第22話真実
淵上高校の外周、ランニングに適した遊歩道は、利用しすぎて景色もすっかり見慣れてしまった。
今日の予定分の走り込みを終えた俺は、同じく走り終えた優香ちゃんに声をかけた。
「優香ちゃんお疲れ様。……大丈夫?」
「ぜえ……ぜえ……はい、なんとか……」
膝に手を当てて呼吸を整えている優香ちゃん。顔はすっかり真っ赤で、額には汗が滲んでいる。
「でも、足が生まれたての小鹿みたいになってるよ?」
「ぜえ……はい……でも大丈夫です……」
どうみても大丈夫じゃない。しかし優香ちゃんは気丈にこちらを見て、返事をしている。
……そそるな。
酸欠の苦しみに耐え、震える足で辛うじて立っているその姿は、俺の理想とする戦うヒロインの姿に似ている。やばい、興奮してきた。やはり優香ちゃんは俺の最高の義妹だ。
「それにしても、また合同トレーニングしたいなんて優香ちゃんも物好きだね。……ひょっとして被虐趣味なの?」
もしや、俺と同じ趣味なのではないか!? 唐突に浮かんできた突拍子もないアイデア。俺は、期待を込めて優香ちゃんに問いかけた。あくまで落ち着いている風に。
「あっはは……そんなのじゃないですよ」
……そんなのって言った? 今、被虐趣味のことをそんなのって言った!? うおおお、間接的になじられた気がする! 興奮してきた!
「そういう燐火先輩は、Sっぽいですよね。私に過酷なトレーニング課して少しだけ嬉しそうですし」
「え? 私嬉しそうだった?」
馬鹿な!? 俺の鍛え上げた美少女ポーカーフェイスが破られただと!?
「まあ、表面上はほとんど変わらなかったですけど。でも最近よく先輩を観察していたので、気づきました」
「……き、気のせいじゃナイカナー?」
まずい、語尾が震えてきた。優香ちゃんに内面を見破られたのは初めてなので動揺が止まらない。
やばい、俺が義姉なんてガラじゃないクソ野郎だということがばれてしまう!
「まあ先輩の場合は、私が成長しているのが嬉しい、みたいな感情が伝わってきますからね。Sっていうよりは、そういう嬉しさなんですよね?」
「はは……そう簡単に見抜かれると照れるね」
あ、あぶねえ! 内面のダメさが露呈するところだった。
優香ちゃんが意外と鋭くて驚く。思ったよりも俺のことを観察しているようだ。真央先輩ですら、俺の内面の一端に触れるのに三ヶ月はかかったのに。
俺がS、サディストっぽいというのは間違っていない。俺にとって、マゾヒストであることとサディストであることは両立するのだ。
前提として、俺が好きなのは苦しんだり苦悩したり曇ったりする美少女だ。
俺は、自分を含めて美少女が傷つく姿が好きなのだ。だから、他の子相手なら多少Sっぽくなるし、自分のことになるとドMになる。
この辺の感覚は俺が急に別人の体に生まれ変わったことが関係していそうだ。他人と自分の境界線が曖昧、みたいな。
そんなことを考えていると。
「先輩」
突如として、優香ちゃんの語調が変わる。そこには、言い表しようのない迫力のようなものが存在した。
風が吹く。生暖かい風は、なぜか今の俺にはひどく不気味に感じられた。
「先輩のこと、色々聞いてきました。上級生の皆さんに、あなたがどんな風に戦ってきたのか聞いてきました」
冷や汗。正体不明の恐れが、俺を支配する。
「……興味を持ってもらえるのは嬉しいけど、そんなことするほど面白いことはしてないよ」
「いいえ。皆、あなたがどれだけ勇敢だったか語ってくれましたよ。──『太陽が没した日も』」
「……」
その言葉に、脳が拒絶反応を起こす。やめろ、優香ちゃんの口から、そんな言葉聞きたくない。
しかし、優香ちゃんはそれ以上話を続けることはなく、少しだけ俺の表情を見た。その顔には、こちらを気遣うような色が見られる。
ああ、今の俺は、きっとひどい顔をしているのだろう。本性を隠すポーカーフェイスが役に立たない。
愚かな俺が、怖がりの俺の姿が、優香ちゃんに見られてしまう。君にだけは、見られたくなかったのに。
優香ちゃんは、意を決したように口を開いた。
「先輩が以前楽しそうに話してくれたお姉様の名前は、『桜ヶ丘真央』先輩で間違いないですよね」
