第12話燐火の一日

 朝起きて一番最初に好きな人の顔を見れるというのは、本当に幸せなことだ。

 目覚めてすぐに、俺は部屋の反対側のベッドを見る。そこでは、相変わらず可愛らしい先輩が目を擦っていた。


「真央先輩、起きてください。朝ですよ」

「ううん……おはよう、燐火ちゃん……」


 ベッドから上体を起こした真央先輩はひどく眠たげだ。視界が定まらず、頭がフラフラしている。朝弱いのはいつものことだが、これでは二度寝してしまいそうだ。

 仕方ない。


「起きてください、お姉様」

「──今、お姉様って言った?」


 がば、と先輩が起きる。いつの間にか目がしゃっきりしていた。これくらいで起きれるのなら、最初からちゃんと起きてくれ。可愛いからいいけど。


「言ってませんよ。お寝坊さんな先輩は姉なんてガラじゃないですからね」

「い、いや、騙されないからね! 燐火ちゃんの貴重なお姉様呼び! 私は今絶対に聞いた! ねえ、もう一回! もう一回言って! さっきは寝ぼけててちゃんと聞いてなかった!」

「言いません。夏美にでも言ってもらえばいいじゃないですか。あいつ先輩にデレデレだからいくらでも言ってくれますよ」


 夏美の先輩への懐き方は異常なので、喜んで言ってくれるだろう。


「夏美ちゃんのお姉様呼びも可愛いけど、燐火ちゃんのそれにはまた違った可愛さがあるの! 夏美ちゃんが懐いてくれてる小型犬みたいな可愛さなら、燐火ちゃんのはいつもツンとしている猫が体擦り寄せてきたみたいな!」

「知りませんよ……」


 この人は朝から何を言っているんだろうか。


 そんなことを思いながら、朝の支度をこなす。寝間着を脱ぐと、外気が素肌を撫でた。真央先輩に裸を見られるなんて今更だ。一緒の風呂に入るという試練すら乗り越えた俺に怖いものはない。


「相変わらず綺麗な肌だねえ。一年前くらいはスキンケアの一つも知らない子だったのに。大きくなったもんだよ全く。お母さんは嬉しいです。うう……」

「姉なのか母なのかハッキリしてください」


 スカートを履きながら適当に突っ込む。丈は膝程度だ。


「とにかく、オレはもう行きますからね。先輩もちゃんと朝ごはん食べてくださいよ」

「ええー、相変わらず早いなあ。私を待ってくれてもいいんだよ? ……もしかして、お姉ちゃんと一緒にいるところを見られるの恥ずかしい?」

「……」

「いやあ、燐火ちゃんも大人びて見えて案外子どもだね! いいんだよ、たまには甘えてくれても。お姉ちゃんは君のどんな駄目なところも優しく抱きしめて愛してあげるからねえ……」

「駄目なところばっかりの先輩に甘えることなんてないですよ。後輩に毎朝起こされるなんて本当に義姉なんですか?」

「うぐっ。今日の燐火ちゃんはなんだか辛辣だなあ……」


 わざとらしく泣きまねをする真央先輩。見慣れた光景なのでスルーして支度を整える。


 けれど、ちょっと目を離したうちに真央先輩は真剣な空気を纏っていた。


「──でもさ、後輩の前でかっこつけるのって、結構疲れるんじゃない?」

「……そう、ですね」


 真剣な声音に、思わず手を止めて向き直る。

 先輩の言う通りだ。憧れの目線を向けられることにはもう慣れたつもりだったが、身近な人に向けられるそれは、少しだけ重苦しかった。


「私もそうだったから、その苦しみはちょっとは分かるつもり」

「……真央先輩も、そうだったんですか」

「そうだよ? 夏美ちゃんは私に憧れていたし、燐火ちゃんもなんだかんだ慕ってくれていた。それを分かっていたから、私はお姉ちゃんであろうと頑張った」

「過去形ですか」

「まあ、燐火ちゃんも夏美ちゃんも立派になっちゃって、私の出る幕もなくなっちゃたからね」

「そんなことないと思いますけどね」


 腕っぷしだけ強くなっても、俺の心は大して強くなってない。自分のことばっかりだ。


「でも、せめて弱音を吐くことを恐れないで。私たち戦乙女は強いけど、心は普通の女の子のままなんだから」

「──はい。ありがとうございます」


 真央先輩の優しい言葉は、いつだって俺の心に響く。ああ、どうしてこの人はこんなに人の心を解きほぐすのが得意なのだ、といつも感嘆してしまう。


「案外、弱さを見せた方が親しみやすいものだよ。たとえ上に立つ人でも、それは同じ」

「……じゃあたとえば、オレがドMなことを優香ちゃんに教えるとかですか?」

「う、うーん……それはちょっとどうかなあ……」


 真央先輩が急に視線を泳がせた。流石に引かれるか……。


「まあでも、何も分からないと親しみづらいものだよ。弱いところとか、趣味とか、好きなものとか、そういうところから打ち明けてみてもいいんじゃないかな」

「そう、ですね。……先輩、ありがとうございます」

「何、お姉ちゃんに任せとけって!」


 真央先輩の笑顔に癒される。身支度を終えた俺は、部屋のドアの前に立ち、最後にあいさつをした。


「では、先に失礼します──お姉様」


 ドアの向こうから元気な叫び声が聞こえてきて、俺は頬を緩めた。



 ◇



 教室に教師の平坦な声が響く。生徒たちはそれを聞きながら、黒板に書かれている内容をノートに書き記していた。一方の俺は、さっさと板書を終えてしまったので、暇している。


