人でなしの影ふたつ
硯哀爾
序
みんみん、じりじり。みんみん、じりじり。
蝉が
そう思いながら、青年はおもむろに筆を置く。ぐ、と伸びをすると、背中を幾筋もの汗が流れ落ちていった。
少し前まで絶え間なく降り続ける雨に辟易としていたのに、気が付けばもう夏である。日が落ちるのも遅くなり、日中は
しかし、青年は夏の猛暑が嫌いではない。たまに苛立つことさえあれど、季節の移り変わりというものは基本的に好ましく思っている。
暑いこの季節だからこそ映えるもの、輝くものがあり、それは決して他の季節ではあり得ない。決まった季節にしか見られない景色、文化、その他諸々の煌めきを、この青年はこよなく愛していた。
「この暑さだから、久しぶりに怪談でも読んでみようかな。古書店に行けば、掘り出し物があるかもしれない」
机に置いていた手拭いで額の汗を拭ってから、青年はよいしょと立ち上がる。行き着けの古書店で、背筋の凍る作品を探しに行くつもりだった。
がま口を懐に入れて、青年は玄関へ向かう。彼がいつも通りに下駄を突っ掛け──ようとしたところで、壊れるのではないかというくらいに勢い良く戸が開かれた。
「
「……目の前にいるじゃあないか」
息を切らして駆け込んできたのは、まだ二十歳にも満たなそうな若者であった。朱華と呼ばれた青年よりも、幾分か年下に見える。
焦げ茶色の髪の毛を所々跳ねさせた長身の若者は、じっとりとした視線を向ける朱華の肩を掴む。そして、彼に満面の笑みを向けた。
「良かった、朱華! 頼みたいことがあるんだけどよ!」
「お断りさせてもらおう」
「は、話くらいは聞いてくれよぉ~!」
即答した朱華に、若者は一瞬で顔をぐしゃぐしゃにして飛び付いた。
突然のことに朱華は対応しきれず、若者の身体を真っ正面から受け止めることになった。ただでさえ暑いというのに、こうも密着されたら暑苦しいことこの上ない。加えて、若者の涙と汗が染み付いて肌がべたつく。
「本当に、本当にお前にしか頼めないことなんだよぉ~! 蕎麦奢るから付き合ってくれよぉ~!」
「こら、
「わぁ~、ありがとよ! やっぱりお前は良い奴だなぁ、ずびっ」
「僕の服で
宗一郎と呼ばれた若者の勢いに、さすがの朱華も押し負けたようだ。力任せに彼の身体をぐいぐいと押しながら、目を三角にして叫ぶ。
一方、朱華にくっついている宗一郎はというと、彼の快諾の言葉をしっかり聞き取っていたらしい。泣き笑いのような表情でちゃっかり朱華の着物を手拭い代わりにしている。おかげで朱華の着物には宗一郎の洟が付着してしまっていた。
やっと離れた宗一郎は、ぐいと目尻を拭ってからにかっと快活な笑みを浮かべる。そして、先程まで号泣していたとは思えない程の明るい声音──鼻声ではあったが──で、朱華に声をかける。
「さ、そうと決まったなら善は急げだ! 蕎麦食いに行こうぜ!」
「……僕の着物……」
「大丈夫大丈夫、この暑さだしすぐに乾くって!」
「……君は少し反省というものを覚えたまえよ」
すっかり開き直った様子の宗一郎に、朱華は疲れきって頭を抱えた。
それはもう、比喩ではなくそのままの行動で表す程に。
***
暑い日に食べるざる蕎麦は格別だ。
喉を通り抜けるそれに爽快感を覚えながら、朱華は目の前の席で蕎麦を美味そうに
「それで、頼みたいことって何なんだい? やけに切羽詰まった様子だったけれど」
「ほうほう、ほれなんらけろよ」
「飲み込んでから話したまえよ」
口の中に蕎麦が入ったまま話し始めようとする宗一郎を、朱華は呆れ顔で見る。
この宗一郎という若者は悪い人間ではないものの、時々……というかしょっちゅう間の抜けた言動に及ぶことがある。愛嬌があるので何とも言えないが、礼儀作法を重んじる朱華としては注意せずにはいられない。
素直に口の中のものを全て飲み込んで、茶を
「俺ん家って銭湯なんだけどさ、其処の常連さんが近々出かけるらしいんだよ。それに付いていってくれる人を探してるって言ってて、俺にどうかって話が来たんだけど、家の手伝いをしなきゃいけなくてさ。もし良かったら、お前が行ってやったら良いんじゃないかと思って」
「あのねぇ、宗一郎。僕にだって予定があるんだよ? 突然出かけるなんて言われても困るよ」
「けど朱華、お前暇だろ? 仕事も特にしてないんだしさ」
「っ、ぐ」
宗一郎の何気ない一言に、朱華は声を詰まらせる。
はっきり言えば、図星だったのだ。それもあまり突いて欲しくない類いの、である。
朱華はいつか物書きになるのだと豪語し、日夜執筆活動に勤しんでいる。詩歌も好むが、何よりも彼は物語を綴ることに執心だった。そのため、朱華は机に向かって安物の和紙に思い付いた物語を綴るか、良いネタを探して町内をぶらぶらと散歩するかの毎日を送っている。
詰まるところ、朱華はろくに仕事もしていないのである。独り暮らしで家事を全て自分一人で済ませている辺りまだましなのだろうが、このご時世で職に就いていないというのはなかなかのものだった。
朱華としては、自分の生活に関してはあまり触れて欲しくはなかった。というか触れられたくなかった。いつか人気戯作者になって儲けるのだ、などと開き直って胸を張る程の図太さを朱華は有していない。
一人で勝手に傷付いている朱華だったが、宗一郎はそれを気にする様子もなかった。彼は変わらぬ口振りで話を続ける。
