僕の忘れられないお客さん 〜母と娘〜

彩霞

第1話 来店した母娘

 銀行の営業職をやっていると、色んな人と出会う。


 主婦、新社会人、会社の社長、花屋のお使いの人、アパートの大家、年金を下ろしに来るお年寄り……。さらにそのなかでも様々な性格の人がいて、出会って良かったと思う人もいれば、もう二度と関わりたくない人もいる。もちろん仕事なので、嫌だと言って逃げるわけにはいかない。


 嫌な人の接客をする日は、無心でやり過ごし、家に帰ったらビールを飲むことにしている。つまり、そうすれば大抵の嫌なことは忘れることができるということで、入行から7年経った今では、一日のなかで当たり前のルーティーンになっていた。


 人は、出来るだけ多くの知識と出来事と人の特徴を覚えていた方が、社会の歯車として役に立ちやすいのかもしれない。しかし物事によっては「適度に忘れる」ことも大切なことだと思う。その機能があるお陰で、僕はまた苦手な人の接客をすることが出来るのだから。


 だが、僕のなかでどうしても忘れられないお客さんがいる。あのとき、何も言わず終わったことに正しさを感じる一方で、こういう問題はどうやったら解決できるのだろうと、時折ふと思うのだ。


 そう。僕にそんなことを思わせるようになったのは、数年前にあった秋の日の記憶である――。


――――――――――



 僕は渉外担当だが、いつも外回りをしているわけではない。

 その日は店の人の出入りが多かったので、訪問の約束のない時間は店の手伝いをさせられていた。


(本当は事務処理をしたいんだが……)


 店にいるときは、出来れば書類の作成などを行いたい。しかしこのご時世、銀行職がどうも不人気で人手が足りないため、外回りの営業をしている僕も、店にいるときは来店者の接客をしなければならないのだ。


 カラン、カラン。

 自動ドアが開くと、取り付けられている鈴が鳴り、女性二人が店内に入って来た。窓口で受付を担当している人たちは、すでに別のお客様の対応をしている。他にも手の空いている渉外担当者はいるが、ここは年齢的に一番下の僕が行く必要があるのだろう。


「いらっしゃいませ」


 僕は事務処理を諦めて空いているカウンターに立つと、先ほど入って来た女性に声を掛けた。


 すると僕から見て左側にいたつばの広い黒い帽子を被った女性が、つかつかとカウンターに近づく。

 赤い口紅が印象的で、柔らかそうなウェーブがかった茶色い髪が、綺麗な顔を包み込んでいた。見れば多くの人が振り返るであろうその容姿は彼女の魅力なのだろうが、どこか近寄り難いオーラを放っている。

 僕は銀行員の勘のようなものが、「これからややこしいことになりそうだぞ」と警報を鳴らしたので、いつも以上に気をつけながら彼女と対面した。


「どういったご用件でしょうか?」


 僕がそう尋ねると、目の前に立った女性はブランドバックから通帳を取り出し、カウンターにペンッと突き出すと、つっけんどんに「これ、解約したいんですけどっ」と言った。


 そのときに見えた彼女の爪には、深紅色のマニュキアの上に、花のデコレーションが飾られていて、これからの取引に対し自身の強い主張がされることを予感させる。


「ご本人様でいらっしゃいますか?」


 念のために尋ねると、女性は隣に立つもう一人の女性を指さしながら「娘のですっ」と答える。つまりこの二人は母と娘という関係で、娘の通帳を解約したい、と言っているのだ。


 僕は「失礼します」といって通帳を手に取ると、名義を確認する。


 名は「高橋春花はるか」とあった。なるほど、娘さんは春花さんと言うらしい。

 僕は「解約してよろしいですか?」と、僕から見て右側に立つ黒髪でショートヘアの彼女にやんわりと尋ねた。しかし春花さんよりも先に、母親の高橋さんが答える。


「いいって言ってるでしょ!」


 僕は母親の気迫に気圧されつつも、「失礼いたしました。では、手続きをいたしますのでこちらへどうぞ」とにこりと笑ってそう言うと、彼女たちをローカウンターに促した。そうでもしないと、母親のヒステリックさに気づいた他のお客さんの視線が、こちらに集まってきていたたまれななかったのである。

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