第23話 2015年 ~裸の魂で感じてください…… -3
ホールに入ってまず感じたのは、空間の広さでもセットの豪華さでもなく、ただ『黒い』ということだった。空間が、ただひたすら黒いのだ。まだ始まる前なので当然照明は灯されており、暗いわけではない。
しかし、壁の色やステージの装飾だけでなく、機材チェック係やカウンターバーの店員、また周囲で談笑している客たちのまとっているオーラが、みんな一様に『黒い』のだ。
「けっこう人が入っているんだな」
ぽつり、と誰にともなくつぶやくと、
「みんなこの日を待っていたんだよ」
こちらも独り言のように口にしたユグドラシルが、じっとステージのほうを見つめている。その隣で仁王立ちしている胡桃も、いつになく真剣な眼差しを前方へ送っている。
二人して何を思っているのだろうか、と少し気にはなったが、尋ねるとまた面倒な話をされそうだ、と判断してそっとその場を離れた。一番後ろに備え付けられているカウンターバーへ足を向ける。チケット代のなかにワンドリンクも含まれているため、始まる前に交換しておいた方がいい。
「バドワイザー下さい」
黒のシャツに身を包んだ長髪の店員は、こちらの言葉に対しても無言でチケットを受け取り、ただ瓶を差し出してきた。持っていけ、ということだろう。
瓶に口をつけたちょうどそのとき、ステージのほうで小さな歓声があがる。振り返ると、トップをつとめるバンドが出てきたところだった。そのファンなのだろう、数名の女性が最前列にかじりつくように陣取って嬌声を上げている。
おそらくオリジナルなのだろうか、これぞヘヴィメタルといったような王道の曲が演奏された後、ボーカルのMCが入ってくる。
「ライブハウス初日というこの記念すべき日の、さらに記念すべき一番最初の演奏を、われわれに任せてくれた、イベントスタッフの方々、またファンのみなさま――」
ステージの男はあからさまに緊張していた。その様子に少し笑ってしまう。
「新年会の挨拶じゃないんだから……」
いつの間にか隣に来ていたユグドラシルが苦笑している。
「まあ、いいじゃん。なんでも。とにかく楽しみましょ」
とこちらは手にコロナビールを携えた未成年の胡桃が、乾杯というジェスチャーをしてぐいとビールをあおる。なぜか慣れた仕草だ。おれは見て見ぬフリを決め、ステージに目を向ける。
ホールはすでにそのキャパの半分程度は人が埋まっているように見える。前三列ほどは、曲のリズムに合わせて頭を前後に揺らし、いわゆる「入り込んでいる状態」になっている。
真ん中から後ろにかけて、じっと黙ってステージを凝視している人たちや、隣の人と顔を近づけて話をしている数人がいた。ひとつだけ設置されている丸テーブルの周りには、三人、少しこわもての男たちがウイスキーらしきグラスを片手に、ときおりステージに目を向けたり、会場内を見回して、あちらこちらと指を指しながら隣の男に耳打ちして笑い声を上げる。
女の品定めでもしているのだろう――と、おれは偏見たっぷりにそう決め付けて、そちらから目をそらす。
ステージでは四人の男が長い髪を振り乱してメタルを演奏している。最初は緊張していたらしきボーカルも、いつのまにか滑らかなMCを披露するようになっていた。次第にステージに見入る観客が多くなってきているようだった。自然とおれも、少しずつ前のほうへ移動していた。
「いいですね。なんかこう、血が騒ぎますね」
ずっと隣についてきている胡桃は、おれの耳元でそうささやき、リズムに乗ってその体を揺らす。
二つ目、三つ目と、数十分程度でどんどんとバンドが入れ替わっていく。
これほど多くの新しいメタルバンドが、普通に集まってイベントをやる時代になったのか――これが、正直な感想だった。
あの事件により『メタル・ボックス』が廃業して以来、特に日本のメタルシーンは暗黒時代を迎えていた。そして、現在でもそれが続いている、とおれは思っていた。それは勘違いだったのだろうか――。
「このバンド、わたし好きなんです」
