己の願いに焼かれる前に
藍ねず
第一章 心を切望した豪風少女編
篝火焚火という少女
「願いを一つだけ叶えてあげる。死者を生前の姿で蘇らせるという願い以外なら、なぁんでも!」
そんな夢のようなチャンスが目の前にぶら下げられたら、人はまずどうするのだろう。
歓喜に打ち震えるのか、罠ではないかと勘繰るのか、一つだけとは勿体ないと悪知恵を働かせるのか。はたまたこれは夢か幻かと自分の頬を打ってみるのか。
予想外のチャンスに直面した私は、唐突に出現した異常に寒気を覚えていた。美しい薔薇には棘がある。上手い話には裏がある。目の前にぶら下げられた言葉も、正にそれ。
「その代わり、私の願いを先に叶えてもらうわ。誰でもない貴方に。貴方の願いが叶えられるのは、私の願いが叶った後で。報酬みたいなものね」
私の顎を撫でる細い指先がある。目の前で風船のように揺れる、冷たい女の指だ。
私は今、自分の部屋で両の手足首を縛られている。ご丁寧に膝まで縛られている以上、抵抗しないのが一番だろう。多分。きっと。おそらく。
私が気にするべきは、どうして
日常に忍び込んだ奇怪が私の前で笑っている。光も飲み込む黒で作られたドレスを纏い、両目を黒い布で覆った女。銀の短髪と細い三つ編みを揺らす彼女は、私に言葉を投げつける。
「さぁ、まずは語って?
顎を上げられ、私の世界は女だけになる。背筋が寒くなるほど綺麗な女は人間ではないんだろう。だって私の影から生えてるし。これが人間であって堪るか。
目の前にいるのは、人間に見える皮を被った化け物だ。
それが私に語れと言う。初対面の私に、私を語れと命令する。
化け物は完全に主導権を握っていた。私の前にあるのは、願いを叶えてもらえるかどうか以前に、語るか死ぬかの二択なのかもしれない。全くもって状況が掴めていないんだけど。
語ればいいのか。語って気に入ってもらえばいいのか。
そうすれば、私の願いを叶えてもらえるのか?
あぁ、ならば、ならば……それならば。
「……いいですよ、化け物」
口角をあげた私は、私を思い出す。物の少ない簡素な部屋で、今の私になった理由を語る。
自分語りなんて反吐が出るほど嫌いだけど。反吐を吐いて願いを叶えるチャンスを貰えるならば、反吐を吐く方がマシである。
***
私について説明するならば、やはりあの時から語るのがいいだろう。私が小学三年生だった時。そこから私は今の私になった。ターニングポイントと言っても間違いではない。
私はよく母方の叔母に預けられる子どもだった。両親ともども働くのが大好きだったからだ。学校が終われば近所の叔母の家に行くよう躾けられ、休日は一人で図書館に足を運ぶか、叔母の予定があえば預けられた。
両親はきびきび生真面目な人に見えていたが、別段子どもに淡白だったと言う訳でも無い。私に美味しいご飯を作ってくれるし、身の回りの物はきちんと揃えてくれるし。家族っぽいことはしてくれていたように思う。
対して叔母は私を哀れんでいる気がした。私が家に行くと手作りのお菓子を出して、手が空いたら色々な絵本を読んでくれたり、宿題を覗いてくれたりしたから。独身で妹の子ども、姪っ子が可愛かったのかもしれないが、辞書で過保護の項目を見た時は一番に叔母が浮かんだくらいだ。
前置きはこれくらいにしよう。
小学三年生の四月のこと。春には変な奴が湧くと囁かれるが、その年も湧いた。叔母に対して湧いた。事務員をしていた叔母をどこで見てどう気に入ったのかは知らないが、ストーカーに分類される男が現れたのだ。
しかしそんなことを私は知らない。だって小学三年生だ。ストーカーだのなんだのなんて学校ではまだ習っていない。叔母だって私に話さないし、知っていたであろう両親だって私に教えなかったのだから。知る由なんて無いだろ。
つまり、事前知識の無かった私は叔母が玄関を開けることを警戒しているなど微塵も知らなかったのだ。
だからチャイムが鳴った時、叔母より玄関に近かった私が開けに行った。それくらい出来るもの。
『はぁい』
開けた先に立っていたのは真っ黒い男。いや、まぁ私の記憶が黒く塗り潰しただけで男の服装は覚えてないんだけどさ。取り敢えず私の記憶通りに語るならば男は真っ黒だったのだ。頭のてっぺんから爪先まで。唯一輝いていたのは手に持っていた包丁だろう。
巨人のように見えた男は呼吸が荒く、肩を上下させていた。かと思えば私を指さして何事か問いかけた。しかしその声があまりにも早口で、しかも震えていたので聞き取れない。
私は首を傾けてしまった。それが男の癇に障ったのか、直ぐに戻らない私を見に来た叔母の悲鳴が琴線に触れたのか。
男は喚きながら家に侵入し、私を激しく押しのけて叔母に切りかかった。
