九 目覚め
1
蒸し暑い、と思った。
じっとりと汗ばんだ襦袢に不快感を覚えつつ、朱華の意識は覚醒した。目線だけをきょろきょろと動かして、今自分が置かれている状況を確かめる。
(……此処は……)
見慣れぬ天井。体にかかる布団の感触。そして全身を覆う倦怠感。頭は重く、じんわりとした痛みに包まれている。
──自分はまだ、生きている。朱華はそれを実感した。
あの時──美代と対峙した際、最後に覚えた感触。てっきり首でも落とされたかと錯覚しかけた朱華だったが、あれは武器も何も使わぬ手刀であったらしい。
こめかみを押さえながら、朱華は上半身を起こす。どうやら此処は縁側に面した部屋らしい。外からはけたたましく蝉の声が聞こえてくる。
景色を見る限り、此処は近永家で間違いないようだ。朱華が泊まった部屋ではなさそうだが、よくよく見てみると見覚えのある風景である。
(とにもかくにも、僕は生きて戻って来られた訳だな)
襦袢の下で巻き付けられた包帯を見下ろしつつ、朱華はほっと胸を撫で下ろす。死んでしまっては元も子もない。詰まるところ、命があれば大体どうにかなるものだ。
──と、そのようなことを考えていると、規則正しい足音が耳に入った。音の具合からして一人だろう。
「──ああ、気が付いたのか」
「──和比古君」
ふん、と鼻を鳴らして入ってきたのは、額に包帯を巻いた富ノ森和比古だった。手には手拭いと盆を持っている。
彼はずかずかと歩くと、朱華のいる布団の前で腰を下ろした。相変わらずむすっとした表情だが、以前よりは柔和なように見える。
「和比古君、その怪我は一体」
「……ちっ。夜道を走らされたものだからな。少し転んだだけだ。気にするな」
「……本当に?」
「ええい、今はお前の方が重傷だろう。俺は満足に動けるんだ、いちいち詮索するな」
どうやら普通に転んだ訳ではないようだが、和比古の機嫌がさらに悪くなりそうなので深追いはしないでおいた。後で他の者にこっそり聞いてみよう、と思った朱華であった。
「うん、わかったよ。──それで、事の次第はどうなっている?」
何よりも、まず掴んでおかねばならないのは現在の状況だ。朱華は身を乗り出して和比古に問いかける。
熾野宮邸にいた時は、目の前のことに必死で後先など考えてはいられなかった。しかし、よくよく考えてみれば人が三人死んでいるのだ。しかも、この千世ヶ辻へ一同を誘った真幌に関しては、朱華が介錯をしている。近永家の者たちに責め立てられても文句は言えない。
和比古は朱華の内心を何となく理解したらしい。溜め息を吐いてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「まず、今回の一件は白木院真幌の判断で行われたものだと認識されている。千世ヶ辻に縁のある者は彼奴だけだったからな。説明する間もなく、彼奴の叔父から見抜かれたよ」
「松之助殿──だったか。彼は、何と」
「特にこれといったことは言っていなかったが、それなりに落ち込んでいるようだったよ。白木院に千世ヶ辻の話をしたのはあの方らしいからな。責任でも感じているのだろう」
その必要はないのにな、と和比古は投げやりに言った。
「だから、お前や俺が咎められることはなさそうだ。俺たちは単に巻き込まれただけで、千世ヶ辻とは何の関係もないと判断されたらしい。飲み込みが早くて助かったよ」
「……では、その──此処にいない者たちのことは」
「ああ、山歩きをしていたら山賊に襲われて、熾野宮邸まで逃げたが何人か犠牲となった──ということにしておいたよ。まさか俺たちが彼奴らを殺すとは思うまい。彼方から考えれば、俺たちには動機がない。それに、見知らぬ地で好き勝手に動ける可能性は低いと思われたようだ」
「……彼らの行方は、どうなった」
「昨日から捜索が始まったよ。ただ、千世ヶ辻にはまだ呪いとやらを信じる者が大勢いる。初日はお祓いだの何だので、結局捜索などまともに出来なかったようだな。俺は参加していないのでよくわからないが」
恐らく、白木院主従と平太の遺体はまだ見付けられていないのだろう。朱華としては複雑な心情である。
しかし、まだ疑問は解消していない。
「して──何故僕は此処に? 村の方々が見付けてくれたのかい?」
