2
生温く湿った風が気持ち悪い。血に濡れた身体を嘲笑い、まとわりつくような空気に少年は吐き気すら覚えた。
少年は熾野宮の屋敷から逃げるように飛び出してきた。それはもう、無我夢中で、一心不乱に、周りなどまともに見ることもなく。彼は弾かれたように駆け出して、此処までたどり着いたという訳だ。
途中で何度か立ち止まって息を整えたものの、体力のない少年にとっては少しの休憩でどうにかなるものではなかった。ぜえぜえと肩で息をしながら、彼は目の前の風景を目に映す。
ぽっかりと空いた、何も存在しない空間。山であれば木々が繁るものだと思うが、此処だけはありとあらゆる障害物が取り除かれている。足下も、余分な雑草などは生えていないため歩きやすい。まるで、其処だけ何者かによって手入れされているようだった。
少年はその場に座り込む。そして、地面をじっと凝視する。
──此処に、埋まっているのかもしれない。
ごくり、と湧いてきた唾を飲み込む。言い知れぬ高揚感に、疲労が徐々に癒えていく。
慌てていたせいで、熾野宮邸からは何も持っては来れなかった。そのことに少年は後悔しかけるが、視界の端にあるものを捉えてはっと目を見開く。
少年の座り込んでいる場所から少し離れたところに、何故だかはわからないが
立ち上がって、少年は鋤の落ちている場所まで移動する。ずるずると、足を引き摺るようにして歩く。
何とか鋤のもとまでたどり着いてそれを持ち上げてみると、暗がりでもわかる程べったりと血痕らしきものが付着していた。少年はひっ、と悲鳴を上げて、鋤を取り落としてしまう。
──何故。どうして。一体どうして、このようなことに。
少年は震えた。ぶるぶると、それはもうみっともなく、情けなく、惨めに。
此処に来てからというもの、随分と血痕を目の当たりにしてきた。何せ屋敷の至るところに飛び散っているのだから、嫌でもそれらを目にしない訳にはいかない。
幸い──と言うべきなのかはわからないが、屋敷に飛び散っている血痕はだいぶ時間が経ったものなのか、黒く変色していた。そのため、少年はそれが生きた人間の体を巡っていた血潮を生々しく想像せずに済んだ。
だが──嗚呼、少年は見てしまったのだ。生きた人間が流す血潮を。流して間もない血液を。そして──『かつて生きて動いて喋っていたモノ』を。
思い出す度に胃がきりきりと痛む。喉の奥がきゅうと絞まる。出来ることならばもう二度と、あのようなモノを見たくはない。
其処で、少年ははたとあることに気付く。気付いてしまった。
──この鋤に付いた血液は、此処で死んでいた人のものではないのか。
少年は胃の中のものを遠慮なく地面に戻した。朝からろくなものを食べてはいなかったが、それでも十分であった。少年の口内は気分の悪い酸味で満ちた。
駄目だ、思い出しては駄目だ。あの男は殺されたのだ。ただ直向(ひたむ)きに主人へ忠誠を誓っていたあの男が、真っ先に命を摘み取られたのだ。
あの男は、主人のことを誰よりも案じていた。きっとあの世でも、主人の少年が無事かとやきもきしていることだろう。
──そして、その主人を自分は傷付けた。
「平太君」
ざり、と足音が聞こえる。少年──平太は、びくりと身体を揺らして振り返った。
其処には、一人の青年──斯波朱華がぽつりと佇んでいる。その手には、飾り気のない──白木院真幌の首を落とした、太刀がある。
平太は咄嗟に持っていた包丁を構えた。これで太刀に対抗出来ると考えた訳ではない。富ノ森家の屋敷から料理する時のためにと持ち出したこれでは、太刀に対抗など出来やしない。
「く、来るな……!」
朱華に対しての恨みはない。むしろ、ありがたいと思ったことの方が多かった。
しかし、平太は彼に刃を向けざるを得なかった。この状況では、きっと彼が自分の味方になってくれることなどないのだろうと、平太は既に気付いてしまっていたのだから。
がちがちと歯を鳴らしながら身構える平太を、朱華はただ無表情で見つめていた。それが一層恐ろしくて、平太は思わず後退りした。
「……平太君。僕はね、君に対して怒っている訳ではないんだ。怖がるな、と言うのは酷かもしれないけれど──今のところ、君に対する戦意はないよ」
そんな平太を諌めるような口調で、朱華はゆったりと語りかける。その場から一歩も動かないまま。太刀を手にしたまま。それが平太にとってはなおのこと恐ろしかった。
「う……嘘だ、嘘ですよ、そんなの。それじゃあ、どうして斯波様は武器を持っているんですか」
普段心掛けている丁寧な物言いも、この時ばかりはぐちゃぐちゃであった。この場にいつもの和比古がいたら、白い目で見られていたことだろう。
しかし、そもそも朱華の目には喜怒哀楽、どの感情の色も浮かんではいなかった。ただじっと、真っ直ぐに平太を見据えるだけだった。
「わ、私が、白木院様を傷付けたことが、それほど許せなかったのですか。あなたが、白木院様を殺さなくてはならなくなった理由を作った私が、それほど恨めしいからですか。どうせあなたも、私のことを使い勝手の良い小間使いか何かだと思っているんでしょう」
