもみたいに強張らなくてもここは安全だ」


「いや、その……そうじゃなくて。そっちは、あまり心配していなかったわ……その、このわたくしがこんな無防備に……」


「……?」


 起き上がるなりブツブツと何か呟いているようだけど、どうしたんだろうか?

 もしかするとまださっきの緊張が抜けきっていないのやもしれない。

 その証拠に彼女の耳やら首筋の項などの露出した部分が、興奮状態を表すよう夜闇の中でもはっきりわかるくらい真っ赤な色をしていた。

 しかし困ったことに、それからミーアは一言も発しなくなってしまう。

 予め外傷は治療済のため問題ないと思うが、何故か俺達は互いに押し黙ったまま、じっと時の流れを感じていた。

 別にその間、居心地の悪さを感じていた訳でも、ましてや嫌悪を抱いたことも無かった。

 けれど二人してなんて会話を続ければいいか分からなかったのだ。

 俺もミーアも、隠すにはあまりに罪な秘密を晒した。

 それにどんな感情で向き合えばいいのか、正直互いにそれを見出せずにいるんだろう。

 楽観的感情は当然皆無、だが、激情を漏らすにはあまりにも時間がたちすぎてしまっていた。

 いっそこのまま夢のような時間として過ぎ去ってくれればいいのに、遠鳴りに聞こえるサイレンの音が嫌に現実的で鬱陶しい。

 そんな折────背中を押すよう春北風が俺達を一撫でした。


「くしゅん……ッ、さむ……」


 春とはいえ夜はまだ寒い。

 おまけに身体も万全でない、さっきの戦闘で折れた指だってそれぞれ痛々しい方向を指さしたままだ。そんなところに追い打ちをかけるような寒さは堪える。


「寒いって、貴方どうしてそんな薄着なのよ!?そんな下着みたいなウェア一枚で、さっきまで羽織っていた衣類はどうしたのよ?」


「どうしたも何も、お前がずっと握ったまま持ってるだろ。それ」


 プルプル震えながら鼻を啜る俺の指摘に、ようやくミーアは身体の上に被さった衣類の存在に気づいたらしい。

 どうやら寝起きで気づいていなかったようだけど、スヤスヤと眠る間、寒くない様に俺の黒装束を掛け布団代わりにかけていたのだ。

 それをずっと握りしめて抱き抱えていたことにも気づかずに。


「あ……これ、その……」


 ようやく収まりつつあったミーアの赤面が、再び売れたリンゴよりも朱に染まる。

 これではまた沈黙の繰り返し。

 今日の夜は長そうだな、そう意気込むよう溜息を漏らしたその時、程なくして彼女は拙くも、それでもハッキリと口を開いた。


「あ、ありがとう……暖かいわ。とっても……」


「別に大したことないよ。寧ろ、礼を言うのは俺の方。ミーアが居なかったら俺はもうここにはいないし、こうやって恩着せがましく服を渡すことも、寒いと感じることもなかったさ。それも全部、お前がをくれたおかげだよ」


 嘘は一片も無い。正真正銘純度百パーセント本心からの言葉。

 薄汚れた運命の俺には酷く勿体ないその言葉を、惜しげもなく漏らす心はとても穏やかで……いつ振りだろうか。こうまで人に素直になれたのは。


「────ごめんなさい」


「なんだよ、急に……謝るだなんてお前らしくもない」


「私は、貴方の『宿敵』になってあげることはできない」


 唐突なその言葉に驚いていると、ミーアは真剣な調子で俯いた。


わたくし自身、過去の記憶の無い自分が何をしたのかも分からない。それに本当に貴方の言う『ストレガドッグ』なのかも、何もかもが定かじゃない。できることはせいぜい、本物だと思っていた貴方に殺されてあげることくらいだった……」


「……それであんな命を差し出すような真似をしたのか?」


 ミーアはコクリと小さく頷いた。


「いつかきっとこういう日が来ることは想像していたわ。結局はあいまいな記憶の義賊、勝手に意志を次いだつもりで、わたくしはただ偽善を振りまいて悦に浸っていただけ。だからもし本当のストレガドッグが現れた時には、躊躇わずこの命を捧げようって……」