「何だ、お前、覚えていないのか? 一昨日──俺が熾野宮邸から脱出した次の日、というか明け方の頃だがな。麓を歩いていた村人がぼろぼろのお前を見付けて、村は大騒ぎになったんだよ。俺も怪我をしていたし、初めはお前も死んだものと思われていたからな。すぐに村の医者を呼んで、手当てが行われたよ。隣の村からも人手が呼ばれたという話だ。俺はてっきり、自力で下山してきたと思ったのだが──違ったのか?」
「……なるほど。そういうことだったのか」
朱華は顎に手を遣り、うんうんと何度かうなずいて納得する。
朱華は決して小柄ではない。肉付きはそこそこ良い方だと思う。そんな大の男、しかも気を失っている者を運べる手合いは余程の膂力の持ち主なのだろうが──深く考えるのはやめておこう。膨れた少女にまた勝負を挑まれるかもしれない。
何はともあれ、朱華は無事に此処まで来ることが出来た。ありがたいことである。
「──それよりも、だ。俺はお前に問いたいことが山程あるんだが」
気付けば、和比古がじっとりと此方を白眼視していた。
彼からしてみれば、謎だらけのまま命からがら下山した身なのだ。朱華に問い質したいことは決して少なくないのだろう。
こほん、と朱華は気を取り直すように咳払いする。出来る限り真実を話してやりたいが、隠すべき部分は隠しておかなければ。
「……まずは、そうだね──どの辺りから話そうか」
「お前が見てきたことだ。俺が催促してどうする」
「……そうだね。それもそうだ」
上手く説明出来る気はしなかったが、下手に先延ばしにするよりかはましだ。朱華は順を追って話すことにする。
「まず、真幌君を傷付けたのはやはり平太君だったよ。僕にはよくわからないが、どうやら彼は呪いの根元──武家の墓に納められた副葬品を狙っていたらしい。それで、救世主だ何だと騒ぎ立てる真幌君を排除しようとしたようだ」
「……平太は、その後」
「それが……何とかしたかったんだが、間に合わなかった。美代──平太君を介抱した女の子が現れて、彼の首を一刀の下に落とした。……恐らく、雪乃丞君のことを殺めたのも彼女だ」
「あの女が……」
和比古はまだ美代に対する恐怖が拭いきれていないらしい。この蒸し暑さだというのに、ぶるりと震えて二の腕を擦った。
朱華は細く息を吐いてから、訥々と話す。
「あの子は、自らのことを墓守だと言った。墓を荒らす者に制裁を与える者なのだと。平太君は前述の通り、そして雪乃丞君は──これは僕の憶測なのだけれど、真幌君が太刀を探していたことを受けて副葬品の中から太刀を取り出そうとしたのかもしれない。結果的に、二人は墓荒らしと見なされて制裁されてしまった。僕は平太君のことしか知らないが、それは見事な斬首だった」
「墓守──だと?」
「きっと彼女がそう名乗っているだけで、誰かからそうあれかしと望まれている訳ではないのだろうよ。とにもかくにも、彼女はこの地に立ち入った責任を僕に求めてきた。其処には僕しかいなかった訳だからね。それで勝負をしたという訳さ。幸い此方も武器は持っていたし、完全に丸腰という訳ではなかった。……まあ、敗けてしまった訳だけれど」
朱華は眉尻を下げて苦笑する。
「しかし、彼女は僕のことを殺す程の人間だとは見なさなかったようだ。僕を気絶させただけだったようでね、どういった訳かわからないけど僕は麓まで連れてこられた。あの子の中の基準は到底わからないが、一先ず彼女は満足したと見て良さそうだよ」
「そ──うか。し、しかし、では何故あの女は俺に干渉してきたのだろう。お前の話を聞く限り、あの女は俺のことを殺しても可笑しくはなかったのに」
「その辺りは僕の解釈になってしまうが──恐らく、君は最も千世ヶ辻から──この地から遠い人間だった。過去の遺産にも興味はなく、ただ巻き込まれて連れてこられただけだと思われたのだろう。あの子は、君を己が制裁の対象とはしなかったのではないかな。むしろ君に降りかかる災難を最小限に止めようとしたようにも思えるよ」
「それにしては、随分と手荒だったがな」
口では気丈な風を装ってはいるものの、平太の死に際してか和比古は以前よりも意気消沈しているように見えた。有り体に言えば、覇気がなかったのである。
