第3話

 五時五十八分。

 気怠さを纏った身体がアラーム音を聞かずにベッドの中で眼を覚ます。


「……眠い……」


 狛戌一縷こまいいちる

 そんな、何処にでもいる平凡な十五歳は、隈が残る眼つきの悪い眉間を抑えつつ起き上がる。

 今日の天気は実測『晴れ』魔学の力で操作された日差しは、カーテンの隙間から鬱陶しいほど溢れ出している。

 出来ることならあと数時間、いや数日はベッドの温もりに甘えていたいが、そういうわけにもいかない。


 2030年4月1日。


 今日から胸糞悪い学院生活ってやつが始まってしまう。

 普通の学生なら新たな学業やら学友との出会いに思いを馳せているころだろう。

 しかし、俺にとっては地獄行直通電車が遂に発進した気分だった。


『────今朝のニュースです。東京都奥多摩方面に残されていた廃墟ビルを爆破すると予告があり警察が緊急体勢のもと対応に当たりましたが犯人は見つからず、代わりに現場に居合わせていた麻薬売人グループの一部を捕らえたとのこと。取引されていたのは通称『天使の施しハイラックス』と呼ばれる違法薬物で容疑を認めているとのことで、さらに証言では最近世間を騒がせているストレガドッグの姿もあったとして警察も操作を進めているとのことです。えぇ続きましては最近話題の次世代エネルギー、魔結晶についての特集────』


 適当な朝食を眠気覚まし用のコーヒーを渋面で流し込みながら、適当に付けたテレビを流し見る。こんな日に限ってのニュースだ。

 俺も別に好きで見ている訳じゃない。

 正直言って、野次馬精神のマスコミ共が作った継ぎ接ぎだらけの嘘発表会ニュースなど、本当なら一目見ただけで嘔吐が出る。

 だがそれは情弱共せけんで言うところの常識にちじょうともなる。

 なによりがボロを出さないよう、不快な情報を耳に入れつつ手早く身支度を整えていく。

 ダブルボタンの農紺ブレザーと同色のズボン、ワンポイントの朱色ネクタイの位置をドレッサーで確認する。おっと、胸元にあれを付けるのを忘れていた。

 蒼く着色された、ラテン数字の刻まれた時計をモチーフにした校章バッジ。

 時空ときの神『クロノス』から着想を得たというそれを襟元のフラワーホールに差して準備は完了。

 短髪黒髪痩躯、童顔にしてはあまりに不釣り合いな眼つきの悪い男の完成だ。

 普段ならもう少しマシな人相のはずだが、よっぽどあの学院に『行きたくない』らしい。


「はぁ……行ってきます」


 決して返ってくるはずの無い返事を待つことなく家戸を開く。

 今日の天気は実測『晴れ』。

 魔学によって齎されるそれに手庇を作ると、遥か上空の何かが一瞬だけ日差しを遮った。


 見上げた先には────魔女ミストラルが居た


 航空法の改正に伴い規制緩和がなされ、空を飛ぶことを赦された彼女達の姿は、今では科学の結晶たる飛行機と同程度の頻度で見かけるくらいには身近な存在となった。

 そんな、俺がどれだけ努力しても届かないその場所を翔けるのは、たった一人の少女だった。魔力を練り込んだ傘に寄り掛り、降り注ぐ陽光が透き通る銀灰のロングヘアを靡かせ、白のブラウスと濃紺の編み上げコルセットスカートを身に着けている。初めて見るけどおそらくは同じ学院の生徒だろう。

 こっちはこれから一時間も掛けて満員電車に乗らなければならないというのに……。

 あっと言う間に飛び去っていたその姿に、辟易とした溜息が零れる。



 ◇ ◇ ◇



「相変わらず広いなぁ……」


 入試試験で一度訪れてはいるものの、何度見ても荘厳かつ絢爛、そして無駄な広さに呆れてしまう。

『東京クロノス魔学学院』

 ここ数世紀で飛躍的発展を遂げた第五次産業『魔学』を学ぶことのできる世界でも有数の都立学院。皇居の一部も借りているという学院全体の面積は東京ドーム10個分ほどあり、そこに建つ学び舎も校舎というよりもチャペルを連想させるルネサンス建築、その隣には近未来型のドーム型体育館、第一、第二、第三と続く部活用運動場、アフタムーンティーを楽しむ赤バラの庭園カーディナルガーデンやら、魔学研究用の最先端施設やら、果てはコンビニからファミレスまで……幾ら何でも盛り込みすぎだと思う。

 流石は小中高大一貫エスカレーター式の超エリート学院といったところか。


「えーと、この辺であってるはずだけど……」


 目的地である第三体育館付近と思しき場所へ来たはいいけど、本当にここであっているのだろうか?

 周囲を見渡してみると、恐らく幼少期から魔学技術を叩き込まれた進学生エリート達が、各々の知人らと談笑する姿が眼に映る様になってくる。

 正直道を尋ねようにも、俺のような編入生イレギュラーでは肩身が狭い。狭すぎる。

 仕方ない。再び案内へ視線を落し、人垣でごった返す通路をその小柄な体躯を生かしてスルスルと進む。

 普段の仕事を踏まえればこの程度の人ごみ、例え眼をつむっていたとしても当たる気はしない。


 ドンッ


 当たった。

 当たった?

 この俺が気配に気づかず何かに当たっただと?

