ボーイズ ビー ブレイブス
朝倉亜空
第1話 始まり
今村貴士は浮かぬ顔をしていた。
青絵の具をぶちまけたように澄みきった 空に、その中に滲んでいって溶けてしまいそうな白い雲が三つ、四つ浮かんでいる。十月初め、絶好の遊び日和である。そして、貴士は人生において最も苦痛としている、ただ机の前の椅子に座り、自分の正面に立っているひとりの大人の口が発する、何を話しているのかまったく理解不能の言葉の羅列をただ聞き流しているだけの、途方もなく長く感じる時間の流れから今日もようやく解放されたばかりでもある。にもかかわらず、下校途中の今村貴士は浮かぬ顔をしていた。
貴士は都内にある私立高校に通っている十七歳。身長百171センチ、普段はあまりパッとしない身なりをしている。目が印象的で、黒目がちなイタズラ小僧のような目だ。勉強は極めてダメだが、その分の青春のエネルギーを遊びに打ち込んでいるタイプの高校二年生である。
「おい、なんか言えよ」
真っ黒のスポーツバッグを左肩に通し、ポケットに両手を突っ込んだまま、 貴士は言った。うつむいて、小石を蹴る。が空振り。よほど気分がイジけているようだ。
「なんかったって、なんもねぇよ」
貴士と並んで歩いていた男が言った。それは少年というよりも学生服を着たおっさんと呼ぶべき体躯をしていた。身長188センチ、体重96キロ。一目で鍛えているなということが分かる。大胸筋の分厚さや上腕部の太さなんかが、上着の上からでもひしひしと感じられた。髪型はスポーツ刈り。こいつも今、屈折した表情だ。
暗い瞳で貴士が蹴りそこなった小石を、太く濃い黒眉の下にある威圧的な細い目でまんじりと見つめ、それから自分もそれを蹴った。が、これも空を切った。貴士のクラスメートで、名を松木勝輔という。
「おいおい。ド下手かよ」
五、六歩前へ行っていた貴士が、わざわざ小石を蹴りに戻ってきた。
「ふん。お前こそ初めにカスったんだろうが」
勝輔が、やたら低くて重いだけの声で言い返した。
「あれは無邪気に蹴ったどうでもいい蹴りだったの。でも、お前のは真剣に狙った蹴りだった。それをヘボるから下手くそだってのよ」
見てろよと、貴士は言い、肩からスポーツバッグを外して、それを路上に置いた。
右足を曲げずに後ろへ引き、左足にやや重心を掛けてヒザを曲げた。両手は軽く握り、その二つの拳をすーっとアゴの少し上まで持ち上げる。脇は空けずに絞ったまま、双眼で鋭く小石を見つめた。前屈立ち蹴りの構えである。
「ショッ!」
まっすぐ伸ばしていた右ヒザを、一瞬、跳ね上げるようによく曲げてタメを作り、腰のひねりを利かせて、右足つま先で鋭く小石を蹴り込んだ。小石は貴士の気合とともに真っ直ぐ飛んでいき、20メートルほど前方の電柱にコキイ、と当たった。
「腰のキレだな。腰の」
へへっと貴士は勝輔をチラリと見て、にやっと笑った。
この二人、実は遊び以外にも青春のエネルギーをたっぷりと注ぎ込んでいるものがもうひとつあり、それはカラテの修練であった。それも黒帯を締めているという大した奴らなのだ。
現在、対戦式競技カラテには大きく分けて二種類ある。ひとつは突きや蹴りを当てさせずに、相手の身体の直前で技を止める寸止め方式であり、ふたつ目は相手の顔面以外ならどこでも自由にパンチを繰り出して実際に当てても良い、また、蹴りに関しては顔面でさえも攻撃しても良いとする、所謂、フルコンタクト方式と言われるものである。貴士と勝輔が習得しているものはそのうちの後者であり、格闘獣王と謳われる天才空手家、石原誠幸が創出した石原カラテである。
そんな二人が何を浮かぬ顔をしているのかというと、明日から中間テストなのである。学力のない彼らにとって、このうえなく息苦しい日々が続くのであった。
