La Maledetta

3-1

「なにを読んでいるの、ミスター・ノーラン?」

 まだ日の残る十九時にオープンカフェで本を読んでいたら、そう声をかけられた。

 表紙を掲げてみせると、相手は器用に目をくるりと回してみせた。まるで「気でも狂ったの?」といわんばかりに。

「あなたには『Il Principe君主論』ぐらいがお似合いよ」

「あいにくあれはバチカンの鍵のかかる棚の中にある」

「今はペーパーバックも出ているわ」

 女は断ることなく籐椅子を引いて同じテーブルに座り、白のグラスワインを注文した。

 その態度といい、コルセットでも着けているのではないかという肢体を、ぴったりしたオーダーメイドのパンツスーツに包んでいる様子は、ヴィクトリア朝時代人ヴィクトリアンなら憤慨に耐えないだろう。

「それで、わたしがここへきた理由わけなんだけれど、」

「その前に」と私は言った。「そちらの名前を教えてもらおうか」

「なんの意味があって?」

「名無しじゃ、呼ぶときに困るだろう。こちらは名前を知られているのに、私はそちらのことをなにも知らないというのは不公平だ」

「あなたがベッドの中で女の名前を呼ぶは、とっくの昔になくなったと思っていたけれど」

 いちいちカンさわる女だ。

「私も魔女と寝るつもりはない」

「残念だわ」

 一インチたりともそう聞こえない。

「まあいいわ、わたしはリベカと呼ばれている」

 「束縛」? ぞっとしない名だ。

 彼女と私のどちらにしても、名はなんの意味ももたない。

「話というのは?」

「聖ステファン教会のマクファーソン神父をご存知?」

「ああ」

「彼が持っているものをとりかえしてきていただきたいの」

「持っているものとは?」

 ここでウェイターが注文の品を運んできて、魔女は冷えたグラスの半分を水のようにあおった。

「血のついたハンカチ――だとレジーナは言っているわ」

「誰の」

「かわいそうなレジーナのに決まっているじゃないの」

 彼女は顔の上半分で同情を、下半分で嘲笑をつくるという妙技を披露した。

「ほんとにひどい話! レジーナはあの男に指一本ふれていないのに、あの男は人狼なんかけしかけて、かよわいレジーナを押し倒して、嫌がる彼女から血をったのよ! 神父の風上にも置けないわ!」

「それはそれは」

 ではあの坊やはおのれの職責をまっとうしたというわけだ。そこまでは聞いていたが、魔女から血をっていたとは。

 まぬけな魔女だ。私は微笑みが表に出ないよう装った。

「あの男に関することを彼女からあなたには頼めないし。だからわたしがカヴンを代表して来たのよ」グラスの残り半分をひと息で飲み干す。「ああ――なんてかわいそうなレジーナ! 毎日泣いているわ」

 毎日悪態をついているのまちがいだろう。

「認めたくはないけれど、彼女が身勝手な行動をとって失敗したのは、カヴン全体の恥でもあるし」

 おそらくその、レジーナというメンバーにも相当苛立っているにちがいない。十三人のうちひとりでも力が欠けてはまずい事情でもあるのだろう。

「それほど重要なことなら、私ごとき部外者の手を借りることはないだろう。どうして自分たちでやらないのかね」

「あのクソいまいましい教会には夢魔よけと魔女よけがされているから、うかつに近づけないのよ」

「マクファーソン神父は修道士じゃない。教会の外に出てくる機会だっていくらでもあるだろう」

「あの男の洗礼名を知っているでしょ」

「知っているよ。私もあの場にいたからね」

 見かけ上の七倍は生きているのではないかと思われる魔女は、一瞬、彼女の主の敵対者に協力した私をにらみつけたが、その様子は、女子大生が気に入らないナンパ男を見る目つきと一緒だった。

「聖アントニウスだったらわたしたちでやれるでしょうね。だけどあの男は聖フランシスコみたいなやつだし――」

 なるほど、狼を飼い馴らしているからか。

 私は心の中でマクファーソン神父に賞賛を送った。

「だから、あの教会に自由に出入りできて、そのうえ神父に近づけるのはあなただけ。――まったく、一体どうやったのか知らないけれど、あなたをふつうの人間だと信じているなら、エクソシストだっていうのに相当おめでたいのね」

 やはり彼女は見かけどおりの年齢ではない。もしそうだったとしたら「相当おめでたい」ではなく「アタマがイカれてる」と言うだろうから。私の好きな表現ではないが。

「しかし、だとしたらそれを私に頼むのはそれこそ筋違いというものだよ。彼は私の聴罪神父なんだ」

 とりすました魔女の顔が驚きと嫌悪にゆがむのを見るのはいいものだ。リベカは上品なピンクのルージュ――グラスに口をつけても落ちないタイプだ――を塗った唇から、涜神的な言葉を吐き出したが、そのうちのいくつかは私の知らない言語だった。

