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 一行の見る景色ががらりと変わったのは、日もかなり高くなった頃合いであった。

 これまで鬱蒼と木々に囲まれていた視界が、急に開けたのだ。朱華は思わず目を瞬かせた。


「これは……」


 其処には、何もなかった。木々が生えることはなく、ただぽっかりと空間だけが存在していた。地面には疎らに雑草が生えているだけで、これまでの風景に比べるとあまりにも異質である。

 真幌は無言で立ち尽くす。地図を持つ手が震えていた。

 たどり着いた先が熾野宮邸ではなかったことに衝撃を受けているのだろうか。彼の心中など、朱華にはわからなかった。むしろわかる方が可笑しいというものだ。

 言い出しっぺの真幌が動かないので、残された面々はどうして良いかわからずにただ其処に留まっているしか出来なかった。

 雪乃丞はともかく、朱華や和比古は居心地が悪くて仕方がない。和比古に関しては、失禁でズボンが湿っているということもあってか、脚をもじもじとさせていた。

 誰でも良いから、真幌に声をかけて欲しい。朱華は胸中でそう願った。

 今の真幌に声をかけようなどとは思えない。この山に入ってから、真幌の様子は明らかに可笑しい。それほどまでに、熾野宮邸には求めるべき何かがあるのだろうか──。


「──もし、其処の方々」


 それは、決して大きな声ではなかった。然れど、よく通る、鈴の音のような声であった。

 この中の誰のものでもない声に、一同は慌てて振り返る。特に雪乃丞の動きは速く、素早く真幌の前に立つと持っていた木製の杖を構えた。


「そう、警戒しないでくださいな。私は、決して怪しい者ではないのだから」


 朱華たちの背後に立っていた者。それは、十代半ばと思わしき華奢な少女だった。

 この時代──いや、かつて幕府があった頃でも時代遅れと言われそうな程に、古風な服装をしている。真っ赤な小袖の上から、やや桃色がかった白のうちかけを羽織った出で立ちである。町人や村人と言うよりは、武士や貴族の娘の普段着のようだった。しかし、赤と白といった色合いから、巫女や神職のようにも見える。

 そして、彼女は何と言っても可憐の一言に尽きた。艶やかな黒髪を長く伸ばし、緩く結って背中に垂らしている。整った目鼻立ちは涼やかで、古き良き大和撫子といった顔立ちだった。

 一度抱き締めれば折れてしまいそうな風貌でありながら、何処か凛とした雰囲気をその身に纏った乙女。深緑の中に立つ彼女は、現実離れした美しさを有していた。


「……何の用だ。此処は、貴女のような方が来るべき場所ではないはずだが」


 未だ杖を構えたまま、低い声音で雪乃丞が尋ねる。たった一人の少女に向けるには相応しくない、あまりにも険しい顔付きだった。

 しかし、少女は雪乃丞に怯えることはなかった。まあ、と口に手を遣ってから、可愛らしく頬を膨らませる。


「怪しくないと言っているのに、まだ私のことを疑っていらっしゃるのね。酷いわ、私、何も変なことはしていないのに」

「いや、疑っているなどとは……。第一、貴女は何故このような場所にいるのだ」

「何故、何故って、問いかけばかり投げ掛けるのね、あなたは。私はあなた方のことなんて全く知らないのに、どうして私があなた方に自分のことを伝えなくてはならないのかしら。それって、とても不公平だと思わない?」


 自分よりも上背の高い雪乃丞に、少女は屈することなく詰め寄る。腰に手を当てて、不満げな表情をしながら、彼女は雪乃丞を見上げた。

 これには、実直な真幌の従者もどう反応して良いかわからなかったらしい。おろおろとしながら、雪乃丞は視線をさ迷わせる。真幌に助けを求めているようだった。


「……では、ひとつだけ。お嬢さん、あなたはボクたちに、何を伝えようとしたの?」


 雪乃丞の背に守られていた真幌は、張り付けたような笑みを浮かべて少女に問いかけた。その表情はあまりにも不気味で、朱華は思わず二の腕を擦る。

 だが、少女はそんな真幌を前にしても特にこれといった反応を見せなかった。そして、何事もなかったかのように答える。


「山道で具合の悪そうな男の子がいたものだから、介抱していると伝えたかったの。この辺りに若い子が来ることなんてほとんどないから、気になってしまって。まさかこんなところに一人で来ることなどないだろうからと思って周りを探してみたら、あなた方に会ったという訳」

「……その男の子は、今何処に?」

「外に放り出しておくのもよろしくないから、一先ず近くにあった建物で寝かせておいたわ。暑くて逆上のぼせてしまっただけみたいだったから、命に別状はなさそうよ。……もしかして、心当たりがあったりする?」


 こてん、と少女は首をかしげる。

 具合の悪そうな男の子、というのは十中八九平太のことだろう。あのような伝承のある山に好き好んで入る者などほとんどいまい。朱華とて、今回のように巻き込まれていなければ遠慮しているところだ。

 真幌はふむ、と形の良い顎に手を遣った。そして、お手本のような微笑みを少女に向ける。


「……恐らく、それはボクたちの知り合いだと思う。一人、この山の中ではぐれてしまった者がいてね。何処へ行ってしまったものか、心配だったんだ。もしよろしければ、彼を休ませている場所まで案内してはくれないか?」

「ええ、勿論! 困っている人を助けるのは当然のことだもの。付いてきて、こっちよ」


 にこやかな真幌に、少女も屈託のない笑顔を向ける。どうやら真幌に多少心を許したようだ。

 平太のことを置き去りにしておいて、心配だったなどと笑わせる。朱華は真幌を睨み付けてやりたかったが、何をされるかわかったものではないので我慢した。

 とにもかくにも、今は少女の保護した少年というのが平太であることを祈るしかない。朱華は細く息を吐いてから、軽快な足取りで先行する少女の背中を追いかけた。

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