八 剣戟

1

「──そうだ、あの日も」


 こんな夜だった。

 朱華の溢した言葉は夜闇に溶けた。最後まで紡ぐことが出来なかったのだ。


「ええ、そうね。あの時も、あなたは月明かりに照らされていた。血まみれでね」


 今は立場が逆だけど、と美代は目を細める。

 熾野宮澄として生きてきた十九年間を忘却出来る程、朱華の頭は都合良く出来ていない。かつて自分が何を起こしたのか、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 使用人を殺した。父親を殺した。そして、熾野宮澄としての己を殺した。それは曲げようもない事実である。

 故に、朱華は何も言えない。言える言葉が見つけられない。彼はただ黙って、美代を睨むだけだ。


「だからね、私はてっきり、あなたは過去の再演でもしようとしているんじゃないかと思っていたの。だって、五年ぶりの再会になるのよ? 誰だって、意図的にこの地へ戻ってきたって思うはずだわ。私だってそうだった」


 違ったけどね、と美代は笑う。


「あなたはただ巻き込まれただけだった。熾野宮に対する未練なんて何もないって様子で、置かれた状況に戸惑うだけだった。──だから私は吃驚びっくりしたの。本当に、これは偶然の巡り合わせなんだって」

「……僕が嘘を吐いているとは考えなかったのかい?」

「ふふ、まともに関わりこそしてこなかったけれど、私はあなたのことを十九年も観察してきたのよ? 嘘を吐いているかいないかなんて、すぐにわかるわ。あなたは真っ当な人間になったつもりでいるのでしょうけれど、根本的なところはあまり変わっていないもの。──ああ、勘違いしないでちょうだい。中身が昔と全く変わらない人間だと言うつもりはないわ。癖や仕草がまだ染み付いているというだけよ」


 懐かしそうに、在りし日の思い出を噛み締めるように。美代は、懐古の念に満ちた表情を浮かべる。

 美代がいつからこの地に存在しているのかなど、朱華には知るよしもない。ただ、人間でない以上、途方もない時間を生きているというのは確かである。

──先程人を殺したというのに、こうも微笑みを浮かべられるものなのか。

 ぐ、と朱華は手にした太刀を握りしめる。今の美代から戦意を感じられないことが、むしろ不気味でもあった。


「──朱華」


 声がかけられる。朱華は思わず身構えた。


「あなたが熾野宮に対して未練を残している訳ではなく、熾野宮の物品を持ち出そうとしている訳でもないことはわかっていたわ。そうでなければ、あなたにあのような忠告はしなかった」

「……僕を害するつもりはないということかい?」

「ええ、あなたに対する憎しみや敵意はない。あなたは熾野宮を滅ぼした。恨む道理はないに等しい」


 でもね、と美代は付け加える。


「私は墓守。この地を守る者。この地を乱した者には制裁を加えねばならない。──本来ならばあなたたちを此処まで誘った者──救世主になろうとしていた男の子に責任を取らせるべきなのでしょうけれど、あの子はあなたが介錯してしまった。太刀を求めた従者の責任も、もう彼は取れない。それに、この不届き者の主人もあなたが先に逃がしてしまった」

「──では、僕が責任を取らねばならないということかな」

「ご名答」


 美代は太刀の鋒を朱華へと向ける。相変わらず微笑みながら、である。

 笑みを浮かべたまま向けられる殺意。それはあまりにも不釣り合いで、夏だというのに朱華は寒気すら覚えた。


「あなた個人への恨み辛みはないけれど──この地の守り手として、ただで帰す訳にはいかないの。──ごめんなさいね」


 謝罪。次いで、先制攻撃。

 朱華と美代との間合いはそれなりに空いていたはずだ。もとより朱華は、包丁を持つ平太を警戒して彼にそれほど近寄らなかったのだ。それゆえに、斬られる彼を止められなかった。

 閑話休題。その間合いを、美代はいとも容易く詰めてきた。縮地と言わんばかりの初手である。


「く──!」


 朱華は咄嗟に手にしていた太刀で美代のそれを受け止める。キン、と甲高い金属音が鳴る。


(この娘──手練れか)


──強い。

 体力作りとして日頃から素振りを欠かさない朱華でも、思わず圧倒されるだけの実力。何よりも、小柄で華奢な身から繰り出されるとは思えぬ程の力強い斬撃。

 間違いなく、美代は遣り手である。伊達に墓守をしている訳ではないか、と朱華は内心で舌を巻いた。

 鍔迫つばぜり合いに持ち込もうと体重をかける美代だったが、朱華とてこのまま押し込まれる訳にはいかない。

 手首の小回りを利かせて、朱華は美代の刀を弾く。恐らく、力では此方が勝っている。技術の方は未知数だが、相手の空気に飲まれる訳にはいかない。


「──あら」


 案の定、美代は打ち落とし技に対していち早く対処することは出来なかった。

 彼女の体勢が崩れたことを確認すると、朱華は美代の腹に蹴りを入れる。真面目な剣聖からは邪道だ何だと文句を言われそうだが、相手が相手である以上形振り構ってはいられない。


