メランコリックに生かせてよ

睡眠欲求

生かせてよ

メランコリックに生かせてよ



「大丈夫?」


顔を上げるとビルとビルの間から差し込む光が目に入ってくる。それを遮るように立っていたのは女だった。私はその女を知っていた。だが名前が出てこない。顔はわかるのだが名前と一致させる脳の作業が著しく何かに妨害されていた。そもそもその人は自分の記憶になかった。その事実に気づいた時私は身構えた。目をギョロッとさせ相手を見つめる。言葉が出てこず、なんとか脳の中で言葉の引き出しを漁る。中から言葉を見つけ口から出した。


「だ、大丈夫」


私は言葉に詰まりながらもなんとか返答した。返答には軽い会釈を混ぜた。なぜ私に声をかけてきたのだろうか。そういえば私はボーッと一点を見つめていた。周りから見たら、そんなの心配して声をかけるのも当然だろう。女は私の言葉を聞いても、すぐには立ち去らず私と何秒間か目を合わせた後、その場から何も言わず去っていった。ひと段落ついたところで私は、パーマがかかった髪をかきむしった。私は頭皮に異常にむずむずした感触を覚えていた。それを一刻も早く払拭させたかったのだ。

指と指の間には煙草が引っかかっており、どちらかの指を少しでも外に開こうものなら煙草は地面へと落ちていくだろう。ビルの壁に寄りかかっている背中をゆっくりと自立させた。私は煙草を吸う。別にニコチンを摂取したいわけではなかった。吸うと同時に先端部分が赤く発色する。

煙が体の中に充満する感覚を感じ取った。吐く。先ほども言ったようにニコチンを摂取したいわけではない。この動作をしたいがために吸っていた。ニコチン中毒ではなく、この動作に中毒性を見出していた。タバコが指に引っかかっている右手の力を一瞬で抜き、宙ぶらりにした。冬場はまだ寒かった。シャツを着て襟を整えた上に黄色のカーディガンを着ていた。全面黄色というわけではなく、真ん中あたりに赤いラインが体を一周していた。それが黄色一色のカーディガンのワンポイントとなっていた。私はそれを気に入って購入したのだ。頬が緩んだ。吹き出す。なぜか笑えてきた。私にも理由はわからない。ただただ笑えてくるのだ。

チリチリ頭になった煙草を手から落とす。地面と衝突するや否や赤く発色していた部分が飛び散った。何回か弾んだ後、私はそれを踏みつけ捻る。路地から一歩出ると日差しが私を襲ってきた。それは防ぎようのない攻撃だった。まさに奇襲。いや奇襲ではなかった。私はさっき目に攻撃を受けたばかりだ。女に声をかけられた時攻撃を受けたのだ。それを奇襲というのは違うのではなかろうか。路地から抜け先ほどまでもたれていたビルの中へ入っていく。そこはレコードショップだった。

休憩の時間は終わりだ。あんなにも愛おしい休憩というあの二文字、それが儚く散っていったのだ。たった十五分で。店内は暖房が効いていて暖かった。レジの上に置いていたエプロンを腰に巻いた。これが制服であった。特にやることもなくレジ台の下にしまってある椅子を取り出し腰を預けた。足をレジ台の上に乗せ体を楽にさせる。「はぁ」とため息が出る。反射的なものだった。

店内に客はいない。堂々と雑誌を広げ記事を読んでいく。雑誌は意外と暇を潰せた。ちなみに今読んでいるのは三周目だったが、飽きはしなかった。ただただ憂鬱メランコリックであった。だがその霧は晴れることを知らなかった。カランコロンとベルが鳴った。扉が開き一人の青年が入ってきた。


「いらっしゃいやせー」


ダルそうに言う。めんどくさいのだ。そんなの私に真面目にやれと言っても効果がないのは自分が一番知っている。青年はレコードが敷き詰められた棚を丁寧に見ていく。上から下、右から左。私は雑誌と青年を交互に眺めた。人間観察はそれなりに好きだった。その人の性格や考えがわかるからだ。青年はレコードを二枚手に取り私の方へ歩いてきた。選ぶのが思っていたより何倍も早かった。


「これお願いします」


青年は小声で言った。その声の大きさはどこか申し訳なさを感じ取れた。


「お兄さん何歳?」


私はふと聞いてみた。今の若者はあまりレコードを聞く機会もハマる機会もない。私みたいなレトロ好きや物好き、そう言うタイプでないと今の時代は手を出すことはまずないだろう。


「二十一歳です」


彼は今度は笑顔を見せ答えた。なんとも爽やかな笑顔。私には嫌味のようにしか見えないが。


「そう。私と三歳違いだね」


「じゃあ、二十四歳になるんですか?」


「なんだい?女性に年を言うのかい?その逆だよ」


私はニヤつく。


「え、あ、十八歳なんですか?」


彼は戸惑いながら聞き直す。


「そんなわけないでしょ。ごめんね。からかっただけ。私は前者の方だよ。はい、えーっと二枚で千九百八十円ね。中古品だけど大丈夫?」


「大丈夫です」


青年はそう言いながら二千円を出した。電卓を叩く。数回叩くと二十と表示された。こんなの暗算をすればいい話なのだが頭を使いたくはなかった。二十円を取り出し青年に渡した。彼は何も言わず会釈だけしてドアへ向かった。その後ろ姿は何処か、そうどこかで見たことがあった。だがそれを思い出せない。私の中で何かが引っかかり、それを思い出すことができない。彼は店から出て行った。またベルを鳴らして。

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