メインアクターシンドローム
高嶺 理想
A面「メインアクター」
喫茶店で、僕が座る席の横を通り過ぎた何かに、ささやかな違和感を覚えた。その方向に視線を向けると、綺麗に伸びた長いまつ毛、そしてその下で輝きを放つ瞳の艶やかさに時間を奪われた。彼女は、席に座るとかけていたサングラスを外し、持っていた鞄を隣の椅子へと丁寧に置いた。そして、付けているマスクはそのままにメニューを見始めた頃には、僕の中に浮かんだ一つの疑問が確信に変わりつつあった。彼女は芸能人だ。地方のローカル番組に数合わせで呼ばれるような、そんな存在ではなく、月曜日に放映されている今季のドラマにも出ていて、世間からの注目を一身に浴びる若手女優だ。僕と同じくらいの年齢にも関わらず、洗練された妖艶なオーラを醸し出し、脇役ながらも才能の輝きを惜しみなく放つその姿は、まるで別の生物の様にも思えていた。そんな有名人が今、僕が座る席の2つ前に座っている。
いつか彼女が芸能界に入る前に出ていた大学のミス・コンテストの自己紹介を思い出した。休日はミステリー小説を読み、渋めの喫茶店でよくウィンナー珈琲を飲んでいると言っていた。彼女は自己紹介の最後に優しく微笑みながらこう言うのだ。
「あまり存在感が無くて気づいてもらえないかもしれないですが、結構、隣町の喫茶店で本を読んでいる事があるので、気軽に話しかけてくださいね」
そして今、彼女は注文も早々に僕の視界の中で、当然の様に本を開いた。
30分ほど経っただろうか。僕らの位置関係は瞬間的にさえ変わらず、いつもは混み合う店内も、不思議なほどに人の出入りが無く、店内には本を捲る音と、珈琲が喉を通る音、そしてこの喫茶店の趣深さに添えられる様に流れるジャズミュージックが響いていた。彼女はきっとミステリー小説を読んでいる。それはマスク越しでも分かる程の真剣さで、それでいて、ただ目先で文章を受け流すのではなく、貪る様にそれを読み解いていたからだ。そんな姿を漠然とした心で見つめていると、彼女と目が合って、僕だけの時間が止まった。
彼女は持っていた小説を目の前に置き、静かに席を立つと、僕の方へと歩み寄ってくる。コツン、コツンと上品なヒールの音が僕の鼓膜へと近づく。その光景に見惚れた僕がゆっくり彼女と視線を合わせると、彼女は優しく微笑み、「ここ、いいですか?」と僕の目の前の席を指差した。
ほんの数秒だろうか。僕はその言葉を前にして、完全に我を忘れ、気づいた時にはもう彼女は席に座る体勢に入っていた。
「あっ、瞳の焦点が合った」
彼女はにっこりと笑うと、「座って良かった?」と僕に再度問いかけた。
「あっ、どうぞ…」
僕は恐る恐る言葉を選んだ。そして僕は初めて彼女に対して言葉を投げかけた。
「あの、もしかして…」
僕が彼女の名前を告げようとした瞬間、僕の口元に彼女の指が触れた。
「しーっ」と言いながら彼女は人差し指を僕の唇へと当てた。その完成された行動は、僕の理性を奪うには充分な理由だったと思う。指先には綺麗に塗られたピンクゴールドのネイルが踊っている。
そして、彼女は何事もなかったように話を始めた。
「地方ロケで初めて来たんだけど、この街、すごく過ごしやすい。街並みは所々に歴史が感じられるし、都会過ぎなくて、それでも田舎と言うほどではないよね」
彼女は珈琲の入ったコップを手で包みながらそう言った。そしてまた、言葉を付け加えるように口を開く。
「ロケの合間、珍しく長めに自由な時間が出来たの。少し付き合ってよ」
気がつけば僕は、首を縦に振っていた。
店を出ると、明るかった街並みには夕日が差し込み、買い物帰りの家族連れも増えていた。街を歩く人たちには、僕たちはどう見えているのだろうか。兄妹か、いや、彼氏が明らかに尻に敷かれている恋人同士くらいには見えているだろうか。僕は店を出てから、精一杯に「答えの見えない役柄」を演じ続けている。監督のいない現場で、台本も持たず演劇をしているみたいだ。彼女が合わせてくれているのか、やけに歩調の合った2人の影が、石畳の歩道に映写される。僕は思い切って声を掛ける。
「あの...ハトシって知ってる?」
彼女は目を丸くして、首を傾げた。
「魚のすり身にパン粉を塗した感じの食べ物なんだけど、美味しいんだよ」
彼女は口を開きかけると、言葉を発さずにそのまま口の端を上げて、にっこりと笑った。そして、綺麗に加工された言葉を僕に与えた。
