わかば

虹鳥

わかば

 寝苦しくて目が覚めた。薄く瞼を持ち上げると、カーテンの隙間から淡い光が俺の頬に降り注いでいる。連日続く猛暑で窓の外では蝉が煩わしく鳴いているというのに、部屋の空気はどこまでも冷え切っていて、やけに家電の音だけが耳に残った。寝ぼけ眼で傍らのスマホの液晶に目をやると、数件の通知に気がつく。

 時刻は昨夜の十一時過ぎ。相変わらず沙璃奈さんからは、「仕事終わんない、ごめん」という絵文字が一つだけの簡潔な連絡のみだった。使い回された都合のいいセリフ、愛してるよ、なんてお決まりの結びの言葉。その全てが胸の奥の鎖を締め上げて心の蔵が悲鳴を上げる。それにどこまでも気づかないフリをしてため息を吐くと、気怠い体をリビングへと運んだ。


 いつのものかわからないメモの貼られた冷蔵庫を開ける。ラップのかかった食器が嫌でも目につく。ドアポケットから半分程減った牛乳を取り出した所で、スマホの通知音が鳴った。液晶を確認してから、思わず息を呑んだ。

 唯一フォローしていたはずのインスタグラマー、わかばが引退するという。慌ててページに飛ぶと、そこには直筆と思しき隙のない字体で一身上の都合により、と、どこか無機質に書き記されていた。わかばはいわゆるファッション系インスタグラマーで、一般的なインスタグラマーと少し毛色の違う人物だった。アパレル勤務とのことで、投稿される写真も殆どがコーディネートに重点をおいたものだったが、顔こそ晒さないものの作り込まれた毎回異なるヘアスタイルと色素薄めの髪色から彼女の丁寧な性格を思わせる。コメント欄には彼女を支持していたフォロワーが続々とそれぞれの形で嘆きを表現していた。弾幕のように流れていくコメントに少なくとも彼女の引退を歓喜しているような面影は見受けられず、圧倒的カリスマ性のあるインフルエンサー程ではないにせよ、どれも彼女がいかに影響力があったかをうかがわせるものばかりだった。確かに彼女は綺麗だ。綺麗だけれど。

 「和葉」

 誰も居ないリビングに落ちる呟き。指先まで手入れされた彼女の華やかな爪を目にする度に俺には微かな違和感が残る。

 「都会慣れすんなよ、田舎者」


 ぬるい風が頬を抜けて行き、思わず目を閉じた。もうとっくに夏だというのにつきまとうこの不快感はなんだろう。緩やかに時間が流れていく駅までの道のりはまだ慣れない。買い物袋を下げた二人組の女性が、道端で明るく談笑に花を咲かせていた。炎天下の中、じんわりと上昇する体温が袖の中で腕を湿らせる。駅前に近くなればなる程平日でも人通りは多い。立地の良い駅前のスーパーは、利用客に困らないためか何かと良心的な価格で品物が買えるのでしょっちゅうお世話になっていた。もっと良い食材売ってる所たくさんあるよ、とか言う沙璃奈さんは根っからのお嬢様育ちだからわからないのかもしれない。

 「牛肉にこだわる必要ないよなぁ」

 のどかな時間の流れに任せてつい気が緩み、独り言が漏れる。ただでさえ大人の男が平日のこんな時間に出歩いているのですら異質なはずなので、慌てて控えた。日本ももっと専業主夫が増えても良いと思う。そうすれば買い物ひとつするのに肩身の狭い思いをせずにすむはずだ。そんな事を思いながら信号の前に立つ。電子音が鳴る。それがやけに耳に残る。社会に揉まれていた時はこうした生活にあふれる些細な音すら気にかけれなかった。ぼんやりと人波が吸い込まれ、入れ違いで吐き出される遠くの改札口を眺めていると、雑踏に紛れて見覚えのある人物に気がついた。思わず小さく息を呑む。

 「和葉」

 湿った風を物ともせずにさらりとなびく長い髪。薄い色素と柔らかな毛の一本一本が太陽光にきらきらと反射している。高い靴は凛とした彼女の佇まいに似合っているのにその表情はどこまでも昏かった。そうしている間にも人波はせわしなくうねり、信号が歩行の可能を知らせる。我に返ると、とっくに彼女の姿は街中に消え失せていた。