朱華が何も言わないことを良いことに、平太は喉の奥から溢れ出る言葉を包み隠すことなく外界へとぶちまけた。
単純に、目の前に立つ男に恐怖を抱かずにはいられなかったのだ。真幌の首を斬り落としておきながら、なおも平然と佇んでいられる斯波朱華という男が、何やらとてつもなく気味が悪くて、恐るべきもののように思えた。
「……別に、君のことを恨めしくは思っていないし、使い捨ての道具のように見ている訳でもないよ」
必死な平太とは対照的に、朱華は酷く落ち着いていた。それがまた、平太にとっては不気味であった。
──わかっている。わかっているのだ、平太は。朱華は自分を憎んでなどいないことに。一人の人間として見ているということに。
だが、朱華をそのまま見ようものならば、その一切の感情を映さない瞳に圧倒されてしまいそうで怖かった。穏やかで麗らかな春の日差しのようだったこの青年から、ありとあらゆる感情表現を取り除いてしまったという事実を受け止めきれなかった。
平太は言葉に詰まる。それを見越してか、朱華が口を開く。
「僕はただ、疑問に思っているだけだよ。どうして君が真幌君を傷付けたのか。僕がいない間に、どのような心変わりがあったのか。それがわからなければ、僕は怒ることも憎むことも出来ないからね」
「──怒り、憎むつもりなのですか、私を」
「内容によってはね。けれど、君を殺めようとは思わないだろう。殺生はいけないことだからね。君を此処で殺めたとしても、僕は何も得られない」
淡々とした口振りであった。朱華の言葉尻には抑揚がなく、そして相変わらず感情は込もっていなかった。
それでも、彼が嘘を言っているのではないと平太は理解した。この青年は、今のところ自分を殺す気はない。ただ、話だけを聞こうとしている。
「──し、斯波様は、この地に数百年前──すなわち鎌倉に将軍がおわした時代の宝物が眠っていると聞いたら、どうなさいますか」
所々つっかえながら、平太は切り出した。
彼の言葉を耳にした瞬間、朱華の形の良い眉がぴくりと動いた。それに気付かぬ平太ではなかったが、今更口ごもる訳にもいかないので畳み掛けるように続ける。
「こ、この屋敷を、私なりに調べてみたのです。そうしたら、最北にある物置のようなお部屋に、興味深い文献がありました。何でも、この地にはかつて社があったのだとか。しかも、其処には昔この地に移り住んだ武家──白木院様がおっしゃっていた呪いの根元が、お持ちになっておられた宝物の一部を奉納したというのです。その社は宮司もなく、とてもささやかなものであったそうですが──文献に記される程度には価値があるものが奉納されていたそうです」
「……それが、一体どうしたというんだい」
「私は気になって、他に手掛かりになりそうなものがないかと調べました。血眼になって探していたら、役に立ちそうな書物を幾つか見付けました」
平太の口はよく回った。朱華が反応らしい反応をしないことにかこつけて、平太は饒舌に事のあらましを語っていく。
「何でも、熾野宮の者たちがこの地へやって来た時に、その社は焼き払われたんだそうです。そりゃ、千世ヶ辻の村人たちを苦しめてきた呪いのようなものですしね。社は全て燃え尽きてしまったそうですが、納められているもの──すなわち宝物の類いは事前に熾野宮の方々が外に出しておいたらしいのです。そりゃあ、いくら呪いと言えど価値のあるものまで燃やし尽くしてしまう訳にはいきませんからね」
朱華は何も言わない。その沈黙に疑問を覚えることなく、平太は続けた。
「しかしです、熾野宮に仕えていた使用人の一人が、何を恐れたのか宝物のほとんどを夜分にこっそり持ち出して、社のあった場所に埋めてしまったそうです。──ああいや、そういった記録があったというだけで、真実かどうかは私にもわからないのですけれどね。ただ、熾野宮の方々はおおいにお怒りになったようで、その使用人を厳しく詰問して、何とか宝物を掘り返せないものかと試みたらしいです。しかし、使用人は埋めた場所こそ教えたが、自分が掘り返そうとはしませんでした。焦った熾野宮の方々は、適当な使用人に社のあった場所を掘り返させようとしたそうですが──何にせよ、結局宝物は埋められたままのようです。その辺りの記述は、酷く曖昧でした。とにもかくにも、熾野宮では埋められた宝物を掘り返すことは禁忌とされたようです」
「──要するに、君は何がしたいのだい」
しばらく沈黙を貫いていた朱華が、やけに低い声で平太に尋ねる。何か思うところでもあったのだろうか。
平太は状況が状況にも関わらず、喜色満面といった笑みを浮かべた。相変わらず、手には包丁を持ったままである。
