夜鷹昴は嘆息する

 吊るされた男ハングドマンを助けてあげなきゃ。


 影法師ドールを自由にしてあげなきゃ。


 俺は頼られたんだから。例え相手が怪異でも、俺を頼ってくれたのならば見捨てられない。


 俺が助けるよ。俺が何とかするよ。だから安心してね。


 なんて、夕暮れの教室で約束した日から数日。


 河川敷の橋の下。少し寒いけど家に早く帰るよりはマシな場所で俺は影法師ドールと向き合っていた。


吊るされた男ハングドマンって、長くない?」


「あぁ、そうだね……」


 吊るされた男ハングドマンは手を縛られているのが本来の形らしい。生まれた時から縛ってあるなら元々創らなければいいのに。影法師ドールを創った奴の気が知れないな。


 銀髪の怪異はいつも儚げに笑っている。この怪異は俺なんかよりよっぽど自由で強いんだろうけど、それでも頼ってくれるんだ。なら俺は何が何でも応えたいと思うよ。


「私のことは、イドラと呼んでくれるかな」


「イドラ?」


「そう、イドラ」


 笑う吊るされた男ハングドマン――イドラの後ろで川が煌めいている。冷えた夕焼けを反射する水面は凪いでいて、イドラの儚さが増した。


「昔々、私にそう名前を与えた人間がいたのさ。私の性質などを鑑みて、そう……そう」


 独り言のように呟いたイドラがすっと口を閉じる。何か言いたそう、でもなんか迷ってる。


 口を開いたイドラは直ぐに閉じて、ゆっくりと口角を上げた。


「……誰だったかな、私をイドラと呼んだのは。忘れてしまった」


 その言葉で、俺の背中に鳥肌が立つ。


 イドラは俺の様子に気づいて旋毛つむじに顔を寄せてきた。世界の寒さをイドラの体温が上塗りしていく。俺の頭を冷やすには足りなかったけど。


 ……忘れるんだ、この怪異でも。


 名前をつけた誰かのことを忘れてしまう。それはきっと大事なことで、重要なことなのに。こんなにあっさりと「忘れてしまった」と口走るんだ。


 なら、俺がイドラを自由にしたって忘れられるに決まっている。この怪異は俺を覚え続けてくれるわけではない。いつか忘れて、「私を自由にしたのは誰だったかな」なんて笑うんだ。