 「兎羽聞いて、数検落ちた」

 「残念でした、乙」

 軽口を叩いた瞬間に容赦無く飛んでくる拳。油断していたところの突然のカウンターパンチはもろに頬にめり込んだ。彼女と居る時はどうしても気が緩んでしまう。

 「暴力女」

 「あんたが悪い」

 けろりと言ってのけて仁王立ちをする彼女に聞こえないように「だからモテないんだよ」と呟く。大きな黒目が怒ったように真っ直ぐ見下ろしてくる。本人的には威圧感を表しているのだろうけれど、俺には毛を逆立てた猫が人間に対して威嚇をしているようにしか見えない。

 「それはそうとさ、この前相談された吹部の人とはどうなったの。先輩、だっけ」

 今までの流れを無かったかのように平然と腕組みをして話題を転換させる和葉。小さい時からなにかある度にサンドバックにされるのは俺で、当の本人は気が済むとあっさり切り替えてしまう。多分幼馴染みという関係性だからこそ上手く成立する関係なのだと思う。

 「あー、うん。なんか付き合う事になった」

 適当に答えると、ふぅん、と気の無い返事が返ってくる。

 「好きなの?」

 「多分」

 「なにそれ」

 淡々とした彼女の口調はどんな状況でも変わらない。曖昧に言葉を発する俺とはどことなく空気が噛み合わない瞬間だった。

 「兎羽あんたさ、好きだって言われたからとりあえず付き合うとか人として一番無いから。自分も好きかどうかが大事なんだよ」

 「はは、うるせー。まずリア充なってから言えよばーか」

 轟音で空気が裂かれ、飛んでくる掌。今度は予測済みだったのですぐに避けることが出来た。思い切り馬鹿にしたように笑ってやると、さっきよりも強く睨みつけられる。今気がついたが彼女の瞼には薄くアイラインが引かれていた。

 「全部さ、結局俺の責任だから」


 「なんか言った?」

 リビングのソファーに腰掛けてビールを傾けていた沙璃奈さんの声ではっと我に返った。慌てて振り返り、何も無いよ、と笑う。そう、と短い返事を背にシンクの中で止まっていた手を再開させる。唐突に泡が弾けて手首にかかった。思いがけず傷口に染み、切り裂くような鈍痛に耐える。リビングからはテレビ番組の賑やかな声が聞こえて来て、そこには日常の音が溢れていた。そういえばこんな空間、久しぶりだ。そっとキッチンカウンターの柱越しにリビングをうかがうと、沙璃奈さんはソファーに緩く身を沈めながら気の抜けた表情で缶を片手に画面を見つめていた。滅多に見ないそんな横顔が新鮮で、微笑ましい。いつもはしっかりと束ねられている長い黒髪がだらりと肩に垂れている様が仕事人のふとした生活感を感じさせて愛おしかった。

 「なに」

 物陰からこっそり視線を送っていただけなのに、沙璃奈さんは目ざとい。振り返ったその顔はにやにやといたずらっぽく笑っていた。家だけでしか見せてくれない子供みたいな表情。

 「いや、別に」

 敢えてそっけなく顔を背けてシンクに向かうと、カチッというライターの音。沙璃奈さんはごくたまに煙草を吸う。そもそもあまり家に帰ってくる機会が少ないから目にする事は少ない。けれど細長い指と白い煙草が妙にマッチしていて視界に入る度にドキリとするのだ。

 薄く紫煙を吐き出しながらキッチンの入り口までやって来た沙璃奈さんは、ゆるりと壁にもたれながらこちらをじっと見つめてくる。まだ口紅を落としきっていない紅い唇からゆらゆらと白い煙が立ち昇るのが色っぽい。蛇口をひねると無音の空間に流水音が一気に広がる。どことなく湿った空気。咄嗟に俺はなんでも無いように言葉を紡いだ。

 「今週末とかさ、予定ある?」

 唐突な事に少し驚いたのかワンテンポ遅れて、ああ、と沙璃奈さんは呟いた。口元から吐き出される煙が不規則に揺れる。

 「もし何も無いならさ、久しぶりにどっか___ 」

 「あ、ごめん。ミーティング入ってる」

 ミーティング。言いかけて遮られるように落とされるたった一言。壁にもたれながら煙草をくゆらすその姿は俺のよく知る沙璃奈さんの姿。なのに、どうしてこうも一瞬、知らない顔に見えるのだろうか。ごめん、とこちらを見るその瞳はどこまでも真っ直ぐだった。良いよ、忙しいよね。優しく言葉を繋ぐ。

