第36話淵上高校騒動
日本に来て優香に会ってからというもの、エルナは目が覚めたような気分だった。それまでの自分勝手な自分が、ひどく愚かしい存在であることに気づけたのだ。
あの日もらった優香の言葉が、彼女の奥深くまで突き刺さった。
『──強いことは、傷つけていいことにはならないと思います。少なくとも燐火先輩は、そんなことしようとしませんでした』
エルナの中にある燐火への感情は複雑だ。まず大前提として、ひどく妬ましいという感情。
強いだけでなく、人格まで備わっているというそれは、エルナのプライドと、ナイフのように尖った劣等感をひどく刺激した。
──エルナの目には、日本の最強の戦乙女である燐火は強さに驕らず弱者のために尽くすことのできる聖人のように映っていた。
遊びに勤しむ同胞を尻目に、誰よりも多く訓練をこなし、それに文句の一つも言わない。ここの生徒たちは、恐れながらも誰よりも勇ましい彼女を慕っているようだった。
エルナとて、ドイツでは最強と謳われた戦乙女だ。負けられないと思った。だからこそ、他の生徒を傷つけてでも決闘を急いだ。
けれど、あの決闘で負けてから、彼女に勝てるビジョンが思い浮かばないのだ。最後の最後、燐火が見せた動きは今もエルナの脳裏に焼き付いている。とある掛け声一つで別人のように変わった彼女の姿。
強いとはこういうものだ、と示されたような気分だった。
あの瞬間、エルナの中にあった自分は強者であるというプライドは打ち砕かれてしまったのだ。
自分よりも強くて、自分より努力していて、自分より慕われていて、自分より優しい。そんなの、勝てっこない。
だからせめて、エルナは燐火を見習おうと思った。弱者を見下さず、努力し、人に優しくする。そうすれば、憧れる彼女に少しでも近づけると思った。
エルナがとりわけこだわったのは、人格的な面だ。
たとえば、廊下を歩いている何気ない時でも、彼女は気配りを忘れなかった。
「おい、ハンカチ。落としたぞ」
「フェッセルさん……? あ、ありがとうございます……」
不器用ながら、彼女の優しさは少しずつ芽生えていた。常人にはごく普通のことかもしれない。けれどそれは、戦乙女としての力に目覚めて以来ずっと自分勝手に人を傷つけながら生きてきた彼女の初めての変化だった。
──しかし、彼女の些細な努力は嘲笑われる結果となる。
「──フェ、フェッセルさんにみんな撃たれたんです! 天塚先輩、助けてください!」
燐火の元に走って来た戦乙女の発した第一声は、悲痛に満ちていた。
「彼女が急に私たちのところに来て、銃を取り出して、それで、それで……!」
焦りのせいで、彼女は冷静に言葉を紡ぐことができていないようだった。顔は血の気が引いていて、吐く息は荒い。
燐火は、それに対して穏やかな表情でなだめた。
「落ち着いて、一つ一つハッキリと言ってもらえないと分からないよ」
燐火の本心としては、信じがたいという思いだった。別人と見間違えたのだろうとすら考えた。
確かにエルナは性格が悪く、自分の性癖を満たすために人を傷つけるような人間だったが、最近はその攻撃性も鳴りを潜めている。むしろ優しい一面すら見せ始めているのだ。不器用な気遣いをするさまは、
「は、はい。まず、屋上で──きゃああああ!」
視覚外で響いた銃声に、燐火は最初反応することができなかった。
しかし、目の前で話をしていた生徒が倒れ込んだことだけは確認できた。彼女を庇うように前に出つつ、攻撃した主を探す。廊下を見た燐火の視界の端に、特徴的な金髪が舞っているのが見えた。
「待て!」
信じられい、という思いを胸に仕舞い、燐火は後をつける。
最強の戦乙女の名に相応しい俊敏な動きだったが、生徒の溢れる校内では、全力で走ることができない。猛スピードで駆ける燐火の姿に、悲鳴が上がる。人が邪魔で、思うように前に進めない。チラチラと見える金髪を見失いそうになる。
なんとか追いかけ、角を曲がったところで、燐火はようやくエルナの姿を捉えることができた。他に生徒は一人しかいない。茶色がかった髪の生徒。追っていたのは彼女ではないだろう。となれば。
「エルナ!」
「リンカ? ああ、見てくれ! 今私は、落ちていた缶をゴミ箱に──」
「──失望したぞ!」
エルナの嬉しそうな声は、燐火の叫びに遮られた。
「……え?」
エルナの顔が、一瞬で無表情に変わる。何を言われたのか理解できない、理解したくない、という顔だった。
燐火は一瞬でエルナに接近すると、彼女の体を押し倒した。
燐火はそのまま馬乗りになってエルナを拘束した。
「リンカ……?」
「抵抗しても無駄だ。この距離なら私の方が早い」
燐火が手に小太刀を構える。そこまで来てようやく、エルナは事態に気づくことができた。
「ま、まてリンカ……」
「話はあとで聞く」
打撲音。燐火の小太刀の柄の一撃を額に食らったエルナは、後頭部を床にぶつけ、なすすべもなく気を失った。
◇
「天塚先輩が追っていたのは、間違いなくフェッセルさんでした」
その時廊下に居合わせた多くの生徒が、そう証言した。他の言葉を期待していた燐火は、静かにその言葉を飲み込んだ。
「私たちはフェッセルさんに攻撃されました。間違いないです。彼女は笑っていました。私たちを傷つけて、楽しそうに笑っていました」
襲われた生徒は、そう証言した。彼女は、その時のことを思い出したのか小刻みに震えていた。その様は、とても嘘を言っているようには見えなかった。
「フェッセルさんの銃弾で、五人の戦乙女が負傷しました。幸い急所は外れていて死者はおらず、治療は完了しました。しかし一人はすっかり怯えてしまって、戦いに出向くことはしばらく難しいでしょう」
