3

 少女は淀みない足取りで山中を歩いていった。この辺りに土地勘があるのだろうか。

 何にせよ、ただでさえ呪いだ何だとよろしくない噂のある山である。年端のゆかない少女が一人で出歩いて良い場所のはずがない。いくらお転婆だからといって、あのような話が伝えられている村の人間が頻繁にこの山を訪れることなど不可能だろう。

 誰も口には出さないが、きっと全員がこの少女のことを怪しんでいることだろう。軽やかに進んでいく少女の背中に、四人の視線がこれでもかと突き刺さる。

 出来ることなら、朱華は可憐な少女を責めるような真似はしたくはない。だが、この状況はそれを許してくれそうになかった。


「此処よ。この中で男の子を休ませているわ」


 くるり、と少女が振り返って告げる。ぬばたまのような髪の毛が揺れた。

 それは、山中にぽつりと佇む屋敷であった。

 千世ヶ辻村の素朴な家々に比べると、屋敷と言うよりは館と言った方が適切な大きさである。武家屋敷にもひけをとらないかもしれない。


「……熾野宮邸だ」


 ぽつり、と譫言うわごとのように真幌が呟く。何度も地図と目の前の屋敷を見比べて、彼はそれが熾野宮邸であることを確認する。

 次いで、彼の瞳は歓喜に輝いた。くしゃり、と地図を抱き締めて、彼は満面の笑みを浮かべる。嬉しさのあまり、声が出ないようだった。


「さ、上がって。汚れているから、履き物は脱がなくて良いわよ」


 立ち尽くす一同には目もくれず、少女はさっさと屋敷の中に入っていく。その後ろを、真幌がいの一番に追いかけていった。

 屋敷の中は、五年前のまま時が止まったかのようだった。家具や生活用品はそのままに放り出され、埃や蜘蛛の巣をその身に纏っていた。現在歩いている床も、土や泥がこびりついて汚れている。

 しかし、何よりも目を引くのは屋敷の至るところに飛び散る血痕と思わしき汚れだった。時間を経て赤黒さを越えて茶色に変色したそれは、土や泥のそれとは明らかに色合いや汚れ方が異なる。

 たしかに人がいたのだという証拠を残しておきながら、其処に人はいない。それが一層、この屋敷に不気味な澱んだ空気を垂れ込めさせていた。


「この部屋よ」


 そんな中を、少女はすたすたと平然とした様子で歩いていく。誰もがきょろきょろと辺りを見回しているというのに、まるでこの風景が当たり前なのだと言わんばかりに屋敷を進み、ある部屋の襖を勢い良く開けた。


「平太……!」


 その部屋には布団が敷かれており、其処に平太が寝かされていた。

 真っ先に飛び出していったのは和比古である。彼は平太の枕元に駆け寄ると、彼の頬を何度か平手で叩く。それを受けて、う、と平太が呻き声を上げた。


「あ……あれ……旦那様……?」

「馬鹿、これまで何をしていた! 見知らぬ女に世話をかけて……!」

「あら、私は別に迷惑とは思ってはいないわよ? だからそのように怒らないであげて。彼はただ体調を崩しただけなのだから、ね?」


 今にも平太に掴みかかりそうな勢いの和比古を諌めたのは、此処まで案内をした少女だった。

 彼女の柔らかな声音を前にして、和比古は気勢を削がれたらしい。舌打ちをすると、すぐに平太から離れた。

 すると和比古と入れ替わりのようにして、真幌が少女の前に進み出る。雪乃丞が止める前に動いたようだ。

 ぱちぱち、と瞬きをする少女に、真幌はうやうやしく頭を下げる。


「あなたのおかげで助かったよ。ありがとう、お嬢さん」

「いいえ、そのようにお礼をされるようなことはしていないわ。どうか頭を上げて」

「いや、ボクたちはもともとこのお屋敷を目指していたんだ。お嬢さんが案内してくれたから、余計な手間が省けたよ。本当に感謝してもしきれない」

「え、此処にご用があったの……?」


 真幌の言葉を受けて、少女が眉を潜める。

 真幌が言葉を次ぐ前に、その様子を見た雪乃丞がすぐに口を開いた。


「我々は、この屋敷の整理をするために此処まで来たのだ。真幌様……このお方の親戚が、この屋敷の所有者なものでな。決して貴女に迷惑はかけぬ故、滞在を許してはくれないだろうか」


