好きだった

石田明日

パレット

私は知らない。私は何も分からない。なにもやっていない。ただ、ただ生きていただけだ。私は知ったこっちゃない。持っていたパレットを取り上げられ、思い切り顔に投げつけてきた由美は、何かを吐き出して部屋を出た。そして鈍い音が外から聞こえた。誰かがベランダから何かを落としたのかもしれない。それか配達員が荷物を落としてしまったのかもしれない。とにかくなにかの落下音だけが私の耳に響いた。次に携帯のバイブ音が鳴った。私の携帯は常に電源を落としてるから、鳴るはずがなかった。玄関に行くと由美の携帯が落ちていた。まだ遠くには行ってないはずだから、と裸足で外に飛び出した。私の顔が絵の具でぐちゃぐちゃになっている事はどうでもいい。深夜だし、ここはあまり人がいない。アパートの住人と鉢合わせることだって年に1回あるかないかくらいだ。階段を降りようとして、すぐ下の駐輪場が気になった。さっきは何が落ちたんだろう、もしかしたらこっち側に落ちたのかもしれない。という興味本位で、無邪気に体を柵にぴったりとくっつけて落ちたものを探した。だけど探す必要はなかった。ちょうど私の部屋のドアの前と同じ位置で右足が左向きになり、腕が取れかかって血だらけになっている由美がいた。友人の死体を見たというのに、私の心拍数は上がらなかった。きっと汚れたであろう素足のままもう一度部屋に戻り、自分の携帯の電源を入れた。そして同じように外に出て、上から由美の写真を何枚も撮った。どういう落ち方をしたのから分からない。だけど、背中は私の方を向いているから、きっと後ろ向きで落ちた訳では無い。誰かに押されてでは無く、由美の意思で落ちたんだろう。写真を見返すと、全ての写真と目が合った。相変わらず綺麗な顔をしてる由美は死体になってもそれが壊れなかったのか。と羨ましくなった。 そんなことを考えていると、目の前に広がる光景に興味がなくなった。あの時輝いていた由美がもういない。もう何も面白くない。 今日由美が激怒した理由を考えていた。思い出そうとしてもなかなか思い出すことができない。ほんの10分前程度のことなのに、どうしてだろうか。なかなか思い出すことができない。 散らばった画材を避けながら、もう一度筆を持った。思い出せないことだらけなのに、自分が何を描きたかったのか、何を表現したかったのかということだけははっきりと思い出すことができるし、思い出す前にもう筆がキャンバスの上で暴れていた。 あぁ、そうだ。思い出した。 彼女は私のことが好きだったんだ。私のことが好きで、私に何か求めていたような気もする。最後に吐き捨てた言葉は「あんたはいっつも自分のことだけ。自分のことしか考えてないし。自分のことしかわからない。そんなあんたが好きだったのに、今も好きなはずなのに。なんでこんなに辛いの。ねぇ、絵じゃなくて私のこと見てよ。なんでなの」 そう言って私の持っていたパレットを取り上げた。私には何もわからない。


パトカーのサイレンの音が外から小さく聞こえた。由美が片づけられてしまう。その前に早く終わらせなければいけない。 そうか、もう終わってたのか。


確か由美にもらった靴を履いて外に出た。外は赤い光がたくさんあって、私の目を殺そうとしている。 携帯の中にいる由美の写真を消して、柵に手をかけた。

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好きだった 石田明日 @__isd

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