その後、燐火はこんな報告を受けた。
淵上高校には、『
傷は無事に治療された。けれど、いくら彼女といえど心までは癒せない。
同じ人間に、戦乙女に傷つけられた。それは、仲間に背中を預けることができなくなるほどの衝撃だったのだろう。おそらくその一人は、自分たちが人を簡単に傷つけることができる力を持っているという事実を改めて突き付けられてしまったのだろう。
淵上高校の実質的なリーダー、黒崎夏美はその報告を重く受け止めた。戦乙女一人の戦線離脱。それは、彼女の将来性も加味すると非常に重い事実だ。
夏美によって下された裁決は、エルナ・フェッセルの拘束。淵上高校に存在する、戦乙女をも拘束する監禁部屋への投獄だった。
燐火がエルナとの面会を取り付けることができたのは、それから一週間後のことだった。面会室、と称された教室に入った燐火の目に入ったのは、手錠で拘束されたエルナと、そんな彼女を厳しい目で見つめる黒崎夏美の姿だった。
「コイツを長々と外に出しておくのは危険だ。燐火、手短に済ませよ」
夏美が重々しい声で語り掛ける。燐火はそれに無言で頷くと、後ろにいる人物を呼んだ。
「優香ちゃん、入ってきていいよ」
「はい」
優香の姿を認めると、エルナはすぐさま立ち上がった。
「ユウカ! 聞いてくれ私は……!」
「許可なく動くな」
しかし、夏美の冷たい声が響いた。エルナはそれにハッとしたような表情を見せると、静かに座り直した。
燐火と優香が、エルナの対面に座る。燐火の両手は、小太刀に添えたままだった。
「エルナさん、何があったんですか?」
優香が問いかける。その瞳は真剣で、エルナのことを見抜こうという意思が感じ取れた。
「分からないんだ……私は何もしていないはずだ。だけど、私は今ここで拘束され、無実を証明できないでいる。何が起こっているのか、分からないんだ。……それが、たまらなく悔しい」
エルナの様子は、本当に困惑しているようだった。優香がわずかに目を見開く。燐火は、静かに目を細めた。
「黒崎先輩、エルナさんの件はちゃんと調べたんですか?」
「ああ。本人があくまで否認しているからな。入念に調査したとも。その結果、黒だと判断した」
夏美は淡々と語り出した。
「まず、被害にあった小林たちのグループの証言。フェッセルが発砲したときの状況の証言は、全て一致した。嘘を言っていた様子もない。続けて、それ以前のフェッセルの素行の問題がある」
「そ、それは燐火先輩との決闘以来改善して……」
「いいや、そうでもなかったようだ。決闘後も嫌がらせをされたという証言。威圧的な態度だったという証言。罵倒されたという証言が多数上がっている」
「そんな……」
優香は信じられない、という表情を見せた。エルナは静かに首を振る。
場が沈痛な沈黙に包まれる。今度は、燐火が重々しく口を開いた。
「客観的事実は分かった。その上で、夏美は自分の主観でもエルナが黒だと思っているの?」
夏美は少し考えるような表情を見せたが、やがて毅然とした態度で話し始めた。
「ああ、そうだ。私は長い間ここのみんなのことを見てきた。彼女らの怯えは、憤りは、本物だ。嘘を言っているようには見えなかった。彼女らは確かにエルナ・フェッセルを恐れていた。光井の言葉やフェッセルの否認を無視するわけではない。けれど、私は多数の意見を尊重したい。──それが、私が真央先輩から受け継いだみんなをまとめる責務だと思っている」
夏美の言葉には、言い表しようのない重みが存在していた。燐火はそれが、少し眩しく感じた。ああ、彼女なら本当に真央先輩みたいになれるかもしれない。みんなを照らす、太陽みたいな戦乙女に。
「エルナをこのまま拘束しておくってこと?」
「ああ。少なくともひと月程度は考えている。その後フェッセルの行動次第で制限は緩めるかもしれないが、戦場には出さない予定だ。味方を背中から撃ちかねない奴を命の取り合いに参加させるわけにはいかない」
エルナが唇を噛む。戦場に悦楽を見出した彼女にとって、それはあまりにも残酷な宣言だと言えよう。
「分かった。じゃあ、私はこれで」
燐火が席を立つ。その淡白な様子に、夏美は驚いたような顔を見せた。
「もういいのか? お前たち、仲良かったんじゃないのか?」
「エルナが仲良かったのは優香ちゃん。私じゃない」
燐火の物言いは淡々としていて、冷たさすら感じさせるほどだった。エルナがわずかに下を向く。
「珍しいな。怒っているのか?」
夏美が無表情で問いかけると、彼女は似たような顔で返した。
「エルナは優香ちゃんの優しさを、赦しを無駄にした」
そう口にしつつも、燐火の本心は少しだけ異なった。
彼女自身もまた、エルナに期待していたのだ。優香に諭されて、彼女は変わったのではないかと。それが裏切られたと思って、彼女は珍しく怒っていた。燐火は、自分で思ってたよりもずっとエルナに情を移していたのだ。
「リンカ……」
エルナがひどくショックを受けたような顔を見せる。その内面には、深い絶望。突然身に覚えのない罪で拘束された時だって、こんなに悲しくはなかった。
彼女にとって、憧れすら覚えていた燐火に否定されることはひどく辛いことだった。身を引き裂かれるような思いに、俯き無言になる。
燐火が出口の方へと真っ直ぐに歩いていく。彼女らしからぬ怒りが、背中から感じ取れる。彼女がその場からの時まで、誰も口を開くことができなかった。
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