 畏まった口調で告げる雪乃丞を、少女は数秒間無言で見上げていた。その顏には、何の表情も浮かんではいない。

 誰もが、少女の答えを待っていた。この沈黙がいやに緊張感を生み、何とも言えない空気を作り出していたからだ。


「……許すとか許さないとか、そういうことは私が決めるべきではないわ。私は、熾野宮の人間ではないから」


 ぽつりぽつりと、溢すように少女は言の葉を紡ぐ。


「……では、ボクたちは此処に滞在しても構わないということかな?」

「知らないわ。それこそ、このお屋敷を持っている者にでも許可を得ることね。言っておくけれど、私は熾野宮とは一切関係ないから」


 つんとそっぽを向くと、少女は軽やかな身のこなしで部屋から出ていく。


「ちょ、ちょっと君」


 放っておく訳にもいかず、朱華は襖の向こう側に身を乗り出す。このまま彼女の機嫌を損ねたままでは良くないような気がしたのだ。

 しかし、少女の姿は忽然と消えていた。先程まで其処にいたのが幻であったかのように。


「……何なんだ、あの女は……」


 疲れきった溜め息が聞こえてくる。それは和比古によるものだった。


「とにかく、無事に熾野宮邸に到着出来て良かったよ。一人いなくなったと聞いてどうしたものかと思っていたけれど、これで一安心だね」


 見るからに憔悴している和比古とは対照的に、真幌はわかりやすくご機嫌であった。

 お目当ての場所にたどり着けただけで、人間とはこうも変わるものであろうか。朱華は真幌の豹変ぶりに恐怖さえ覚えた。この少年の中には二つの人格があるのかもしれない、と思ったくらいだ。

 真幌はくるりと踵を返すと、朱華の横を通り過ぎて廊下に出る。そして、穏やかな声音で一同に告げた。


「ボクと雪乃丞は、この屋敷の間取りを確認してくるよ。皆は好きにしていると良い。特に和比古は、井戸で体を清めてくることだ。──行くよ、雪乃丞」

「は、真幌様」


 真幌に促され、雪乃丞も彼と共に屋敷の探索に向かっていった。二人の足音は遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。

 部屋には、朱華と平太、そして顔を真っ赤にさせた和比古が残された。和比古は今にも爆発しそうな、凄まじい形相で二人が去っていった方を睨み付けていた。

 そんな和比古に、平太は起き上がっておずおずと声をかけようとする。


「あの、旦那様──」

「来るな! お前は其処でその男とでも駄弁っていろッ!」


 平太を遮って、和比古はどたどたと部屋を飛び出していった。朱華も平太も、ぽかんとする他ない。

 きっと、和比古は失禁して汚れた体と服をどうにかしたいのだろう。気位の高い彼のことだ、それを平太に知られないようにと焦燥していたのかもしれない。

 自分でやっておいて何だが、少し怖がらせ過ぎたかな、と朱華は反省した。

 和比古が悪いことに変わりはないが、失禁させるまで問い詰めるつもりはなかった。あれは運の悪い事故のようなものだった。


「あの、私、旦那様のところに行って来ます。鞄、持っていてくださって、ありがとうございました」


 のそのそと布団から出て、平太はよいしょと鞄を両手に持つ。和比古のところに向かうつもりなのだろうか。

 ちょっと、と朱華は平太を止めようとした。このまま和比古のもとへ行くのは逆効果である。しばらくの間、一人にしておいた方が良いだろう。

 しかし、平太はきょとんとした顔で朱華を見つめる。悪意や他意を感じられないのが余計に辛い。


「どうして、止めるのですか?」

「いや、何……。和比古君も疲れているだろうから、しばらくはそっとしておいた方が良いかなと思って──」

「でも、旦那様の着るものは全て此処に入っているのですよ。そのままにしておいたら、旦那様は何も着るものがなくて困ってしまいます」


 そういうことですから、とだけ告げて、平太はぱたぱたと小走りで部屋を出る。

 そういえば、和比古はずっと手ぶらだった。今更ながらその事実に気付かされた朱華は、自分の浅慮さ加減に溜め息を吐いた。


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