致し方のないことだ、と朱華は思う。身近な人が殺されるなどという事態を、和比古はこれまで体験したことがなかったのだろう。衝撃を受けるのは当たり前だ。
和比古は暫しの間眉間を揉んでいた。やがて顔を上げて、掠れた声で朱華に問いかける。
「……あの女は、結局何者だったのだ。あの地に住み着く妖怪変化が、人の姿を取ったものなのだろうか」
「それは──」
それは、朱華にもわからないことだ。美代は自分が何者であるかを明らかにはしなかった。それほど親密になれた訳でもなく、むしろ斬り合った間柄なのだから当然と言えば当然だろう。
それゆえに、朱華は憶測でしか美代を語ることが出来ない。
朱華は少し思案してから、言葉を選びつつ答える。
「──彼女は、
「棺……?」
和比古は訝しげに眉根を寄せる。朱華はうん、と小さくうなずいて続けた。
「あくまでも僕の憶測だけどね。彼女は僕に向けて、自分は戦うためのものではないと口にした。ついでに言うと、彼女はかつて存在した社に纏わる存在でもなさそうだ。これは僕が独自に入手した情報だが、例の社は随分と前に熾野宮の人々によって焼き払われている。もし彼女が社に纏わる存在であるならば、まともに存在を確立出来る可能性の方が低い」
「だが……何故、棺なのだ? たしかに彼処は墓があったという話だったが……」
「もともと、彼女は棺の形をとってはいなかったのかもしれない。僕はその道に特別詳しいという訳ではないんだが、百年を超えた樹木には精霊が宿るという話もある。所謂、
古来より樹木信仰というものはこの国だけに留まらず、世界各地で存在していたという話を朱華は聞いたことがある。知り合いにそういった事柄に詳しい者がいるのだ。
百年の月日を経たモノは、たとえ物言わぬ存在であっても魂──精霊が宿るという。樹木とて例外ではない、ということであろう。
実際に、木霊には自在に姿を変えて人間の前に現れたともいう。人間に恋をした木霊が人の姿となって現れた話がある辺り、美代もそういった存在と見なしても悪くはなさそうだ。
「しかし、ただの木霊のままではわざわざ墓守などとは名乗るまい。それなら、山の精霊のひとつとして存在すれば良いだけだし、何より武器は何処から調達してくるんだ、という話になってしまうからね。故に、彼女は件の武家の人間が死した後に納められた棺に加工されたのではないかと僕は考えている。もとから人の姿を取れていたのなら、自身を加工して棺にせよと助言することは不可能ではないし、場合によっては夢告げでもすれば良いからね。己が体である樹木を棺にすることはそう難しいことではなかった」
「……しかし、棺になったところで武器を調達することなど出来るのか? 地中に埋められては、それこそ墓荒らしでも来ない限り外には出られなさそうだが」
「その辺りは憶測に頼るしかないのだがね。樹木の全てを用いて棺が作られたのではなかったのかもしれない。分霊、というやつだね。棺作りに使われた樹木の一部が外にあるのだとしたら、彼女は地中にしかいられないという訳ではないのかもしれない」
あくまでも憶測だよ、と朱華は再三念を押す。実際のところは美代が語らねば誰も知ることはあるまい。
「彼女が手にしていた武器は、恐らく棺の中に納められた副葬品だ。武家の人間だったのだから、刀剣や弓を入れていても可笑しくはないだろう。実際、霊廟に武具を奉納する例なら少なくはないし珍しくもない。あの子が棺本体だというのなら、己が中のものを持ち出すことは難しくなかったのだろうね。太刀も弓も、きっともとは彼女が守る者の所有物だった」
「……なるほどな。突飛な話だが、わからなくはない。つまり、あの女は棺──その大元となった木霊とやらで、墓荒らしと見なした人間を粛清し続けていた。平太と白木院の従者──雪乃丞とかいう奴は、彼奴に墓荒らしと見なされて斬られたという訳だな」
「恐らくはね。きっとあの子は、守りたいだけなのだろう。どうやら君が下山して来てから数日が経っているようだが、あの子が追ってくる気配はない。彼女が守る地を荒らさなければ、此方に対して不必要な干渉はしない主義なのかもしれないね」
僕が話せるのはこのくらいかな、と朱華は切り上げた。これ以上憶測で物を語るのは無粋である。
和比古はしばらくの間、顎に手を遣って考え込んでいる様子だった。美代の存在にはまだ疑問を覚えているのだろう。それは朱華とて同じことだ。