「それに、その常連さんってお金持ちのお家でお手伝いさんとして働いててさ。今回のお出かけも、お坊っちゃんの付き添いなんだとよ。何でも、避暑地にある別邸の整理整頓をするんだとか」
「……それはそれで魅力的ではあるけれど、そのようなことは身内でするべきじゃないのかい? 僕たちみたいな庶民を招いたら、それこそややこしいことになりそうだけど」
「俺だって最初はそう思ったぜ? けど、その常連さんが言うには、今回のお出かけはお坊っちゃんのお忍び旅行らしいんだ。ほら、良いところの子って色々制約が設けられてるだろ? だから家の者をたくさん連れてくと窮屈なんだってさ。だから敢えて年齢の近い、常連さんの知り合いを連れてくんだと」
良いよなぁ、と宗一郎は唇を尖らせる。銭湯の仕事がなければ本当に付いていきそうな様子である。
たしかに、避暑地への旅行なら朱華としても興味がある。風情のある場所で創作に勤しむのも悪くはない。むしろとてつもなく行きたい。
しかし、宗一郎の話には引っ掛かるところがありすぎる。彼が嘘を吐けない性分の人間だということはわかっているので偽りではないと思うのだが、やはり何処かきな臭いというか、曖昧模糊として信用し難い。
「……ちなみに、そのお坊っちゃんとやらはお幾つなんだい?」
「確か十八だって言ってたぜ? 俺や常連さんと同い年なんだとよ。だから俺はその常連さんとは意気投合したんだけど……何か気になることでもあるのか?」
「いや、僕では年齢が離れている気がしなくもない……というかそれなりに離れているんだけれど、大丈夫なのかい?」
「大丈夫だろ、一回り離れてるんじゃねぇんだからさ。十八も二十四も四捨五入すれば二十だろ。いけるいける」
「そういうものなのかな……僕にはわからないけれど」
朱華は今年で二十四歳になった。
この年齢で定職にも就かず配偶者もいないというのは世間からしてみてもかなり辛いものだが、朱華はあまり気にしないことにしている。もとより世間体は気にしないつもりでいるのだ。気にしないとは言っていないが。
「朱華よぅ、そんな落ち込むなって、な? 俺はよくわかんないけど、お前があれだけ熱心に書いてるんだから絶対将来は売れっ子戯作者になってるって。それに、お前はすこぶる美形だからな。お前が気付かないだけで、朱華のことが好きな女の子だって結構いるんだぜ? 元気出せよ」
そんな朱華の憂いを感じ取ったのか、宗一郎は彼の肩をばしばしと叩いて慰めた。地味に痛かったが、気遣ってくれたことに変わりはないので朱華は何も言わないでおいた。
「とりあえず、さ。無理に行けとは言わないけど、夏の過ごし方のひとつとして頭に入れといてくれないか? ずっとこの町にこもってるのもどうかと思うしさ。創作意欲? とやらを刺激するためにも、たまには遠出するのも良いと思うぜ」
「……ありがとう、宗一郎。そうだね、少し考えておくよ」
「おうおう、そうしとけ。すぐに決められるような話でもないしな」
人懐っこい笑みを浮かべた宗一郎に、朱華の表情も思わず綻ぶ。
朱華はもともとこの町の人間ではない。二年程前に引っ越してきたのである。小ぢんまりとした風情のある良さげな一軒家を買い取ったは良いものの、一人では苦労することも少なくはなかった。
そんな時に率先して手伝いに来たり、声をかけてくれたのが宗一郎を初めとする町の住民たちだった。朱華がこの町での生活に馴染むことが出来たのは、紛れもなく彼らのおかげなのである。
この話だって、朱華のことを気遣ってのものなのだろう。そう思うと、朱華としても悪い気はしなかった。たまの休暇も良いかもしれない。──仕事をしていない身なので、休暇も何もない訳だが。
「ところで、その避暑地の場所は聞いていないかい? 場所によれば、僕も考える余地が広がるから」
それゆえに、朱華は柔和な表情で宗一郎に問いかけた。彼の気持ちを無下にしたくはなかったのだ。
柔らかな表情を浮かべた朱華は、さながら
優しげな目元とふんわりとした髪の毛、そして何よりもよく整った、とてつもなく精緻な顔立ちに微笑みを湛えれば、何とも言い難い気品が溢れる。魔性のそれとは対極にある、言うなれば相対した者すらも和やかな気分にさせるような雰囲気を朱華は醸し出していた。
案の定、宗一郎は朱華の笑みに釣られるかのようにさらに表情を明るくさせた。その顔付きは子犬のそれに近い。
「おう、確か
覚えてるんだよ、と宗一郎が口にする前に。
ばん、と大きな音が店内に響く。喧騒に包まれていた蕎麦屋の中は、一瞬静寂に支配された。
何だ何だ、と客や店員が振り向く先には、うつむいた朱華がいる。長めの前髪が彼の目元を隠すせいで、顔が上がるまでその表情ははっきりとはわからなかった。
ぽかんと呆気に取られている宗一郎を、朱華は
「──行くよ」
朱華の唇から漏れるのは、いつになく低く潜められた声。え、と宗一郎が疑問をその顔に映し出すが、朱華はそれをも遮った。
「僕が行こう。その、千世ヶ辻とやらに」
みんみん、じりじり。みんみん、じりじり。
汗ばむ七月の昼下がり。朱華の瞳は、真夏の陽炎が如く揺らめいた。
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