「――信じられないGoddamn you」最後の言葉はそれだった。魔女が神に願うとは。

「それもらっても?」私が注文した――口をつけられることなく放置された赤ワインのグラスを指して言う。

「どうぞ」

 礼も言わずに一気飲みする。

が変わり者なのは聞いていたけれど、そこまで変態だとは知らなかったわ。てっきり、せいぜいが、ちょっぴり毛色の変わった獲物を狙っているのだろうくらいに思っていたのだけれど……」

「お誉めにあずかり光栄だね」

 私は読みさしの『The Pilgrim’s天路歴程 Progress』をひらいた。

「さ、これで話はすんだだろう」

 大体なんだって私生活プライベートを魔女に邪魔されなければならないのだ。こちらにはなんの益もないというのに。

 だが相手は引き下がらなかった。

「代わりにあなたの知りたがっている情報を提供すると言ったら?」

「株価予測と先物取引の情報なららないよ」私は文章を目で追いながら言った。「私はデイトレーダーじゃないんでね」

「あなたが死んだと思っている相手のことよ」

「私が殺した人間はたくさんいるが、彼らは確実に死んでいる。今のところ復讐にこられたこともないしな」

 魔女と駆け引きをするのは、スパーリングを越えて、ノーガードで殴り合うのに等しい。下手な沈黙は即座にKOをとられる。

「あなたのご先祖のかたきのことだけれど」

 相手はネズミをいたぶる猫のような笑みをうかべている。

「そちらに心配してもらうにはおよばないよ」

 私はつとめて平静な声で言った。もっとも、吸血鬼は決して驚いたりしないことになっているのだが――心臓が止まっているから。

「彼――だか彼女だか知らないが、そいつは不死者ではなかったはずだ」

「ええ、そうね。不死者の世界は狭いんですもの。いくらあなたが一匹狼を気取っていても、六百年近く嗅ぎまわっていたら、お目当ての相手の尻尾くらいはつかめなきゃおかしくなくて? どうやら今回も無駄足だったみたいですし」

「たまには旧交を温める必要があるというだけだ」

「なにを温めるっていうの? セックスレスの夫婦より冷え切っているっていうのに!」

 リベカは耳ざわりな笑い声をあげたが、周囲の客はスマートフォンに意識を奪われていて、こちらに目を向けるものはいなかった。現代の魔法だ。

「君らがなにをどこまで知っているのかは知らんが、私の同業者が口に土を詰められているのでない以上、こちらの事情が知られていないとは思っていない。つまりそちらはなんとでもいえるわけだ」

「それはあなたが類友だカラスと一緒に座っているからでしょ」

 目の前の思わせぶりな女の態度に次第に胸がむかついてきた。

「つきあう相手は自分で選ぶ。大体、私はだいぶ前に、売春宿ルーペイナからは足を洗ったんだ」

「あら残念ね」

 さっきよりは真実味を帯びて聞こえた。自分のことだと思わなかったのかもしれない。

 それとも、こちらが絶対に乗ってくると確信しているのか。

「ねえ、悪いことはいわないからちょっと考えてみなさいな。どうしてわたしがあの男の洗礼名まで知っているのか」

 確実に地獄がバックについているということか。

「……そちらの主人は私に対しても腹を立てているのではないかと思っていたんだが」

「わたしたちののトップはどこかの誰かさんとは違って寛大ですもの。変わり者の吸血鬼ひとりのことなんか気になさらないわ」

「それは有難いね」本を閉じる。

「……少し時間がかかってもいいなら」

「そう言うと思っていたわ」 

 蠱惑的な笑みだった――深い落とし穴のような。


 リベカはワイン二杯を私のにして姿を消した。あえて契約書は取り交わさなかったが――この手の不道徳な取引は同時履行が原則であることを向こうも承知しているのか、あるいは血で署名するような真似をしたくなかったのだろう。

「そうそう、ひとつ教えておいてあげましょうか」

 去りぎわ、もったいぶって彼女は言った。

「新しい神父が来ていたわよ、あなたの大事な教会に」

 そんな話はあの小僧からは――いや、マクファーソン神父からも聞いていないぞ。

「どんなやつだ?」

「まだ若い坊やよ。なんて言ったらいいか――自分の目で見たほうが早いわ、百聞は一見に如かずひとりの目撃者は十の伝聞証拠にまさるっていうでしょう」

 まだ若い坊や、ね。

 今日び、新世界で、カトリックの司祭になろうという若者はめずらしい。

 ウェイターが伝票を持ってくるのを待つあいだ、私はちょっと考えた。

 さて、どうやって連絡をとったものかな――私は電話番号を知らないのだ。おまけに、男だというだけで嫌われているし……。

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