黙って頷く。言葉を発すれば、情けない震え声が出てしまいそうだった。
「その名前を聞くと、皆楽しそうに話してくれました。優しい人。明るい人。こっちまで元気になってしまうような魅力的な人。太陽みたいな人。燐火先輩の話した通りの人だと思いました。でも──」
優香ちゃんの瞳に、強い意志が籠る。そんな彼女が次の言葉を紡ぐことを止めることは、今の俺にはできなかった。
「──桜ヶ丘真央先輩は、半年前に死亡している。先輩はずっと、桜ヶ丘先輩が生きていると思い込もうとしていた」
生温い風に、俺は身を震わせた。
「……ち、ちがうっ!」
震える声で、精一杯に叫ぶ。否定しなければ、どうにかなってしまいそうだったからだ。
「ちがう、ちがう、ちがうっ! 真央先輩は死んでない! 部屋に帰ればいつも先輩が優しい笑みを浮かべながら私を待ってくれている! 私の話を聞いてくれる! あの人だけがっ、私を認めてくれる!」
「……それが、先輩の本当の姿なんですね」
優香ちゃんは静かに呟くと、俺へと一歩踏み出してきた。
「でも、もういない。いないんですよ、先輩。桜ヶ丘真央先輩は、あなたの太陽は、もう没してしまった」
「やめろやめろやめろ! ちがうっ! ちがうのに! どうして分かってくれないんだ! ちがうって言ってるだろおおおおお!」
駄々をこねるように叫ぶ。いつの間にか、頬に涙が伝っていた。泣きたくなんてないはずだったのに、涙が止まらない。みっともない。こんなところ、優香ちゃんに見られたくなかったのに。
ゆっくりと近づいてきた優香ちゃんが、静かに俺の震える体を抱いた。
「先輩の涙、初めて見ました」
「う、ああ……違う、違うんだ優香ちゃん。先輩は生きている。私を見てくれる。私を愛してくれる。お姉様って呼んだら嬉しそうに笑うし、すぐに嫉妬するし、可愛く笑ってくれる。先輩は私の全部を受け入れてくれる。先輩だけだ。先輩だけがこの真っ暗な世界の太陽なんだ……」
優香が燐火を抱きしめる腕の力が増す。燐火の体は小刻みに震えていた。
「でも、もういない。辛いけど、先輩は現実を直視しないといけない。──そうしないと、本当に壊れてしまうから」
いつの間にか、優香ちゃんの頬にも涙があった。俺の体を、きつくきつく抱きしめてくれる彼女は、まるで俺がどこかに行ってしまうのを恐れているようだった。
「嫌だ! 現実なんてもう見たくない! 誰かの死に顔も、誰かの傷つく姿も、私の腕の中で死んでいく誰かも、もう見たくない! 見たくないんだよっ!」
「先輩……」
あの日のことを思い出そうとすると、頭にノイズが走る。記憶を漁ろうとしても、うまく思い出せない。
けれども、二度の人生の中で一番悲しかったことだけは、よく覚えている。
俺が首吊って死んだ時だって、こんなに悲しくはなかった。
呆然と、ただ思うままに言葉を紡ぐ。優香ちゃんの前ではお姉様らしくありたいと思っていたのに、そんなことすら思いつかないほどに動揺していた。
「先輩は私みたいに価値のない人間じゃなかった。私なんかのために死ぬべき人間じゃなかった。私はエースなんかじゃない。ただの快楽主義者なんだよ。真央先輩が生きるべきだった。俺が死ぬべきだったんだ」
「そんな悲しいこと、言わないでください」
優香ちゃんが俺の体を抱きしめる。
改めて現実を直視して、俺は少しずつあの日のことを思い出していた。「太陽が没した日」。東京の大穴最大の攻勢の日。
「先輩、私にその時のことを話してくれませんか? 先輩はきっと、一人で抱え込んで自分ばかり責めていたから歪んでしまったのではありませんか?」
「……いいよ。こうなったら全部話してあげる。そしたら、きっと優香ちゃんは私から離れていく。それでおしまい。優香ちゃんは義姉妹っていう楔から解放されて、私なんかとは違った人生を歩む」
「……」
優香ちゃんは何も答えなかったが、その顔は少し怒っているように見えた。
「太陽が没した日、私たち義姉妹は、戦場にいた」
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