美代が何者なのかを、朱華は知らない。何も知らないままに熾野宮邸を去った。ただ人ならざるモノだということしか、朱華にも、熾野宮澄だった男にもわからない。あれは多くを語らなかったのだ。余所者には、わざわざ己が素性を晒すまでもないということだろうか。
二人はすっかり押し黙ってしまった。お互いに思案のうちに耽ってしまったのだろう。邪魔する者がいないだけ幸い、といったところである。
「──あら、お目覚めになられたようですね。ええと──斯波様、とおっしゃったかしら。体調の方は如何です?」
此処で、落ち着いた女性の声が朱華の耳に滑り込んできた。
朱華、和比古共に慌てて居ずまいを正すと、声の主はあらあら、と困ったように笑った。その顔立ちと声には覚えがある。
「よしゑ殿にございますね。はい、おかげさまで、和比古君と話せる程に回復致しました」
「ふふ、それは良かったです。私も安心しましたわ」
やって来たのは真幌の叔母であり、近永松之助の妻であるよしゑだった。着物の袖で口元を隠して、淑やかに微笑んでいる。
朱華──もとい、熾野宮澄にとっては嫁いできた娘の姉ということになる。立場は違えど、自然と言動が畏まってしまう。
そんな朱華の内心をよしゑが知るはずもなく、彼女はついと和比古の方へ視線を遣った。
「あなたがお目覚めになるまで、富ノ森様が熱心にお世話をしてくれていたのですよ。さすがに医術に関しては素人であらせられますから、汗を拭いたり手拭いを額に当てるくらいではありましたが──そうですね、富ノ森様?」
「…………っ、おっしゃる通りです…………」
「おやおや」
「お前……!」
楽しそうに微笑むよしゑには、和比古も強くは出られないらしい。やっとのことで絞り出した声で、悔しげに肯定の意を示していた。
朱華としては、面白いものを見た気分である。少し揶揄ってやろうかとも思ったが、後で拗ねられても困るのでやめておいた。案の定、当の和比古からはばっちり睨まれてしまったが。
「……して、奥方。一体どのようなご用件で此方に? わざわざあなたが出向いたとなれば、何か伝えたいことがあったのでは」
ごほん、とわざとらしく咳払いをしてから、和比古は話の筋を切り替えた。今の空気は彼にとって面白くはなかろう。
よしゑは用件を思い出したらしく、ああ、そうでした、と呟いた。そして、朱華と和比古を改めて見据える。
「──三人の体が、見付かったと。先程、そう報告が入りました」
「……!」
「彼奴らの……」
三人、というのは真幌、雪乃丞、平太のことだろう。あれから遺体を置きっぱなしにしてしまったが、無事に見付かったらしい。勿論、朱華としては喜べるものではなかった。
しかし、行方不明でいられるよりはずっと良い。朱華はともかく、彼らに縁のある者なら尚更だ。
よしゑは表情を曇らせながら続ける。
「三人の体は、あなたと──朱華様と同じように、麓の辺りに転がっていました。どれも首がありませんでしたが、一目で此処にいない者たちだとわかりました。……まだ決定的に身元がわかったという訳ではありませんから、あくまでも直感に過ぎませんが」
「首は──見付からなかったのですか」
「村の者たちが熾野宮邸をくまなく探したようですが……今のところ、見付かってはいないようです。あの三人に何があったのかはわかりませんが、恐らくこの地に根付いた呪いに触れてしまったのでしょう。過去にも、同じようなことがあったと聞いていますから」
「……呪い、か」
それはたった一人の少女──の姿をしたモノの複雑な感情だ、とは口が裂けても言えない。朱華はぐっと唇を噛んでうつむいた。
そんな彼を見て、落ち込んでいると考えたのだろうか。よしゑは無理矢理に張り付けたようなぎこちない笑顔で、「でも」と続けた。
「たしかに犠牲者が出てしまったことは事実ですが、あなた方二人が生きて戻ってきてくださったこともまた事実。何もかもを悲しむべきという訳ではありません。一人でも多くの者が助かったというのなら、それは喜ぶべきことだと私は思いますわ」
「……ありがとうございます。──して、よしゑ殿。ひとつお聞きしたいことがあるのですが……よろしいでしょうか」
「……? ええ、何でしょう」
