第9話ドMの考えた訓練
「じゃあ、優香ちゃん。今日もランニング30kmから行こうか」
出会ってすぐにそんな言葉をかけると、優香ちゃんは虚ろな笑みを浮かべた。
「アハハ……やっぱりそうですよね。分かりました。行きます。いえ、期待なんてしてないですよ? たまには休んで二人でゆったりカフェとか行きたいなーとか全然思ってないですから」
ああ、優香ちゃんの穏やかな顔が歪んでいる。まったく、誰のせいだ。
学校の敷地の周囲をぐるっと囲うようにできた遊歩道は、一周するとだいたい4kmくらいになる。30kmなので、それを8周ほどだ。
「……ハッハッハッ」
優香ちゃんの規則正しい呼吸を後ろに聞きながら、俺は彼女の前を走った。
遊歩道では俺たちと同じようにランニングに励む戦乙女がいたが、大抵はすぐに俺たちに追い抜かされていく。
同じ子を何周も抜かしていくと、徐々に表情が驚愕に変わっていくのは、見ていて爽快だ。
「り……燐火先輩、ちょっと速くないですか……?」
「優香ちゃんも成長している。今の君ならこれくらいできる」
「な、なんでこっちの限界を見極めるのそんなに上手いんですかあ!」
それはもちろん、美少女の苦しそうな顔を観察するのは趣味だからだ。顔を見れば、優香ちゃんがどれくらい苦しいのかは分かる。今はわりと余裕がある方。もう少し呼吸の間隔が狭まってからが、彼女の限界ラインだ。
「ふふ……」
時折振り返って、優香ちゃんの様子を確認する。苦しそうな顔だ。口を大きく開けて、必死に酸素を取り込んでいる。頬は上気し、目は何か諦めたように虚ろだ。
……いい表情だ。
優香ちゃんのギリギリのラインを攻め続けて、ようやくランニングが終わる。ちなみに俺は、まだ余力がある。呼吸もほとんど乱れていなかった。
「十分間休憩にしよう」
「ふあああ……」
待っていました、と言わんばかりに優香ちゃんが崩れ落ちる。そのまま、アスファルトの上に大の字になった。その口はずっと酸素を求めてパクパクと動いている。
「はい、飲み物」
「あ、ありがとうございます……」
寝ころんだ彼女の頬に、買ってきたペットボトルを押し当てる。それを掴んだ彼女は、上体を起こして座り直すと、飲料を口にした。
「優香ちゃんもちょっとずつ体力がついてきたね」
「そう、なのでしょうか……正直、燐火先輩についていくのでいっぱいいっぱいで成長が実感できないのですが」
「ああ、そっか。まあまた身体測定があると思うから、その時にクラスの皆を驚かせるといいよ」
戦乙女の身体能力は、こまめに検査されている。脚力や腕力などは、人によっては急成長していたりするからだ。
そのデータは、チームを指揮しているベテラン戦乙女に渡され、戦術の参考にされる。
「燐火先輩は、一人でもこんな訓練をしていたんですか?」
「そうだね。まあ、私の場合はこの三倍くらいはやってるかな」
ランニングだって一人でやってる時はもっと早く、もっと長くやっている。その他の筋力トレーニングなどももっと密度を上げてやっていた。
「に、三倍!? なんでそんな頑張れるんですか?」
「まあ、鍛えるのが好きだから、かな」
正確には、苦しむのが好きなだけである。ランニングで息が上がり、呼吸が苦しくなると、だんだん興奮してくるのだ。息苦しさは、じわじわと来る苦しみなので、切り傷などとはまた違った快感なのだ。真綿で首を締めるような、という表現がしっくりくるかもしれない。
限界を追い求めすぎた結果、簡単には息が上がらなくなったのは悲しい誤算だ。
「私と比べるのはあまり意味がないよ」
「そうですね、先輩を筋トレの目標にするのはやめます……」
それがいい。ドMでもない人には無理だろう。
「じゃあ、次は鍛錬室だね行こうか」
先日俺と夏美が軽い衝突をした場所、鍛錬室は様々なトレーニング器具が置いてある場所だ。イメージとしてはジムが一番近いかもしれない。
「ま、またあの重いダンベルを上げるんですね……うう、マッチョになったらいやだなあ……」
優香ちゃんが自分の二の腕をぷにぷに触りながら言う。見たところ、白い腕は細く、マッチョとは程遠い。
「大丈夫。戦乙女は体形が変わりづらい」
「……それ、都市伝説じゃないんですか?」
「多分本当だと思う。だって、私がマッチョになってない」
「確かに……」
もうずいぶん鍛えたはずだが、相変わらず俺の体は細いままだ。足とか太くなってないし。腹筋が薄っすらと割れたかなー、ってくらいだ。だから、戦乙女が体形が変わりづらいっていうのは本当だと思う。
「戦乙女は体形が変わりづらいから、胸が成長しづらい」
「え!? 本当ですか!?」
今日一番の驚いた顔を見せる優香ちゃん。まさか、信じたくない、という表情だ。乙女的には大問題だろう。
「……こっちは確証はない。でも、そうじゃないと私の胸が成長しない理由がつかない」
「先輩……」
優香ちゃんが憐れむような表情を向けてくる。
ああ、その視線! ゾクゾクする! 普段優しい優香ちゃんとのギャップで興奮するー!
