第32話

      三十二


      夫


 それにしても、沙月にそんな親戚がいるなんて知らなかった。今、改めて沙月のことを何も知らないのだと痛感する。沙月の母親が病床にいたこともあって、沙月の親戚方とはほとんど会ったことがなかった。

 さて、沙月は一応明日まで向こうにいるらしい。沙月がいないとなると、家に留まっている理由もあまりない。私は沙月が残していった家事を一通り片付けてから、会社に電話をかけた。

 休暇期間が、今日でもう半分を超える。これまで向こうから何も連絡がなかったので、特段何も問題が起きていないのだろうが、役員として一度もこちらから連絡をしないというのもまずいだろう。

 携帯電話を開いたら、ほぼそれと同じタイミングで電話がかかってきた。知らない番号だ。とりあえず取らないでおく。しばらく待っていると留守番電話に切り替わったが、吹き込まれた声を聞いて、すぐに私は電話を取った。呉谷からかかってきていたのだ。



      妻


「呉谷がいなくなったですって?」

つい大きな声が出てしまった。

「そうなんですよ。困ったことにね」

 しかし、その割に東城の口調はそれほど困っているようには聞こえない。

 沙月が連れてこられたのは、この前の『シン・アライアンス株式会社』の看板があった郊外のビルとは違うところだった。

 道中目隠しはされていたが、今回はおそらくもっと都会のオフィスビルだ。エレベーターに乗ったあと目隠しをとられ、三十階建ての最上階の一室に通される。

 東城は社長室のような豪奢な部屋の、ガッシリとした漆黒の机の向こうで、ゆったりとした椅子に深く腰掛けていた。

「三日前からです。車で移動させていたんですが、降りた瞬間に隙をついてうちの者を突き飛ばしてね。こちらも追いかけようとしたんですが、そこに偶然警察官が通りかかりまして、その後、必死に探しましたが逃げ切られたんです。彼もすねに傷を持つ身なので警察には駆け込まないと思いますが、それでもどこに行ったんだか分からない。彼と関わりのあるところには大体監視をつけているんですが」

 東城はそこで一旦、言葉を切る。

「そこでですね。あなた、何かご存じのことはないでしょうか、彼の行方について。一応〝交際〟していたわけですし」

 東城は座ったまま前のめりになり、沙月の目をしっかりと見据えた。

「知ってるわけないじゃない! 彼には脅されてたのよ」

 沙月は即座に言い返した。いつも呉谷と会っていたのは、ホテルとか、潜伏していたウィークリーマンションとか、呉谷の私生活とは縁もゆかりもなさそうな所ばかりだった。

「大体、彼から連絡が来たときしか会ってないし、会ったところもあなたたちは全部知ってるんでしょ?」

「もちろん、あなたが彼と接触する前から彼を監視していましたが、生憎、私達はあなた方の情事の部屋には入れないですからね。彼、何か言ってなかったですか? 何か行先のヒントになるようなこと。家族の他に頼る人などはいないですかねえ」

「知らないわよ。大体、私は今の彼についてはほとんど知らないんだから!」

「今の彼?」

 沙月はしまった、と思った。

「そもそもあなたは彼とどういうご関係なんですか? ご主人とも含めて、昔の同級生ということはぼんやり聞いていますが」

「なんでもないわ。ただの昔の友達よ」

「そうですか。その割には、彼はあなたにとても執着しているように見えましたが。ここ一年だけでも、会っていたのは十数回に上っている。元々、我々はあなた達のことをそんな後ろ暗い関係ではない、ただの恋人同士だと思っていましたからね」

「ただの仲良しグループよ。よくあるでしょ」

「そうですか。ただ、彼のあの感じだと、あなたに対する恋慕はここ最近のものではなさそうですね。もっと根が深いように見える」

「変な想像だけで喋らないでよ」

「彼があなたと接触を持つようになったのは、あの門戸というヤクザと関係を持つようになってからです。彼は自分の身に危険が降りかかる前に、あなたと再び関係を持ちたかったのではないですか?」


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