「っ、ぐ」


 美代は朱華の脚力によって蹴り飛ばされた──かのように見えたが、空中で体勢を整えてふわりと着地する。小袖の裾が翻り、美代の白い脚があらわになる。


(痛覚はあるようだな)


 蹴り飛ばされた瞬間に美代の顔が苦しげに歪んだのを、朱華は見逃さなかった。夜目は利く方なのだ。

 相手が人間でないということは、そもそもまともな物理攻撃が効かないかもしれないという可能性が生じる。己の攻撃が美代に通じないという事態を朱華は危惧していたが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。もしも予想が外れていたのなら、美代はとてつもない観察眼の持ち主なのだろう。

 とにもかくにも、美代に隙が生まれた。その間に朱華は彼女から距離を取る。もう一度詰められては無駄な行動となってしまうが、余裕を持てるだけの間合いは少しでも確保しておきたい。


「随分と乱暴になったのね、朱華。昔はこの世の全てがつまらないとでも言いたげな剣術だったのに」


 攻撃を受けて尚、美代は楽しそうである。むしろ先程よりも嬉々としているようにも見える。


(人でなし──か)


 この場で思うことではないとわかっていても、朱華は苦笑せざるを得なかった。人に非ざる人でなしと、人間の人でなし。その両方が揃ってしまったという訳だ。

 朱華は改めて構えに入る。二度も不意討ちを食らう訳にはいかない。


「ふ──ッ!」


 次は朱華から攻める。大きく踏み込み、美代の間合いへと踏み込む。そして、間髪入れずに彼女の喉元目掛けて突きを放つ。

 一歩、二歩、三歩。小気味良く繰り出された突きを、美代は難なく受け止めた。金属同士が擦れる音が響き渡る。


「へえ、なかなか良い突きじゃない。あれから何処かで勉強したのかしら」


 朱華の力強い一撃を受けて尚、美代は余裕綽々としている。まるで師匠か何かのような口振りだ。


「──でも、まだ甘い」

「──!」


 美代が笑んだ。それを確認するのとほぼ同時に、朱華の脇腹を何か熱いものが掠める。


(返されたか──!)


 舌打ちしたくなるのを堪えながら、朱華は引き下がった美代を睨む。

 今回は姿勢がそこそこ保たれていたということもあり、急所に入ることはなかったが、僅かでも隙を見せていたら腹を斜め掛けに斬られていたことだろう。先手を打ち押し込んだからと言って、相手が防戦一方になる訳ではないということか。

 これはなかなか厄介な相手である。朱華は時間差でやってきた痛みに顔をしかめながら、次の手を思案する。


(腕を斬り落とすことは可能だろうか)


 美代は朱華よりもずっと小柄だ。したがって頭部は狙いやすいが、腹部を狙うにはやりにくい。

 であれば、狙うべきは太刀を持つ彼女の手──広く見て腕であろう。相手が死ぬかわからない存在であるならば、まずは戦力を削ぐのが妥当と見える。

 幸い、脇腹の傷はそれほど深くない。まだ十分に動ける。

 朱華は姿勢を整える。乱れた構えではまともな剣の振るい方は出来まい。


「ふふ、そう来なくちゃ」


 未だ戦意の落ちない朱華を前にして、美代はころころと楽しげに笑う。そして、たん、と地面を蹴って朱華のもとへと直進した。


(いつまでも受け手でいてなるものか──!)


 本来ならば、相手の手を見定めるために攻撃を受け止めるべきなのだろう。実際、先程の朱華はそのように対応した。

 だが、このままでは美代の流れに飲み込まれてしまうだけだ。彼女との会話でも、朱華は幾度となく主導権を握られてきた。ならば、剣術においても同様であろう。

 朱華もまた、美代の方へと駆ける。そして、彼女が技を繰り出す前に太刀を振るう。


「ふうん、やるわね」

「──っ、見くびられては困る……!」


 刃がぶつかり合う度に、金属音が耳を突いた。それこそ、火花でも散りそうな勢いである。

 踏み込み、斬りかかり、受け流す。その動作を朱華と美代はどちらかに隙が生まれるまで繰り返す。あるいは──どちらかの得物が砕けるその時まで。


(恐らく、此処で負ければ僕の命はない。ならば、何としてでも勝たなければ)


 美代の勝利の基準はわからない。だが、彼女に勝たなければならないことは事実である。

 次々と繰り出される斬撃を受け流し、相殺し、僅かな隙を見つけては斬り込む。何度も何度も、細かな傷を負おうとも、朱華は攻めの手を緩めはしなかった。

 朱華に気にする余裕はなかったが、既に彼は幾つもの切り傷を負っていた。着物にもじんわりと血が滲んでいる。

 だが、軽傷であるならば無傷も同じ。斬りかかれる力がまだ残っているからには、流れる血潮も何するものぞ。朱華は動きを止めることなく美代を攻め立てる。


「……なるほどね。この五年間、あなたはただの人間として生きてきた。よくわかったわ」


 美代の息は上がらない。先程と同じように、鈴のような声を転がす。

 朱華は一言も発しない。──否、発する暇などないのだ。全身全霊をかけて、彼は剣を振るうのみ。それ以外の行動を起こすことなど出来ない程に、朱華は一心不乱だったのである。