 「いつもお疲れ様」

 強がりでも無く、何でもない。ただそれだけ。俺は微笑んでいれば良い。それで穏やかな空気は裂かれない。つまるところ久しぶりに帰ってきてくれただけでそれ以外は何もいらなかった。平常心、波風を立てない。

 「寂しい?」

 いつの間にかすぐ側に来ていた沙璃奈さんが耳元で囁いた。煙草の匂いが微かに鼻孔をくすぐる。

 「慣れてるよ」

 強がりじゃない。これは決して強がってなんかいない。ただの事実だ。それなのになぜこんなにも胸の奥がざわつくのだろう。

 不意にぎゅっと後ろから体を包まれる。俺よりわずかに背の高い沙璃奈さんは栄養不足を懸念するほど線が細いのに力は強い。ぐいっと引き寄せられるような感覚。

 「ごめんね。いつもありがとう。……愛してるよ」

 しおらしい声。いつもなら勝ち気でハキハキと物を言うのに、なんて余計な思考が巡る。黙ってシンクに顔を俯けていると、体に回された手が頬に添えられ、沙璃奈さんの方に向けられる。紅い唇からはまだ煙草の残り香がする。いつもなら流されていたのに、今日は咄嗟に肩を軽く押しのけて抵抗していた。

 「ごめん」

 こんな乱暴な口調になりたくないのに。沙璃奈さんの方をうかがうと締め付けられる俺の胸の奥に反して、特に思うことも無さそうに平然とそこに居る。

 「何が?」

 不思議そうな口調。何も返せず黙っていると、不意に手首を掴まれた。

 「ここ、どうした?怪我してる」

 心配そうな顔で優しく尋ねられる。沙璃奈さんの優しい指で撫でられているのに傷はより深くうずいていた。鈍い痛みをこらえ、なんとか笑みを浮かべる。

 「何でも無いよ、大丈夫」

 平気だ。そう言い聞かせる度に、傷が悲鳴を上げた。


 次に彼女と再会したのは、通り雨の上がった直後の蒸し暑い日だった。今日はこの前見かけた時よりラフな格好をしている。パーカーにダメージジーンズ。そんな庶民的な装いでも彼女は遠くからでもわかるほどに綺麗だ。袖口を引っ張って今朝巻いたばかりの包帯を無意識に隠すと同時に、気づけば彼女の元へ駆け出していた。

 「かずはぁ? 久しぶりぃ!」

 彼女が振り返る。色素の薄い髪がふわりとなびく。こちらを向いたその瞳は、やけに澄んでいて、あの時遠くから見ていた時よりも憂鬱そうな影は感じなかった。

 「え、もしかして、兎羽?」

 素っ頓狂なその表情は画面越しに追っていたあの顔とは違う。俺に対する彼女は人気インスタグラマー「わかば」では無い。どこまでも田舎者の幼馴染、暴力女の井川和葉だった。


 「和葉ってさぁ、もしかして天才的な雨女?」

 小馬鹿にして言った瞬間、微かに湿ったスポーツタオルが鋭く飛んできて、瞬く間にクリーンヒットした。しかも顔面。遠心力のおかげでただの布製品がちょっとした凶器へと変わる。幼馴染との再会も束の間、上がったばかりの通り雨が再び戻ってきて突発的に俺たちの全身を濡らして行った。いつもそうだ。俺は何かと間が悪い。こんな時くらい俺の不運な人生のセオリーから外れても良いのに。

 髪をガシガシと乱暴に拭っている和葉。その苛立ったような背を横目に気づかれないようにため息をつく。ふと顔を上げると、通り雨はとっくに上がって雲間からは穏やかな西日が射していた。導かれるように開け放たれたベランダに出る。錆びついた手すりにもたれ、遠くに視線を投げると、開けていない眺めが妙に落ち着いた。

 「とわー、タオルもう使わないなら頂戴」

 可愛げのひとつも無い低い声がムカつく。和葉と居ると張り詰めていたものが否応なしに解かれていくような感覚に陥るのだった。あの時からそうだ。彼女と話す時だけ、脊髄反射でものが言える。

