魚住さんと異世界事情──親友は元婚約者で親切な隣人は元聖女らしいですが、性転換していて状況がよく分かりません。──
寒咲
魚住さんの状況把握
第1話─親友の来訪
■
目が覚めた。天井。真っ白ではない天井。
無駄な装飾もなく豪華絢爛なフリルも彫刻もない。どこかに手を加えようものなら発狂してしまう。ここは賃貸なのだ。弁償なんて考えたくもない。
自分が寝ぼけていることに気付く。途端に恥ずかしくなった。
手元には友人に押し付けられた簡素な装丁の書籍が転がっている。
数十頁みただけで、なんとなくが確信に変わり、いつの間にか夢に落ちて登場人物の一員になっていた。
しかも、序盤で主要人物の婚約者から外されて以降、主人公を応援しサポートする大変便利屋みたいな立ち位置である。
悪くもないし、良くもない。
いっそ悪役令嬢として活躍させてくれた方がうれしいくらいだ。
自分の幸せを他人に任せるような状態で生きていて苦しくはないのだろうか。
突如出てきた聖女なんてもの、内心むっとしてそれとなく避けていくことを選びたい。
表立って虐めてしまおうなんて浅はかに思いはしないところは頷けるが、それはそこまでだ。どっちつかず離れず、そういって離れていったほうが幸せになれそうな道は幾らでもあっただろう。
傍らにいた護衛騎士も甲斐甲斐しい世話係も彼女にとっての大いなる味方だったろうに。
いやはや、仮想現実に文句を言っても仕方ない。
そういう世界観なのだから、文句をいうなんてお門違いだ。気に入らなければ、読むのをやめればいい。
思うことは自由だが、それを誰かに伝えるまでいくとただの通り魔だ。本に対して誠実でありたいと思うのならば、この感情はここで留めておくに越したことはない。人間誰しも生きていくのに誰かに迷惑をかけていくのは当然として、それでもむやみやたらに誰かに喧嘩を、火種を売ろうなんてするのは労力の無駄。省エネ。時代は省エネなのだ。
それにしてもこのイラつき。
ここまでグダグダと理性を保っていたが、この小説、すごく憎たらしい。まだ数十頁しか読書していないにも関わらず、あの端役に対してなぜ共感羞恥性を覚えているのか。これは私に腹が立っているのだろうか。感情移入なら、現代社会から異世界に迷い込んだ聖女何某にすればよいのに、そんな気も起こらない。
自分でも手に余る感情を抱えながら洗面台へ向かいまずは歯磨き。その次に洗顔を済ませて体と精神を起こす手順を踏む。朝ご飯は、昨日の夕飯の残りをあっためればいい。幸い、今日は休日。手つかずのレポートを終わらせてあとは、怠惰に過ごすだけ。少ししたら同じ科の綿貫も来るだろうから、それまでに最低限の身なりを整えておこう。
この本を貸し付けた張本人になんて言おう。正直に、忌憚ない意見を言っても差し支えはなだろうけど、ここまで本を読み進めたくなくなるのは珍しくそれを勧めてくれた人物に真向に言うにも、なんとも、自分の人間性が恥ずかしくなってしまう。
ああでもこうでもないと思いながら時を過ごす。
その間、全くあの本に食指が伸びないのは、我ながら、本当にこの本が無理だったんだなと思う。
PCを立ち上げて、資料を広げる。綿貫がくるまでにやれるところまでまとめておこう。
□
呼び鈴が鳴る。
待ち人、現るということだろう。画面を見てそれを認めるとキーを解除する。
『ありがとー』
気の抜けた声が響く。ここまで上がってくるのに5分くらいだろうか。綿貫はゆっくり歩く。マイペース屋さんなのだ。
掲げられた酒の肴をみるに、夜まで居座る気満々らしい。明日も休みなので構わない。余分にジャージ出しておくかと、腰を上げて泊まりの準備をしておくことにした。この流れになることは多々あるので気にはしない。気心の知れた友人を持てて良かったと思う。