「厭だなあ、斯波様もわかっていらっしゃる癖に。この地に埋められている宝物を掘り返すのですよ。白木院様が熾野宮の救世主ぶっていたことだけが気掛かりでしたが……彼は、斯波様が葬ってくださいましたから、もう障害はありません。旦那様も此処にはいらっしゃらないようですし、あの方は威張りん坊な割に臆病者だから、白木院様の死に相当参っているはずです。ですから──ね、斯波様。せっかくの機会ですし、共に一攫千金を狙いましょうよ」
「平太君、君──それは、本気で言っているのかい」
「本気に決まっているでしょう。此処まで来て引き下がる理由などありませんよ。私にとっては、またとない機会なのですから」
嬉しそうに声を上げた平太だったが、すぐにはっとして口を閉じる。
──直線上に立つ朱華が、酷く焦ったような顔をしていたのだ。
「駄目だ、それだけは駄目だよ平太君。宝物を掘り返してはいけない。あれは君のものではない、かつてこの地で生を閉じた武家の者が所有していたんだ。君のやろうとしていることは、墓泥棒と変わりない」
「……? どうしたのですか、斯波様。まさか、私のことを疑っておいでなのですか」
「疑ってなどいない、君が嘘を吐いていないことはわかるとも! だが、それは最もいけないことなんだ! 宝物を掘り返しては駄目だ、絶対に駄目なんだ! そのようなことをせずとも、真っ当な手段で──」
「──それが出来ないからこうするしかなかったんだッ!」
先程とは打って変わって、人間らしい表情で朱華は平太を説得しようと試みたようだった。
しかし、平太は声を張り上げる。きっと朱華を睨み付けながら、平太はこれまでの気弱な顔付きとは対極の──あまりにも凄絶な表情を浮かべながら、朱華に向かって吼えた。
「あなたにはわかるまい! かつて特権を得られた武士の家が、御一新によって脆くも破綻していく有り様など! 日に日に生活が貧しくなって、口減らしとばかりに金で薄汚れた手の商家で働かされることになって! 商人の息子にこきつかわれて、惨めに暮らしてきた私のことなど、あなたにわかるものか!」
「平太君──」
「……あなたには感謝している、感謝しているんだ。あの場にあなたがいなかったら、私は無理矢理連れてこられた山の中で屍を晒していただろう。──だからこそ、この機会を逃せない、逃しはしない! 培った教養も、家名も、時代の流れに押し流されていくというのなら、私は財を得なければならないんだ! たとえそれが呪いに関係したものであろうとも、今になってはそのようなものなんて恐ろしくなどない! 嗚呼、そうだ──故に、私はあの救世主気取りを傷付けたんだ!」
一区切りしてから、平太は呼吸を整える。心臓がばくばくと五月蝿かった。
朱華は平太の勢いに少なからず気圧されているようだった。それを好機に、平太は思いの丈をぶつけ続ける。
「あなたは、私に真っ当な生き方を薦めたいようだが──そのようなものは、もう選べやしないんだ。真っ当に生きようとしてきた結果がこれだ。もう私は、藁にも縋らなければまともな生活に戻れやしない」
「……だが、平太君。それでも、駄目なものは駄目だ。此処は墓なんだよ。かつて此処で生き、死んだ者が眠る土地だ。それを侵すなんて良くない、無粋が過ぎる。君が苦労してきたことはよくわかった。和比古君も、君との向き合い方を見直そうとしてくれている。だから、その包丁を置いて、共に──」
「厭だ、厭だ厭だ厭だ! 何が墓だ、死んだ者の眠る土地だ! 綺麗事ばかり宣って! 私は明日が何よりも大事なんだ! 今更死んだ者に気を遣ってどうする! 動けず、話せず、人としての形も留めていない死人など──もうこの世にいない赤の他人など、気に留める価値などないだろうが!」
此方に手を差し伸べようとした朱華に、平太は怒号のような声を上げながら全身で拒否の意を示した。どうしても、宝物を手に入れる道を手放したくはなかった。
朱華はさぞ失望するだろう。さぞ己を軽蔑するだろう。平太にはそれだけの覚悟があった。
しかし──朱華の顔は、どういう訳か青ざめていた。みるみるうちにその整った顔を引き攣らせながら、朱華は一歩、大きく此方に踏み込んだ。
「平太君、そのようなことを──!」
言っては駄目だ、とでも言いたいのだろうか。あれだけ拒絶したのに、まだ綺麗事を連ね続けるつもりなのか。
朱華は抜刀していない。無理矢理にでも連れ戻す算段なのだろう。ならば、包丁であろうと傷付けることは出来るか──。
然れど、平太は此処で異変を察知する。
突き刺すような殺気。ひゅ、と何かが己に迫る音。振り返る間もなく、視界は揺れる。
ぐるりぐるりと景色が回転する。
痛い、熱い、口の中に鉄錆の味が広がる。どうしようもなく苦しくて、平太の瞳から涙が溢れた。
どういうことなのだろう。一体、何が起こったのだろう。
もう朱華の足しか見えない。朱華に斬られたのだろうか。いや、それにしても速い。朱華が抜刀する暇などなかったはずだ。
自らの肌が地面にぶつかる感触を覚えることなく。平太の意識は、其処で途切れた。
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