「……はぁー……」
勝輔が太い溜息を吐いた。
「ちっ、ダークな奴……」
貴士はつまらなさそうにボソッと言った。「なんか面白えことねーかなー」
「あるよ」
勝輔が言った。
「ふふ……。おい、なんだよその言い方。あるなら教えてくれよその面白えことをよ」
貴士が言う。
「ああ、教えてやるよ。筋肉バカ二人が全科目必ず赤点を取るテスト期間が明日から始まりまーす。やっ、こりゃ傑作だ!」
がーっはははと勝輔は大笑いして言った。
「何言ってんだよ。そんなのちっとも面白くなんかねーだろがよ」
貴士は悲しそうに言った。「バカじゃん……」
PM10時過ぎ、貴士は自宅の固定電話から勝輔へ連絡を取った。貴士も勝輔も、生きている時間軸が世間とズレすぎていて、スマホなどというものは持ち合わせていない。興味もない。生き方としては、マンモス時代の原始人に寧ろ近いのだろう。肉体至上主義者たちなのだ。
それで、貴士は明日のテスト科目は何があるのか教えてもらうつもりであった。もっとも、それを聞いたところでどうなる訳でもなく、赤点は赤点なのだが……。
(ルル………… ルル………… ルル…………
ルル………… ルル………… ルル…………)
受話器の奥で呼び出しのベルが鳴っている。ふと、貴士は気づいた。混線しているのだ。小さい声だが、意識を集中させるとベルに混じって聞こえなくはない。
いたずら心を掻き立てられ、ちょっと興味をそそられた貴士は、盗み聞きをしていた。別に人の話を耳に入れたとしても、どうということはないだろうが、そこは人間に浅ましさ、ちょっとでも面白い話が聞けるんじゃないかと勝手な期待をしてしまうものなのだ。
(……まあとにかく見つかったわけだ)
(清麗女子大学に通ってる。明日はきついが明後日なら何とか……)
(さらってこれるか)
(ああ)
(それならそれでいい。明後日の十一時、例の花時計の前で)
(分かった)
(うまくやれよ)
(そのつもりだ。……プッ…… ルル…………)
混線は終わり、呼び出しベルが鳴っているだけとなった。
貴士は考えていた。考えながら、たいへんなことを聞いたと驚いていた。
清麗女子大学と言えば金持ちのお嬢さん学校じゃないか。さらうって……、誘拐? 身代金? オット、えらいこと聞いちまったぜ! おいおい⁉
受話器の向こうで勝輔が出た。「はい、もしもし」
「お、勝輔か。今えらい話聞いちまってよぉ!」
貴士の声はかなり上ずっていた。
「なんだよ、貴士。お前、えらく興奮してるじゃねえか」
「これが興奮せずにおられっかよ。誘拐事件だよ、誘拐。今、この電話で混線しててよ、聴いちまったんだよ。お嬢さん女子大生の誘拐計画をよ」
「混線って、珍しいな。本当か。もしか貴士、お前さあ、うたた寝でもして、夢見たんじゃねえよな」
「違げーよ! 男二人が喋ってたんだって! おい、勝輔、行くぞ!」
「お前ひとりで行って来いよ。警察に通報くらい、ひとりでいいだろ」
「バカ! 誰がそんなとこに行くかよ! 決まってんじゃん、助けに行くんだよ、お前と俺とでよ! 嫌なのかよ!」
「うーん。お前がそこまで言うんだから、嘘じゃないんだろうし……」
「ここで行かなきゃ、男が廃るって!」
「……まあ、な」
「ヨッシャ、決まり! これで本当に面白くなってきたぜい!」
貴士は俄然、上機嫌になっていった。
そのまま受話器を切った貴士は結局、明日のテスト科目のことを勝輔に聞かずじまいであった。まあ、もともと、そんなことは貴士にとってどうでもよいことだったのだが。
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