これ以上よしゑに無理をさせるのも酷だ。朱華は話を切り替えるついでに、あることを彼女から聞き出そうと考えた。
場合によっては、彼女の心の傷をさらに抉ってしまうかもしれない。そんな危惧はあったが、背に腹は代えられなかった。どうしても、朱華には知っておかなければならないことがあった。
「つかぬことをお聞きしますが……近永家からは、熾野宮に嫁いだ娘がいたと聞いています。彼女は命からがら熾野宮邸から逃げ戻ってきたとのことでしたが──彼女は、それからどうしているのですか」
「お前、何だってそんなことを──」
「他意はないよ。ただ、熾野宮に関わってしまった以上気にせずにはいられなかったんだ。彼女もまた、熾野宮からの生還者だからね」
和比古には咎められそうになったが、朱華はすぐに彼の詰問を遮った。朱華が怪我人ということもあってか、和比古は何も言い返せなくなったようだった。
よしゑは、まあ、と一度口元に手を遣った。まさかこのように問いかけられるとは考えていなかったらしい。
暫し押し黙ってから──よしゑは、恐々とした様子で口を開いた。
「志づ枝は──熾野宮に嫁いだ娘は、無事に彼処から戻ってはきたのですが……。あれからずっと、臥せりがちになってしまいました。余程凄惨なものを見てしまったのでしょう。あの子は部屋からまともに出られなくなってしまい、食事もまともに摂らず……一年もしないうちに、風邪を拗らせて死んでしまいました」
「……そう、なのですか」
「もともと、おとなしい子ではあったのです。ですが、あれだけ憔悴することはなかったと思います。きっと、それだけ衝撃的な事態に遭遇してしまったのでしょう。死人に口なしと言いますから、あの子がいなくなってから彼是と言うのは無粋でございますが……」
そう言って、よしゑはそっと目を伏せた。やはり妹の死というものは、年月を経ても堪えるものらしい。
あの娘はもういない。自由に生きて欲しいとの一心で逃がしたあの娘は、憔悴したまま死んでしまった。
朱華はしばらく自らの手元を見下ろすしかなかった。言い様もない虚無感が、彼の心を埋め尽くした。
(……それでも、聞くだけのことは聞かなければ)
ぐ、と朱華は掛け布団を握る。今は虚無に押し潰されている場合ではない。
「よしゑ殿、話ががらりと変わってしまって申し訳ないのですが……。僕の着ていた衣服や持ち物は、今何処に」
「──ああ、そう、そうですね。私としたことが、すっかりぼうっとしておりました。ごめんなさいね」
朱華が話の筋を切り替えたことにより、よしゑも調子を取り戻したようだ。慌てた様子で謝罪をしてから、彼女は返答する。
「汚れが酷かったものは、申し訳ないけれど処分させていただきました。血痕のついた着物というのもどうかと思いますからね。その他のものは洗うなりして此方で管理していますよ」
「そうですか、それはありがたい。ところで、僕は着物の懐に一冊本を入れていたのですが……そちらは、どうなさいました?」
「ああ、あの破損してしまったものですね? あれはあなたの私物ですし、捨てずに取り置いてありますよ。少し血が付いてしまっていましたが──」
「構いません。あれは僕にとって、とても大切なものなのです。取っておいてくださってありがとうございました」
朱華は丁重に頭を下げる。
あの和装本は本としての形を保ってはいない。切り刻まれてしまった部分もある。傍目から見れば、ごみ同然の出で立ちなのだ。
それを残してくれていたのなら、それは紛れもなく温情によるものだろう。感謝してもしきれなかった。
「……おい、そろそろ良いか」
此処で、ずっと黙っていた和比古が口を挟む。おいてけぼりにされて、気分を損ねてしまったようだ。
「ああ、すまないね。何だい、和比古君」
「ふん、呑気なものだ……。──斯波朱華、今後のお前に関しての話をさせてもらおう。本来なら、こういった話を推し進めるつもりだったのだがな。誰かさんが脱線したせいで先延ばしになってしまった」
「はいはい、悪かったよ」
ぶすっとした顔で嫌味を言ってくる和比古だが、出会った当初程の悪印象はない。これも慣れのひとつだろうか。
眉尻を下げて苦笑するよしゑを見て姿勢を正してから、和比古はやけに改まった様子で切り出した。