胡桃が指差したステージには、ボーカル、ベース、ドラム、ギターが二人、キーボード一人、の六人編成のバンドが、ちょうど一曲目を披露しているところだった。
荘厳なキーボードのバックに疾走感のあるドラム、ベースがかぶっていく。さらにギターがシャープなリフを被せたイントロ。これにはおれも少し惹かれるものがあった。態度には出さなかったが。
イントロの最後のキメで、胡桃が片手を上に突き上げる。
見ると、胡桃だけでなく、会場のいろいろなところで同じように決めポーズをしている数人がいる。
びりびり、と耳の奥から脳へ響いてくるような、デスボイス。それは曲を包み込むような深さと広がりをもってこちらへ迫ってくる。恍惚感に心臓の鼓動が早くなってくるのがわかった。思わず見入ってしまったおれは、はっとして周囲を見回す。
いつしかその空間は、メタルの支配者のもと、バンドも観客も渾然一体となってぐるぐると渦をまいているような、深い粘着質な液体の中にどっぷりとつかりこんで漂っているような、そんな一体感に包まれていた。バンドを最初から知っていた人も、今はじめて見たであろう男女も関係なくその海の中で踊り狂っている。
要所要所で響くピッキングハーモニクスも、ベースの上昇フレーズからキメのスライドも絶妙で、そのたびのぞわぞわと肌が泡だち身震いが起こる。
いつしか叫び声をあげていたが、その声も怒涛のように踏み鳴らされるバスドラムとマーシャルアンプからの荒々しいギターリフによりかき消され、自分の耳には届いてこない。
最後の曲が終わり、バンドは整列して挨拶し、去っていく。
一瞬にして現実に戻ってきたような錯覚を覚える。ふと隣を見ると、さきほどまでピタリとくっついてきていた胡桃が、姿を消していた。
知らないうちにほぼ満員の状態になっていたため、ホール全体は見回せなかったが、少なくとも近くにはいないことはわかった。ユグドラシルも、その友人も見当たらない。
ひょっとすると、前のほうにいって見ているのかもしれない。
「まあいいか……」
そう独り言を口にしている間に、ステージには次のバンドのメンバーが一人姿を見せ、その瞬間、一気に会場がはじけたような嬌声に包まれる。
シャガール、シャガール、とどこからともなくコールが発生し、それがホール全体を巻き込んで巨大な流れになっていく。
〈シャガールの残像〉だ。
ボーカル、ドラム、ベース、ギター、キーボードの五人編成で、赤と青のマーブル模様のシャツを身にまとっている。ワンピースのようになっており、ひざ下まで隠れている。ボーカルとギター、ドラムは赤が基調、そして、ベースとキーボードは青主体、と微妙に異なった衣装となっており、こだわりの部分が垣間見られた。
よく観察すると、前のほうにいる人たちの中には、形はただのTシャツだが、同じような模様の入った衣装を身につけている人々もちらほらと目に付いた。
シャガール、シャガール、のコールに合わせて、ドラマーがどん、どん、とバスドラムを踏み鳴らし、それに気づいた観客がさらにヒートアップしていく。
サウンドチェックの最中、荒々しいギターのディストーションサウンドが、ときおり聞こえてくる。やはりデスメタルなだけに、歪みが非常に深くかけられている。ふと、どこの歪みエフェクターを使っているのかが気になり、背伸びをしてみる。なんとか隙間から確認できたが、シングルなのかマルチなのかが微妙な程度の大きさのメタル色の筐体で、少し見る限りではメーカーまでは思い至らない。
と、照明が落とされたホールには非常階段の青緑のランプだけが薄く点灯して、不気味にステージ上を照らし出している。
シン、と一瞬にして静寂が落ちた会場に、緊張感が高まる。
バンドの中の四人のフロントは、全員その場にたたずんで静かに下を向いている。
前列の方の観客も、ステージ上と同じようにみな下を向いている。触発されるように、後列の観客も次々と頭を垂れはじめる。
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