 授業はいつも退屈だ。そもそも、俺は前世で一度高校を卒業している。一度聞いた覚えのある授業というのは非常に退屈だ。

 だいたいいつも、虚空を見つめて妄想している。


 たとえば、優香ちゃんの目の前で俺が重傷を負う妄想とか。


「──燐火先輩! 燐火先輩! 大丈夫です!?」

「ごほっ……優香、ちゃん。不甲斐ない義姉で、ごめんね」

「そんなことないです! 先輩はいつだってかっこよかったです!」


 ニチャア……。

 我ながら気持ち悪い。しかしこれは前世から刻まれた性癖なので致し方ないのだ。


 後は、真央先輩を負傷しながら助ける妄想とか。


「真央先輩!」

「ッ! り、燐火ちゃん、ありがとう!」

「ふふっ、先輩のためならこれくらいお安い御用です」

「燐火ちゃん! 背中に血が……!」

「ああ、大丈夫、かすり傷です。先輩の命と比べたら、どうってないことですよ」

「ありがとう、燐火ちゃん!」


 ニタニタ。俺の脳内はフィーバー状態だったが、表情筋は全く動いていないだろう。美少女たる俺は、授業中の妄想で気持ち悪い笑い声をあげるわけにはいかないのだ。


「──それでは、ここの答えを天塚」


 おっと、教師が俺の名前を呼んでいる。一瞬で現実に帰った俺は、すまし顔で立ち上がり答えを言った。


「はい。『stupid』です」

「正解。相変わらず優等生だな。これで授業をサボらなければ完璧なんだがな……」

「申し訳ございません」


 俺が時々授業を抜け出してトレーニングしていることはだいたいの教師が知っている。それでもテストの点数は良いので、何も言えないらしい。

 仕方ないのだ。俺の心が、「もっと体をいじめたい!」と叫んでいるのだから。


 それに、俺は最強の戦乙女として知られている。俺が鍛錬することに対して文句は言いづらいのだろう。



 終業のチャイムが鳴ると、教室に弛緩した空気が流れる。担任教師から簡単な連絡事項が伝えられると、晴れて放課後となった。


 そこら中から楽し気な話し声が聞こえてくる。退屈な授業を乗り越えた彼女たちの表情は晴れやかだ。


「ふわああ! やっと終わった!」

「今日どこ行く?」

「久しぶりに外いかない? なんか新店オープンしたんじゃなかったっけ?」


 そんな喧騒を避けるように、一人で教室の外へ。今更俺に話しかけてくるようなクラスメイトはいない。皆、俺のことをトレーニング馬鹿だと知っているのだ。


 今日も今日とて鍛錬。強くなるため、というよりは、痛くなるため、である。我ながら最低だ。一応、最強であり続けるため、という理由もなくはない。



「はっ、はっ……」


 一時期は優香ちゃんとやっていたランニングだが、今は一人でやっている。流石に優香ちゃんが可哀想だったので解放してあげた。入学してずっとトレーニング漬けだと、俺みたいに友達がいなくなってしまう。


 でも彼女には、「体力を落とさないように自主練は欠かさないでね」と言い含めてある。毎週日曜日には一緒に鍛錬する約束を交わしているので、その時にチェックするつもりだ。


 ああ、楽しみだなあ。訓練から解放されて気の緩んだ優香ちゃんが、久しぶりの俺との訓練にヒーヒー言う姿が早く見たいなー。

 ──まあ、見た目に反して根性のある彼女のことだから、ちゃんと自分で鍛錬を積んでくることだろう。そう思ったから密着トレーニングから解放してあげたわけだし。


「はっ……はあっ……はあっ!」


 そんなことを考えながら走っていると、だんだんと体が重くなってくる。元々、今の俺は手足に重りを付けている。各部位に10kgずつ。それなりに重い。


 徐々に酸素が足りなくなってきて、口が開く。それでも走るペースは落とさないから、どんどんと息苦しくなっていく。心臓のあたりが痛い。


 ああ、この感覚。やっぱり最高だ。まるで首でも絞められているみたいに、薄くなっていく酸素。全身が重くなって、頭に靄でもかかったみたいにボーっとする。

 空を仰ぎ、己の身に襲い掛かる苦しみを存分に堪能する。

 ──酸欠に喘ぐ美少女、最高だ。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 限界が来た、と思ってからさらに遊歩道を一周して、ようやく俺はランニングを終えた。その場に座り込み、ゆっくりと呼吸を整える。


 走り始めた当初は真上にあった太陽も傾き始めて、橙色の光を放ちつつあった。


「さて、そろそろ訓練器具空いたかなー」


 重い体を動かして、俺は次の鍛錬へと向かった。


 こうして、俺の平日の一日は過ぎていった。

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