第7話 二度と離せない

「もう崖からまっ逆さまに落ちたわ……火サスもビックリよ」

「訳分からないんだけど。何か事件でもあったの?」

「大事件なのよ……」


「もしかしてそれってお兄ちゃんとのこと?」

 ニヤリと口角を上げる莉子は、多分知っているのだろう。羽菜とのことで伊織が莉子に言わないわけがない。なんせ二人を出会わせたのは彼女なのだから。


「ふふ、お兄ちゃんね、ここの所ご機嫌なの」

「そう、なんだ……」


 羽菜は両手で顔を覆った。頬が赤いのはアルコールのせいではない。何故ならまだ一口飲んだだけなのだから。



 本日は臨時の女子会だ。

 まだ一週間が始まったばかりの夜は比較的空いている。明日も仕事だからと少し早い時間に集合した。羽菜がどうしても話したいことがあると莉子を誘ったのだ。あの日、伊織に迎えに来てもらった店で。ちなみに今日は伊織は来ていない。


 水族館に行ってからもうすぐ1ヶ月くらいになるが、その後ほぼ毎週二人で出掛けていた。やはりあの時の台詞は聞き間違いなどではなかったらしい。


 ほんの1ヶ月しか経っていないというのに、忘れられなかった恋を思い出して苦しくなることはなくなった。


「リオ君も、今は幸せかなぁ」


 ——彼は今、どうしているのだろう。もしかしたら結婚しているのかもしれない。なんて、今まではそう考えるたびに胸が痛んだけれど、流れた時間と伊織との再会で懐かしさしかないことに驚いた。


「幸せになってるわよ」

 莉子は目を瞬かせてから、ニコリと微笑んだ。何の脈略のない羽菜の話にもすぐに理解をしてくれる。いつまでもそれに甘えてはいけないと思っているけれど、今までよりも距離が近く感じてしまうのは許して欲しい。


「だったらいいな」

「こんな可愛い羽菜と別れた当初は荒れたでしょうね~。でももう過ぎたことよ。それよりお兄ちゃんのことはよろしく頼むわね」

「こっちの台詞よ……」


 頬を染めて目線を逸らす羽菜の様子に莉子は目を瞬かせた。


「え?え?もしかして?」

「昨日一緒に出掛けたんだけど―—」


 * * *


 伊織と二人で出掛けるのも、もう4回目。母はいつの間にか普通に送り出してくれるようになった。しかし次は父が何か言いたげに羽菜を見送るようになってしまった。

 そろそろどういう関係か問い質されるかもしれないけれど、それにはまだ名前などなかった。その日の夕方までは。


「羽菜ちゃん、俺と付き合ってください」


 夜景が綺麗な海沿いのレストラン。今になって思えば夢のようなシチュエーションだった。

 しかし食後デザートが運ばれてきて、その見た目と味に夢中になっていた羽菜は気が付かなかった。伊織の口数が減っていたことに。


 少し緊張した声で、その言葉は唐突に告げられた。


「え?え?」


 あんなに感動したデザートの味が、一気に消えてしまった気がした。


「羽菜ちゃんさえよければ結婚を前提に付き合ってほしいと思ってる」

「ふぁっ!けっ、結婚……ですか?」


 突然の『結婚』という言葉に、変な声が漏れた羽菜だがそれを気にしている余裕はない。


「ダメ、かな?でも、もう諦められないんだ」

 真剣な表情で伊織は羽菜を見つめている。話を漸く理解したらしい羽菜の脳内が身体中に信号を送っている。緊急事態だ、と。


 手始めに心臓が急激に鼓動と速めた。続いて頬には熱が集まり、手も微かに震え出している。


 そしてついに限界を迎えた羽菜の瞳からポロリと雫が零れ落ちた。


 元々憧れていた人と何度も二人で出掛けて。そんな人がとても優しくしてくれて、恋に落ちるなというほうが無理だろう。それに期待だってしてしまう。

 でもまさか今日告白されるなんて。その内に好意を示したら受け入れてくれるかな、なんて淡い想像でしかなかったのに。


「は、羽菜ちゃん……」

「違うんです!これは嬉しくて!」


 伊織の表情と声色が緊張から不安そうなものに変わった。何も言葉を発することなく泣いてしまったことに気付いた羽菜は慌てて言い募る。


「嬉しい?それって……」

「はい、私も伊織さんが好き……です」


 ガタン!


 勢いよく立ち上がった伊織に、羽菜だけでなく近くのテーブルの客も何事かと視線を向けた。すぐに気付いた伊織は、慌てて座り直しす。その様子に緊張が解けた羽菜は、フフと笑った。


「ごめん、驚いてつい……。本当にいいの?もう二度と離せないよ?」

 縋るような伊織の言葉の意味が分からずに、羽菜は内心首を傾げるも恋人になれる事実に浮ついて気にも留めなかった。


「もちろんですよ。だって私、ずっと伊織さんに憧れてたんです」


 にっこりと微笑めば、溢れ出した雫が再び頬を伝い、伊織が慌てる様子がぼやけて映っていた。

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