肉まん
石田明日
ゴミ
缶に閉じ込められた炭酸が、鈍い音を立てている。ぴちぴちと何かを私に訴えかけていた。でも、それに応えられないほど私は酒に酔い、あの夏を思い出していた。
誰かの声が聞こえた気がする。今は静かなはずの蝉の声ばかりが部屋に響いているだけなのに、ほら、また声がした。いい加減にしてよ。私の聞こえた声が気のせいなことはわかっている。だから何度も耳を塞ごうとした。ベッドに置きっぱなしのイヤホンを取りに行こうとした。油の足りない私の関節ではうまく体を動かすことができなかった。伸ばしていた脚を曲げようと思ったが、軋む孤独な音だけが一人でどっかに行ってしまった。置いていかないで、ひとりにしないで。と、腕を伸ばしてみたものの、すぐに力が抜け、強く地面に叩きつけられただけだった。
「この前食べた肉まん美味しかったな」
この前とはいつのことなんだろうか。こんな暑い日が続いているというのに、私は肉まんを食べたのか? 覚えている限りでも、もう三年近くは肉まんを食べていない。考えていることはきっとまともなのに、口に出る言葉はよくわからない。でももうあの時のように、口からいきなり出てきた言葉を後から後悔の材料として使うことは無くなった。言葉の重さを忘れたからではない。多分。炭酸の音がまだ部屋に広がっていた。鬱陶しくて、早くいなくなってほしくて体を起こした。ずんずんと体に何かが響いている。途端に頭痛が襲ってきた。毎日馬鹿みたいに泥酔を繰り返しているので、こんなのはなんてことない。少し濡れた缶を手に取り、上がった体温をはっきりと感じ、不潔な音を立てて酒を飲み込んだ。口のはじからぽたぽたと酒がこぼれているが気にしない。服でそれを拭き取り、また一口飲み込んだ。部屋にはゴミや本が散らばっている。それを片付けるふりをして、いじった。幸いなことに生ゴミがない。だから八月の今、部屋に虫が湧くこともなければ異臭もしない。服が微妙に濡れている不快感を隠すために、視界に入った本をかき集めた。これは読んだ、これは読みかけ。と整理していると、また声が聞こえた。集めてみると意外と少ない量で、悲しくなった。どうして悲しくなったのかは、考えたくない。私の生き方が浅はかだったわけではないと思っている。例えそうだったとしても今更過去も未来も今も何も変わらないんだからなんだっていいだろう。ある程度片付いた部屋を見つめた。私が頑張って生きた証とやらがあの大きなゴミ袋に詰まっていると考えてみると、何もかも無駄な気がして怖くなる。壁に手をつき、また酒を取りに行った。いつまで経っても帰ってこない人を待ち続けているからこんなザマなんだ。今の状況があまりにもひどく、惨めなことは言われなくてもわかっている。うるさいんだ。みんなうるせぇ。早く帰ってきてよ、寂しいの、また私の頭を撫でて。と、彼の体温を思い出しながら壁に寄りかかった。愛されていたとは思えない。すぐ殴るし、ものを壊すし、暴言も吐くし、お金ばかり要求するし、泊まりの日はセックスしかしなかったからだ。そんな彼が好きだったわけではない。ただ心地よかったんだ。私を雑に扱ってくれて、愛さないでくれて、いきなり居なくなって、もう二度と帰ってこない。私はそれが嬉しかった。嬉しかったけど、たまに寂しくて堪らなくなる。またあの痛みを味わいたい、なかなか治らないアザを押して痛みに笑われたい。と何度も何度も頭を掻き毟った。皿を投げられ、ぱっくり切れた太ももの傷跡は当たり前に消えることなく残っている。灰皿がなくて私の手の甲に押し付けてきたタバコの跡だってちゃんと残っている。それ以外はもう何も残っていない。いや、さっき私が感じた口いっぱいに広がった肉まんの味は彼が買ってきてくれたものだ。まだ、残っているものがあった安堵で嘔吐した。ただの飲みすぎだと言うことは理解してる。理解しているが、酔っている時くらい私の好き勝手な妄想を許して欲しい。いや、誰も責めてないのか。でももう何もかも終わりなんだ。彼は死んだ。借金の返済をしなかったから、怖いおじさんに殺されたらしい。そんな物騒な事件はきっと私の知らないところでまだ繰り返されている。かき集めた思い出と、残りの記憶を全てゴミ袋に詰めて、千鳥足で外に出た。
肉まん 石田明日 @__isd
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