イジカ

@yatchie

第1話 「イジカ」病院の受付の裏

 桜の花が散り、でも少し肌寒さの残る日の午前中、呼吸器外科の専門医の菅山俊一のPHSが鳴った。


 「ちょっと、すいません」


 診察中にも関わらず、菅山はくるりと振り向きデスクのメモを手に電話を取った。


 菅山の首には二つのPHSがかかっている。一つは通常の院内用。

 今回鳴ったのはもう一つの方、こちらが鳴ると、いつでも--診察中でもーー取らなくてはならない。


「はい、はい。分かりました。…意識レベルは?」


 救急車からの入電は事務員には任せられない。


 患者の状態を直接聞き、即座に判定し、対応するためには、医師、ある程度以上の能力のある医師が対応しなければならない。


 「7階に空きあったよね?」


 看護師に確認すると、救急隊に受け入れを伝える。即座に救急担当医師へコールする。


 「交通外傷、意識レベル300。10分で来るよ!」


 今日の急患担当の看護師長にも手短に伝える。


 一日500人の外来患者でごった返す待合、廊下を抜け、急患診察室に医師、看護師が走り、放射線科には順番待ちに割込みが入ることが伝えられる。院内に緊張が走る。


 脳外、整形にも連絡が入る。今日は救急担当ではないものの、やたら患者を蘇生させる消化器内科の内海の待合でも、急患対応による診察の遅れのお詫びが始まっていた。


 受付の裏にある暗い空間「イジカ」にも一報が入る。

 患者の医療費を計算する医療事務員たちにも救急車の情報が伝えられる。


 「最近多いですね。交通事故」


 医事課に配属になって3年目の持田カナコが、患者数のデータを見ながらつぶやいた。


 外来計算を担当するスタッフは、それを聞いても特に手も止めない。


 いつもの日常。


 「まぁ、救急入り口の柵開けとけよ。今日はまだ一台目だろ?」


 課長の林田一は新人の隅田海斗に指示すると、趣味のモデルガンを磨き始めた。

 この前オークションで手に入れた、規制が入る前の、逸品だ。


 「わかりました!行ってきます。」


 海斗は小走りで救急受付へ向かった。


 すぐに救急車のサイレンが近づいてくる。


 血まみれの服。泣き叫ぶ声。


 慣れない。場違い感。


 急ぎイジカに戻った海斗に受付の酒井ひなたが声をかける。


 「患者の名前と、生年月日は?」


 しまった。また忘れた。


 本当は一報を受けた医師が聞く決まりらしいのだが、そう言ってもしょうがない。


 急いで急患室に戻り、付き添いの方になんとか名前と生年月日を訪ねると、イジカに戻る。


 川のように流れる外来患者と診療票、留まることのない処方箋。


 「遅かったな!また名前聞き忘れたな!」


 林田課長は自慢のモデルガンを海斗に向けた。


 「すいません。今度から忘れないようにします。」


 救急車、緊迫した雰囲気。病院のスタッフとしてまだ一週間と経っていない海斗にとって、そういった場面で患者やその家族に話しかけるのも一苦労だった。


 「まぁ、今日もまだ何台か来るだろうから、ヨロシク。」


 多くの患者が知っていることだが、病院には基本的に「待ち」に来る。


 だが、そのストレスを医療スタッフにはぶつけられない。


 医療スタッフは、感謝する相手であって、文句を言う相手ではない。


 患者たちの蓄積されたストレスを、最後にぶつけられないよう、医療費計算を滞らせない--


 これがイジカに与えられた、第一命題だ。


 そうして、もう一つ、病院の経営を根本から揺るがす、大問題を未然に防ぐ、それが…


 「6F病棟、無保険者です!!」


 病棟からの電話を取った入院担当スタッフが叫んだ。


 林田課長がモデルガンを取り落とす。


 「い、いつの入院患者だ!昨日のQ車か!」

 「はい、昨日のQ車の患者です。意識不明で単独でしたので、保険証未確認でした。」

 「治療内容は?」

 「濃厚です。輸血があります。」

 「ちっ、すぐ計算して。下手すると50万超えるぞ」


 「どういうことなんですか?保険証を忘れたってことですか?」


 海斗が課長に尋ねた。


 「バカお前、無保険者っていったら、無・保・険・者だよ!無いの、保険が。」


 林田課長が何一つ情報を付け加えられないでいると、先輩の持田カナコが諭す。


 「健康保険の資格がないってこと。

  それがない、ということは、医療費を患者が全部負担しなくちゃなんないってこと。」


 「それは、患者さんが可哀そうってことですか?」


 林田課長が続ける。


 「バカお前、可哀そうなのは客じゃなくて、こっちなの!

  いいから客に確認!!」


 「どういうことですか?」


 病棟へ走りながら海斗が訪ねた。


 「あのね、保険がない、ってことは、保険料が払えてないってことでしょ?」


 「はい。」


 「ってことは、医療費も払えない、ってこと」


 「え?どういうことですか?お金、払わないって…」


 「退院するとき、払わない、ってこと。払えない、ってこと。」


 「そんな…。食い逃げと一緒じゃないですか!」


 「まぁ、そんなところね。」


 「警察呼べばいいじゃないですか!」


 「うーん、そうもいかないのよ。民事不介入って、わかる?」


 「わかりません!」


 「まぁ、とにかくイジカ職員でなんとかするしかないのよ。」


 来たばかりの海斗には、病院はワケのわからないことだらけの場所だった。

 

 「あの、山崎さん、もうお話しできますか?」


事務職員は、エレベーターを使えない。

息も絶え絶えの海斗を尻目に、カナコは手慣れた口調で尋ねた。


 「あぁ?見りゃわかるだろ?口だけは動くようにしてもらってるよ。」


 「あの…、私はイジカの持田といいます…えっと、お勤めの会社の保険証などお持ちじゃないですか?」


 「は?首切られたのにあるわけないだろ!!」


 「国民健康保険への加入手続きは…」


 「前の会社がナントカ届ってのを出さないんだよ。市役所の人間に聞いてくれよ。俺は知らねぇ。」


 「では、以前お勤めしていた会社さんの名称と電話番号分かりますか?

  こちらから連絡を取ってもよろしいでしょうか?

  こちらで社保の喪失手続きと、国保の加入手続きをいたします。

  なんとか昨日からの適用となるよう交渉してみますが、よろしいでしょうか?」


 「あぁもう、なんでもいいから。寝かせてよ。」


 自分の医療費のことだろ!と目で訴える海斗を横目に、カナコは必要な情報を引き出していった。


 イジカに戻った二人は課長へ報告する。


 「じゃあ、金がないわけじゃなくて、手続きしてないだけってことか?」


 「だといいんですけど。とりあえず、国保に資格遡れないか交渉します。」


 「遡れなきゃ、未収50万なんだからね。」


 課長は保険証の作れる可能性があると知って安堵したのか、さっきとは違うモデルガンを磨き始めた。


 「ヨロシク!」


 課長は海斗に向って照準を合わせた。


 ーーイジカ。


 医業未収金問題。


 医師には応召義務があり、保険証がないから、といって診ない選択肢はない。


 高額な未収を作った患者は、最後には必ずこう言う。


 「金のない人間は死ねというのか?」


 病院も慈善事業でやっているわけではないのだ。


 びっくりするほど高い人件費。


 右から左に流れるだけの薬剤費。家が建つ金額の医療器械。


 ここイジカは、病院が医療を提供し続けるために、病院ヒエラルキーの一番下の階級で必要なカネの面倒を一手に見る部署だ。


 日本の医療を、守るために。

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