第6話 期待してはいけないのに

 伊織は忙しい人だろうに連絡はマメで、トントン拍子にデート(ではないと思っているけれど莉子や伊織はそう言う)の日取りが決まっていった。


 実際会ったのはたったの二回だし、そのうちの一回である初めに至っては家まで送ってもらっただけだった。が、しかしその短い触れ合いの中でも伊織はやっぱり記憶通りだと思えた。もちろん良い意味で。

 憧れの初恋のお兄さんが変わっていなくて嬉しいけれど、しかしそれはそれでマズい。非常に。なぜならばいとも容易く恋に落ちてしまいそうな自分がいるからだ。

 もう、崖っぷちに立っていて、手で押されなくとも少し強い風が吹くだけで真っ逆さまに落ちてしまいそうなほどにギリギリなのだ。


 けれど昔とは違い、今はもっと現実を見られるようになっている。高校の時にできた彼氏と一通りこなしたのも大きいだろう。だからこそ一流企業に勤めていて、見目も良く優しい伊織が羽菜を恋人に選んでくれるとは考えられないことなどよく分かっている。


 もしかしたら都合のいい女として見られている可能性も否めない。本命は作りたくないけれど、それなりに遊びたいとか……。羽菜よりもっと可愛い女の子が諸手を挙げて殺到しそうだ。

 そんな人だと思いたくないけれど、伊織のことだって羽菜は何も知らない。


 期待してはいけない、好きになってはいけない。

 だからしっかり予防線を張っておかないと!そう思って望んだわけだったのだが——。



 当日の朝、早々に支度を終えて落ち着かない様子で待っていた羽菜は、リビングから伊織の車が停まるのを見て玄関を飛び出した。色々聞きたそうにしている母を宥めて、二度目になる伊織の車に乗り込んだ。


「おはようございます!迎えに来ていただいてありがとうございます」

「おはよう。待ちきれなくて早く来ちゃってごめんね」

「そっ!そんな!私もずっとソワソワしてたんです」

「そうなんだ?嬉しいな」


 とろりと溶けるような瞳で羽菜を見つめた伊織だったが、シートベルトを着用したのを確認して前を向いてしまった。


(朝なのに!色気がすごいです、伊織さん!)


 羽菜は明るい車内で、ハッキリとその表情を見てしまい息が止まりそうだ。初っ端から供給過多である。


(それに私服も、素敵……眼鏡もこの前と違うわ……)


 初めて会った日は夜であったし、二回目は仕事帰りでスーツだった。

 シンプルなダークグレーのオープンカラーシャツは少し長めの半袖で、そこから覗く腕は意外と筋肉質だ。隠れマッチョなのかな、と考えてしまい伊織に気づかれないよう左の頬を抓る。


(バカバカ!そんなこと確認する機会なんてくるはずないから!)


 男性と関わりがなさ過ぎて、欲求不満なのかもしれない。こんなイケメンと二人でデートという僥倖を胸に、そんな不埒な考えはしてはならないと心に誓った。


「水族館って久しぶりです」

「とりあえず定番かな、と思って。デートとか殆どしたことないからさ、これから色々出掛けようね」

「は、はいっ……って、はい?」

「楽しみだなぁ」


 あれ?次回もアリな感じです?さらにその先もありそうな……?


 混乱する羽菜をよそに、伊織は嬉しそうだ。


 いくら気になったとて、ここで「次もデートするのですか?」なんて聞けそうもない雰囲気だということは分かる。羽菜はもういっそ気にしないことにした。第一に聞き間違いかもしれないし、「そんなつもりじゃなかった」なんて言われたら立ち直れないだろう。


 うんうん、一人頷く羽菜を蕩ける目で見つめていたなんて彼女は知らない。


 * * *


「わぁ~!凄いですね!」


 水族館なんて、いつぶりだろう。鰯が餌付けで竜巻のように渦を巻く様に、横に立つ伊織に話しかけてからしまったと思った。


「あ、はしゃいじゃってすいません……」

「いや、俺も見とれてたから」


 羽菜を見つめてそんなことを言うものだから、ドキリと心臓が跳ねた。


(いやいやいや!!そんな訳ないって!私!)

 鰯の青い背が照明に反射し、キラキラしていてとても綺麗だからに決まっている。羽菜はつい都合よく解釈してしまう己を窘める。


「この水族館は初めて?」

「いえ、たぶん小学生の遠足で来た記憶があります」

「あー、そういや、俺も来たな」

「そういえば担任の先生は誰だったんですか?」

「えっと……」


 学年は違えど同じ小中を過ごしてきた者同士、話題には事欠かない。もっと緊張してしまうかも、と不安だったけれど思い出話に花を咲かせていると、いい感じで肩の力を抜くことができた。


(懐かしいな、この感じ)


 少しのドキドキと、安心感は嫌でも元彼であるリオを思い出させる。彼と一緒にいると居心地がよかった。伊織には口が裂けても言えないが、顔も似ているけれど雰囲気はそれ以上に似ていた。


 横を見上げれば直ぐに気付いて、眼鏡の奥の瞳が優し気に細まる。

 後ろめたさを感じた羽菜は、僅かに微笑み返したあと水槽へと目線を戻した。今は伊織といるのだから、彼自身を見なくては。逆に羽菜だって元カノと比べられていたなら、いい気はしないだろう。


 ふと指先に熱が触れて、それが伊織の指だと気付いた羽菜は慌てて離そうとして出来なかった。指先は軽く、だけれどしっかりと掴まれている。


 頬を染めて、口をパクパクと開閉させているだけの羽菜を見下ろした伊織は、視線を照れくさそうに少しだけ外した。


「はぐれてしまわないように、ってのは口実で……つないでいい?」


 そんなふうに言われてしまえば、羽菜は、

「ありがとうございます……」

 と小さな声で言うほかになかった。


 指先から徐々に絡まった手は、すっぽりと包まれる。その手の感触に、何故か羽菜は懐かしさを覚えた。

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