金切り声を上げていたのは叔母なのかストーカーなのかはよく分かっていない。私も頭を強く打って痛かったのだ。男の包丁で二の腕も怪我したし、訳が分からなくて怖いし、ぼろぼろ泣いていたのは覚えてる。
『お、ぉばさ……』
ストーカーが叔母の髪を掴んでリビングに入ったのを見ていた。だから追いかけた。外に飛び出すとかは浮かばなかったな。叔母を残して行くのが怖くて堪らなかったんだと思うよ。
リビングには叔母に馬乗りになったストーカーがいた。真っ黒い男は叔母の服に手をかけて、甘栗色の髪や肩に包丁を叩き下ろしていた。
『好きなのに、俺は、こんなに、好きなのにッ!!』
泣きながら叫んでいるストーカーの言葉は今も耳に残っている。激しい言葉が飛び交う中で、男は告白を繰り返していた。怖かったよ、そりゃもう。
私も頭が痛いし、腕が痛いし、大人が本気で怒鳴り合って包丁を振り回してるのなんて見たことないし。訳が分かんなくて、怖くて、怖くて、怖くて堪らなかったから。
だから殴った。
ストーカーの頭を。椅子で。
食卓にあった私用のちょっと軽い椅子。それを思い切り振り被って、ストーカーの後頭部を血が出るまで殴ったんだ。
人に怪我をさせちゃいけませんって学校の先生は教えてくれる。だから人に怪我させるのは悪い事だってみんな知ってる筈だよね。なのに男は私や叔母を傷つけた。
だからアレはきっと、人の皮を被った化け物だったんだ。
とことん殴ったよ。椅子が壊れるまで殴ったし、男が呻かなくなっても殴った。顔中血だらけになった男が叔母の上に倒れたから力いっぱい押しのけて見たけど、叔母は気絶してたね。
そこからまたよく分からない勢いで人がいっぱい来て、気づいたら病院の廊下のベンチに座ってた。
駆け付けた両親、というか母親に、頬を引っ叩かれながら。
『貴方がちゃんと、確認しないから!!』
『焚火を責めても仕方ないだろ!!』
『だって、だって、この子のせいでッ!!』
母は、私が玄関を開けたせいで妹が襲われたと半狂乱になっていた。私の不注意のせいだと、私の不用心のせいだと。私が悪いのだと言っていた。
しかもそのストーカーが集中治療室に入る程の怪我を負ったのは私のせいという事実もあり、発狂には拍車がかかっていたように思う。
そんな母は母で怖かったし、彼女を怒鳴る父も怖かった。病院の廊下で大喧嘩するのは結構だが、もうちょっとこちらを見てくれても良かったのではなかろうか。頭にガーゼとネットを当てられ、腕に包帯を巻いた娘をさ。引っ叩かれた頬が痛くて堪らない子どもをさ。……ね?
こういう時、両親は無償の愛で子どもを心配するものではないのだろうか。
『パパもママもお仕事忙しいけど、ちゃんと焚火ちゃんのこと、大好きだからね』
頭を撫でてくれた叔母の言葉を私は信じていた。だから目の前の両親の姿は激しく矛盾したのだ。
『お母さん……お父さん、』
呼んだ瞬間の二人の目。あれは奇怪なものを見る目だ。見られただけで胸の真ん中がすっと冷えた。喉の奥が凍り付いた。
この人達、私を怖がってるんだ。
大人の男を椅子で半殺しにした子どもが自分達の娘だと信じたくないのだ。
いや、でもさぁ、娘だよ? 娘じゃん? 娘の行動を怖がるのってさ、娘の怪我を心配するよりも先行する気持ちなのかね。
私が出した答えはこうだ。
目の前にいるのは両親の皮を被った何かだ。
きっと、私を心配してくれる優しい両親を殺して、その両親の皮を被った化け物が駆けつけてしまったんだ。
そうでなくては、現状に納得のいく説明なんて出来なかったんだから。
口を閉ざした私は、その日から一人の家に帰るようになった。鍵っ子と言うやつかな。叔母がいつ退院したとか、男がどうなったとかは知らないけど、葬式はなかったから叔母は生きてるんだろうね。良かった良かった。
私は両親の皮を被った奴らを観察するようになった。どうすれば元の両親が帰ってくるか真剣に考えていたんだ。
母のような奴が作る料理は母と同じ味がした。美味しかったよ。でも作った奴の顔はいつも気味悪いものを見る感じだったから、やっぱり母ではないんだと思う。
父のような奴は家に帰ってくる頻度が減った。母と口論していることが増えたのもこの頃だ。夜遅くに帰って来たと思ったら二人の声が聞こえたから、よく起こされたものだ。事件があるまではそんなこと一度もなかったので、やはり父のような奴は父ではない。
どうすれば私の両親は帰って来るんだろう。いつになったら手を繋いでくれるんだろう。私はどうすれば両親を取り戻せるんだろう。
考えあぐねているうちに、両親みたいな奴らは離婚しやがった。母のような奴が家を出て行って、私は父のような奴に押し付けられた。小学四年生の時だ。