 ペラ紙の案内から視線を上げるものの、そこには何も居なかった。


「────ちょっと」


 周囲の喧騒の中でしっかりと聞き取れたピンッと張った声音。

 それでいて鈴の音を転がしたような可憐さと清廉さを綯い交ぜにした響きは、手にした案内よりも更に低い位置。

 身長百六十センチの位置から見下ろしたその場所、俺の『蒼』とは違う『紅』に着色された校章を身に着けた一人の少女が佇んでいた。

 桜の花弁舞う恵風に靡く銀灰のロングヘア、目測百四十センチの小柄な総身とゴシック調に近い学院の制服姿は作り物の人形のように精緻で、触れたら壊れてしまいそうなほど儚い。

 陽を知らない深雪の白肌、顔のパーツ一つ一つとっても線がくっきりとしており、その風光明媚な顔立ちは神が作ったと称しても差し支えない。

 中でも特に俺の心を鷲掴みにしたのはその瞳だ。

 血赤よりも稠密ちゅうみつたるレアルガーの結晶の如き二つの双眸。

 例え世界の宝石を寄り集めたとしても、彼女の瞳の前では霞んでしまうだろう。

 その形容し難い美しさに、俺は人生で初めて生唾で喉を鳴らした。


「崇敬なるこのわたくしの通り道を防ぐとは……いい度胸じゃない」


 僅かに膨らんだ両胸を反らし、氷塊のように冷たい響きを突き立てる。

 まるでその少女が絶対ルールとでも言いたげな居丈高な態度。

 しかし何故だろう。

 俺はこの少女のことを何か別の、本能的な部分で引き寄せるものがある様な気がしていた。

 それを上手く言語化することができず、ぶつかったまま固まっていると、少女は形の良い眉を顰めて小首を傾げる。


「……ちょっと、黙ってないで何か言いなさいな。それに人の顔をジロジロと、編入生というのは教育もなっていないのかしら?」


「……ん、あぁ、すまない……」


 蠱惑的なアンニュイの表情は変わらずだが、どうやら怒っているらしい少女に、俺は形ばかりの謝罪を返した。


「ぶつかって悪かったな、


 今日は全学年の入学式を纏めて行うことから人の数も多い。

 ぶつかったこと諸々の部分は少々引っかかるけど、恐らくは疲れの影響かな。

 もしここで『この俺でも気配を感じられなかった』なんて正直に申し出たところで、この子に意味なんて分からないだろう。だから俺は適当な理由を付けることにした。


「なんていうかその、小っちゃくて気づかなかったんだ。それじゃ、」


 本当は見えていなくても関係ないんだけど、俺は妹にでもするように片手でポンッと少女の頭を撫でながらその場を後にしようとする。

 どうよ、このトラブルに物怖じしない華麗な対処の仕方。

 例え常識の無いこの俺でも、の中学生、いや小学生か?まぁどっちでも良いけどこの程度なら無問題モウマンタイ

 何よりこれから学院生活をできる限り静かに過ごそうとしている身からすれば、こんな些細なことで面倒事を起こすのだけはごめんだ。


「お、おい……っ!あそこにいる男、純潔の黒獅子ブラックエンプレスを触ってないか?!」


 周囲の異変に気付いたのは案内図に視線を戻そうとした時だった。

 一人の男子生徒が俺の行いを咎めたのを合図に、喧騒だっていた周囲の空気が真っ青に凍り付く。まるで俺の周囲だけ時が止まったかのように、さっきまで談笑していた周りの学生達は押し黙ったままこちら見ている。


「やべぇよやべぇよ……」


「しかもよりによってあの蒼の校章、外部編入生ベンダーかよ、紅校章の名家推薦フォロン様に対してあの無礼は流石にマズいぜ……」


 学院生の一人がそう告げるのに、俺は頭に叩き込んでいた校章制度のことを今更思い出した。

 クロノス校では身分を見分けるために三つの校章を用いているとか。

 一つは俺が身につけている『青』通称『編入生ベンダー』、何らかの理由で編入してきた生徒の総称で、この学院でも数人程度しかいないらしい。

『緑』この学院をほとんど占めている通称『一般学生ノルマル』。外部編入生との違いは、彼らは初等部入学から正式な受験や進級試験を通して進学していく一般学生のことを指しており、学院生九割近くがこれに該当する。周囲の学院生達もみんなこの『緑』校章を身につけていた。

 そして最後が、この目の前の少女が身につけている『紅』通称『名家推薦フォロン』。長きに渡り魔術を研鑽する由緒正しき一族、世間で名家と呼ばれる家柄の生徒に送られる称号。要は学院推薦だ。学費やらなにやら至れりつくせりにしてやるから是非学院に来てくださいっていう広告枠スポンサー。故にその人数も指折り数える程度しかいないとか。

 つまり俺は今、そんな名家様相手に何かしてしまっているらしい。全く自覚はないけども。


「ねぇ、早く離れよ?私達まで巻き込まれちゃう」


 困惑している内に、さっきまで人一人通るのすら苦労するほど密集していた人ごみのど真ん中にぽっかりと円形上の空白が生まれてしまう。

 もちろんその中心は俺とこの純潔の黒獅子ぶっそうななまえで呼ばれたくだんの少女ただ二人。

 嫌な汗が全身から溢れ出す。

 脳裏を過る最悪の事態、そんな俺に追い打ちをかけるように更なる異変が畳みかけてくる。


 右手が動かない……。


 指先の間をすり抜けていくサラサラと心地良い髪質はそのままに、手首から後ろが金縛りにでもあったかのように固まっている。


「そろそろ手を放して貰ってもいいかな。


「────二つよ」


 手首を万力の如く掴んだまま少女が微笑みかける。


「アナタの罪は二つよ」

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