 「やな女」

 聞こえないようにひとりこぼし、何事もなかったかのように振り返る。その瞬間、彼女の表情が凍りついた。何か恐ろしいものを見たような顔。文化祭のお化け屋敷以来のその表情に、俺の方が戸惑う。彼女の視線を辿ると、そこで初めて自分の両腕を捲っている事に気がついた。何事もなかったように自然と袖を戻し、余裕を持って笑って見せる。

 「あのさ、なんかあった?」

 そんな優しい事なんか言わないくせに。

 「やだもー、和葉らしくないセリフー」

 何事もなかったようにするのは得意だ。こうして笑っていればたいていの事は何とも無く過ぎることもよく知っているから。

 「つーか和葉ん家、狭すぎない? これじゃあせっかくの大都会の夜景見えないじゃーん」

 誤魔化しにごまかしを重ねて行く。どこまでも鈍感で呆けた男を演じて。横暴で生意気で、わかりやすいくらい顔に出る癖に他人に対しては妙に勘の良い彼女を欺くにはこれしか無い。

 俺がこうしてへらへらとしている間にも、彼女は心底心配そうな目をして見上げてくる。それを目にするだけで、どうしようもないものが溢れそうになる。心の臓をきつく縛っていたはずの鎖が音もなく解けていく感覚。やめてほしい、調子が狂ってしまう。

 「やな女」

 何も考えなくても口が勝手に言葉を放つ。今度は彼女にはっきりと聞こえるように。

 和葉と居ると。思ったより声が掠れて上手く出ない。

 「甘えが出る」

 そう言って彼女の方は見ずにベランダへと顔を背けた。開け放たれたその先には煤けた景色が広がっている。いや、すっかりきらびやかな夜景に慣れてしまった目だからそう見えるだけなのかもしれない。

 室内に下りる長い沈黙を破ったのは、珍しく甲高い和葉の声だった。

 「兎羽」

 パーカーの袖を掴まれる。ぐいっと引き寄せられるようにして強引に顔を覗き込まれた。見上げてくる彼女の瞳は色素が薄くて気を抜くと吸い込まれそうだ。

 「あのさ」

 空間を切り裂くように響く電子音。断末魔のようなそれは、俺のパーカーのポケットで無機質に振動していた。はっとして身を引く和葉は見たことないほどにしおらしい。静かに取り出して確認すると、表示されている見慣れた名前。

 「出れば?」

 さっきまでの何もかもが嘘のように、呟くその声はどこまでも低くてひやりとした。


 沙璃奈さんは、都会で荒んでいた俺を拾って更正させてくれた命の恩人のような人だ。和葉が就職してから追うように上京した時は、まさか自分の会社がずさんな経営で早々に潰れ、再就職という社会の荒波に呑まれることになろうとはつゆほども思っていなかった。残業は当たり前でろくな手当ても出なかったために体を壊すのは時間の問題だった。そんな生活も荒れ、自分でもどうしようも無い時に出会ったのだ。元同僚に受診を勧められた先の心療内科。そこで立ち働くその姿にどうしようもなく惹かれ、どこか安堵している自分も居た。根気よく励まされて通い続けるうちに少しずつ元通りになったと同時に距離も縮まり、今のような関係になるのも時間はかからなかった。

 「家事? いや、無理無理。余計に散らかるもん」

 そう言って笑う沙璃奈さんは、仕事場でのクールな表情とは違って茶目っ気がある。

 「そうだ、ウチで暮らすんならさ、兎羽がやってくれない? 作ってよ、手料理」

 元々家事が苦にならないから、ようやく自分の居場所が出来たような気がして。ほとんど帰って来れない家主の為に家を守りながら帰りを待っていると、なんだか自分がペットのような気にもなった。それでもささやかで穏やかな生活が愛おしかった。

 はずなのに。


 「和葉はさぁ、自分のパートナーが浮気してたら許せる?」

 不意に口をついて出た言葉に、もう取り繕う気力も無かった。食器を洗う時に弾ける泡のように、それは空間に跳ね返って自分に返ってくる。

 「されたこと無いし、わかんないよ」

 彼女の答えは妙に浮世離れしているように感じた。そうじゃなければへぇ誠実じゃん、なんて気の抜けて明確に意図して傷つけるような言葉しか放つことが出来ない気がする。

 「毎日毎日、私生活を削ってまで支えてるパートナーが、だよ」

 「わかんないってば」

 素直に言えたら良いのに。助けて、って。たったその一言が言えない。何も口に出せないまま沈黙だけが支配していく。じっと彼女の瞳を見つめていると、綺麗に引かれたアイラインと色素の薄い瞳孔がなんだか俺の知っている和葉の目じゃなくて急に怖くなった。

