彼の視線 [後編]

「今日はありがとうございました」




私は一礼し、玄関のドアを開く。




「また、なにかあれば、いらっしゃい」




「はい」




私は頷き、彼女とは別れた。








 週開けの月曜日、梅雨の時期に入ったためか、日本全域で雨が降り、じめじめとした一日であった。私は、いつもの帰りのルートで進んだ。前までは、奇妙な視線を感じ、やや怖かった細い路地も、彼が見ていてくれると分かると安心できた。こういう形で彼と一緒にいることになるとは思ってもいなかったが、常に彼が私を守ってくれている、そう考えるだけで、不安も恐怖も感じることはなくなった。そして、彼を感じるたびに、必ず、彼を見つける、その決意を強く持つことができた。


 今日も、感じる暖かな視線。とたん、とたんという足音。今日はそれだけではない。電柱に取り付けられたミラー。そこには私の後ろに人影のような黒い靄が私をつけている。


私は自宅に帰ると、脱衣所へと向かう。普段は着替える程度で済ませ、夕食後にシャワーを浴びるが、今日は梅雨のじめじめとした空気と服が張り付いているような感覚が嫌で早くシャワーを浴びたかったため、服を脱ぎ捨て、浴室へと入った。


私はシャワーを浴び、汗を洗い流す。頭部から温水を当てるため、瞼を瞑った時だった。背後から視線を感じ、思わず、瞼を開く。


「え?」




体面にある鏡。そこに映っていたのは自らの裸体、そして、背後には彼が映っていた。


 彼は、当時あったころの姿とは異なり、右眼はなく、全身が爛れた変わり果てた姿だった。




「ゆ……う……な……」




彼は私の背後から抱きしめる。背後から感じるのはひんやりとした感触だった。だけど、


抱きしめられた感覚は前と同じ。懐かしくて、愛しい感覚に駆られる。だけど、訊かなくてはいけない。




「ねぇ、今までどこに云っていたの?ずっと心配してたんだよ」




「ご……め……ね……」




彼に私の云っていることが伝わるのであれば、訊ける。




「教えて、誰に何をされたの?」




「気……を……つけて……すぐ……そばに……い……る……から」




「誰が、誰が来ているの?」




そう、訊いた途端、彼は温もりと共に消えた。




彼は云っていた。彼を襲った者が私のすぐ近くにいることを。


ただ、彼と繋がりのあるものは“彼女”しか、いない。だから、私は彼女に訊くことにした。








 彼女と帰るのは久しぶりのことだ。


 


「珍しいですね、私と一緒に飲みに行こうだなんて」




「彼がいたころはよく飲みに行っていたんだけどね」




「なにか、あったんですか?」




 彼女は、私の瞳を覗くようにして訊いてくる。




「えぇ、まぁそんなとこかな」




「ふーん」




 そして、私と彼女はいつも通っていた居酒屋へと入った。昔のように、私たちは酒を飲み交わしながら、雑談した。仕事のこと、プライベートのこと、どんなことでも話題に挙げては、楽しんだ。けれども、あのことを訊いてしまえば、もう、後戻りはできない。だから、今は楽しむのだ。


 居酒屋を出たのは午後10時頃の事だ。


「いやー飲みましたね」




「そう……ね……うぅ……」




「大丈夫ですか?」




「えぇ、だい……じょうぶ」




「お酒弱いんですから、飲みすぎなんですよ」




「うぅ」




「しょうがないですね、先輩の家は遠かったですよね。なら、私の家に来ませんか?」




「えぇ、ありがとう」




私は彼女の肩を借り、歩を進める。ゆっくりとした私に負担のかからないペース。大通りから細い路地を通り、二つ目の角を右に曲がった先に彼女の家はある。私の家より15分ほど近い場所に位置している。


 私は彼女の家に入る前に切り出した。




「ねぇ、彼は今どうしているの?」




「彼?うーん、どうだろうね、私に訊かれてもわからないや」




「知っているのでしょう、彼のこと」




「知らないよ、私が最後にあったのは、三人で飲みに行ったのが、最後だし」




「貴方なんでしょう、彼のストーカーをしていたのは」




「ストーカーなんのこと?」




「彼が失踪する数日前に云っていたの。最近ストーカーされているって」




「へぇ、とりあえず、中に入ろうか」




「えぇ」


 


そうして、私は彼女の部屋へと入った。


整理整頓がしっかりとされた室内。誇り一つないほど、綺麗に清掃が行き届いた棚。女性らしい色合いの家具。そして、瓶に入った眼球。




「さて、どこから、話そうか」




「なぜ、殺害したの?」




彼女は口元を歪な弧を描き、嗤った。




「ははははははははははははははははははははははははははははははは」




「なぜ、嗤うの?」




「彼が悪いんだよ、私を捨てて、先輩を選んだから」




「なんのこと?」




私は彼女の云っていることが、わからない。




「彼と先輩が付き合い始める一年前から、私と彼は付き合っていた……」








2年6か月前のことだ。私、友里は彼と付き合っていた。お互い付き合うのは初めてで、何事も初々しい出来事ばかりで、色づいた日々を送っていた。彼は優しく、男女分け隔てなく親切で、困っている人にはすぐ、手を差し伸べる。私のデート中においても、そうだった。道のわからない女性に親切に場所を教えた。私が目の前にいるのに。女性に話しかけたのだ。私は嫉妬深いようで、彼には云っていたものだ。「私と一緒にいる時ぐらい、私だけを見て」と。だが、彼は云う。「困っている人を放ってはおけない」と。