「食べたい。連れて行ってよ」
店に着いて、僕は2人分のハトシを注文する。お金を払う時、財布を出そうとした彼女を制して、2人分のお金を払った。きっとこれは最初で最後だ。せめてこの瞬間くらいは肩を並べて、同じ世界を歩いていたかった。彼女は僕の顔を覗き込みながら、少し眉毛を下げて言った。
「…ありがと」
僕には勿体無い程の言葉をもらったはずなのに、それがやけに切なく感じた。
土産店が並ぶ観光通りを抜けて、ビル風を心地良く感じられる程の人通りになった頃には、空には藍が架かり、それは彼女とのお別れを告げているように思えた。お土産を選ぶ時も、ご当地グルメの試食をしている時だって、僕たちはきっと1つの物語の主人公だったと思う。そこには一握りの違和感も無かったし、何より彼女の笑顔が客入りのない舞台に立った僕を勇気づけていた。
「すっかり暗くなっちゃったね」
彼女は伸びをしながらそう言った。
「時間、大丈夫?」
彼女は左腕に付けていた時計に目をやると、僕の方を見た。
「もう一軒、付き合ってもらって良いかな?」
彼女が微笑んで、僕もそれに釣られて微笑んだ。
歓楽街へと向かう彼女を、街灯は大袈裟なほどに照らし続けた。そんなに懸命に照らさなくたって、僕にはもう他に何も見えちゃいないのに。すっかり暗くなった街に、僕らの影はもう映らなくなった。少し前を歩く彼女が、歩道橋でこちらを振り返る。別れが近づくにつれて見ないようにしていた彼女の表情が、秋の夜風に晒された僕の心が鮮明に見えた瞬間、彼女は口を開いた。
「いつお別れが来ても良いように、先にお礼を言っておくね。今日は本当にありがとう」
僕はあえて、その言葉の真意を確かめる事をせず、静かに頷いた。ミステリー色の強いラブストーリーでも演じているみたいだ。
「一杯だけ付き合って」
それが僕に君が投げかけた、最後の誘い文句だった。
特別感のない老舗焼き鳥店に入り、入口から向かって右側、1番奥の席に僕達は腰をかけた。
「10月の夜中なのにまだまだ外は暑いね」
君はそう言うと、ドリンクメニューを開いて僕の方へと向けた。
「もう決まったの?」
「私はもう決まってる」
僕は店員を呼び、生ビールを一つ頼むと、君も乗じて「もう一つ」と笑顔で言った。ドリンクを頼み終えると、君は今日の出来事を思い返し始めた。
「あの美味しかったの、なんだっけ。ハトシか。あれもしっかりメモしておかないとな〜。今日通った道も石畳の雰囲気がすごく良かったし、歓楽街も地方感あって良かったなぁ〜」
君は楽しそうに今日の思い出を言葉に並べた。そんな姿を見て、僕の心は当然のように寂しさを覚え始めた。君の唇から溢れ出す言葉を、その音色をいつまでも覚えていたかった。歩いている時によく手を後ろに組む仕草も、ファッションモデルのようにヒールで地面を弄びながら歩く姿も。全てが映画みたいで、君の隣に並ぶ僕は、まるでその映画のメインアクターにでもなったかの様だった。そんな事を思いながら、僕は言葉が溢れてしまうのが怖くて、トイレへと向かった。トイレの便座に腰を掛け、ゆっくり息を吐き、君に掛ける正しい言葉を探した。声が上ずらない様に喉を鳴らし、髪型を手櫛で整える。まるで発表の本番を待つピアニストみたいだな。自分自身が可笑しくなって少し微笑むと、僕はトイレを後にした。
「もうドリンク届いたよ」
まだ聴き慣れない声が心を揺らす。視線が交わり、2人はゆっくりと逸らし合う。揺蕩っていたい訳じゃない。この関係性に答えを探している訳でもない。僕たちはグラスを交わして、勢いよくビールを流し込んだ。頬で喜びを表しながら君は「美味しいね」と僕に問いかける。この笑顔を、出来る事ならずっと見ていたい。そんな事は無理だって分かっているし、分かっていた。それでも、一度灯った情の、その諦めの悪さが言葉になって溢れていく。
「また…」
僕が言葉を告げようとした瞬間、視界はゆっくりとフェードアウトしていく。何が起きているのか理解が出来ないうちに身体から力が抜けて、君の輪郭が柔らかく滲んでいく。そして意識が遠のく中で君の声が聞こえた。
「また、ね」
君の声は映画のラストシーンの様に、最後まで綺麗だった。
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