 そんな朱華に、美代はつ、と視線を走らせる。そして、彼が振り下ろすであろう剣先を瞳に映し──。


「──もう、終わりにしましょう」


 鼓膜に一際ぶつかる金属音。それとほぼ同時に失われる柄の感触。

得物を弾き飛ばされたのだ、と朱華が気付いた時には、既に身体を袈裟懸けに斬られていた。


「な──っ、がは──」


 どう、と朱華の身体が地面に崩れる。受け身を取るまでもなく、彼の五体は硬い土の上に叩き付けられた。

 斬られた。痛い。熱い。上手く息が出来ない。

 荒い息をしながら、朱華は視線をさ迷わせる。取り落とした太刀は、だいぶと離れたところに突き刺さっていた。


(取りに、行かなくては)


 朱華は何とかうつ伏せの体勢になると、ずるずると這うようにして移動しようと試みる。

 身体中が痛い。視界もぼやけつつある。正直に言って、満身創痍だ。

 それでも、朱華は歯を食い縛った。まだ、腕も脚も残っている。何よりも、首が繋がっている。であれば、まだ立ち上がることは出来る。まだ、自分は戦える──!


「諦めなさい」


 ひゅ、と風を切る音が耳に入る。

 視線を上げて見れば、すぐ傍に太刀の切っ先があった。美代が立ち塞がり、刃を向けているのだ。


「もうまともに動くことは出来ないでしょう。武器を手にしたところで、勝負にはならない」

「そ──んな、ことはない。僕は、まだ、戦える」


 戦意を挫かんとする美代の言葉に、朱華はぜいぜい息を荒らげながら反論した。

 今攻撃されれば、その時が朱華の人生の終幕となるのだろう。朱華は起き上がることすらすぐに出来ない身なのだ。少し動くだけでも息が上がり、喉の奥から何かが込み上げるような感覚を覚える。

 それでも。朱華の心は折れていない。立ち上がることが出来るか出来ないかはともかく、立ち上がろうとする気概はある。


「決着は、まだ、付いていないだろう。僕は、まだ、敗けていない」

「息も絶え絶えでよく言うわ。この後立ち上がったところでどうなるか、目に見えている癖に──どうして其処までして、戦おうとするの? 私、こう見えて介錯は得意なのよ。あなたよりもずっとね」

「僕は──僕は、まだ、死ねない。やらなければならないことが、まだ残っているんだ。辞世の句など、決して詠んでやるものか」

「あら──死ねないだけの理由を、朱華は見つけたということなのかしら」


 美代は挑むような目付きで朱華を見下ろす。私を納得させるだけの理由ならば申してみよ、とでも言いたげな風である。

 これは挑発だ。朱華はぼやける視界の中でもそれを瞬時に理解した。下手に乗れば斬られるであろう危うさを孕んだ挑発。本来ならば、じっくりと見極めるのが良いに違いない。

 だが、今は一分一秒の時間も惜しかった。沈黙すれば死が近付くだけだ。朱華は歯を食い縛りながら、美代を睨み付ける。


「僕は──僕は、あの子に、かつてこの地から逃げおおせた女の子に、返さなくてはならないものがある……! ああそうだ、必ずや返し、そして謝罪しなければ……! 五年間も借りっぱなしだった挙げ句、僕の血で汚してしまったのだから……!」

「……それは」


 震える手で朱華が懐から取り出したもの。それは、角の部分が切られ、所々に鮮血が水玉模様を描く一冊の和装本だった。

 かつて、熾野宮澄の生を動かしたもの。彼を人間たらしめたもの。それを、朱華は──いや、熾野宮澄は五年間も肌身離さずに持ち歩いていたのだ。

 破損してしまった部分は、先程の美代の一撃によるものだろう。朱華の懐からは、血に染まった紙片がぽろぽろと溢れ落ちた。


「君は書物を好むかわからないが──これは、僕にとってはとても大切な借り物なんだ。君がその小さな体で守るものと同じくらい、かけがえのないものなんだ。これを、あの子に返すまで、僕は、息をし続けなければならない……!」

「…………」

「か、まえろ、美代……! 君が守護者であるならば、相応の振る舞いをしてみせよ……!」


 地面に倒れ伏しながらも、朱華の目はぎらぎらと光を失ってはいなかった。むしろより強まったと言えよう。

 そんな朱華を見下ろして──美代は何処か寂しげに眉尻を下げた。そう、とその唇が小さく動く。

 美代は太刀を下ろすと、朱華の目の前にしゃがみこんだ。その黒い瞳に倒れ伏す一人の青年を映しながら、彼女はおもむろに口を開いた。


「──実を言うとね。私、本当は戦うためのものではないのよ」

「……! それ、は──」

「さよなら、朱華」


 美代の言葉を全て聞き取ることは出来なかった。

 言葉を発しようとした朱華の首元に、ずん、と衝撃が落ちる。朱華に何も言わせまいとする美代の意思のこもった一撃だった。

 視界が暗転する。朱華は美代に言葉を返すことも出来ぬまま、その意識を手放した。

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