「斯波朱華。お前には、動けるようになり次第千世ヶ辻を出てもらう。これは近永殿や奥方、お前を診てやった医者と話し合って決めたことだ」
「言いたいことは何となくわかるが……それはあまりにも早急過ぎやしないかい? たしかに、思っていたよりも調子は良いけれど」
和比古からの唐突な指示に、朱華は訝しげな表情で尋ねる。
たしかに、袈裟懸けに斬られたにしては朱華の容態は安定している。当たりどころが良かったのか、それとも美代が加減をしてくれていたのか。はっきりとわかることではないが、考えていたよりも治りが良いのは紛れもない真実だ。あと数日もすれば、自由に歩き回れるようにもなるだろう。
しかし、だからと言ってこれほどすぐに退去を命じることがあるだろうか。山では三人もの──しかも上流階級の──人が死んでいる。こうも早くに身柄を解放するような真似をして良いのだろうか、とさえ朱華は思う。
そんな朱華の疑問を汲み取ったのか、よしゑが微笑みながら接ぎ木するように口を挟んだ。
「だからこそ、ですよ。千世ヶ辻は小さな村です。うちは割合裕福な方ですが、それでも都会には及ばない。ですから、斯波様には動けるようになり次第、富ノ森様の懇意にしている名医のもとへ足を運んでいただきたいのです。富ノ森様からの紹介状があれば、すぐに診ていただけることでしょう」
「し、しかし──気持ちはありがたいが、人が死んでいる状況でそれは──」
「何を今更遠慮しているのだ、斯波朱華。お前は他人の心遣いを少しは理解しろ。白木院と交流のあった俺はともかく、お前は完全な部外者──しかも場しのぎの人数合わせのようにして連れてこられた人間だ。早いところ千世ヶ辻から出ていった方が都合もつくだろう。お前は初日に山で転がり落ちて、怪我をした故一人早々に帰されたことにでもすれば良い」
「山道で転がり落ちたのは、先日の富ノ森様ではありませんか」
くすくす微笑みながら、よしゑが横槍を入れてくる。さすがの和比古も彼女には反論出来ないようだった。
和比古が転落したことはともかく、これは彼からの心遣いだろうと朱華は理解した。部外者である朱華を、これ以上千世ヶ辻での騒動に巻き込ませまいとしているのだろう。実際は誰よりも千世ヶ辻に縁のある朱華だが、この厚意は受け取っておかねばなるまい。
朱華はにっこりと微笑む。穏やかで朗らかな、斯波朱華の顔だった。
「ありがとう、和比古君。君の心遣いに感謝するよ。体調が回復し次第、出立の準備を行おう」
「そうしてくれ。いつまでも居座られては困るからな」
「本当に意地っ張りだね、君は」
ふん、と鼻で笑ってから、和比古は立ち上がって退室した。置いていった手拭いと盆は、朱華の身体を拭くためのものだったのだろう。
まったく素直じゃない、と呟くと、残っていたよしゑがふふふと笑った。彼女も、和比古のああいった様子には慣れているようだ。それとも大人の余裕というものか。
「それでは、私もこの辺りで。お腹が空いているのなら、すぐにお食事を持ってこさせましょう。他に手伝って欲しいことがございましたら、遠慮なくお申し付けくださいね」
「ありがとうございます、よしゑ殿。ではお言葉に甘えさせていただくとしましょう。軽いもので構いませんので、食事をお願い出来ませんか」
「ふふ、かしこまりましたわ。すぐに使用人に頼んで、お部屋まで運ばせますね」
微笑みながら退室しようとしたよしゑだったが、「ああ、そうそう」と付け加えた。
「此処だけの話なんですがね、あなたのお怪我が浅かったのは、胸元に本を入れていたからかもしれない──と、診てくださった先生がおっしゃっておられましたよ」
「本──が」
「偶然の産物なのでしょうけれど、奇跡のようにも感じますわね。とにもかくにも、あなたが無事で本当に良かった」
それでは失礼しますね、と言って、今度こそよしゑは部屋から出ていった。
誰もいなくなった部屋の天井を、朱華はおもむろに見上げる。そして、ふっと口元を綻ばせた。
「──申し訳ないが、命の恩人を手放すのは惜しい。僕が死ぬまで、返せそうもないな」
蝉の鳴き声が耳を擽る。
斯波朱華は、もうこの世より去ってしまったかつての恩人に向けて、人知れず手を合わせた。
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