「そういうところはホントバカだよな……ミーアは」


「な……、バ、?!」


 普段なら誰であろうとも侍従させることのできる彼女には、あまりに経験の無いシンプルな批難に眼を点にして驚いている。

 この際だからハッキリ言ってやろう。俺はずっと横顔しか見せて無かったミーアの方へと向き直る。その特徴的だった緋色の左眼は、元々の瞳の色らしい麗しい黒曜の輝きを秘めており、頬に差す朱色と相まって動揺するミーアの心情をよく顕わしていた。


「誰かのためにしかない命だなんて、そんなツマラナイものはないよ。お前はいつも通りのお前で良いんだ。カラオケとかボーリングに興じて眼を輝かせ、魔学などの学問に励み、そして美味しいものをたらふく食って笑う。そんなどこにでもいる普通の学生が歩む道を進めば良いんだ。その権利は誰にとっても不可侵のミーアだけに赦された幸せさ。だから俺のためにどうこうする必要はないよ」


「ありがとう……でも、それちょっと矛盾していないかしら?だったらどうして貴方は妹のためにこんな危ない橋を渡り続けるの?」


 素朴な疑問に小首を傾げた彼女に、俺は小さく笑った。


「それは、俺にはもう、それくらいしか生きる希望が無い、ツマラナイ奴だからだよ。自分はもう当たり前の幸せを求められるような立場じゃない。組織に見いだされた時からその権利を剝奪された傀儡人形。生きているようで中身は死んでいる。そんな亡霊が皮を被ったような存在なんだ。でもだからこそだ。だからこそ他人の幸せに生きる気力を見出す。本当に、ツマラナイ人間さ。でも俺はお前にはそうなって欲しくはない」


 自戒の念に自虐を織り交ぜてそう呟く。

 先駆者としての言葉が余程堪えたのか、ミーアは俯いたまま肩を震わせた。


「分かったか。ならもう、ストレガドッグあんなことはもう────」


「────やっぱり、いやよ」


「……は?」


 帰ってきた返事に思わず眉を顰めた。

 完全に今の流れは断る条件が揃い切っていたというのに、まるでトランプのジョーカーでも放り出すように、ミーアは隠していた満面の笑みを差し向けた。


「いや、でも。その仮面を被り続けるということは、今回のようなことにまた巻き込まれるってことなんだぞ?今日はたまたま助かったけど、この先どんな奴が立ちはだかるか見当もつかないってのに……」


「そうね。でも貴方の言葉で考えが変わったわ。結局はわたくしも、この仮面を失くした記憶を埋めるための道具としか考えていなかった。そういう意味では縋っていたんだと思う。ストレガドッグという存在たにんに。けれどこれからは、その失くした記憶を取り戻すため、わたくし自身が何者であるかを知るために、この仮面ウソを被り続ける。だから手伝ってね。わたくしが記憶を取り戻し、そして、本物のストレガドッグとなるその日まで。そしたらまた改めて貴方に殺されてあげる。本当の意味で貴方にとってのストレガドッグラスボスとして」


「……」


 忘れていた。

 今俺が応対しているこの少女は普通の少女ではない。

 天邪鬼、天上天下唯我独尊、完全無欠だということを。

 ミーアは小さな手をこちらへ差し出した。夜闇を切り裂く真っ白い艶肌。

 さっきはこちらが追い込んだつもりだったのに、気が付けば逆大手を掛けれられている状態にドギマギしてしまう。


「ほら、さっさと手を取りなさいな。それとも『お手』って言ってほしいのかしら?」


「……クソッ……分かったよ、取ればいいんだろ取れば」


 吐き捨てた言葉に反して優しく置いた手。

 まるで、飼い主が誰であるかわからされたような気分だ。

 乱暴になり切れない善意を見抜かれ、彼女の嗜虐心は加速の一途を辿る。


「おかわりは?」


「要らないよバカ!!それにこっちの指は全部折れたままなんだよ!!」


「折れてるって、ちょっとイチル、どうしたのよその指?!全部明後日の方向を向いているじゃない」


 相変わらずの水と油具合、というよりも完全な主従関係か、そんな二人のことをあざ笑うように朝焼けがビルの隙間から零れ出す。

 まるで祝福するような恵みの朝は、今の俺達には勿体ないくらい眩しかった。

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