JOB’s Comforter

5-1

 その日の夜、クリスはなかなか帰ってこなかった。

 ジェレミーの野郎とふたりで顔つきあわせて飯を食うのはきゅうくつなので、俺は勉強があるからと言って(こう言っておけば、やつが就寝時間ぎりぎりまでドアを開けないのは計算済みだ)、ピーナツバターとジャムのサンドイッチを作って部屋にこもった。残されたやつがなにをしてたかは知らないが、きっとお祈りでもしてたんだろう。

 しばらく静かだった司祭館に声がしたのは、十時を過ぎたころだった。

 俺はイヤホンをしてたし、キッチンのドアは開いていたから、リビングとそこと両方光が漏れていても、帰ってきたクリスが夜食でも作ろうとしてるんだろうと思った。俺もおこぼれにあずかろうとのぞいてみたら、クリスとジェレミーがふたりともそこにいた。

「……君はあのふたりになにを言ったんだ?」

 クリスの声は悪魔に説教する一歩手前みたいだった。俺がドアのところに立っているのに気づいてもいないのか、こっちを見ようともしない。

「なにをって……一体なんのことです?」

 ジェレミーは戸惑っている様子だ。やつは椅子に腰かけていて、テーブルの上には、どっちが淹れたのか、湯気の立つコーヒーカップがふたつあった。

「亡くなった子のご両親だ。私が今日出かけて行ったのは、彼らに呼ばれたからだよ。葬儀のときに神父さまに言われたことがどうしても気になって頭から離れなくて、と言われて。私の言ったどんなことが気になっているのか尋ねたら、私ではなくて、もうひとりのかたです、というんだ。この教会に神父は私ひとりなんだから、もうひとりの聖職者といえば君しかいないだろう」

「僕はなにか失礼なことを言った覚えはありませんが」ジェレミーも臨戦態勢に入った。

 やつに嘘がつけるとは思えないから、本当に心当たりがないのかもしれない。

「あなたがどうしてそんなふうにお怒りなのかもわかりません」

 俺にもサッパリわからない。

「怒っているんじゃない」

 どうみたって、気に食わないことをした子供に白状させようとしている親の態度そのものだったが、当人はそう言った。

「どうしてあの場であのとき彼らに、『主は真実なかたですから、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。あなたがたが耐えられると主はご存知です』なんて言ったんだ?」

「それがまちがいだというんですか?」

 ジェレミーの反論は、俺だったら「なに言ってんだお前」とでもいうような調子だった。

「だってそうでしょう、あの子が亡くなったのはたしかに悲劇ですが、交通事故でも、銃の乱射事件でも子供が亡くなることはあるし、そういったときでも、それを乗り越えてきた人たちを僕らは目にしているじゃありませんか」

「それはそうだ。君の言うように、そうした人たちがいるのは否定しない。でも、ほかに言いようはあったはずだ」

「はっきり言って、どこが問題なのか全然わかりません。なにがいけないんですか。僕の言いかたがまずかったんですか、だったら――」

「もっと私たちが弱いということを主がご存知だったなら、神様は、私たちの子を――私たちの紫苑シオンを連れていったりはなさらなかったんでしょうか、と聞かれたんだよ!」

 クリスの目は赤かった。

「……主がそんなことをなさるはずがない」ジェレミーの声のボリュームは少しダウンしたが、硬度はダイヤモンドにちょっとヒビが入ったか?くらいだった。「そんなふうに考えるのは……彼らが主を信頼していないためなのではありませんか」

「君はヨブの慰め手だ」

 悪魔祓いするときみたいな断固とした口調でクリスは言った。怒りのせいなのか顔から血の気が引いている。

 今までこいつにここまでハッキリと「ありがた迷惑なお節介野郎」って言ったことはなかったから、俺は心の中で拍手喝采した。

「僕だってこんなことを言いたくはないんですが」黙るどころか、ジェレミーのボルテージが上がった。

「あなたが学生たちと話している様子や、あの自堕落な女性に対する態度を見聞きする限りでは、あなたは聖書を自分に都合のいいように解釈して詭弁を弄しているようにしか思えません。あなたは僕のことをヨブの慰め手だと言われたが、それならヨブの忍耐のことだってもちろんご存知でしょう。主によるその結末も」

 俺はここでついていけなくなったが、クリスと張り合うジェレミーはすげえなと思ってもいた。

「私は『ヨブ記』は大嫌いだ」クリスは吐き捨てるみたいに言った。「あんな――」

 「あんな」なんなのか、クリスは口にしなかった。

「君だってなんとでもいえるだろう。神は裁かれるとも、主はあなたがたを裁かないともいえるし、苦しむ人は幸いであるとも、人がその来たように去っていくのは悲しむべき悪であるとも言えたはずだ。それなのに、よりにもよって、なにもあの……」

「相談されたのは僕ですし、僕だってあの人たちを傷つけたいと思って言ったわけじゃない。受け取りかたの問題でしょう。『コリントの信徒への手紙』が気に入らないなら、それこそあなたの好き嫌いの問題だ」

「私はそういうことを言いたいんじゃない。あのときどうして彼らと一緒に泣いてやれなかったんだ?!」

 俺にはクリスのほうが泣いているみたいに見えた。実際には涙なんて流していなかったけど。

「だって彼らはそんなそぶりは全然みせていなかったでしょう。善きキリスト者として、哀しみをおだやかに受け止めているように見えましたよ。それが日本人のやりかたなんだとしたら、僕にわかるはずがないでしょう!」

 ……そうだったのか。俺はちょっと恥ずかしくなった。

 頭がおかしいだなんて思ってごめんな。悲しいときに涙が出ないことは、俺にだってあったのに。

 ジェレミーの声はどんどんでかくなっていって、もうどっちが説教しているのかわからなくなってきた。

「死は主の大いなる采配の一部ではないんですか? あなたの態度はまるで、主のなさることにいちいち口答えしているみたいだ。地上での、俗世での苦しみにばかり目を向けて――きたるべき世界の存在をあなたは信じていないのですか?」

 クリスはなにかをこらえるみたいに深呼吸をひとつすると、ジェレミーの目をまっすぐ見て、これ以上ないくらいのハッキリした口調で、

「もし目の前の一個の苦しみを見ずに死後の救いを語るなら、そんな教会はクソ喰らえだ」

 これには俺もびっくりした。クリスの口からFワードそんな単語が飛び出したことなんて俺の知る限り一回もなかったし、汚い言葉をつかったって説教されるのはいつも俺のほうだったからだ。

 ショックのせいかジェレミーの握りしめたこぶしがこまかく震え、顔色も赤くなったり青くなったり忙しくなった。

「なんてことを……。とても、フランチェスキーニ司教が評価されていた人の言葉とは思えない! あなたがそんなふうだから、彼――ディーンにも悪い影響を及ぼしているのではありませんか?!」

 俺は関係ねえよ、と思ったが、割って入るタイミングがつかめなかったので黙っていた。

「主の言われたことや教会がまちがっているとでもいうんですか? あなたはなにを拠りどころにして神を信じているんですか?!」

 そのときクリスがみせたまなざしも、今まで見たことがないような冷たいものだった。なまじっか顔立ちが整ってるぶん、冷酷な仮面でもかぶったみたいに見える。

「――戻った者は違った歩みかたをする。どうして出ていくのかわからない者には、どうして戻ってくるのかも理解できない」

 それだけ言うと、クリスは大股でキッチンを出て俺の前を素通りし――やっぱりこっちを見なかった――そのまま司祭館を出ていった。

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