ほどなくして、部屋前の電子音が鳴る。
綿貫しかありえないと思いつつ画面を見遣ると、お隣さんの姿があった。
どうしよう、と一瞬たじろぐ。居留守を使うことは当然出来ない。もうすぐ綿貫が来る。
「はい」
とりあえず返事。
すると、画面越しにするにはもったいないような花が開いたような笑顔。
時間は十時頃。早くもなく遅くもなく。
この時間に私が外出する際に何度も玄関で挨拶をしているので、起きていないことはないだろうと思ったのだろう。
『おはようございます。実家からお野菜など届いたのでいかがでしょうか、と』
悪い人ではない。寧ろ、殊更に親切な人だと思う。同じ大学であるし、他学部からの有益な教養の情報をもたらしてくれる。綿貫とも顔なじみだ。
ただなあ。親切過ぎるというか、誰隔てない穏やかさとかそういうのはとても世の中の誰にでも受けはよく素晴らしいと思うのだけれど、私の距離感とは合わない。
口にうまく伝えられないけれど、誤解を招きかねないのだけれど、苦手なのだ。
なにも彼に何か落ち度があるというのは全くなので、十割こちらの私情なのだが、兎にも角にも苦手なのだ。
相手に非がないだけに、あけすけに距離をとるのも憚れるし、自意識過剰と思われるのも癪だ。
扉を開ける。
すると見計らったかのような時機で綿貫がやってくる。
「お出迎えとは感心だ。おはよ。花咲くんはどうしたの?」
「綿貫さんいらしてたんですね。その、実家から野菜届いて」
「あー、それね?それにしては手ぶらだね」
「返事を聞いてから持ってこようかと」
「お隣だから幾らでも機会あるもんね」
「はい。それなので今、お邪魔でしたら改めて」
「いやいや、それは私の決めることじゃないからさあ。ね?」
綿貫がこちらに返事を促す。判断は任せますというように体を揺らしている。
「はい。また改めるというのもあれなので、今綿貫がいるうちにいただこうかと思い、存じ、ます」
「おいおい~。変な敬語になってるじゃん」
「いいんですよ。同学年なんですし、気軽に話かけてくだされば」
「花咲さんの方こそ、気兼ねなく話してくださればいいのに」
「いいや。その俺はこれがやりやすくて」
敬語が得意というわけではないが、花咲さんに対しては、気軽に話しかけるというのは気が引ける。相手も敬語で話かけてくるのでやりにくいのだ。苦手な一つかもしれない。相手も一向に直す気がないのでこちらもただす気は毛頭ない。
「まその手垢のついた会話は置いといて、野菜いただきまーす。じゃあ、今日は鍋にしようぜ。花咲くんゴチ。運ぶの私が手伝うね。魚住は、部屋で待っていてよ。これぞ一宿一飯の恩義?」
「うん。じゃあ、頼もうかな」
綿貫の言葉にうなずく。そういう察しのよさが心地よい。私はこの友人にそれだけの心地よさを返せているのか不安になるが、寝床をよく提供するのでそれはそれでいいだろう。
「はい。ぜひとも」
人好きする笑顔で花咲さんはにこにこしている。
綿貫が花咲さんの部屋に入るのをすぐ横で見送って、このまま扉閉めるのもなあという気持ちで扉を開けたまま立つ。中で待っていたらいいのは分かるけど、どんな野菜がどれだけ来るか分からない。
花咲さんは、私が育ちざかりだとでもいいたいようにたくさんの差し入れを寄越す。
大半、綿貫と消費するので困らない。有難いとまでいえる。迷惑ではない。食費的に助かる。
しかし、そういやって生活に花咲が染みこんでくるようで、よく思わない自分もいる。それほど距離を縮めようとしてくる素振りもないのに、いつの間にか花咲さんは、にこにこ笑っている。
不気味ではないのだ。
不気味ではないから、“なんか気に食わない”。
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