 未来を予想して怖くなる。無意味な喪失を妄想して寂しさが押し寄せる。


 イドラは俺の旋毛に頬擦りすると、冷たい唇を押し当ててきた。


「ごめんね昴、怖がらせて」


「……イドラも忘れるんだね」


「私は長い時を生き過ぎてるから」


「それでも大事なことなら忘れないものじゃない?」


 俺の手がイドラの二の腕を掴んでしまう。ギリギリと力を込めても、俺が情けなく見上げても、イドラは忘れてしまうんだ。みんなが俺を忘れるように。


 どれだけ良い子であろうとも、どれだけ誰かを助けても、それは忘れられるんだ。優しいと忘れられるんだ。


 優しいって、易いんだ。


「イドラ、俺の願いを叶えてよ。俺がイドラを自由にした時」


「あぁ、必ず」


 俺は優しくする方法しか知らない。それでも優しいだけだと忘れられる。それなら願いを叶えてもらわないと。


 俺を忘れないでいてくれる人。


 どうかその人に出会わせて。もしそんな人がいないなら、創って俺の傍に置いて。


 俺はイドラから手を離して、立ち上がった。


 影に足を埋めている影法師ドールは首を傾ける。布で見えない目はいつも笑っているんだろうなぁ。


「昴は良い子だ」


「知ってる」


 後ろ手にある指を弾いたイドラ。俺の視界は一気に白で埋まり、絵の中の川辺に立っていた。


 白く、落書きみたいにふわふわした世界。そこで俺の髪は青くなり、目も青く染まった。青い方が他の光源の人の印象に残りそうだよな。まだ誰にも会ってないんだけど。


「アルカナ」


 俺が創ったアルカナは鎖と錠前。首の周りに集まった岩石が輪を作る。砕けた岩の中からは銀色の武器が現れて、冷たいネックレスになった。


 武器なんて知らないけどさ、相手が自由に動くから駄目なんじゃないかな。バクでもレリックでも、動かなくなっちゃえば無害なんじゃないかな。


 縛ればあとは俺の自由に出来る。動きを封じれば相手に何もさせられなくなる。相手は俺の思い通りになる。


 だから俺は鎖を選んだ。ジキルでは誰の事も思い通りに出来ないけど、ハイドでなら力づくが許されるから。自由を奪っても責められないから。


 橋の下から出れば川からバクが三体も飛び出してきた。魚っぽいのに足は人だな。どうやって泳いでるんだよそれ。半魚人でももう少し変態っぽくない格好してくれよ。なんでバクって絶妙に気持ち悪いんだろう。


 俺は首にある錠前を外して鎖を伸ばす。鎖に上限はいらない。どこまでも伸びればいい。どこまでも縛りに行けばいい、捕まえてくれればいい。


 三体のバクを思い切り締め上げる。俺の元に残っている鎖の端を力いっぱい引けば、黒い怪異が地面にめり込んだ。


 藻掻いても駄目、暴れても駄目。お前達は捕まえた。もう逃がさない。


 どうせ俺を覚えてくれない影の怪異だ。


 俺は鎖を握り締めて錠前をかける。錠前が持つ働きは固定と重りにした。鎖が対象に密着して絞まるようにして、錠前がかかった瞬間に重量が増す。


 俺の属性は地。どこまでも重たい土のように、壊れない岩みたいなアルカナがよかった。その性質と鎖と錠前はなかなか合っていたんだろうね。


 錠前をかけた俺は、ギリギリとバクを締めていく鎖を見下ろした。


 藻掻く半魚人型のバクは俺を見上げてのた打ち回る。俺に助けを求めてる気がしないでもないよ。


 助けないけどさ。俺のこと食べようとしたお前らなんて。


「お前ら、俺のこと覚えとく頭なんてないんだろ」


 鎖がバクをぶつ切りにする。圧迫されて千切れた怪異は動かなくなり、俺は鎖を波打たせながら首に巻き付けた。バクを千切ったあと首に巻くのは少し抵抗があるけど、これも慣れだよなぁ。