 取り繕うように近況を尋ねるも、はぐらかされてしまった。インスタを突然やめた理由、仕事、俺自身も空白の彼女の部分を知りたい。けれどお互いに知らない時間が作り上げた自分たちは、どこまでも歪で噛み合う事無く、マジックミラーを覗き込んでいるような感覚に陥る。ひとつだけ確かな事はもう本気で殴り合える幼馴染同士でないこと。

 傷が疼く。今朝作った新しい傷だ。

 思わず袖の上から腕を抑えると、和葉の声が低く飛んだ。

 「浮気される度に自傷してんの」

 はっとして和葉の方を向くと、見たことないほどに哀しい目をしていた。躊躇うように伸びる彼女の手。丁寧に手入れされた長い爪と指が、袖口の上からそっと傷に触れる。

 「馬鹿だねぇ、あんたは」

 あれだけ人に触れられたくなかったこの傷が、彼女の手から伝わるぬくもりによって浄化されていくような、そんな感覚。

 「ほんっと馬鹿」

 そこは変わってなくて良かったよ、なんて微笑む和葉。ここ数日間笑っていなかった人が久しぶりに笑ったかのようなぎこちない笑みだった。


 ごめん、と言われる度に傷が増えていく自分の両腕。異常な程に冷静な頭で傷を一本一本入れて行くうちに、いつしかそれが精神の安定に繋がっていた。沙璃奈さんは忙しい。医者なんてやってるから、それが当たり前のことでどれだけたくさんの人達を救っているのかをよく知っている。自分も沙璃奈さんに救われたひとりだ。わかっているからこそ私生活を縛るような事はしてこなかった。俺の役目はあくまで家の管理と多忙なパートナーの私生活のサポート。社会に出るのが難しくなった俺には十分過ぎるほどの役目だった。ほとんど帰ることの無いその事実を知るまでは、それが俺にとっての使命で当たり前の事だった。

 「沙璃奈さんはさ、めちゃくちゃ繊細でほんとは弱い人なんだよ。でも仕事柄精一杯虚勢張って居なくちゃいけない。わかってるし、俺もその気持ちがわかる。誰にも頼れない責任感の強い人だから、俺が必要なんだって。あなたがいなくちゃ私は駄目になる。そう言われてさ、すがってくる手を振り払う事が出来る人って、逆に居るのかな」

 自分でも言っていて情けなくなる。和葉の細い手首を命綱に掴まるように強く握りながら、どうしようもなく馬鹿な俺は気づけば泣いていた。

 「俺、俺馬鹿だからさ、自分に出来る事を精一杯やるしかないんだよ」

 間抜け男のすすり泣きが狭い部屋に重く響いて行く。ごめん、ごめん和葉。声にならない言葉が射し込む夕陽に溶け出した。

 「あのさぁ」

 へしゃげた顔で見上げる俺をどこまでも淡々と見下ろしていた和葉が静かに言った。

 「あれだね。惚れた弱み、的なやつ? わかんないけどさ。あんたは馬鹿だからそういう簡単な女にころーんと行っちゃうんだよ」

 図星過ぎて何も言えない。絶句する俺をよそに和葉はどこまでも無感情に、けれどどこか諭すようにも慰めるようにも聞こえるように続ける。

「まぁ、でも良かったよ。最初さ、あんたと再会した時変わりすぎてて正直怖かったわけ。でもせいぜい変化したのは顔と雰囲気? とにかくまぁ、馬鹿はそのままで良かったよ。唯一の取り柄じゃん、あんたの」

 ついさっきまでの重く湿った空気が嘘のように、和葉の軽口が軽快に跳ねる。あっけらかんとした彼女の声で、今この瞬間だけかもしれないけれど何かが吹っ切れたような気がした。平然と仁王立ちをする彼女を前に泣き笑いのような顔になる。

