先延ばしの理由

不可逆性FIG

everybody goes.

「あの、ユウキさんですよね。 ……私を誘拐してくれませんか」

 昼下がり、公園のベンチで暇を潰していた俺はその声のする方へと顔を上げた。その姿は名門高校のブレザーを着た女子学生で、いかにも清楚という言葉を表現するために存在しているような艶やかな黒髪の可憐な少女が、目の前で何故か俺に微笑みかけていた。

「人違いじゃないと思うんですけど──ほら、一ヶ月前にトマトパスタ、一緒に」

「え、もしかしてアヤセ!? なんで、制服……大学生って……」

 俺は記憶を辿り、一時の気の迷いで登録したアプリから知り合ったアヤセという女性に思い至る。普通には到底出会えないだろう見た目の子だったから、よく覚えている。覚えているつもりだったが、その目の前の彼女は何故か高校生の格好をしているのだった。

「ああ、大学生って言ってましたっけ。私、本当は高校二年です。それでですね、誘拐してほしいんです」

 公園なのに喧騒も遠く、風のない、じめっとした暑さが肌にまとわりつく。

 逆光で薄暗く、少し寂しそうに笑って首を傾げるアヤセ。全くもって意味不明な提案だったが、俺はどうしてか「いいよ」と彼女の言葉に同意してしまうのだった。

 今思えば、すでに俺もどうかしていたのだろう。味のしないコンビニ飯の残りをゴミ箱に投げ捨てて、日差しだけがやたらに鋭い七月終わりの淀んだ蒸し暑い大気と、見るもの全てが灰色になった世界から目を逸らしながら立ち上がる。そして、アヤセのか細い手を掴んで、俺の車へと連れて行くことにした。

 ──衝動的行動だった。きっと逃げ出したかったのだろう、何もかもから。

 俺は助手席に放置してあるビジネスバックを後部座席に放り投げて、彼女を助手席にエスコートする。そして、アヤセと俺はお互いの事情も知らないままシートベルトを締めて、アクセルを踏んで発進させることにしたのだった。


***


 よくある話だった。

 勤続年数が少し長くなっていた俺は昇進とも呼べないような僅かな昇進を会社から賜り、その見返りとして阿呆のように増えた業務内容と自分起因ではないクレーム処理などもたんまり仕事に組み込まれてしまう。ネットでよく揶揄される社畜という言葉が、気が付けば俺の人生にベッタリと貼り付けられていた。胃の痛くなるような毎日を過ごしていくと、ある日から胃の痛みは無くなり、その代わりに食事から味が失われるという貴重な経験をさせてもらったのだ。

 精神科医からの診断書を盾に長期休職を勝ち取ると、それから、なんだか全てが馬鹿らしくなって抜け殻のような日々を過ごしていた矢先の今日である。


 俺たちはアバウトに避暑地に行くという目的を決めて、大通りを抜け、高速に乗り、北へ北へと車を飛ばしていた。途中で、アヤセが「反社会的なロックを流してほしい」との要望があったので適当にマリリンマンソンを選択したのだが、どうやら激しさが足りなかったらしくヘヴィサウンドのおかわりがあった。なので、半ば自棄やけになり、ヘイトブリードとかラムオブゴッドとかスリップノットとかを流したら、すこぶる機嫌が良くなったので釣られて俺も笑顔になってしまう。

 メタルはヒーリング音楽である。決して凶悪犯罪者を育てるためのものではない。むしろ弱者のために在るといっても過言ではないのである。

 怒りや苛立ちが収まらないとき、メタルを爆音で聴けば自分の代わりに社会に中指を立てながら暴虐の限りを尽くしてくれるので、ストレスが発散されるのだ。きっと彼女もそれを心の奥で感じ取ってしまったのかもしれない。

「ところで、なんでまた誘拐されたがってたの」

「ユウキさん、私にだって色々あるんです」

「あの高校に通ってるってことは良いとこのお嬢さんなんだろ?」

「……外面だけですよ、あんなの。父は仕事人間で家に寄り付かないし、母は無駄に顔が良いからチヤホヤされる生き方しか知らず、上流階級の憧れだけが肥大したような下品な女ですし」

 窓枠に頬杖を付きながら、面白くなさそうに悪態を吐き捨てながらそう零す。

「家庭を顧みずネグレクトする父と、自身の出自コンプレックスから過干渉をエスカレートさせる母との間で濃縮された悪意の澱から出てきたのが今の私です。最高にわかりやすい自己紹介でしょ?」

 今風な表現ならば毒親と言うやつなのだろうか。高速道路を走らせながら、アヤセの独白はゆっくり紡がれていく。


 親や周囲に期待されて、理想を押し付けられて、良い子をずっと演じてきたらしいアヤセという一人の少女。

 しかしながら、彼女だって操り人形じゃない。グレることで復讐することも考えたが、何が一番親を悲しませることができるか考えた結果、辿り着いた答えが大切な宝物を壊してしまうことだったとのこと。即ちアヤセ自身を傷物にしてしまうことに他ならない。確かに悪魔的発想ではある、ではあるのだが……。

「私、ユウキさんにすごくお金使わせてるし、どうやって返したらいいですか? やっぱり後で身体で払いますか?」

「馬鹿ッ、そういうことは軽々しく言うなって! それに俺が勝手に使いたくて使ってる金だから」

「だってもうすでに私のこと知ってるし、二回目も三回目も同じかなって」

「知っててするのと、知らないでするのじゃ罪悪感の総量が段違いなの!」

 そう、俺は自暴自棄になったことがあって、包み隠さず言えば、金で素人女を一晩買ったことになる。それからも女子大生のフリをしたアヤセとはたまに会って話し相手になってもらっていた。結局、独り身の俺が欲していたのは性欲の捌け口よりも気兼ねない話し相手だったのだろう。人知れずパパ活にハマる哀れな男がいた。それだけである。

「はあ……俺は女子高生に仕事の愚痴を聞いてもらってたのか。情けなくて嫌悪感で吐きそう」

「まあまあ、アドバイスは出来なかったけど、一緒に苦しんで泣いて慰めあって人生のままならなさを共感し合った仲じゃないですか」

「アヤセのその大人びて達観したような言葉が、さらに惨めにさせてくるわ」

 他愛のない会話を繰り返して、単調な高速道路を軽快に飛ばしていると次第に車窓からの景色に緑が増え始める。世界は灰色だったのに、どんどん色付いて美しく見えてくるから不思議だ。数時間、走り続けていつの間にか青い夏空は茜色に、それからじんわり菫色から宵闇へと日が落ちて染まっていた──。

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