だから、私は彼のスマートフォンから女性の連絡先を消した。当然、彼は怒ったけれど、最終的に彼自身が同意した。そして、彼のスマートフォンには位置情報が分かるアプリを入れ、随時監視した。そうすることで、浮気する可能性ときっかけを排除したのだ。そういう日々を送っていくたびに、彼はやせ細っていった。精神的疲労なのだろう。だが、そのくらいしなければ、彼は他の女に捕られそうだとそう思った。そして、彼と1年の時を過ごした時だった。彼から突然云われたのだ。「別れたい」と。私は反対した。理由を訊いた。彼は「もう、疲れたんだ。……これからは、友人関係に戻ろう」そう云って、去っていった。それから、一か月が過ぎたころ、彼は先輩と付き合い始めた。私は思った。疲れたなんて嘘だ。きっと、先輩と付き合いたいから、私を捨てたのだと。そう思うと彼らの関係を壊したくなった。だから、念入りに計画した。そのためには、彼らと少しでも一緒に過ごし、機会を探ることだった。三人で飲みに行ったのも、それが理由だ。彼は気まずそうにしていたが、私は気にすることなく、一緒の時を過ごした。


半年が経過する頃、私は彼を殺すことを決めた。そのためにはどこに死体を遺棄するのか、どこを通れば、防犯カメラの死角へと入れるのか。どこで殺害すれば、気づかれないのか。そして、殺害を決行した。


殺害場所は、私の車の中。殺害方法は、睡眠薬で眠らせた後に麻薬を注射器によって直接投与することによる毒殺。眠らせた後の注射器によって注入したものだから、抵抗を受けることなく、殺害に成功した。大変だったのは、問題は、どうやって、私の車に乗せるか。先輩が倒れ病院に運ばれたといえば、簡単に乗ったのだから、ちょろいものだった。


眠るように死んでいるため、走行中に隣に遺体があっても、気づかれることはない。私は、祖父母の所有する山へと運び、人が入ることのない山奥へと運ぶと穴を掘り、埋めた。


見つかった時に私が殺害したと思われるようなものは、痕跡を消し去った。携帯電話、私がプレゼントしたネックレス。まさか、私がプレゼントしたものをまだ持っているとは思ってもいなかったが。




「私は埋める直前に、いろいろと思い出してね、彼のことがまだ好きなんだ、と改めて思ったよ。だから、少しでも彼といたくて……だから、私は彼の眼球を抜き取り、ホルマリン漬けにして保存しちゃった」




「それが、真実なの?」




「そうだよ」




「殺す必要あったの?」




「あったよ、先輩と彼の仲を壊せたんだから」




私は、気づけば酔いも覚めていた。とっさに彼女の頸をしめようとした。しかし、彼女の手には鈍色に輝くナイフ。




「そう来ると思ったよ。そのために、部屋に招き入れたんだから!」


 彼女の右腕に持つナイフが私の腹部を狙う。私は咄嗟によろめき、寸前で躱す。しかし、そのまま、私は床に尻餅をつく。


「ようやく、先輩を殺せますね!」




「私がここで叫べば、隣の住人が警察を呼ぶと思わない?」




「残念ながらそうはならないです。この部屋は防音設備を整えたうえ、隣は先月退去しましたから」




「そう……」




「では、おやすみなさい」




彼女は私の上にのり、馬乗りの体勢になるとナイフを振り下ろす。私は死ぬ。そう確信した直後だ。少しでも抵抗するべく、左手で払う。その時、偶然にも彼女の右手頸にあたり、ナイフが私の右頬に落ちた。私は見逃さず、勢いでナイフを遠くへ投げる。彼女はそれを取るために、私から降りた途端、私は彼女を床へ押し倒した。そのまま、彼女の上に乗ったまま、拘束した。






 それから、私は携帯で警察を呼んだ。彼らが来たのは、それから数分後の事だった。


後日、新聞に挙げられ、警察の調べによると、彼女は容疑を認め、死体遺棄場所も自白し、現在警察により捜索が続いている。


 あれから、彼の視線は感じなくなった。恐らく、彼を殺害した犯人が捕まったことにより、安心して、私のもとから去ったのかもしれない。それでも彼は遠くからずっと私のことを見守ってくれている。そんな気がする。


 私は、週明けの怠さを押しのけ、職場へと向かうのだった。





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