中編

 一目惚れでした。


 野崎さんとは高校で出会った。野崎さんは綺麗な人だった。私はその姿を一目みた時、無性に欲しいと感じた。今までこのような感情を他人に思い描いたことなど無かったのに。私の心は何故か彼女を欲して止まなかった。

 その日、人生で初めて自分の苗字を恨んだ。あ行のせいで私の席は一番前だった。な行の野崎さんは後ろの席だったから、横顔を盗み見ることも、その後ろ姿を眺めることも叶わなかった。

 一回目はハズレだった。私は窓際の席で、野崎さんは廊下側の一番後ろの席だった。

 二回目は当たりと言えた。私の後ろの席が野崎さんだったから。他愛のない話や、プリントを配る時に見ることが出来るその顔。

「ありがと」

 その笑顔とその言葉で私は幸福になれた。そうやって野崎さんと話していくうちに、最初の欲しいという気持ちは薄れていった。ただ、話しているだけで満足できたから。

 三回目、ハズレ。近くで聞けていたあの笑い声が遠くから聞こえてくる。その笑い声は何も変わってない。なのに、その声を聞くのが嫌で嫌で堪らなくなってしまっている自分がいる。あの気持ちは薄れてなどいなかった。

 より濃くなり、より深くなっているように、そう感じた。

 二年生となった春、私は昔の悪い癖を再発させてしまった。あれほど、恥ずかしい思いをしたというのに……私はまだ懲りていなかったらしい。

 その癖というのは口の中でビー玉を転がすというものだ。私は幼い頃、何故かその行為を繰り返していた。それがすっかり癖になってしまい、私はその行為から抜け出すことができずにいた。ビー玉の持つ美しさと感触が、いつまでも私の心を掴んで離さなかったから。


唯奈ゆいなちゃん、なにしてんの?」

「いいでしょ、口の中見せてくれるくらい」


 あの時から私は自分を律することができる人間になれた筈だった。でも、そういうメッキは簡単に剥がれ落ちてしまう。私はそういう人間だった。いくら取り繕ったところで、意味なんてなかった。

 流石にこの年になって学校という他人との共同空間の中、口の中でビー玉を転がして過ごすのは私としても後ろめたさがあった。だから、近頃の私は飴玉を口の中で転がしている。もしも、これがあのビー玉だったら。そうやって妄想と現実の甘ったるさを味わっていると、すぐに飴玉は私の中に溶け込んでしまう。

 そして口の中がフヤケて、甘さが舌に残る。それがなんだか嫌で、飴を舐め終えた後は決まって口をすすいだ。

 本当に、本当に耐えきれなくなった時に、私は口の中にビー玉を含んでしまうことがあった。学校という日常的空間の中で、ビー玉を口の中で転がすという行為は私を否応なく興奮させた。やってはいけないことを隠れて行う背徳感の塊。日常の中に簡単に持ち込むことができる非日常。それが今の私にとってのビー玉だった。


「阿野さん、なんの飴舐めてるの」

 夕焼けが窓から教室を覗き込んでいる。目の前には野崎さんがいた。驚きのあまり、ビー玉を飲み込んでしまうところだった。感触を味わうために目をつぶっていたから気がつかなかった。そもそも、野崎さんとはクラスが分かれてしまっていたから、野崎さんがいること自体が不思議だった。

「前はみかんとかそんな味の舐めてたよね?」

 野崎さんが私との会話を覚えていたことに一瞬浮かれてしまったが、口の中の感触がすぐに私を現実へと引き戻した。さっきまでと違い、口の中のビー玉はただのビー玉でしかなかったから。

 私は首を横に振る。今の私にできることといえばそれくらいしかなかった。もしくは、飲み込んでしまうぐらいしかない。それは避けたかった。何故ならそのビー玉は私のお気に入りで、中にひまわりみたいな装飾があるものだったから。子供の頃から捨てられずにいる、私の根底に潜むもの。

「ねぇ、口の中見せてよ」

 野崎さんが笑いながら、私に顔を寄せてくる。ひまわりが好奇心と悪戯心に満ち溢れて咲いていた。瞬間、彼女の瞳とビー玉が私の頭の中で混ざり合い、合致した。言い訳もできないような恐ろしい考えだった。気づかれる前に、失望される前にどうにかしなければ。

「はじゅかしいから、いやれふ」

 咄嗟に出た言葉は、舌に隠したビー玉に邪魔されて上手く口から出すことができなかった。自分が発したそのたどたどしい発音に顔がみるみるうちに熱くなる。その幼稚さが、過去の子供の時の記憶と重なった。

「やっぱり可愛いね、阿野さんは」

 私は慌ててバックに入れていた梨味の飴を野崎さんに差し出した。どうにか野崎さんの気を逸らせないかと思ったから。

「くれるの? なんかごめん。そういうつもりじゃなかったのに」

 野崎さんは寂しそうに「ありがとう」と言った。そして包装を割いて、飴を口の中に放り込んだ。

「この味、結構好きかも」

 彼女の笑顔の眩しさに、私は自分の幼稚さを恥じた。

「じゃ、またね」そう言って野崎さんは教室から出て行った。私は野崎さんが教室を出て行った後も、しばらく教室の椅子に座り込んでいた。野崎さんは気分を害していないだろうか、私がビー玉を口の中に入れていたことがバレていないだろうかといった、そういった不安に押しつぶされてしまっていたから。私がその感情とどうにか折り合いをつけて家に帰ることができた頃には、既に外は暗くなってしまっていた。

 家の鍵を開けて、いつものように自分の部屋へ着替えと荷物を置きに行く。いつもならそのまま夕飯の支度をするけれど、私はその前にしたいことがあった。

 棚の真ん中に置いてある人形を見つめる。しかし、彼女が私を見返すことはない、その瞳は閉じられてしまっているから。彼女は子供の頃に私が作ったお人形で、瞳には私が今握り締めているお気に入りのビー玉がはめられていた。幼い頃に、友達にビー玉を口の中で転がしているのが見つかったときにそうしたのだ。私がもう二度と、そういった恥ずかしい行為をしないためにと……

 実を言うなら、お気に入りのビー玉をどうしても捨てることができなかった私は人形の瞳にそのビー玉を使うことで、捨てない理由を作り出したのだ。捨ててしまった方が自分の為になるのに。

「目が見えないと、嫌だよね」

 私はまた捨てない理由を見つけていた。私はそんな自分が、嫌いだ。


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