午睡の果て
高丘真介
第1話
僕が目を覚ましたときに視界に入ってきたのは、女性のうしろ姿だった。少し右側に寄せてグレーのゴムで括られたその髪は、肩から前へと垂らされている。立ったまま何か作業をしているようであったが、寝転んだままの僕からは、その内容まではよくわからなかった。
あの、と僕は声を出してみて、それが予想していたよりも1オクターブほど高かったことに驚いて思わず咳払いをしてしまう。
「気づいた? 大丈夫?」
振り返った女性が、こちらに近寄ってくる。顔立ちの雰囲気では、その女性は僕より少し年下――二十代前半のように見えた。
返答しようと上半身を起こすと、軽いめまいを覚えた。目を閉じて両手で顔を覆い、指先でまぶたの上からぐりぐりと眼球を押さえて刺激する。
まず、僕は一度、全身に毒がまわって死にかけたはずだ。そこである意味で〈午睡〉に入ったのだ。これまでは文字通りの午睡の後にしか〈天上人〉による〈設定変更〉は起こらなかったのだが、それは僕がそう思い込んでいただけなのだろう。
そのあと、僕は一度目覚めた。
蠍が口をきかない世界、というのは僕にとっては初めてで、僕はそこで、ともすればその青い蠍に攻撃を仕掛けてもいいような気になった記憶がある。それは僕の知っている蠍よりも、どちらかといえば虫の類に近く見えたのだ。ただ、このときはその青い蠍には逃げられてしまい、それを追いかけてまでなんとか生き残ろうという意思もなかった。また、もうその時には満足に体も動かなかった。
「あなた、死にかけていたのよ」
僕のベッドの隣で、木の椅子に腰を下ろしたその女性は、ゆるく微笑みながら、ころころと涼しげに鳴る鈴のような音色で話しかけてきた。
「分かっています……設定変更が……」
いいかけた僕は口を閉ざして、それよりも、と言い繕った。
女性は首をかしげて、僕の顔を覗きこんでくる。
「ここはどこですか? たしか、僕は砂漠で、その……行き倒れていた、と思うんですが」
正確にはそれは、この世界ではなく〈設定変更〉がなされる前の別の物語での記憶だ。前回、前々回の設定では、どちらも行き倒れて〈午睡〉に入ったはずだ。この世界では僕はどういう経緯でここに来たのか、〈天上人〉に与えられた記憶の中に書き込まれているはずだ。
僕は脳内を必死に検索してみる。砂漠、蠍、それから、旅立つ前の街、など、断片的には出てくるものの、正確にこの世界の記憶と言えるようなものは形作られてこない。あまりにも〈設定変更〉が起こりすぎて、脳の記憶容量がパンクしてしまったのだろうか?
「混乱しているのね……かわいそうに」
女性は、僕の肩をなでるようにそっと一度だけ触れた。
「ここは、スコルピオ・エキスの工場よ」
スコルピオ・エキス――
その名前が僕の頭のどこかを刺激したのだろう。ばらばらに散らばっていた記憶が、一気に収束してきた。
僕はこの世界では、ここまで〈スコルピオ・エキス〉の買い付けに来たのだ。
赤い蠍の毒を青い蠍の毒が中和する。それは他にない唯一無二の成分で、いまだ人類が人工的に合成できていない。そして今、この世界では毒ガス兵器として利用されている。
赤い蠍から抽出された毒液を気体状にして敵方のキャンプに散布すれば、敵に致命的な打撃を与えることができる。さらに、青い蠍の毒も同様に保有しておけば、万が一赤い蠍の毒霧で味方が汚染されても解毒剤があるということになる。
僕はめまいを覚える。
前々回の設定のとき、僕は一匹の青い蠍を攻撃するのにもためらいを覚えていたのだ。それが、この世界では人はその蠍からエキスを抽出しているのだ。そして、あろうことか、僕はそのスコルピオ・エキスの買い付けをしようとしている。
いったい、〈天上人〉は、僕たちのこの世界を、いったいどうしたいのだろう? 何か僕たちにはわからない目的があるのか、それともただの遊びにすぎないのか――
いずれにしても、いつか必ず〈天上人〉に会う。そして、思うさま石を投げつけてやるのだ。それすら〈設定変更〉により改変されるかもしれないが、何度でも石を投げつけてやる――。
今のところどの世界に行っても、この考えだけは変わらずに持っていられる。生きてきた記憶は新しいものに更新されても、僕のアイデンティティの骨格はそのまま持ち越されるようだ。
「僕は、ここでそのスコルピオ・エキスを調達しなければならない。それが〈帝国〉からの使命なんです」
「まぁ、そうだったの……じゃあ、さっそく父を呼んでくるわね」
「父?」
「そうよ。この工場で蠍の飼育とスコルピオ・エキスの抽出をするのが、父の仕事」
そのまま背を向けて部屋を出ようとする女性を制して、僕はベッドから這いだして立ちあがった。
「もう大丈夫。来てもらわなくても、僕が会いに行きます。案内してくれますか?」
前を歩く女性は、エリーナと名乗った。僕が聞いたわけではないが、部屋を出るときになんとなくそういう話になったのだ。
サランという名前を僕が名乗ると、女の子みたいね、と言ってエリーナは笑った。その笑みは、始めに僕が感じたよりも少し年上のように見えた。
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