「いいね、いいよ、とっても良い子だね、昴」


 笑うイドラが裸足でバクに近づいていく。左足首に足枷がついている影法師ドールは自分の影の中にバクを回収し、すぐに俺の元まで戻って来た。


 俺とイドラの影は繋がってる。てことは俺の影の中にバクが入ったのかな。見上げたイドラは鼻歌でも歌いそうな雰囲気だった。


「いっぱい食べようね、昴。食べれば君はもっと強くなれる。強いアルカナを使い続けられる」


「分かってるよ」


 イドラは距離が近い。今も俺の背後にほとんど隙間がない距離で立ってるし。いくら経っても見慣れない美形には少し緊張するんだけど。


 人に創られた物って、どうしてこんなに綺麗なんだろう。


 創りたいと思ったものはイドラみたいに綺麗に仕上がるのに、無意識に作ってるバクは気持ち悪い見た目ばっかりでさ。


 人って訳わかんないなぁ。俺も人だけど、てことは俺もバクを創ってんのかなぁ。


「……俺のバクはどんな感じなんだろう」


 呟いて歩くのは今日も特に目的地が無いから。宝探しをする訳じゃないし、どちらかと言えば宝は俺達だし。いや、正しくはイドラが宝だね。


「昴のバクも、きっと大人しくて、優しんだろうね。どんな形をしてるか楽しみだ」


「想像したくないなぁ」


「バクは嫌いかな?」


「あー……嫌いってより、気持ち悪い」


 別に動物っぽいバクならまだって感じ。キメラっていうのかな。あぁいうのは普通に潰せるんだけど、けどなぁ。


「人間の形を混ぜてる奴はなんか、半端じゃん」


 そのバクを零した人にどんな不満があったのかとか、どんな想いがあってそのバクになったのかなんて知らないけど。どうせ怪異を創るなら醜い方がと思うんだ。


「人間の要素が残ってるのって寒気がする。怪異になってもその姿に執着するんだって思うし、怪異になるならどこまでもなりきればいいのにって」


「なら、私も気持ち悪いかな」


 寄ってくるバクを鎖で地面に叩きつける。兎の体と人間の顔みたいな要素が混ざった訳わかんない形だ。


 イドラは影にバクを回収して、口角は絶対に下ろさない。


 俺は綺麗なイドラを見て軽く鳥肌が立ったと自覚した。


「イドラは怖いかな。綺麗すぎて」


「綺麗すぎて?」


「そう、綺麗すぎて」


 イドラの足元で枷が鳴る。俺は散歩でもするような速度でハイドを歩き、集まってくるバクは鎖で絞め続けた。


 俺の後ろを着いてくるイドラは暫く無言で、でも距離はさっきより近い。背後霊みたいにべったりだ。なんか恥ずかしいな。


「綺麗は怖いのかい?」


「そうなんじゃない? 創り物って感じがしてさ」


「まぁ影法師ドールだからね」


「イドラ達を創った人はいい趣味してるよ。その腕、自由に出来ないならいらなかったんじゃないの?」


「私もそう思う」


 笑ったイドラの息が旋毛にかかる。だから恥ずかしいし、くすぐったいだけど。


 軽く肘鉄を入れたけどイドラは全く離れなかった。こういうのって口に出さなくても伝わるもんじゃないの? 違うの?


「イドラ、近い」


「昴は良い子だね」


「急に話を逸らすのやめてよ」


「私のことをよく見てる」


「会話して」


「良い子だな、ふふ、ほんと、良い子だなぁ」


「イ~ド~ラ~」


「私達を使うのが、君のような子ばかりなら良かったんだ」


 何回肘鉄を繰り返してもイドラは離れてくれない。静かな世界にはイドラの足枷の音しかないんだろうな、なんて変な思考に落ちそうになった。


「何言ってるか知らないし、感傷に浸るなら一人でして」


「昴は私を一人と言ってくれるんだね」


「え、なに、違った? 一体って言えばいいの?」


 見た目がほとんど人間だったから普通に一人だと思ってたんだけど。つくづく怪異とは価値観が違うのかな。


 また少し黙ったイドラは俺の旋毛に頭突きをした。


 ……マジでさぁ、ほんとさぁ、なんなのコイツ。


「訳わかんない事ばっかしないでよ」


「昴は良い子だなぁ」


「もしかして影法師ドールって語彙少ないの?」


 のんびりマイペースなこの影法師ドール。他の影法師ドールはどんな感じなんだろう、他の光源の人はどれくらいレリックと出会ったんだろう。


 俺は這いずるバクを鎖で吊り上げて絞め千切る。分断したバクをイドラの影に放り投げれば、軽やかに足枷が鳴っていた。


「私、語彙は多かったと思うんだ。思うんだけど、どうしてだろうか、いつからだろうか。なんだか少なくてね、おかしいな」


「なにそれ」


「泣いていたのは誰だったかな。私の肩を掴んで怒鳴っていたのは、誰だったかな」


 イドラは俺の頭に額を押し付けて顔を左右に振る。犬みたいだな。俺、イドラのせいで禿げたりしないかな。いやもっと背が伸びたら良いのか。そしたらこんなにって、駄目だなイドラの背が規格外に高い。


 頭皮の心配をしてる俺の後ろで、イドラは独り言を続けていた。


「あれは、あの子は誰だった? きょうだいで、あぁ、泣いていたのはザ・スターだったかな。女教皇ハイ・プリーステスだったかな……怒鳴っていたのは、死神デス? 違う、ザ・タワー? いや、みんなだったのか?」