 「和葉こそ、口悪いのは変わらなすぎ」

 けどなんか垢抜けたね、なんて気の利いた言葉すら俺は咄嗟に言えない。それは彼女を相手にしている所以だと思う。せめてもう少ししなやかさみたいな部分もあれば可愛げもあるのに。

 腑抜けた俺を捨て置いて、何を思ったのか和葉は台所へと入っていく。

「とにかくさ、あんたのパートナーは大方今日も浮気で帰らないでしょ。ちょっと早いけどメシ適当に作ったげるからそれ腹いっぱい食って、ちょっと夜風当たりながら帰って、さっさと寝な。人間さ、三大欲求のどれかが満たされてれば、それだけで随分心持ち違うんだよ」

 どうせあんたずっと独りでメシ食ってそうだし、なんてブツブツ呟きながらいそいそと台所に立って手を洗っている彼女の姿がなんだか可笑しくて笑ってしまう。

 「可愛いとこあんじゃん」

 呟いたその言葉は、豪快な流水音とまな板に弾む包丁の音でかき消された。台所を覗くと不格好な手付きで何やら刻んでいる和葉。そういえば自分が作るのが当たり前の生活だったので、誰かの手料理を食べるなんて十数年ぶりだ。

 「和葉、猫の手だよ猫の手」

 何気なく声をかけると「うっせ」と返される。やっぱり可愛くない。すっかり垢抜けてインスタなんかやっちゃって、都会の女性になっているはずの彼女なのにやはりこの瞬間だけはどこまでもよく知る幼馴染の和葉でしかなかった。

 朽ちかけた台所の入り口にもたれながら不器用な何かが出来上がっていく過程を見つめる。何を作っているのかこの時点では全くわからない。不意に後ろから彼女の背を抱きしめたくなった。ヒールを履いていない彼女は俺より僅かに背が低い。ぎゅっと包み込むと、髪からふわっといい香りがする。

 「兎羽」

 「ん、……さっきはありがとう」

 黙ったままの和葉。不意に喉元にひやりとした感覚が伝わった。ぞっとして身を引くと突きつけられているネギの引っかかった刃先。

 「ひっ」

 慌てて飛び退くと、ゆらりとこちらを振り返ったその目はどこまでも殺意に満ち溢れていた。先端恐怖症気味の俺にはしんどい。和葉もそれを知っているはずなので、さすがに怒らせたか。

 「あんたさぁ、ふざけてんの? 自分の立場とか、わかってる? あ?」

 「ごめんなしゃい」

 わざとらしくしょんぼりして見上げると、再びまな板に向かうその後ろ姿から容赦ない舌打ちが飛んできた。やっぱり可愛くない。何を血迷ったんだろう、俺は。しかし自分は馬鹿だから仕方の無い事だと勝手に自己完結することにした。

 

 運ばれてきた親子丼は何とも言えない色をしていたけれど、本人は満足そうにしていたし誰かに作ってもらうなんて滅多に無いことだから黙って完食した。


 時々思う。首から下げているこのネックレスが自分を縛る鎖のようだと。確か誕生日に沙璃奈さんがくれたものだった。自分では選ばないような華奢なゴールドのチェーンのついたそれはその時、パートナーからの贈り物というだけで単純な俺を十二分に満足させた。今はパーカーに覆われた胸元で時折揺れる度に、先端に下がったチャームが心の臓を攻撃する。

 和葉と再会したあの日から数週間が過ぎた。

 「難しいことわかんないけどさ、自分だけは大切にしなよ」

 食べ終わると同時にさっさと俺を玄関に押し出しながら、彼女はそう言って何でも無いように笑った。焦らされるように黙って靴を引っ掛ける俺に和葉は続けた。

 「メシ食いたきゃいつでも来い。そんくらい世話したげる」

 彼女のその言葉は、拠り所を見失っていた俺の心に微かな光をもたらしたのは間違いない。以来、敢えて断り一つ入れずに押しかけてみたりもしていた。不器用な優しさの彼女を少し困らせたい思いもあった。どうしようも無い馬鹿に優しくしてくれるなんてよっぽどだ。けれど彼女はいついかなる時でも___眉間にシワは寄っているが___ 変わらず毒舌をかましながら手料理という名のアートを振る舞ってくれていた。

 殴り合い寸前のようなけれど緩やかにピリつくその空間は束の間俺を開放してくれていた。そうした時間を過ごす度に、彼女に甘えてばかりも居られないという無意識の重圧が思考を侵してくる。

