第76話 (3)放課後3

 二階の廊下の突き当たりが、高瀬の部屋だった。

 南からの陽射しが差し込む暖かい部屋で、赤と白で彩られたチェックのカーテンが、まずおれの目を惹いた。


 壁にポスター類は貼っておらず、背の低い本棚の上にはピンク色のオーディオプレイヤーといくつかのぬいぐるみが飾られている。ぬいぐるみはそこだけではなく、ベッドの脇などにもきちんと整列して並べられていた。


 ぬいぐるみなどが飾ってあるところを見ると、やっぱり高瀬も女の子なんだななどと再認識してしまい、なんだか女の子の部屋に来たという感覚に襲われて、妙に緊張してしまう。


「あまりキョロキョロしないでよ。恥ずかしいでしょ」

 高瀬が少し顔を赤らめながらいう。


 部屋の真ん中には小さなガラス製のテーブルが置いてあり、おれは高瀬から差し出されたハート型のクッションの上に腰を下ろした。


「さっきは、ごめんね。まさか、兄貴がいるなんて思わなくて」

「ちょっと、驚いたな。誰もいないっていうから、泥棒でも入っているのかと思ったよ」

「わたしも驚いたわよ。兄貴はいまは東京に住んでるはずなのに、突然帰って来るんだもん」

「お兄さんは、東京で働いているのか?」

「そう。あれでも、警察官なんだ」

「へえ、警察か」

「さっき兄貴が隼人のコーチをやっているって言っていたかもしれないけれど、変な誤解はしないでね。隼人は兄貴のいる警察署の道場で稽古をつけてもらっているってだけだから……」

「なるほど」

 これでバラバラになっていたジグソーパズルが繋がった。

 以前、神崎が練習試合の後におれにいった言葉『自分よりも強い人と稽古をしなければ強くなれない』の意味が。

 神崎は警察の道場へ通っていたというわけだ。

 そして、自分よりも強い人……高瀬兄に稽古をつけてもらっていた。

 神崎の強さの秘密。それは高瀬兄にあったということだ。


「お兄さん、剣道強いのか?」

「そう……だね。学生の頃は、インターハイとかには出ていなかったけれども、警察官になってからは全日本選手権とかに出ているみたい」

「全日本選手権か……」

 そんな凄い人に稽古をつけてもらっているのだから、神崎が弱いわけがない。


「ねえ、兄貴の話はやめにしない。せっかくわたしの部屋で一緒にいるんだからさ」

「そうだな、ごめん」

「あーあ、全部兄貴のせいでぶち壊しだよ」

 高瀬は口を尖らせていうと、近くにあった黄色いクマのぬいぐるみに八つ当たりのチョップを喰らわせた。


「おーい、ちょっと出かけてくるからな。夕飯までには戻るぞ」

 下の階から高瀬兄の声が聞こえてくる。

 高瀬は立ち上がるとドアのところまで行き「夕飯はないって言ってるだろ、そのまま帰ってくんな!」と言い返した。

「そんな冷たいことをいうなよ。あ、そうそう花岡くん、ゆっくりしていってくれよな」

「さっさと行けよ!」

 高瀬が大声でいうと高瀬兄は「怖い、怖い」といいながら家を出て行った。

「まったく、クソ兄貴だよ」


 その後は誰もいない高瀬家で高瀬と二人っきりだったわけだが、おれと高瀬はいつもと変わらぬ馬鹿話で盛り上がっていた。


「あー、面白い。本当にくだらないよ、花岡」

「だろ。だからおれもいってやったんだよ。『最初っから、そうすればよかったじゃんか』って」

 おれの言葉に高瀬が笑い声をあげる。

 相当おかしかったのか、高瀬はベッドに背を預けて腹を抱えながら笑った。

 高瀬が足をばたつかせたため、おれの視界に一瞬なにかが入ってきた。


「あ、いま見ただろ」

 おれの視線に気づいたのか、高瀬が慌ててスカートを手で押さえる。


「なんにも見てないですよ」

「嘘つくなよ、花岡。なんで、敬語なんだよ。すげえ、目が泳いでいるし」

 高瀬のずばりの指摘におれは思わず狼狽してしまった。


「い、いや、不可抗力です」

「やっぱり、見てんじゃねえかよ」

 高瀬がおれに掴みかかってくる。

 おれは胡坐をかいてクッションの上に座っていただけだったので、高瀬が掴みかかってきた勢いで思いっきり後ろに倒れこんだ。


 目の前には高瀬の顔があった。距離は数センチという近さだ。

 数十秒、いや数秒だったのかもしれない。

 だけれども、その時間がおれには永遠とも感じられるほど長かった。


「ご、ごめん」

 高瀬が慌てておれの上から退く。


 妙な空気が流れる。

 静まり返った部屋。

 先ほどまで二人で馬鹿笑いをしていたのが嘘のようだ。


「ただいま」

 二人の沈黙を破ったのは、高瀬兄だった。

 出て行ってから三〇分も経っていないというのに、お早い帰宅だ。


「ところで花岡くん、キミは肉は好きかい」

 玄関で靴を脱ぎながら、高瀬兄が大きな声で問い掛けて来る。


「え、好きですけれど」

「それは良かった。今夜は、すき焼きだ」

「ちょっとお兄、なにを勝手なことを言っているのよ」

「お前も好きだろ、すき焼き」

 高瀬兄はそういうと、両手に持ったスーパーマーケットの袋を揺らしてみせた。


「さあ、準備をするぞ。手伝ってくれ。働かざる者食うべからずだ」

 完全に高瀬兄のペースに乗せられ、おれと高瀬は台所ですき焼きの準備をすることとなった。

高瀬家で食べるすき焼きは、驚くほどに美味かった。

 何でも高瀬兄が奮発して、いい肉を買ってきてくれたそうだ。


「遠慮するな、もっと食べろ」

 高瀬兄の言葉に甘え、おれはご飯をおかわりし、腹いっぱいになるまで、すき焼きを堪能した。

 高瀬兄は、ほとんどすき焼きに手を付けていなかった。

 缶ビールを二本飲み、肉を少しだけつまむだけで、ご飯は食べようともしなかった。


「なんだ、ふたりは付き合っているんじゃないのか」

「ええ、すいません」

「なんで謝るんだよ、花岡」

 何だかよくわからないが、高瀬家での食事はとても居心地の良いものであり、どこか憎めない高瀬兄をおれは好きになっていた。


夕食後、洗い物の手伝いを終えて、帰り支度をしているおれを高瀬兄が呼び止めた。


「なんだ、泊っていかないのか」

「いやいや、それはさすがに」

「さすがにまずいか」

 何が面白いのかわからないが、高瀬兄は自分の発言に声を出して笑っている。


「明日は、部活かい」

「はい。そうですね」

「そうか」

 何を聞きたかったのかはわからないが、それを聞いた高瀬兄は満足げに頷くと、部屋に戻っていった。


「ごめんね、花岡。せっかく、来てもらったのに」

「いや、楽しかったよ」

 おれはスニーカーの靴ひもを結びながら、高瀬に答える。

 せっかく、高瀬の家に遊びに来たのに、高瀬兄がいたのはちょっと予想外だったけれども、それはそれで楽しかった。


「今度は、兄貴が帰ってこない日を確認して誘うからさ」

 高瀬は本当に申し訳なさそうに言うと、玄関先までおれを見送ってくれた。

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