相変わらず鍵っ子で、なんなら一人でご飯も作るようになった。父のような奴が帰ってこないんだもの。
だから私は色んな本を読むようにした。小学校の図書室を使い倒し、市立図書館の虫になった。
『あ、分かった』
解決方法に近づいたのは一冊の絵本だった。難しい本ばかり読んで疲れたから、絵本に手を伸ばしたのがきっかけ。六年生の時かな、とても簡単な事に気づいたんだ。
『心が足りてないんだ』
そう、心だ、心を戻せばいいんだ。母の心と、父の心。二人の皮を被った怖い存在も本人達の心が戻れば出ていくだろう。そうだ、そうだ、きっとそうだ。
戻ってくるのを待って駄目なら、私が二人の心を探すんだ。
でも心って目に見えないからさ、また迷路にハマった。畜生って感じ。
心はどこにあるんだろうか、なんて哲学っぽいけど、本気で私は考えた。それは今も続く難題だ。いや、正確に言えば少し変わったか。
まず、心は人の皮の中にあるのだと私は仮説を立てた。そうでなくては人間と機械の差が分からなくなるからだ。機械は心を入れられていないから機械なのであって、人間は皮の下に心があるから人間なんだ。
この仮説を裏付ける為、私は自分の体を開こうとした。中学一年生の時だったな。
よく心は胸の中心にあるって感じて書かれてるから、鎖骨の真ん中から縦に切れば出てくるんじゃないのかなぁって思ったんだよ。人体図に書かれてないのは形が複雑すぎたり、人によって違うものだからって空想してね。
結果的には包丁で数㎝切った時に痛みで気絶した。起きたら病院だったね。虐待とか疑われたけどそんなことは一切ないし、カウンセラーの先生にはありのままを告げたよ。
『心を見ようとしました』
それから何か病名をつけられたけどしっくりこなかったから無視した。カウンセリングも行ってない。退院したら速攻で父方の祖父母の家に預けられて転校したし。
祖父母は私にすごくよそよそしくて、自分の息子が変わってることにも気づいてなさそうだったな。告げるのは酷だろうから言わなかった私って良い子だ。良い子良い子。
高校は一人で暮らせって言われたから県外の高校を受験した。中学卒業と一緒に一人暮らしのスタートさ。
父らしい奴は毎月生活費を振り込んでくれるけど、実家だった場所を尋ねたら引っ越されてたから、もう一年以上会ってないな。母らしき奴は離婚した時が最後だし。父方の祖父母に聞いても知らないんだろうね。父らしき奴、祖父母宅に寄りつかない淡白っぷりだったから。
「そして今の私になりました。ちょっと変わってるかもしれませんけど、無害で普通な女子高生ですよ」
語り終えたことを暗に女へ告げる。私の影から生えている奴は始終口角を上げており、私の喋りに口を挟むことはなかった。
フローリングに体育座りで縛られている私は、疲れてしまったので体を横たえる。体重移動が下手で側頭部や肩が床に鈍い音を立てて当たったな。畜生。
女は私の前に膝をついて頬に触れた。やっぱり冷たいな。コイツの皮の下はどんな化け物が住んでいるんだろう。なんで影が紐みたいになって私を縛ってるんだろう。
疑問で一杯だけど、それ以上に審査結果だ。私の語りはどうだった。お前は私の願いを、聞いてくれるのか?
「ねぇ、それで心は見つかったの? 心はあるの?」
弾んだ声に問いかけられる。私は胸の中心に残った傷跡を思い出しながら、目を
「見つかってませんけど、どっかにはあるんじゃないですかね。そうじゃないと、感情の出処や機械と人間の違いについて説明が出来なくなると思うので」
人に怪我をさせてはいけない。傷つけてはいけない。だから私は私以外の胸を開こうとしたことはない。もしかしたら胸ではなく頭に心はあるのかもしれないし、目には見えないからどこかを浮遊しているのかもしれない。仮説はまだまだ沢山ある。
「見つかったらどうするの? お父さんとお母さんの元へ行くの?」
「あぁ、別に、そこはもういいかなって。二人の居場所を探すのは重労働でしょうし」
「あらそうなの?」
「そうですよ。心はどこにあるんだろうという小学生の疑問は進化したんです」
女の指が私の唇をなぞる。どう変わったのか答えろと、布で覆われた目が命じている気がした。その布の下に私と同じような目があるかなんて知らないが。
軽く頭を上げた私は、女の黒い布を凝視した。
「高校生の私の問いは、温かい心に触れるにはどうしたらいいか、ですよ」
鼻で笑えば、女の口が開く。じっくりと頬を上げて、額に手を置いて。
私の影から生えている女は、清々しい高笑いを響かせた。
「――気に入ったわ」
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