 この前、きつねうどんという名の何かをすすっている時に彼女が発した「旅行行こうかな」という言葉が小骨のように引っかかっていた。知らないだけで彼女も仕事を辞めて現在に至る背景があるわけで、自分自身の整理もつかないそばから俺の世話までさせるのは違うのではないかという考えが思考を巡る。インスタを辞め、突然平日昼間に家に居るような状況の彼女が何もないわけが無い。

 雨が降っていた。久しぶりに独りで向かう食卓はどこまでも無機質で味気が無い。ほんの数回の和葉との食事は、下手したら箸やらバターナイフやらが攻撃してくるバイオレンスなものだったけれど一度知ってしまったその食卓が虚しさを倍増させていた。

 ごめん、という沙璃奈さんからのいつもの連絡。今どこで何をしていて、誰と食卓を囲んでいるのだろう。考えれば考えるほど抜け出せなくなりそうで、振り切るように野菜を口に運んだ。水分が口の中に広がる。いつものレシピで作ったはずなのに、いまいち味がしない。

 別れなよ。和葉の声がする。別れないよ、と俺は決まって呟く。

 半分ほど残った自分の皿に乗ったものをシンクに流し、対面に並ぶ手つかずのそれらを丁寧にラップで包んでいるうちに、妙な気分になった。

 なんで俺、こんな事してるのかな。

 きっと今頃沙璃奈さんは、高価なレストランか何かでワイングラスを傾けながら、優雅に座っているのだろう。対面に座る、俺の知らない誰かに笑顔を向けて。紛らわせるように目を閉じ、襲ってきた目眩に耐える。不意に軽い音が響き、薄暗い部屋に飛び散るガラスの破片。そこで初めて自分がよろめいたことに気づいた。はっとしてそっちに目を向けると沙璃奈さんのコップが粉々になっている。去年の誕生日に、俺が送った___。

 気づけば右手に握ったガラスの残骸が、深く左腕から手首にかけて食い込んでいた。どろりと流れ出てくる紅い血は、沙璃奈さんの唇の色によく似ている。すっかり色素を失った自分の腕が沙璃奈さんの口紅で汚れ染まっていく。

 所詮俺は馬鹿だ。馬鹿は馬鹿のまま死ぬのが一番良い。

 左腕から滴る紅がフローリングに吸い込まれていくのを見つめる。

 その時、空間を切り裂くような電子音が響いた。あの日和葉が何かを言いかけた時のように。……和葉? まさか。なぜ彼女は俺の連絡先を?

 「どうしても都合悪い時もあるかもじゃん」

 そう言って半ば強引に俺のスマホを奪って勝手に操作をし、それを満面の笑みで返した彼女の顔が、不意に浮かんだ。

 それまで夢うつつのようだった意識が急速に鮮明になる。突然汗が引いてヒヤリとするような感覚。必死で左腕を抑え、ソファーに投げ出されていたそれを拾い上げた。着信画面を見る。彼女だ。どうして。

 「兎羽!!」

 着信に出た途端、挨拶も無く切羽詰まった声。まさか、俺の状況を知っていて? いや、そんなはずがないと思考が叫ぶ。

 「助けて!!」

 彼女の言葉と俺の唇の動きが重なった。

 「せ、洗濯機がなんか不穏な音を立ててる!!」

 「はっ?!」

 「だから!! 洗濯機が!! なんか爆発前のカウントダウンみたいな音するの!! どうしたらいい!?」

 鼓膜を破るような彼女の声。滅多に無い彼女の取り乱した声に俺の思考まで持っていかれる。言っている内容は普段だったらそんなに急ぐものでもないかもしれないけれど、この時は急がなきゃいけない、彼女の元へ行かなければならない、そんな気がした。

 「か、和葉? ちょ、待ってて!!」

 行かなくちゃ。

 玄関に駆け出す俺は、危うく止血を忘れる所だった。ガラスの破片とフローリングの血溜まりなんてもうすっかり頭には無かった。


 玄関が開く。互いの顔を認識する。

 助けて。

 開口一番、同時にそう言った二人はどちらも泣きながら笑っていた。    





 


 

 


 

 

 




 


 







 

 







 





 


 

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わかば 虹鳥 @kotori87

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