「それ、きょうだい?」


「そうだね。私は十二番目の吊るされた男ハングドマン。きょうだいは私を含めて二十一人。多いだろう?」


「多くて誰か絶対忘れられてる」


「忘れないさ、だってきょうだいだもの」


 弾むような声で言い切るイドラが少しだけ癇に障る。そんなに言い切れるなら名前をくれた人のことだって忘れるなよ。なんて、俺が言っても仕方ないんだろうな。


「私のきょうだいの話をしようか?」


「別にいいよ」


「一番上が愚者ザ・フール。私達を引っ張る先導者なんだ。彼がきょうだい散り散りに分かれて光源を探そうと言ったのは驚いたが、それも未来の自由の為だからね」


「勝手に喋ってるし……」


「そう、きょうだいと言えば特に仲が良いのがいてね。悪魔ザ・デビルと言うんだ。ぜひ悪魔ザ・デビルの光源と昴には出会って欲しいな」


「悪魔と仲良いの……?」


「そう、彼と性格は全く違うけどね。でも彼は……」


 そこでまたイドラは黙る。かと思ったら足も止まったようで、自分の影が伸びる感覚をなんとなく味わった。


 振り返ると、首を傾けたイドラの頬を涙が伝っていた。


 流石に、固まる。普通にビビる。さっきまで人の話を聞いてないと思った怪異が急に泣き出したわけだし、人の泣いてる姿とか普段見ないし、いや見たくないし。


「ちょ、い、イドラ、どうしたの。え、なに、俺なんか変なこと言った? 返事が冷たすぎた?」


 この状況で泣かれると俺に非があるとしか思えない。もしくは地面に落ちてた何かを踏んで足が痛いとか? いやでもイドラが痛いのは俺が怪我した時だけだし。え、俺なんか固いもの踏んだ?


 靴の裏やイドラの全身を見ても特に怪我の元になりそうなものは無い。そうなれば八方塞がりだ。なんでこの怪異泣いてるの。え、ごめん、よく分かんないけどごめん。


「ぃ、イドラ……」


「……思い出せない」


 顎を引いたイドラが俺の額に鼻先を寄せる。もしもこの影法師ドールの両手が自由だったら、今の俺は抱き締められたんじゃないかな。


 想像しながらイドラの背中に手を添える。冷たい影法師ドールは背中を摩るのに合わせて鼻を鳴らし「思い出せないんだ」と続けた。


「どうして私は悪魔ザ・デビルと仲が良かったのか。どうして私は、こうも、上手く思い出せないことが多いのか」


 俺の鼻にイドラの涙が落ちる。怪異は涙まで冷たいんだな。


 影法師ドールを創った奴は本当に意地が悪い。イドラの両手に自由を与えなかったくせに、涙は装備させたんだから。これで完成にするなんて酷いじゃないか。これでは泣いた時、涙を拭けないじゃないか。


「イドラ、涙拭くから。冷たいから」


「なんで、どうして……私は忍耐と、あぁ、なんだったか。私の特性は、もっと、本質が、」


「イ~ドラ!」


 人の話を全く聞かない影法師ドールの頬を勢いよく叩く。乾いた音にイドラの言葉は止まり、俺は自分達を中心に鎖を広げた。宙に大きく輪をかいた鎖の真ん中なら安全だよね。


 ゆっくり鎖が宙を漂い、俺とイドラを守ってる。影法師ドールの頬を親指で拭えば頬も雫も冷たくて、夏がきたらイドラを抱えて寝たらいいのかなって想像した。いやキツイな。絵面もベッドもキツ過ぎる。やめよ。


「イドラの属性は地。夜鷹昴を光源に選んだ十二番目の影法師ドール吊るされた男ハングドマン。俺が知ってる君はそれだけなんだけど、これは今ある事実だよ」


 イドラの頬を軽く叩きながら言い聞かせる。


 鼻を鳴らした影法師ドールは、ゆっくりゆっくり頬を上げた。


 いつものイドラ。いつもの吊るされた男ハングドマン


 俺は軽く息を吐いて、鎖に引っかかったバクを地面に叩きつけた。


「やっぱり、昴は良い子だね」


「……知ってるってば」


 あぁ、ほんと。調子が狂うな、この怪異。


 俺が息をついた背後から肌を揺らす感覚が近づいて来る。振り返ると、剣を構えた、バクではない怪異が凄い勢いで近づいていた。


 土手の直線上、ぶつかるのに三分もない。もしかしたら一分も。


「あれ、ッ」


「レリック。風の七番か。でも昴なら大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫だ」


 イドラが俺の後頭部に軽く頭突きして、俺の肩から力が抜ける。


「いつも通りで、大丈夫」


「……分かっ、た」


 変な生き物。変な怪異。それがいつも通りでいいと言うなら、俺はいつも通りを心がけよう。


 俺は鎖を自分の前に集め、飛び掛かってきたレリックに向かって撃ち放った。

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