100円の女神様

青木一人

放課後の天然水少女

 期末テストも終わった7月上旬。教室に満ちる解放感。浮足立つ小鳥たちは、我先にその夢を語り、来る地獄に目を背けていた。

 そうして人もまばらとなったケージの中には、二人の人間しか存在していなかった。

 

この茹だるような熱気の中においても頑なに長袖のポロシャツを着続ける少女と

うつむいて何かをノートに綴る少年。


 少女は30数℃の教室で何をしているわけでもなく、人形のように 特に面白い物があるわけでもない窓の外の景色を微動だにしないで見つめている。熱中症の予兆もなく、その肌は純白に輝いていた。


 少年は参考書を開いて何かを写し取るようにペンを走らせているが、地を這うような少年の成績にペンの動きが釣り合っていない上に参考書にはここ十分は目線が注がれていない。

 少年の顔は汗によりすっかり濡れてしまっているが、血走ったその眼を見る限り重大な問題はないように見受けられる。

 ただ一つ問題があるとすれば、少年は一時間以上前の授業中からこの状態である、ということである。教師すら竦ませるその集中力によって、彼のクラスメイトですら声を掛けるのを躊躇うからだ。

 少年が顔を上げ、一息つく。どうやら作業は切りのいいところまで進んだらしい。その汗をポケットから出したハンカチで拭う素振りを見せると、少女は待ってましたとばかりに席を立つ。あまりの勢いにガタンと机と椅子が騒ぎ立て、少年の鳥肌が立つ。

 時が凍った教室を闊歩する少女は少年の席の前まで歩くと、口を開いた。


「きみ、いま幸せ?」


「え、なに、急に」

「いいから」


 一息つく間もなく攻めてくる少女に、戸惑いを隠しきれない。


「えーっと。うん、幸せ、だよ」


 普段は聞かれないはずの問いに心拍数が跳ねあがる。宗教勧誘か?とつい疑いたくなるのは悪い癖だと自覚しているもののなかなか治せない。


「悩み事、あるでしょ」

「いや、ないし」


 歯切れの悪い返事からとっかかりを探ろうとでもしたのだろうが、この学校には少年に友達はおらず、その唯一の友も進学時に別の道に進んでしまい、生憎再会は絶望的な状況となっている。強いて言えばそれが唯一の悩み事でもあるのだが、それを碌に話してすらない少女に伝える義理もない。


「なんで? ほんとにないの?」

「だからないって言ってるじゃん」

「噓」

「なかったら悪いか」

「そっちのほうがいいって普通は言うんだけど、今の私にはあるって言って欲しかったな」

「ふうん」

「興味なさそう」

「実際そうだから」


 正直君か、と少女は笑う。厳密に言えば明日から一か月弱の夏休みを挟んでしまうのだから、ここで何を口走ろうとそこまで影響はない。この期間で何もかも忘れてしまうだろうと踏んでいて、気持ちよくこれからを過ごすために少年は無敵になりつつある。


「そういうからには、何か悩みはないのか」

「あんまり」

「お互いになくていいじゃないか。それじゃ」


 荷物を纏めて少年は教室から出ていく。


「鍵、よろしくな」

「ちょ、待って」

「何か問題でもあるか?」

「それは、ないって言ったら噓になるけど」

「なんだそれ」


 面倒臭いとため息をつく。


「このまま帰るのも寝覚めが悪い、話くらいなら聞いてやる」

「気に入らないなあ」

「は?」

「なんかつまんない」

「じゃあどうすればいいんだよ」

「ジュース買ってきてよ、話はそれから」


 パッと見交換に見える条件をうまいこと提示して、人を従わせようとしてもそうはいかない。少年は精一杯顔をしかめて抵抗する。


「このくそ暑い中に?」

「そ、私ルートビアね」

「ここは沖縄じゃねーよ」

「知ってたんだ、まあ不味いから売ってても頼まないけど」


 いっそその条件を呑んでもいいかと少年の頭をよぎるが、ここで従ってしまうのも何か癪に思えてきて抵抗を続ける。


「そりゃあしってるさ、小説に載ってたからな。

そいえばドクターペッパーは売ってたな、それにするか」

「ちょ、ここ東北! 売ってないって!」

「チャリで行けば成城石井あるだろ、輸入品っぽいしあるんじゃないか?」

「ほんとに売ってんの?」

「知らん。北海道限定のが売ってるくらいだからあるかもだけど。

もし無くても 帰るだけだし」

「ひど!」

「酷いのはどっちだよ……ったく」

「しょーがないな、スプライトでいいよ」

「そういう問題じゃねーんだよ」

「え? どういうこと?」

「せめて付いてこい、じゃないと本当に帰るぞ」

「しょーがないな」


 何も持たずに少女は立ち上がったので、少年は眉をひそめる。


「おい、流石に余分な金はないからな」

「えー、じゃあ何買うのさ」

「モンスター……やっぱ止めたわ、金ないし」

「モンスター? ってことは」

「コカ・コーラにするか、喉乾いたし」

「午後の紅茶にしない? ほら、甘いの好きっていってたじゃん」

「今は炭酸の気分なんだ」

「マッチは? あれおいしいじゃん」

「そこまでしてもスプライト買えないぞ? 240円しかないし、ってしまった!」

「とにかく喉が乾いたんだよー、このままじゃ干からびちゃう」

「コーヒー欲しいの?」

「違うよ、天然水」

「水道飲めよ」

「えー、おいしくないじゃん、変な匂いするし」

「そんな理由じゃ嫌だ」


 じゃあ、と息を大きく吸い込んで宣言する。


「私、不幸せ。だから、私を幸せにして」


 一瞬、輝いていたように見えたのは気のせいだろう。


「しょうもないなあ」

「今度こそ酷っ!」

「だってさ、0円でもできることに100円もかけるんだぜ?

それって、すっげーバカで、すっげー簡単な、謙虚な幸せじゃんか」

「バカは余計!」

「ハハハ、だってその通りだって。

人から金をたかる事だけに、あんな大仰なやり方するなんて。もう、バカとしか言いようがないだろ」

「ほんっと失礼だね、きみ。私、一応頭いいんだからね?」

「関係ないから、その情報」


 さっきの話に心を動かされたわけでもないけど、と勝手に心の中で折り合いをつけて。


「ほら、ならさっさと行くぞ」

「え、どうしたの、急に」

 熱気が立ち込める教室という牢獄から、ひと際暑苦しい≪氷の令嬢≫を連れ出した。


「じゃあ出る前に冷房つけといて」

「え。いいの? それ」

「いいわけないだろ。見つかったら怒られる。

……でも、お前の≪悩み≫、聞くのに時間かかりそうだし」

「え、いいの」

「断っても面倒だしな。どうせなら、自分から聞いてやるよ」


 数歩離れてから振り返る。精一杯のいたずら心を込めて。


「ちょうど、条件もクリアしたことだし、な」

「なるほどね、全部、計算ずくだったってわけか。そっちの頭いいじゃないって、こういう事だったんだね」

「一瞬で理解するんだな、まあ元からそんな気は無かったが」

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100円の女神様 青木一人 @Aoki-Kazuhito

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