鍛錬室で筋力を鍛えた後は、お互いに武器を使った組み手の練習だ。これは今日初めて取り入れる訓練だ。優香ちゃんの体力がついてきたので、そろそろできるだろう、と俺は判断した。
近接戦闘の技能は、魔法で援護する優香ちゃんには不要かもしれないが、身につけておいて損はない。
これは俺が何度も『魔の者共』と戦っていて思ったことだが、戦場に出る以上、後衛だろうと一人で戦える力は身につけておいた方がいい。
実戦には、あまりにも不測の事態が多すぎるのだ。悪天候による視界不良や、『魔の者共』の数が想像以上に多くて混戦になる場合。
たとえ五人で戦っていたとしても、他の四人とはぐれる可能性がある。そんな時に一人で生還する力をつけて欲しい、と個人的には思っている。
もうすでに辺りは暗くなっていた。今日の訓練はこれで最後だ。人気の少なくなった運動場の片隅で、俺は小太刀を構えて優香ちゃんと向き合っていた。
「ほ、本当に真剣でやるんですか?」
自分の杖を構えた優香ちゃんは、怯えた声で俺に問いかけた。
「大丈夫。峰打ちで済ます」
「それってかなり痛いと思うんですけど!?」
「冗談。寸止めだから、大丈夫。でも、優香ちゃんには予め殺気っていうものに向き合っておいて欲しい」
「……殺気、ですか」
「うん。既に見たことあると思うけど、『魔の者共』は、優香ちゃんを本気で殺しに来る。正面から向き合うと、きっと最初は足が竦むと思う。頭が真っ白になるかもしれない。そういう時に動けなくなったら、君は死ぬ」
死ぬ、とはっきり言葉にすると、優香ちゃんは息を吞んだ。
初陣の夏美のようにならないためにも、この訓練は必要だ。
「だから、まずは私の殺気に慣れて欲しい」
言って、静かに二つの剣を構える。優香ちゃんも覚悟を決めたのか、杖を自分の前にぐっと近づけた。
お互いの視線が交錯し、緊張感が高まっていく。
地面を蹴り、駆け出す。
俺は優香ちゃんを睨みつけると、絶対に打ち倒す、という気概を籠めて小太刀を振るった。
「ッ!」
優香ちゃんは驚いたように目を見開いたが、すぐに杖を持ち直すと、俺の攻撃を受け止めた。鈍い音。
優香ちゃんの杖は木製だが、戦乙女の武器なので、刀と打ち合っても簡単に壊れることはないだろう。
続けて、反対側から一閃。これにも反応して防御する優香ちゃん。やはり筋が良い。優香ちゃんは反射神経に優れているみたいだ。
そこで俺は攻撃の手を止め、優香ちゃんを見た。
「どうしたの? 攻撃しないと勝てないよ」
「えっと……攻撃って……」
「その杖は、全力で振れば鈍器にもなる。私を殺すつもりで殴り掛かってみて」
「いえ……それはその……」
歯切れ悪く言い、視線を漂わせる優香ちゃん。ああ、優しい彼女のことだ。予想はしていた。
「生き物を傷つけるのは、怖い?」
「ッ! ……はい、怖いです。人間を攻撃するのはもちろん怖いですし、それに相手が化け物だって、生き物を殺すのには躊躇すると思います」
優香ちゃんの瞳は揺れ動いた。彼女の言葉に、俺は初陣の夏美の様子を思い出していた。ゴブリンを相手に、傷を負わせるもトドメを刺すのを躊躇っていた夏美。
彼女もきっと、自分と同じくらいの大きさの生き物を殺すのに躊躇ったのだろう。
きっとそれは当然の感覚だ。むしろ、簡単に慣れてしまう人間の方がおかしいのだろう。
「……まあ、私を殴っても『魔の者共』を殺せるのかはまた別問題か。でも、一つ覚えておいて。──戦場に立つ以上、君は殺すか殺されるかの選択を迫られる時が必ず来る。その時に勇気ある選択をできる戦乙女だけが、戦場の英雄になって、多くの人を救えるんだよ」
「……よく、分かりません」
「今はまだ仕方ない。じゃあ、優香ちゃんはとりあえず敵の攻撃をいなす練習だねっ!」
「ふっ!」
言いながら俺は、再び右手の小太刀を振るった。固い感触。
俺は次々と斬撃を繰り出すが、優香ちゃんは的確に杖を差し出して防御していた。
夜の運動場に、二人の呼吸音と金属音のようなものが響く。
右手の刃を下から突き上げる。左手の刃を横に振るう。空を切った左手の刃を素早く翻す。同時に右手の突き。
優香ちゃんが隙を見せれば、俺は素早く近づき、彼女の体の目の前で刃を止めてみせた。本番だったら死んでいた、と示すと、彼女は少し息を呑んで、さらに真剣な表情になった。
優香ちゃんの息が上がって来た頃、俺はようやく訓練終了を告げた。
「優香ちゃんお疲れ様。はい、タオル」
「ありがとうございます。……ふう、なんだかずっと緊張していたので、肩が凝りました」
「実戦みたいに緊張感持ってほしくてやってたからね。今日はハードだったでしょう? 明日は一日休みにしよう」
「本当ですか!? やった! じゃあ燐火先輩、お昼一緒に食べませんか?」
「え? 私と食べるの?」
「はい、先輩が良かったらですけど」
先ほどの疲れた表情とは打って変わって、キラキラとした笑顔でこちらを誘ってくる優香ちゃん。
「構わないけど……他の子誘っていいんだよ? 休みの日まで私と一緒にいる必要ないよ?」
というか、スパルタトレーニング課してくる先輩と休日も一緒なんて嫌じゃないのだろうか。愚痴とか言いたくならないのか?
「はい。先輩とはトレーニングの話ばかりで、ちゃんとお話できていない気がするので。私、ずっとこの学校のカフェ行ってみたかったんですよー」
笑顔で語る優香ちゃんは、どうやら本当に休みの日まで私と一緒に居たいらしい。その様子に、少しだけ口角が上がってしまう。
ああ、真央先輩以外でこんなに仲良くしてくれる子は、久しぶりだなあ。
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